俺たちは、カエサルの案内で客間へ向かう廊下を進んでいた。
 堅牢な石組みの建築は決して華美ではないが、なんともいえぬ趣があった。言うなれば、それは先祖代々繋いできた歴史の重みということになるのだろう。
 代々この領と領主館を守り繋いできた古人の息吹が感じられるようだった。
「この屋敷は随分と古い時代の物のようだな」
 俺は重厚な造りの廊下をぐるりと見回しながら、カエサルに水を向けた。
「ええ。増改築を繰り返しておりますが、屋敷の基幹の部分は千年も前に建造されているそうです。古くからある部分は水回りなどで不便な点も多いのですが、それもまたこの家の歴史と思いうまく付き合っております。……あ、皆様にお入りいただく温泉についてはご安心ください! あれは祖父の代に造ったものですので、状態もよく使い勝手もよくなっております」
「ははは、それはありがたいな。……ところで、先ほど果樹園から見た監視塔。あれも千年とはいかないまでもかなり古いのだろう? 素人の俺が言うのは心苦しいのだが、若干傾斜しているようにも見えた。あれは取り壊しておいた方が安全かもしれん。今はもう誰も使っていないのだろう?」
 俺が『監視塔』の一語を口にした瞬間、カエサルの表情が目に見えて強張ったのが分かった。
「先ほども思ったのだが、もしかしてあの監視塔にはなにかあるのか?」
「……セイ様、あなた方一行にだから打ち明けます。俺の話を聞いていただけますか」
 折よく、俺たちが一夜を過ごす客間の扉の前に到着したところだった。
「もちろんだ。続きは中で聞かせてもらおう」
 俺たちは客間の手前にある応接セットに腰を下ろした。俺を真ん中にして長ソファの左右にチナとセリシアが座り、小さな卓を挟んだ向かいのソファにはカエサルがひとりで座った。
「俺は先ほど、『この家の長男で、マーリンの兄だ』と言いましたね」
 カエサルは膝の上で緩く手を組んで、重く口を開いた。
「ああ。そうだったな」
「けれど、俺にはもうひとり『きょうだい』がいるのです。そして、その『きょうだい』――もうじき十六歳になる妹はあの監視塔でひとり家族や使用人たちからも隠れるように暮らしています」
 俺が予想外の切り出し方を怪訝に感じつつ同意すれば、カエサルはさらに衝撃的な事実を告げた。
 あの監視塔に人が暮らしているのか!? しかも、カエサルの妹ならば領主の姫君。古びれて傾きかけたあの塔で、うら若い姫君がひとりで暮らしているとは、到底信じられなかった。
「どうしてそんな事態になっている? ……率直に聞くが、それは本人の意思に反した監禁などではないのだろうな?」
「この決定をしたのは父ですが、妹のアルテミア自身、塔での暮らしを了承しています。それに、衣食をはじめ妹の身の回りは不足なく整えられていますので、一般的な意味での『監禁』には当たらないかと」
 カエサルは一旦言葉を区切ると、しばしの間を置いて再び唇を開いた。
「ですが、俺自身ドスを理由に後継者を辞退した身です。領主の娘でありながらシンコとして生まれたアルテミアは、両親が嘆き悲しみ、そして世間の目からなんとかしてその存在を隠そうと躍起になっている姿を幼少期から見てきています。父から『塔に移れ』と言われれてしまえば、あの子に反論の選択肢がないのは分かりきっています」
「お姫様はシンコなの!? じゃあ、私やセリシアお姉ちゃんと同じよ!」
 チナは、お姫様との共通点に喜びの声をあげた。
「セリシア様は尊き治癒の力を、チナツ様とてその年齢で凄腕の冒険者であるセイ様の右腕なのだと聞き及んでおります。市井でお力を発揮しておられるおふた方とアルテミアを同列には語れません。そもそも、アルテミアにはそのような力はございませんし……」
「えー? 同じシンコなのに……」
 カエサルの答えに、チナは分からないというようにコテンと首を傾げていた。しかし、俺にはカエサルの言わんとしていることがよく理解できた。
 カエサルが口にした『市井』という単語から始まる下り……。それは暗に『貴族社会では、事はそう簡単ではない』と示しているのだ。
 ウノを頂点とした階級ピラミッドは国内外に広く浸透しているが、貴族社会において一層顕著だ。ドスのカエサルですら後継者を辞退した状況からも分かるように、ヴィルファイド王国の上位貴族はほぼウノで占められており、ドス以下の者が貴族当主となれば社交界での嘲笑や冷遇は避けられない。
 そんな魔力数の階級至上が浸透しきった貴族社会にシンコとして生まれたアルテミアは、チナやセリシアの比ではない肩身の狭さであったろう。
 俺は納得いかない様子のチナの頭をポンポンッと撫でて慰めると、真っ直ぐにカエサルを見据えた。
「俺にそれを告げながら、君は『監禁ではない』という。ならば、俺に助けを求めるのもおかしな話。……君は、俺になにを望む?」
「実は、俺自身どうするのが正解なのか分からないのです。ただひとつ、アルテミアは『自分はシンコだから』と幼少期から全てを諦め、受け入れてきました。来月、十六歳の誕生日を迎えたら、あの子は四十も年の離れた下級貴族に後妻として嫁ぐことが決まっています。もちろん、アルテミア自身も了承した結婚話です。ですが、いくらまともな縁談がないからといって、父よりも年上の男に望んで嫁ぎたい娘がいるでしょうか」
 これには、幼いチナよりもセリシアが大きく反応した。声こそ出さなかったが、彼女は眉間に深く皺を刻み、堪えるように膝の上で両手をきつく握り締めた。
「アルテミアが望めば、俺は両親に破門されたっていい。なんとしたって、この縁談を破談にしてみせます。……ですが、俺が何度尋ねてもあの子は、決して心の内を明かしません。『私には若さしかないのだから、もらってくれる人がいるうちに』などと冗談混じりに笑っていますが、そんなのはこの家に残ることで将来領主を継ぐマーリンの負担になることを恐れての発言だと分かりきっています。なんとなくですが、あなた方にならアルテミアは心を開くのではないかと、そんな気がしています。現時点で俺が望むのは、あの子と腹を割って話をしてもらいたいと、この一点です。その上でアルテミアがどんな結論を下すのか、それはあの子次第です」
 真っ直ぐに俺を見返して、カエサルはこんなふうに締めくくった。
 ……正直な男だ。
「塔に鍵などは?」
 カエサルはこの質問に、首を横に振る。
「そうか。すぐに向かいたいところだが……」
「でも、領主様がお茶とお菓子を客間に運ばせるって言ってたよ!」
 チナがニコニコと訴える。その目は期待感にキラキラと輝いており、思わず苦笑が浮かぶ。
 とはいえ、たしかに俺たちが到着早々、客間を不在にしたとあっては大ごとになってしまうか……。
「急を要するものではありませんから、どうかまずはお茶で一服されてください。それに今はまだ日も高く、人目にもつきやすいですし」
「なるほど。では、夕刻あたりに折を見て訪ねてみよう。案内はいらん、場所は分かっているから俺たちだけで十分だ。あまり大人数で動いても、目立つだろうからな」
「お気遣い、感謝いたします」
 ――コンッ、コンッ。
 カエサルが俺たちに深々と頭を下げて席を立つのと同時に、扉が外から叩かれた。彼と入れ替わるように茶道具一式を手にした使用人たちが入室し、卓に香り立つ紅色の紅茶と溢れんばかりの菓子を並べはじめた。
 給仕を断った三人だけの茶会は、肩肘張らない楽しいものだった。
 俺たちは紅茶と多種多様な菓子に舌鼓を打ちながら、久しぶりに寛いだ時間を満喫した。
 そうして卓の上の皿が粗方空になり窓の外を一瞥した俺は、カップに残っていた最後のひと口を飲み干すと、カップをトンッとソーサーに置いた。
「さて、そろそろ行ってみるか」
「うん」
「はい」
 俺がスッと腰を浮かせれば、チナとセリシアも揃ってカップを置いて席を立った。

 アルテミアの居住スペースは、気が遠くなるくらい階段を上って辿り着いた塔の最上階のフロアが丸々あてられていた。カエサルの言葉通り古びてはいたが、年頃の娘が好みそうな調度で整えられていて、居心地はよさそうだった。元来監視を目的として建てられただけあって、円錐形の塔内360度ぐるりと等間隔に窓が設えられており、眼下の景色が一望できるのもよかった。もちろん、自ら望んでここで暮らしたいのかと聞かれれば、それはまったくの別問題だが。
 そして初対面したアルテミアは、何故か、俺たちの突然の訪問に驚かなかった。
「まるでわたしたちが来るのが分かっていたみたい!」
「そうよ。私は自由にここを出るわけにはいかないから、見下ろす景色が全て。あなたたちがやって来ることは、窓から見て知っていたもの」
 薄っすら微笑みを浮かべてこう口にするアルテミアは、流れるような銀の髪に新緑を思わせる鮮やかなグリーンの瞳が印象的な美しい少女だ。しかし、その美しさは大輪に咲き誇った花のようなそれではなく、蕾を思わせる楚々とした美しさ。初々しいこの少女が、来月には還暦も近い男の妻になる現実は、生理的に受け入れ難かった。
「この塔に家族と使用人以外の人が訪ねてきたのは初めてよ、嬉しいわ!」
 さらに、外部との接触を極限まで避けて過ごしてきたからか、高位貴族の姫君にしては言動が率直というか……やや優美さに欠く印象を受けた。
「改めてアルテミア姫、突然訪ねてきた無礼をお許しください。俺はセイ、冒険者を生業として次元獣を倒しながら各地を旅しています」
「わたしはチナツです」
「セリシアと申します」
「あら、だったらあなたたちは領の外のことをいっぱい知っているのね。よかったら、私に自由な外の世界のことを色々教えてくださいな。もちろん、あなたたち自身についても。……あ、私のことはアルテミアとだけ呼んでちょうだい。姫だなんて呼ばれると落ち着かなくていけないもの。それから、畏まった態度も不要よ。この塔内にあっては、まどろっこしいだけだもの」
 アルテミアに招き入れられ、俺たちはフロアの一角に設えられた毛足の長い絨毯が敷かれたスペースに直接腰を下ろした。
「ほぅ。東方の国ならいざしらず、この国でこんなふうに床に直接座って寛ぐというのは珍しいな」
「いいでしょう? 書物を読むことも、私の日々の慰めなのよ。東方の国の生活習慣について書かれた本を見て、いいなって思ったの。屋敷でやったらお行儀が悪いって批判されてしまいそうだけれど、ここは私だけのお城だもの。私がしたいように自由にするのよ」
 ……果たして、彼女は気づいているのだろうか。ここまでに、三度も『自由』という単語を口にしていることに。
「そうねぇ、まずはあなたたちがこれまで旅してきた場所とそこであった出来事を教えてちょうだい。ここに地図があるわ!」
 アルテミアが広げた大判の地図を四人で囲む。俺はこれまで旅してきた場所を指差して、その土地であったこと掻い摘んで説明していく。
 俺の話にアルテミアだけでなく、チナとセリシアも目を輝かせて聞き入った。
「――そうしてグルンガ地方教会を出て、ここに至るというわけだ」
「なんて素敵なのかしら。私も鳥のように大空を羽ばたいて、自由にいろんなところに行ってみたいわ」
 俺が地図を辿り、最後にトンッとウェール領を示したら、アルテミアは胸の前で両手を組んで窓の外に目線を向け、ホゥッと熱い吐息を零す。
「ならば、自由に行きたいところに行けばいい」
「え?」
「鳥のようにというのは無理かもしれん。だが、君は自分の足で行きたいところに行ける。さっき『見下ろす景色が全て』と言ったな? それは、君自身がそう錯覚してしまっているだけだ。君の世界は、この塔の外にだって無限に広がっている」
 俺の言葉が余程に予想外だったのか、アルテミアはパチパチと目を瞬いて俺を見つめていた。
「……不思議ね。あなたが言うと、まるで自分が自由なのだと、本当にそんなふうに思えてくるわ」
「おかしなことを。事実、君は自由だ」
 アルテミアは眩しい物でも見るように目を細くした。けれど次の瞬間には、スッと瞼を閉じてしまう。
 再び瞼を開けた時、彼女の瞳から先ほどまでの煌きはなくなっていた。諦めることに慣れてしまった、寂しい目だと思った。
「ねぇセイさん、あなたはひとつ根本的な部分を見落としている。私はシンコなのよ。シンコの私に自由などないわ」
 ゆっくりと開かれた唇から紡がれる台詞も、それを口にする能面のような彼女の表情も全てを諦観しているかのようだった。
 シンコだからと諦め、端から期待しないことで、アルテミアは十五年間心を守ってきたのだろう。それをポッと出て来た俺が、どんなに言ったところで彼女には響かない。
 そうして彼女が己の意志で考えを改めようとしない限り、虚構の檻に囚われたまま本当の意味での自由はない。
 ……さて、どうしたものか。
「どうして!? わたしとセリシアお姉ちゃんもシンコだし、お兄ちゃんはセイスよ。だけど、わたしたちは三人で自由に旅をしているよ?」
「今、セイさんが言っていたじゃない。チナツちゃんは錬金術を身に着けたって。セリシアさんは再生快癒、そしてセイさんは次元操作。なんの力も持たない私と、チナツちゃんたち三人を同列に語るのはおかしいわ」
「っ、そんなことない! アルテミアお姉ちゃんの馬鹿! 分からずや!」
 チナは叫ぶと、あろうことか小さな拳でポカポカとアルテミアの膝を叩きだす。
「お、おい! チナ、いい加減にしないか」
 チナのまさかの行動にギョッとして、慌てて小さな肩を掴んで止める。
「……いいえ、セイさん。叩くという行動はともかく、私も今回はチナツちゃんの言い分に賛成です」
 なっ!? セリシアからチナを擁護する声があがったことにも、驚きが隠せない。
「アルテミアさん、私も両親の死後は寄る辺もなく、ずっと『シンコだから仕方ないのだ』と自分に言い聞かせて堪え忍んできました。ですから、あなたの思いはよく分かります。けれど、私に言わせればそんなのは甘えです!」
「待ってちょうだい! 今のはさすがに聞き捨てならないわ。どうして初対面のあなたにそこまで言われなくてはならないの!?」
 ピシャリと言い放つセリシアに、アルテミアも憤慨を隠さなかった。塔内に半ば軟禁のような形で暮らしているとはいえ、そこは領主の姫。彼女に対し、こうも率直に物を言う者などいないのだろう。
「そんなの、アルテミアお姉ちゃんが分からないことばっかり言うからじゃない!」
「お黙りなさい!」
 輪になって火花を燃やす三人は、今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いだ。三人の様相にハラハラしながら、俺はこの場を穏便に取り持つべく声をあげる。
「おい、三人ともいい加減にしないか」
「「「セイさん(お兄ちゃん)は黙っていて!」」」
 まさか、三人はギロリと俺を睨みつけ、声を揃えた。
 良かれと思っての行動に返ってきた三人からの予想外の反応に、俺は衝撃で岩のように固まった。
 その間も三人は矢継ぎ早に言葉の応酬を続けていたが、動揺冷めやらぬ俺に内容の仔細まで把握する余裕はなかった。
「アルテミアさんの頑固者! あなたが分かってくださるまで、絶対に引きません。いつまでだってここにいて、何度だって繰り返します!」
「わたしも!」
「どうぞご自由に。幸い、ここはスペースだけは広くありますもの。好きなだけ、滞在していただいて構いませんわ」
 俺の存在など無いもののように、三人は互いに顔を突き合わせ激しい舌戦を繰り広げる。
 俺はただただ圧倒され、そんな三人の様子を呆けたように眺めていた。
「では、そうさせていただきます!」
 突然、セリシアが俺を仰ぎ見る。
 ……なんだ? 決着(?)がついたのか?
 なんとか内心の動揺を治め、セリシアを見返して目線で先を促す。
「セイさん! そういうことですので、私とチナツちゃんは今晩ここに泊まらせていただきます!」
「……あ、あぁ。分かった」
 俺は二、三度瞬きを繰り返した後、こんなふうに間が抜けた返事をするのが精一杯だった。
「そうと決まれば、下から毛布を持ってこなくっちゃ!」
「チナツちゃん、毛布は必要ありませんわ」
 意気揚々と声をあげるチナに、アルテミアが待ったをかける。
「……ほら、ここには寝具の替えも多く置いてあるの」
 スッと立ち上がったアルテミアが、フロアの端に設置された大きな収納棚を開ければ、中には寝具やリネン類が潤沢に収納されていた。
「これを敷いて、今夜は三人で並んで寝ましょう」
「わぁーい!」
「まぁ、素敵。しかもここなら、きっと満天の星々が見られるのでは?」
「ええ! ここは色々窮屈で不便だけど、景観だけは他に負けないわ。もちろん、星々が煌く空はその筆頭よ」
 なにがどうしてこうなったのかは分からない。しかし、一発触発の様相が嘘のように、今は三人が満面の笑みを浮かべて楽しそうにしていた。

 その後、俺たちは一旦塔を下り、領主らと夕食を共にした。
 夕食を終えて客間に戻ると、チナは嬉々として寝間着などを纏めはじめた。
「なぁチナ、本当に行くのか?」
 小さな背中に問いかける。
「もちろん! セリシアお姉ちゃんとアルテミアお姉ちゃんと約束したんだから!」
「……だが、ちゃんと眠れるのか? 寂しくはないか?」
 これまで幼いチナは、宿屋でも野宿でも常に俺の傍らで眠りについていた。その彼女が、果たして俺の目の届かぬ場所で眠れるのか……。
「えー? 変なお兄ちゃん、もちろんよ……あっ、分かったー!」
 心配で仕方なくついつい質問を重ねてしまう俺に、振り返ったチナは怪訝そうに答え、途中でなにかに気づいたみたいに叫んだ。
「わたしがいないと、お兄ちゃんが寂しくって寝られないのね? そうなんでしょう!?」
 なっ!? まさか、こんな解釈をされようとは思ってもみなかった俺は、咄嗟に言葉が出なかった。
 すると、その様子になにを思ったか、ニコニコ顔のチナが荷物を纏める手をとめて、トコトコと俺の元にやって来る。
 チナの「屈んで」のジェスチャーを受け、俺が腰を低く落とせば、彼女がキュッと俺に抱き付いた。
「ふふふっ。お兄ちゃん、ひと晩だけのことよ。いい子だから、今夜だけ我慢してねんねして」
 チナはいつも俺がするように、小さな手を俺の頭にのせると、ナデナデと往復させた。
「それから、これは特別よ。パパとママがしてくれた、よく眠れるおまじないよ」
 ――チュッ。
 ふんわりとした温もりが、額に落ちる。
 幼い心遣いが胸にじんわりと染みていく。同時に、彼女の言い分もなまじ間違いではないのだと気づかされる。
 ……どうやら俺こそが、チナの健やかな寝息を聞きながら眠りにつくことに馴染みきっていたのかもしれんな。
「ありがとう、チナ。このおなじないのおかげで、ひとりでも眠れそうだ」
 俺の答えにチナは満足気に微笑んだ。
 ――コン、コン。
「チナツちゃん、準備できたかしら?」
 直後、セリシアがチナを迎えにやって来た。
「あ、セリシアお姉ちゃん! 今行く!」
 チナは元気よく飛び出して、セリシアと足取り軽く塔へと向かっていく。
 俺もふたりの後ろに続き、最上階を目指して上っていくふたりの姿を階段の下から見送った。
「おやすみなさいお兄ちゃん!」
「セイさん、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ。三人ではしゃぎするなよ」
「はーい!」
 喉元まで「俺も護衛として同行する」と出かかったが、男が女子会に押しかける無粋を自覚して、呑み込んだ。
 なにより護衛部隊が隈なく領内の守りを固めているのだから、俺が護衛を買って出るというのもおかしな話だ。カエサルたち護衛隊員にも失礼にあたる。
 結局、反響するふたりの足音が聞こえなくなってから、俺はひとり屋敷へと取って返した。

 長い夜が明け、翌朝。
 俺は早々と塔の階段下に向かい、チナとセリシアが下りてくるのを待った。ところが、ふたりはなかなか下りてこない。
 ……いかん。そろそろ戻らんと、領主夫妻との朝食に間に合わんな。
 その時、階段を下る足音が聞こえてきて、ホッと胸を撫で下ろす。いくらもせず、チナとセリシアが姿を見せた。
「お兄ちゃん! 昨日ね、アルテミアお姉ちゃんがふわふわーって飛んでたの!!」
 階段を駆け下りてきたチナが、俺を見るや口にした第一声に、思わず頬が緩む。
「そうか。ずいぶんといい夢を見たな。ゆっくり休めたようでなによりだ」
「セイさん、違うんです!」
 チナばかりでなく、セリシアまでもが朝の挨拶もなしに、勢い込んで告げる。
「違うとは?」
「私もこの目で見ました。アルテミアさんは、本当に宙に浮き上がっていたんです!」
「なんだって!?」
「アルテミアお姉ちゃん、ふわふわーって、ぷかぷかーって、とにかく、すっごいの!!」
 チナは、興奮に目を丸くして語る。
 セリシアもそれに、いまだ興奮冷めやらぬ様子でうんうんと頷いた。
 風属性のウノならば、物体の浮遊をなせる者は多い。自身の跳躍に、風魔力で推進力を加えることも可能だ。とはいえ、自身が長時間宙に浮かんでいられるほどの力を持つ者はいない。
「アルテミアはどのように浮遊をなしていた?」
 俺はできるだけ冷静に、アルテミアが飛んでいたという状況について尋ねる。
「どのようにもなにも、眠りに落ちてすぐに、ふわりと体が浮いたかと思えば、ゆらゆらと気持ち良さそうに室内を漂って。そのまま明け方近くまで飛んでから、何事もなかったかのように同じ場所に下りてきたんです。ほんとうに驚いてしまいました」
「アルテミアには尋ねたか? 彼女自身は、それについてなんと言っている」
「朝一番で尋ねたのですが、笑いとばされました。どうやらアルテミアさんは、夢の中の出来事だと思っているようで、自身が実際に飛んでいる自覚はないようなんです」
「お布団をひらひらはためかせてね、とっても気持ち良さそうだった!」
 ……布団を?
「アルテミアは布団を掛けたまま飛んでいたのか?」
「うん! 掛けてた毛布もなんだけど、敷いてた毛布まで一緒にぷかぷか~ってしてた!」
 チナの答えは、大きな衝撃をもたらした。
 ……なんということだ。
 アルテミアは自身が飛んでいただけではなかった。触れているものごと一緒に浮遊させていたならば、それは彼女が重力を操作しているということだ。
 ゴクリとひとつ、喉を鳴らす。
 彼女が行っているのは新魔創生――重力制御だ。
 無意識下で新魔創生を成し遂げる者がいようとは、これまで露ほどにも考えたことがない。だが、アルテミアはそれを実際にやってしまったのだ。
「お兄ちゃん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
 内心の動揺をなんとか抑え、やっとのことで返した。
 ……重力制御。
 俺たちは遠からず教会組織……デラ一味と相対することになるだろう。その時に、アルテミアに重力制御の能力で援護をしてもらえたら、どんなにか心強いことか。
 率直に言えば、喉から手が出るほど欲しい能力だ。
「ところで、ふたりが泊まり込むに至った当初の目的の方はどうなった?」
「……それは、駄目だった。アルテミアお姉ちゃん、どんなに言ったって『お嫁に行く』の一点張りなの」
「婚姻に関し、アルテミアさんの決意は固く……。アルテミアさんは『理由はどうあれ、先方は私を望んでくださってる。そこで、幸せになれるように努力する』とおっしゃって、最後まで譲りませんでした」
 アルテミアの結婚相手は、前妻が生んだ子供が幾人もいる高齢の貴族男性だという。既に後継者も決定しており、後妻には子供を産ませる必要がない。だから後妻には、属性数に関係なく、若く美しい女を望む。
 俺に言わせれば、相手の男は傲慢以外の何ものでもなく、碌でもない政略結婚だ。しかし、それを決めるのは俺ではない。
 アルテミアがこの結婚に、幸せな夫婦関係を望み、嫁ごうとしているのならそれを止める権利はない。事実、政略による結婚だろうが年の差や身分差があろうが、円満な夫婦は世に多くいる。
「そうか。ならばこの後、朝食の席でカエサルに会ったら『アルテミアの結婚の意思は固い』とそう伝えよう」
「え!? お兄ちゃん、アルテミアお姉ちゃんを説得しに行かないの!?」
「セイさん、たしか浮遊は風属性のウノでもなかなかなせない技ですよね!? セイさんから改めて浮遊の事実を伝えたら、アルテミアさん自身、自分の能力の可能性に気付き、結婚について考え直してくださるかもしれません!」
「まず、説得ならばチナとセリシアがもう十分にしただろう? それでもアルテミアの結婚への意思は固く、覆すには至らなかった。決意がそこまで固まっているのだから、これ以上俺が彼女に伝えるべき言葉はない。次に浮遊の一件は、アルテミア自身自覚していない能力だ。それについて他人が土足で踏み入り、強引に自覚を促す必要があるとは思えない。なにより彼女の能力と結婚は、切り離して考えるべきだ」
 俺の言葉に、チナとセリシアは眉間にクッキリと皺を寄せ、互いに顔を見合った。
「それは……」
「ふたりがアルテミアを心配しているのはよく分かる。アルテミアにも、ふたりの思いはきっと伝わっている。だが、後はアルテミアが決めることだ。……さぁ、これ以上は領主夫妻を待たせてしまう。一旦、朝食に向かおう」
 ふたりは不満そうではあったが、理に適った俺の主張に反論できず、唇を引き結んだ。
 俺はチナとセリシアを伴い、足早に屋敷に向かう。ふたりは、とぼとぼと重たい足取りで俺に続いた。
「……今は行かんが、出発前にもう一度彼女の元を訪ねよう。煮詰まった物事などが、少し時間を置くと予想外の展望をみることは多いからな」
「「!!」」
 途中で俺がポツリと零せば、チナとセリシアは揃って表情を明るくする。その足取りも、一気に軽くなっていた。

 朝食を終え、客間に戻って身支度を整えた俺たちは、玄関先で領主夫妻の見送りを受けていた。
「セリシア様、もっと長く当家に滞在してくださればよろしいのに」
「そうですわ。それに昨夜は、結局、温泉にも浸かっていただけなかったようですし。やはり今晩もう一泊して、ゆっくり温泉に浸かって行かれては?」
 ふたりの横にはすっかり元気になったマーリンもいて、夫人の言葉にうんうんと頷きながら、セリシアの滞在を熱望するように見つめていた。
「いえ。マーリン様もすっかり回復しておりますし、長く一所にいて噂が広まってしまっては先の移動に差し障りますから。私たちはこれでお暇させていただきます。温泉はまたの機会に」
 セリシアは領主夫妻からの再三の誘いを丁寧に辞した。
「そうですか。それは残念だ」
「どうか近方にお越しの際は、必ず当家にお立ち寄りくださいませ。お待ちしておりますわ」
「ありがとうございます」
 ここでマーリンが、セリシアに向かってトンッと一歩踏み出した。
「セリシアお姉ちゃん、約束だよ! それで、その時は絶対一緒に温泉に入ろうね!」
「え、ええ。今回は、一緒に温泉に入れなくてごめんなさい。次にお屋敷に寄らせてもらった時は、一緒に入りましょうね」
 マーリンの『約束』に、セリシアは一瞬だけ困惑の色を滲ませ、すぐに微笑んで答えた。
「では、セリシア様、セイ様、チナツ様。街道までお送りさせていただきます」
 俺たちは訪れた時と同じように、カエサルたち護衛隊員と共に屋敷を後にした。
 しばらく経ったところで、前を行くカエサルに訴える。
「すまんが、最後に監視塔に立ち寄らせてくれ。アルテミアにひと言別れを告げたい」
「承知しました」
 カエサルには既に、アルテミアの結婚への意思が固いことを伝えてあった。彼はたったひと言「そうでしたか」とだけ答え、静かに頭を下げた。
 カエサルらに馬を預け、塔には俺たちだけで上った。
「チナ、俺におぶされ」
「わーい。やったぁ」
 最初に上った時のように、長い階段の途中で疲れを見せ始めたチナを背負った。
「……昨日の夜はひとりで大変だったろう?」
「ううん! 楽ちんだった」
 ふと思い至って俺が尋ねれば、チナは軽い調子で答えた。
「もしかして、セリシアに背負ってもらったか?」
「違うよ~」
 首を傾げる俺に、セリシアが横から声をあげる。
「実は、途中でチナツちゃんの足の疲れを回復させました。その時に細胞を活性化させたら、その後は疲れ知らずのようで。私自身、これは新発見でした」
「なんと!? 事前に施しておくことで疲れにくい体をつくったか!」
「ええ。結果的にではありますが、そうなります」
「セリシアお姉ちゃんってば、すごーい!」
 これは、再生快癒の応用のようなもの。俺の背中で声を弾ませるチナにしても、錬金術をますます進化させている。ふたりの能力はどんどん磨かれており、これには俺も舌を巻かずにはいられなかった。
 ――コン、コンッ。
 そうこうしているうちに階段を上りきり、最上階のフロアに続く扉を叩く。
「セイとチナツ、セリシアだ。出発前の挨拶に寄らせてもらった」
「はーい」
 俺が名乗ると、すぐにアルテミアがパタパタと駆け寄ってきて、自ら扉を開けた。
「こんな塔の上にまで出立の挨拶に寄ってくれるなんて、本当に律儀なんだから」
 俺たちの訪問に、扉から顔を覗かせたアルテミアは嬉しそうだった。
「俺たちは君に挨拶もせず行ってしまうほど不義理ではないぞ」
「まぁ、ふふふっ。本当言うとね、セリシアさんとチナツちゃんは、私が結婚するって言い張ったから気を悪くしちゃったかなって。正直、不安に思っていたの。こうして、最後にまた会いに来てくれて嬉しいわ」
「えー、なにそれ!? そんなことあるわけないよ!」
「そうです! 結婚のお話とアルテミアさんと私たちの友好は、まったく別の問題です! そんなふうに思われていたとは心外です」
 チナに続き、セリシアも不満を隠そうとしなかった。
「い、いえ。誤解しないで! 決して、ふたりのことを疑っていたわけではないのよ!」
 アルテミアはそれに慌てた様子で言い募る。
 どうやら三人は、昨夜、俺のいぬ間に固い友好の絆を結んでいたらしい。この絆は、きっとアルテミアが嫁いだ後も絶えずに繋がっていくのだろうと、微笑ましい思いで見つめていた。
 ――ドガーンッ! ガッシャーンッ!!
 なんだ!? ドーンと突き上げるような衝撃と共になにかが倒壊したような音が響き渡る。高さのある塔は、地震の時みたいに大きく揺れた。