本当に翻訳の仕事がやってきた。あれは社交辞令ではなかったのか、とエレオノーラは思っていたのだが。それでも通訳をやらされるよりは何倍もマシだ、と思うことにした。ただ、騎士団としての潜入捜査の一つとして、通訳として潜入するのも悪くはないかもしれない。それはそのタイミングがきたときに、ジルベルトを通して国王に打診すればいいだろう。
両手を重ね、頭の上で伸ばした。そのタイミングで部屋をノックされた。
「あら、ダンお兄さま。どうかされましたか?」
姿を現したダニエルは、仕事から帰ってきてそのままここに向かってきたのだろう。騎士団の騎士服のままだ。それだけでも珍しいのに。
「いや、その」
と珍しく歯切れが悪い。あの兄らしくない。
「何か、潜入捜査ですか?」
不思議に思い、エレオノーラは立ち上がった。
「いや、そうではない」
「いつものダンお兄さまらしくないですね」
そして、ダニエルに近づく。
「あ、ああ。とにかく、落ち着いて聞け」
「私は落ち着いておりますよ。むしろ、落ち着いていないのはダンお兄さまのほうではありませんか。何か、任務のほうで問題でも?」
「リガウン卿がいらっしゃった」
重力に負けたのか、エレオノーラの口はポカンと開いてしまった。
「パメラ、パメラ」
急いで侍女を呼ぶ。「ちょっと、おかしくない恰好にしてちょうだい」
「承知いたしました」
「ダン兄さま。十分で行くわ。ジル様にはそうお伝えして」
「わかった。エレンがリガウン卿と会う気になってくれて助かったよ。断られたらどうしようかと思っていたからな」
兄の口調がいつものように戻ってきた。ダニエルが心配したのはエレオノーラが会わないという選択肢を選ぶことだったのだろうか。
「お待たせしてしまって、申し訳ございません」
ちょっと人前に出るような恰好にしてもらったエレオノーラは、サロンでダニエルと話をしていたジルベルトに向かって頭を下げた。
「では、妹も来たことですので。私はこれで」
ダニエルが立ち上がり、サロンを後にした。兄の姿を見送ったエレオノーラはなぜかその場で立ち尽くしていた。
「エレン、座ったらどうだ?」
「あ、はい。すいません」
「いや、別に謝るようなことはしていない。むしろ謝らなければならないのはこちらの方だな。急に押しかけてしまって申し訳ない。ダニエル殿に聞いたら、しばらく向こうに行かないと言うことだったので」
ジルベルトが言う向こうとは王城内にある第零騎士団の建物のことだろう。
「ダニエル殿の帰宅に合わせて、共に来てしまった。すまない」
「いえ、突然のことで驚いただけです。今も、このような恰好で申し訳ありません」
「いや」
ジルベルトは座っているソファの隣をポンポンと叩いた。もしかして、そこに座れということだろうか。いやいや、パメラもいると言うのに。
助けて、という視線をパメラに向けると、彼女はニッコリと笑って、お茶とお菓子の準備をしようとしている。パメラの顔には、私には何も見えませんと書いてあるかのよう。
「失礼します」
エレオノーラは仕方なくジルベルトの隣に座った。お茶とお菓子の準備を終えたパメラはペコリと頭を下げて、部屋を出る。つまり、いろんな人のいらぬ気遣いによって、この部屋に二人きりにされてしまった、ということだ。
「エレン」
ジルベルトは、肩から流れ落ちているエレオノーラの髪を一束すくった。「その姿もよく似合っている」
すくった一束に口づけを落とす。
「あなたに会いたかった」
ジルベルトからのその一言で顔が火を吹いた。また、両手で顔を覆ってしまう。
「エレン、顔を見せて」
「無理です。恥ずかしすぎて。それに、今日は、急に来られたので顔も間に合ってません」
その表現に、ジルベルトはふっと息を吐いた。
「その、いつも言っていることだが。エレンはエレンのままでいい。無理して婚約者を演じる必要は無い」
「ですが、本当にこの姿のままでは。ジル様の隣に立つ資格はありません」
エレオノーラの顔を隠している手の手首を、ジルベルトは優しく捕らえた。
「久しぶりに会えたのだから、あなたのその顔をよく見せてくれないだろうか」
ジルベルトの声があまりにも真剣だったため、エレオノーラは恐る恐る手をどかした。目の前には柔らかい表情を浮かべたジルベルトの顔がある。
「あの、私。本当に顔が幼いと言いますか。そんなに年相応に見られないといいますか。それで、あの。ジル様の隣には不釣り合いといいますか」
「少し黙ってもらえるか? 黙らないならその口を塞ぐぞ」
「ひぇっ」
さすが第一騎士団団長。凄みをきかせられると、黙るしかない。
ジルベルトの両手は優しくエレオノーラの両頬を包んだ。これでは逃げられない。ジルベルトの顔が近づいてきて、ぶつかると思い、エレオノーラは目を閉じた。
コツン。
おでこがぶつかった。あれ?
「ふふふ、あははは」
いきなりジルベルトが声をあげて笑い出した。
「どうかされましたか? ジル様」
尋ねると、いきなりエレオノーラの眉間を、その人差し指でぐりぐりと衝いてきた。
「な、何をなさるんですか」
「そんなに難しい顔をしなくてもいい。だから、いつも言っているだろう? あなたはあなたのままでいい、と」
そんなことを言ってくれるのは、ジルベルトが初めてだった。だから、自分のままというのがよくわからない。だけど、そう言ってもらえることは嬉しい。
エレオノーラは、頬を膨らませた。ここまで言われたのであれば、ジルベルトと二人きりの時は何も演じないようにしよう。子供っぽくても、年相応に見えなくても。
「それで、今日はどのようなご用件ですか?」
「あなたに会いたいと思ったから来た。それは用件にはならないか?」
「会いたいと思ったからには、何かしら理由があるのではないのですか?」
「ああ、そうだった。あまりにもあなたが可愛らしくて、肝心なことを忘れるところだった」
ジルベルトの言葉で、エレオノーラはまた精神的なダメージを受けた。
「やあ、マリー」
「あら、アンディ。元気だった?」
今日もカウンターで一人グラスを傾けていた彼女に言い寄る男が一人。金色の髪を撫でつけている男。
「相変わらず、君はステキだね」
「褒めても何も出ないわよ」
グラスを口元にまで運ぶと、カランと氷が鳴る。首を傾ける仕草も、男には誘っているように見える。
「そうそう、アンディ。例の件、わかったわよ」グラスから口を離しながら、マリーは言った。「少し、場所を変えましょう」
「上か?」
アンディは右手の人差し指を立てた。上の部屋。つまり、誰にも聞かれたくない話をする部屋。もしくは、誰にも見られたくないような行為をする部屋。
「そうしたいのはやまやまだけど。私、この後も仕事があるのよ。奥の、ボックスでいいわね」
マリーは目の前の店員に告げ、奥のボックス席へと移動した。
彼女が先にソファに座ると、すかさずアンディもその隣へと腰をおろす。そして、そっと彼女の背中に手を回した。マリーはその頭を彼の肩に預けた。
「例の婚約者。誰かがわかったわ」
アンディの耳元で囁く。彼は表情を変えずに「誰だ」と尋ねる。
「フランシア子爵家の娘よ」
「フランシア? あまり聞いたことはないな」
「あそこは騎士団の家系らしいわ」
「では、その娘もか?」
娘も騎士団だとしたら、手を出すのは少し面倒かもしれない、とアンディは考えた。
「いえ。娘はどうやら身体が丈夫ではないらしいの。そのためか社交界にもあまり参加していない。普段は屋敷の方に引きこもっているらしいわ。だから、ほとんど名前も知られていないし、顔も知られていないみたい」
「そんな女がよく、あれの婚約者になったな」
「あそこの他の兄弟は騎士団だから、その騎士団つながりじゃないかしら?」
マリーは腕を伸ばして、テーブルの上のグラスを取った。
「あなたも、飲む?」
マリーは目を細めて聞いた。
「ああ」
ボトルからグラスに酒を注ぎ、いくつか氷を落としたものを、アンディの手に握らせた。
二人はグラスを掲げ、それをカチンとあてた。マリーは今日もオレンジ色の液体を、ゆっくりと飲んでいる。それを飲むたびに、上下に揺れる喉元。今すぐにでも喰いつきたい。
「建国記念パーティの件、あなたの耳にも入っているでしょ?」
片手でグラスを持ったマリーが言った。
「ああ、もうそんな時期か」
「どうやらそのパーティに、あの騎士団長が婚約者を連れて出席するらしいわ」
「へえ、それは珍しい」アンディは一口、グラスの中の茶色の液体を口に入れた。カタンと氷が鳴る。「そして、面白い」
「でしょ」
マリーは身体をアンディの方に向けた。「警備担当ではなく、招待客として参加するのよ。こんな面白い話があって?」
マリーの微笑みは上品だ。アンディはいつも思うのだが、この娘はどこかの令嬢ではないのか、と。彼女はいつも、こうやって有益な情報を自分に与えてくれる。いや、自分だけではない。彼女は貴族様に関する情報を、それを必要とする者たちに売っているのだ。
しかも美人でスタイルもいいときた。女性としての魅力も申し分ない。このような女性を連れて歩けたら、他の男性からは羨望の眼差しを向けられることになるだろう。それくらい、中身も外見も、魅力的な女性なのだ。
今日も、黒いシックな装いが、彼女の妖艶さを引き立てている。
「どうかした?」
アンディの肩に両手をのせ、その上に顎を預けているマリーもどことなく艶めかしい。
「いや。そのパーティにどうにかして参加できないか、ということを考えていた」
あの騎士団の団長の顔はもちろん知っている。幾度となく顔を合わせている。鉄壁の警備を敷いてくるところが、アンディの仕事がやりにくくなっている原因だ。だが、そう言った障害がある方が、楽しいとも思える。
「できるのではなくて? あなたなら」
肩が軽くなった。マリーの顔が外れたのだ。そして、彼女の人差し指がアンディの唇に触れる。
「アンドリュー・グリフィン公爵として参加すればよろしいのではないかしら?」
ドキっと身体が跳ねた。彼女はお見通しだったのか。
「私はただの町娘だけれど、あなたは立派な貴族様でしょ?」
「君にはかなわないな。だったら、私の女になるかい?」
アンディはマリーの肩に手を回した。マリーはその手をやんわりとどける。
「残念ながら、お断りよ。貴族様の女なんて、不便で仕方ないもの。それに、私は誰の女にもなるつもりはない」
「やっぱり、君のそういうところ、好きだなぁ」
アンディはソファの背もたれに肩を開いて、限界まで寄りかかる。
「俺の女になれ」
今度は彼女の腰に手を回した。強引に引き寄せる。
「きゃ」
マリーはその力に負けてしまい、アンディの胸に頭を預ける形になってしまった。
「俺と一緒になれば、不自由しないと思うが?」
「私は不自由しない暮らしは望んでいない」
「マリー。だったら、君の望みは?」
「刺激のある暮らし」
そこでマリーはすっと立ち上がった。
「ごめんなさい、アンディ。もう次の仕事の時間なの。私、売れっ子だから」
「ああ、知ってる」
「またね」
鎖の長い革のバッグを肘にかけて、颯爽と去っていく。その後ろ姿も申し分無い。
逃げられれば追いかけたくなる。アンディはなんとかして彼女を自分のものにできないか、ということを考え始めていた。
建国記念パーティ。その名の通り、この国が成り立った日を祝うパーティで、年に一度、王宮で盛大に開かれる。
いつもなら招待状なんていうものは届かず、このパーティの警備責任者として現場を仕切っていたジルベルトであるが、こともあろうが国王の名前で招待状が届いてしまったことが不運の始まりとしかいいようがない。しかもこの国王、その招待状を他の団員たちに見せつけるかのように、リガウン家に送ってきたわけではなく第一騎士団宛てに送ってきたものだから、嫌味としかいいようがない。ということでジルベルトは一度、屋敷に戻る羽目になったのだ。その招待状の件を両親に報告するために。
「よかったわね、招待状が届いて。建国記念パーティなんて、一生、あなたに縁の無いものと思っていましたよ」
願わくば、一生縁が無くて良かった。
「せっかくですから、エレンにはあなたの名前でドレスを送っておきましょう。どんなのがいいかしら。あ、あなたは滅多に着る機会がなかった式典用の騎士服ですね。それに似合うドレスがいいわね」
一番浮かれているのはこの母親ではないか、とジルベルトは思っていた。
式典用の騎士服は、その名の通り式典に出席する騎士のための騎士服。警備を担当する騎士の騎士服と違い、機能性に優れていない。きらびやか重視な騎士服だ。団長でありながらも、ことごとく面倒くさい式典にはサニエラを投入していたため、ジルベルトによってこの式典用の騎士服は着る機会はほとんど、めったに、いや全然なかったといっても過言ではない。
さくっと時は過ぎ。建国記念パーティ当日。
「エレン。くれぐれも、リガウン卿に失礼なことが無いように」
一番上のダニエルが言う。だが、この兄もフランシア家の代表としてパーティに参加する者だ。
「エレンの社交界か。僕も見たかったな」
二番目のドミニク。
「ドム兄、その場にいたらきっと、心臓が持ちませんよ」
三番目のフレディ。
「潜入ではなく、こうやって普通にパーティに参加するっていうのが、不思議な感じです」
「それは、オレも思っている。とにかく、お前は病弱なご令嬢という設定になっているんだ。何かボロが出そうになったら、気絶したフリでもしておけ」
「なるほど、さすがダンお兄さまです」
「お嬢様、リガウン侯爵家のジルベルト様がいらっしゃいました」
侍女のパメラが呼びに来た。
「では、行ってまいります」
エレオノーラの挨拶はまるで騎士のそれ。
「エレン。淑女らしく振舞いなさい」
ダニエルの言葉が飛んだ。これでは先が思いやられる。
執事に手を引かれて、エレオノーラはジルベルトの元へと向かった。
「お待たせしました」
エレオノーラの姿を見た瞬間、ジルベルトが固まった。それに気付いたエレオノーラは少し焦った。いつもの知的美人で攻めてみたが、失敗だったか。
「エレオノーラ嬢をお預かりいたします」
ジルベルトは何事もなかったかのように、エレオノーラの手をとった。先ほどの彼の態度は、エレオノーラの気のせいだったのだろうか。
馬車に乗ってジルベルトと二人で王宮に向かうのは二回目。向かい合って座ろうとすると、隣の席をポンポンと合図されたため、今日も並んで座る。
「ジル様。素敵なドレスをありがとうございます」
「いや、まあ。よく似合っている」
「ありがとうございます。ジル様の瞳の色と同じ色です」
ドレスは淡い緑色。ジルベルトの瞳の色も緑。こういう小細工をするところが、あの母親。
「ジル様、具合が悪いのですか?」
けして口数が多いジルベルトではないのだが、いつもと様子がおかしい。
エレオノーラはジルベルトの顔を覗き込んだ。といっても、エレオノーラが下から見上げる形になるのだが。
「あなたが」
とジルベルトが言いかける。
「私が?」
とエレオノーラが言う。「今日の恰好、変でしたか? ジル様の婚約者として知的美人をコンセプトに変装してみたのですが」
「いや、そうではない」
ジルベルトは右手の甲で口元を押さえた。これは、彼が何か言いたいけれどとても言いづらいときにとる行為であることに、エレオノーラは気付いている。
エレオノーラはその太い手首をそっと掴んだ。ジルベルトは目の前のエレオノーラの顔にドキリとする。化粧をして、大人びた雰囲気。二十代後半と言っても通じるものがあるだろう。
「ジル様。お顔を見せてください」
それはいつものジルベルトのセリフ。なぜか今日は主導権を握っているのはエレオノーラだ。
「ジル様。お顔が赤いですよ。お熱でも?」
そうやってエレオノーラが顔を近づけてくるから、落ち着こうとしても落ち着けない。空いていた左手で彼女の身体を抱き寄せた。
「ジルさま?」
「できれば、あなたを連れて行きたくなかった」
「もしかして。やはり、婚約者としてふさわしくない、ということでしょうか。私の変装が不十分ということでしょうか」
そうではない、とジルベルトはエレオノーラの胸元に顔を埋める。
「あなたがとても魅力的だからだ。今日もいつにも増して美しい。これでは、パーティに来る男どもがあなたに夢中になる」
「そんなことは」
ありません、と言おうとしたが、すぐさまジルベルトが言葉を続ける。
「わかっている。年甲斐もなく嫉妬していることを。私とあなたでは年が離れすぎているし、あなたにはもっとふさわしい男がいるのではないか、と思っている。あなたが、他の男と話をしたり踊ったりするのかと思うと、こう、胸が痛む」
「ジル様。そこは、お気になさらないでください」
エレオノーラはジルベルトの背中に手を回した。
「他の男性とお話をすることはあるかもしれませんが、けしてジル様のお側を離れません」
ジルベルトと離れて、婚約者としてのボロが出てもまずい。いや、仮面をつければそんなことも無いのだが、たまに強引な男もいるから、ジルベルトから離れないということは賢明な判断だろう。
「それに、ジル様以外の方とも踊りません」
そこでジルベルトは顔を上げた。堅物騎士団長と言われているジルベルトが少し可愛らしく見える。
「私。病弱なご令嬢なんです。何かあったら、倒れますから」
病弱な設定がこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。
「わかった。そのときは私があなたを抱いて逃げよう」
逃げるのか、とエレオノーラは思った。
「ジルベルト様よね」
「リガウン侯爵家のジルベルトか?」
「珍しいな。今日は警備担当ではないのか?」
「一緒にいるのはどこのご令嬢だ?」
ジルベルトの腕に自分の腕を絡ませて、入口から会場へと踏み入れると、そんな声が耳に届いてくる。ジルベルトの婚約者、という仮面をつけているにも関わらず、エレオノーラはより一層絡めている腕に力をいれてしまった。ジルベルトも彼女のそれに気付いたのだろう。彼女の顔を見て、優しい笑みを浮かべてくれる。
「あの堅物が笑っているぞ」
「でもお似合いよね」
何をしても注目を浴びるらしい。困ったものだ。ジルベルトは飲み物を受け取ると、一つをエレオノーラに手渡した。
「ジルベルト」
声をかけてきた男がいる。
「伯父のエガートン侯爵だ」
ジルベルトはエレオノーラの耳元で囁いた。ジルベルトの母親の兄にあたるらしい。エレオノーラもエガートン侯爵の名前は何度か耳にしたことはある。潜入調査で見かけたことはあるが、このような公の場で目にするのは初めてだ。
「婚約したと聞いてな。今日は会えるのを楽しみにしていたぞ」
「ご報告が遅くなりまして、申し訳ございません」
「いやいや、そういう堅苦しい挨拶は抜きだ。あれからは話を聞いていたからな。あきらめていた孫に望みが出てきた、と。屋敷に遊びに行ったときに泣いて喜んでいたぞ? それで、そちらのお嬢さんが?」
「はい」
ジルベルトに促され、エレオノーラは挨拶をする。「エレオノーラ・フランシアです」
「ほほう。話しには聞いていたが、本当にジルベルトとお似合いだな。よかったな、ジルベルト」
エガートン侯爵はジルベルトの肩を小突いた。
「そう言っていただけて、光栄です」
エレオノーラは上品に笑んだ。その笑みに、エガートン侯爵も満足に微笑み返した。
「では、また後ほど」
言うと、彼はまた別な人物に声をかけていた。どうやら、ジルベルトと違ってとても社交的な人柄のようだ。
楽団の音楽が鳴り響いた。エレオノーラはピタリとジルベルトに寄り添う。重々しい扉が開いて、王族が入場してきた。
国王、王妃、第一王子、第一王女、第二王女と華やかさに溢れている。国王が何かしら言葉を発すると、会場がわーっと盛り上がる。堅苦しい挨拶が嫌いな人だから、あとはご自由にという流れだろう。
エレオノーラはジルベルトに促されて、場所を移動した。どうやらジルベルトが知り合いを見つけたようだ。と思ったらダニエルだった。
「ダニエル殿」
「リガウン卿はお会いするのは初めてですね。私の婚約者のウェンディ・マクドネルです」
ダニエルの隣に寄り添っていた女性が、礼をする。
「ウェンディ、エレンをお願いしてもいいだろうか。私は少し、リガウン卿と話がある」
「はい、ダニエル様」
にこやかに微笑む彼女は、今のエレオノーラよりも幼く見える。ウェンディの返事に満足したダニエルは、少し離れた場所でジルベルトと何やら話し始めた。
「エレン、婚約おめでとう」
「ありがとうございます。こうしてウェンディとこの場でお会いすると、不思議な感じがしますね」
「ええ、あなたは本当にこのような場所には出席されなかったから。ジルベルト様はとても素敵な方ね」
「うふふふ」
と、エレオノーラからは嬉しい笑みがこぼれる。
「ただ、少し」
ウェンディが言葉を続ける。「今日の恰好はやりすぎじゃないかしら? ジルベルト様に似合うようにと選んだとは思うけれど、あなた本来の可愛らしさが台無しよ?」
「いいのです。フランシア家のエレオノーラではなく、ジルベルト様の婚約者としてのエレオノーラですから」
「また、そういうことを言って」
ウェンディが給仕を呼び、飲み物を手にした。「たまには、仕事を忘れて純粋に楽しんだらどうなのかしら?」
「私は、十分楽しんでおりますよ?」
実はウェンディも第零騎士団の諜報部。エレオノーラの裏の顔は知らないけれど、諜報部の潜入班であることは知っている。
「ウェンディ、エレン。待たせて悪かった」
ダニエルが戻ってきた。続いてジルベルトも姿を現した。
「エレン」
ジルベルトが手を差し出したので、エレオノーラはそれをとり、ダンスの輪の中へと消えていく。
「ねえ、ダン」
ウェンディはダニエルの耳元で囁く。「あの二人は、本当の婚約者? それとも囮?」
「ウェンディ。残念ながらオレはその回答を持ち合わせていないのだよ」
言い、ダニエルは婚約者の腰を抱き寄せた。「オレたちも一曲、踊ろうか」
さて、輪の中に消えたジルベルトとエレオノーラは、踊っていた。とりあえず一曲は踊ってきなさい、と母親から言われたジルベルトは義務を果たすかのようにエレオノーラをダンスに誘ったのだ。エレオノーラと踊ることに不満は無い。むしろ、踊ることでエレオノーラの存在を周囲に知られることが不満だった。
「ジル様、とてもダンスがお上手ですね」
「あなたに恥をかかせないように、と、密かに練習をしていた」
「まあ。そんなジル様も見てみたかったです」
「エレンは、その。ダンスも上手いな」
「潜入調査の賜物ですね」
「つまり、エレンは他の人と踊ったことがある、と?」
「え、ええ。まあ。はい。任務上」
「任務で?」
「はい」
「任務以外では?」
「今日が初めてです」
「そうか」
なぜかジルベルトは嬉しそうだった。
曲が途切れたところで、その輪から抜けた。ジルベルトは本当に一曲で終わらせるつもりだ。彼女の手を引いて歩くと、何かしら視線が絡みついてくる。
「ジルベルト殿」
名を呼ばれた。こんな場所で親し気に名を呼んでくる者は限られている。
「これは、グリフィン公爵。ご無沙汰しております」
「貴殿が婚約したと聞いてな。思わず声をかけてしまった。そちらの女性が貴殿の婚約者か?」
「ええ」
照れたような笑みをジルベルトは浮かべ、エレオノーラは静かに挨拶をした。
グリフィン公爵と別れ、静かに二人で談笑をしていると、突然、国王がその姿を二人の前に現した。なにか焦っている様子。
「ジルベルト、悪いがエレオノーラ嬢を貸してほしい」
「陛下、あちらにいらっしゃらなくてよろしいのですか?」
「だから、エレオノーラ嬢を貸してくれ。今日は、近隣諸国からも人が集まっているからな」
「陛下、ですからなおさら。あちらにいらっしゃったほうがよろしいのではないですか?」
「ジルベルト。すまんが、エレオノーラ嬢に通訳を頼みたいのだ。こちらで準備した通訳では、力不足なところがあってだな」
「陛下たるもの。近隣諸国の言語など、使えて当然ですよね」
「日常的な会話はできるが。深い話は無理だ」
「自信満々に無理だ、とおっしゃられても」
「ジル様」
ジルベルトの腕に絡みついていたエレオノーラが声を発した。
「私なら大丈夫ですよ」
エレオノーラが大丈夫でもジルベルトが大丈夫ではない。ジルベルトは深いため息をつくと共に首を振った。
「私も同行していいだろうか」
「それは問題ない」
エレオノーラは国王の後ろをジルベルトと並んでついていくことにした。案内された先には、近隣諸国の偉い人がたくさん集まっていた。そこにくわえて、この国の偉い人たちも。
「エレオノーラ嬢、こちらへ」
促され、一人の年配の女性の前に立たされた。ジルベルトは少し離れた場所から、その様子をうかがっている。エレオノーラは背中に変なオーラを感じた。思わず苦笑を浮かべたくなる。我慢。
「ファニタ王妃、彼女です」
ファニタ王妃、名前は聞いたことがある。確か隣国のアークエット国の王妃。
「ファニタ王妃は、エレオノーラ嬢が書いてくれた招待状を非常に気に入ってくれてね。それで、どうしても会いたいとおっしゃってくれた」
国王が説明する。
会いたいってどういうこと? 通訳が足りない、とかそんな話ではなかったのか? と思いながらも、エレオノーラは促されて挨拶をした。
そのアークエットの言葉に、ファニタ王妃はまたまた喜んでくれた。
「あなたが書いたという招待状を手にして、今日という日がとても楽しみだったの」
「とても光栄です」
「アークエットの言葉もとてもよく勉強してくださっているのね」
潜入調査のため、とは言えない。
「異文化は自分の世界を広げてくれます。異文化を学ぶことは、自分の成長にも繋がりますから」
「そうですね。勉学は何事も成長に通ずる道ですね」
エレオノーラの今の気分はアークエットの潜入調査員だ。だが、心の準備とか下調べとか、そういうのを全部省いているため、いつボロが出るかわからない。ジルベルトの婚約者の仮面の上に、アークエット潜入調査員(実際は、どこからも依頼はきていない)という仮面をつけなければならないのだろうか、ということまで考え始めた。
その偽の仮面をつけたまま、適当に会話を弾ませるがそれもファニタ王妃は喜んでくれたらしい。とにかくアークエットの言葉を不自由なく使いこなしている、というところが高評価だったようだ。
「エレオノーラ。私には息子が二人いるの。紹介してもいいかしら」
突然、話は変な方向に転がっていく。近くにいる国王はニヤニヤと笑っているし、むしろ背後からの視線が痛い。その視線の主はジルベルトに違いないだろう。
ファニタ王妃から二人の王子を紹介された。年齢はエレオノーラより少し上くらい。そして嫌な予感しかない。国王のニヤニヤも止まらない。絶賛、継続中だ。この人はこうなることをわかっていて、エレオノーラをこの場に呼んだに違いない。婚約者がいることを伝えていないのか?
案の定、その一人の王子から、すっと手を差し出された。
少し離れたところにいるジルベルトが動く気配がした。つまり、と察する。
その王子が口を開く前に、気絶しよう。後ろには絶対ジルベルトが控えているはず。
「申し訳ありません。彼女は気分が優れないようです」
ジルベルトはエレオノーラの身体を支えて、謝罪する。ジルベルトの言葉が通じたのかどうかはわからない。
「まあ、大丈夫かしら」
ファニタ王妃が、心配そうな表情を浮かべた。
エレオノーラを抱きかかえながら、この場をなんとかしろ、という視線を国王に向けた。彼はニヤニヤしながら、それを察する。
「どうやら人の多さに当たってしまったようですね。彼女を奥の部屋に連れて行きなさい」
言葉を続けたのは、国王だった。先の言葉をアークエットの言葉でファニタ王妃に言い、後の言葉はジルベルトに言う。何やら誤魔化してくれていそうだ。
ジルベルトはエレオノーラを抱いたまま、別室へと向かった。
そんなジルベルトをじっと見つめている男が二人いた。
一人は国王。ファニタ王妃と話をしながら、楽しそうに彼の様子を見ている。この男は完全にジルベルトで楽しんでいる。
そしてもう一人はグリフィン公爵。じっとりとまとわりつく視線は、ジルベルトとその婚約者を観察しているように見えなくもない。
グリフィン公爵は、前王の弟の息子。つまり、現国王とは従兄弟同士。
彼はジルベルトがこのホールを出ていくまで、じっとその視線を外すことはしなかった。それはまるで、獲物を狩るかのような、とても執拗な視線だった。
「やられたな」
エレオノーラを抱いているジルベルトが彼女に向かって口を開いた。
「どういう意味ですか?」
薄目を開けて、静かに尋ねた。
「あいつだ。クラレンスだ」
ジルベルトの口から出た名前が、国王の名前であると認識するまでに五秒かかった。
「陛下が何か?」
「あれは、私たちで楽しんでいる」
別室のソファにエレオノーラをおろした。ジルベルトはその隣に座る。
「あなたを他の男と踊らせようとしていた、くそ」
最後の呟きは聞かなかったことにしておこう。「どこもかしこも、私とあなたの仲を邪魔する奴ばかりだ」
うーん、とエレオノーラは少し考える。
「では、ジル様。デートに誘ってください。できれば、あまり人のいないところがいいです。人の目が少なければ、私もこのような変装をすることもないので」
彼女と会うときはいつもこの店だ。特に約束をしているわけでもない。なんとなく彼女に会いたいと思ったときに足を向けると、偶然か必然か、偶々なのか運命なのか、彼女に会うことができた。
カランカランとベルを鳴らしながら、その扉を開ける。それを開けると、自分に気付いた彼女は必ずその名を呼んでくれる。
「あら、アンディ」
今日もカウンターで一人、グラスを傾けていた。濃い目の青いドレスが、部屋の淡い明かりを反射して、艶やかに輝いている。
「やあ、マリー。君はあいかわらず素敵だね」
「あなたもね」
うふふ、と上品に笑みを浮かべる彼女の口元を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「いつもの」
カウンターの向こうのバーテンダーに声をかけ、マリーの隣に座った。
「それで、どうだった? 例のパーティは。参加したのでしょう?」
彼女は言い、オレンジ色の液体を一口飲む。アンディはその喉元についつい見入ってしまう。その液体と同じように、彼女の体中を駆け巡りたいという思いが生まれる。
出された酒をアンディは手にした。彼女の質問に答える前に、それを一口飲む。喉に刺激を与えるそれが心地よい。
「ここでは、あれだな。奥へ行こう」
「あら、珍しい。上じゃなくていいの?」
「たまには私だって真摯なところを見せないとな」
「あなたはいつだって、ジェントルでしょ?」
彼女のそれに、アンディもゆっくりと笑みを浮かべる。彼女とのこういう言葉の駆け引きも悪くはない。
マリーの腰に手を回して場所を移動する。奥のボックス席。ここは、入口からは死角になって誰がいるのかもわからない席だ。ボックス席同士もそこそこ離れていて、隣に誰がいるかなんていうのは、座っているだけではわからない。わざわざ相手の席まで足を運ぶのであれば別だが。
つまり、この席はこういった密談とかするときに適している場所。ただ、最も適している場所は上の部屋ではあるのだが、そこでは下心が丸見えだし、その下心が邪魔をしてまともな会話もできなくなる。だから、ちょっと真面目な話をするときにはこの場所がいい。
「それで、例のパーティは?」
「それが気になっているようだな」
「もちろん。焦らさないで教えてよ」
「いつも焦らされている私の気持ちがわかったかな?」
そこでアンディは一口、薄い茶色の液体を飲む。氷がカコンと鳴る。
「まあ、私は焦らしてなんかいないけれど?」
プイっとそっぽを向く彼女は、その妖艶な容姿と反しているにも関わらず、魅力的だ。
「マリー、拗ねないでくれ」
「拗ねていないけれど?」
結局、アンディはマリーにはかなわない。この一つ一つの動作が、自分を魅了してくる。
「あの婚約者という女に会った。フランシア家の娘というのは本当だったようだな」
「でしょ」
嬉しそうにマリーはグラスを傾ける。自分の情報が正しかったということを誇示しているのだろう。「それで?」
「あの騎士団長はかなり婚約者に惚れこんでいるようだな。誰も近づけさせないように牽制していた」
アンディはあのときのそれを思い出し、笑みをこぼした。「ただ、彼女は身体が丈夫ではないというのは、本当のようだな。ああいったところに慣れていないのだろう。具合が悪くなって途中退場だ」
「あらあら、とんだお嬢様ね」
「ああ、あれならやりやすいな。こちらに抵抗するような力も無いだろう」
「あら。抵抗すればやっちゃえばいいのよ?」
「何を?」
「あなたの得意な、気持ちよくなれるおくすり。やっちゃえばいいんじゃない? そしたら彼女はこちらの言いなりよね?」
ふむ、とアンディは顎に手をあて、そこをさすった。マリーの言うことも一理ある。薬を打ってしまえばこちらに抵抗はしてこないだろう。場合によっては洗脳することも可能だ。
「さすがマリーだな」
「だって、私。お嬢様って嫌いなんだもん。お高くとまっていて。たかが貴族に生まれただけのくせに。だからね、そんなお嬢様が堕ちていくところ。想像しただけでぞくぞくしちゃうのよ」
首を傾けて笑むと、またグラスを口元に運んだ。彼女が口をつけたそこには、真っ赤な口紅がうつっている。それをそっと指で拭う。その仕草もアンディにとっては刺激的だ。
「それがマリーの望みなら、叶えようか?」彼女のその唇を、自分にも這わせてくれないだろうか。「ただし、一つ条件がある」
「何かしら?」
「そろそろ俺の女にならないか」
「まあ」
マリーが目を見開いた。アンディがアプローチをしていたことなど、とっくの昔に気付いていただろう。
そこで彼女は上品に笑む。
「そうね。そろそろそれも悪くはないかもしれないわね」
マリーは首を傾け、隣に座っているアンディの肩にその頭を預けた。肩にぐっと重みを感じた。それも悪くはない。
「刺激のある生活を約束してくれるのかしら?」
マリーは上目遣いにアンディを見つめた。
「もちろん」
彼はマリーの腰に手を回した。細い腰。力を入れたら折れそうなくらい細い。この腰も他の誰にも触れさせたくない。
「約束するよ」
ジルベルトは本当にデートに誘ってくれた。忙しい仕事の合間の貴重な休みを、エレオノーラのために使ってくれると言うのだ。
デートに誘って欲しいと自分からお願いしてみたものの、貴重な時間を奪ってしまって申し訳ないという気持ちもあった。
「お嬢様、ジルベルト様がいらっしゃいました」
今日のエレオノーラは、知的美人ではない。いつものエレオノーラを少しおしゃれにした感じ。ジルベルトが提案してくれたデートは、馬での遠乗り。だから、動きやすいドレスではなくゆったりしたズボンを選び、髪の毛も高い位置で一つにまとめている。
「エレン。任務では無いからといって、はしゃぎすぎないように」
出掛け間際に、ダニエルに念を押されてしまった。
馬車でリガウン家所有の厩まで向かい、そこから馬に乗り換える。
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております。ジルベルト様。ジルベルト様のマックスは今日もご機嫌ですよ」
馬番は目を細めて、嬉しそうに馬について語る。たいてい馬番という者は、馬を語るときは幸せそうな顔をするものだ。
ジルベルトはエレオノーラを簡単に紹介すると、馬番はより一層、幸せそうな顔をした。エレオノーラは馬ではないはずだが。
ジルベルトは愛馬を引いて、少し場所を移動した。馬番が言った通り、マックスは機嫌がいいようだ。
「あの、ジル様。私も一人で馬に乗れますが?」
ジルベルトが準備した馬は一頭。
「だが、せっかくデートなら、二人で乗った方がいいのではないか?」
馬に乗ったジルベルトが手を差し出したため、それを手にすると身体がふわりと浮いた。見事、ジルベルトに横向きに抱っこされてしまった。だから、エレオノーラの目の前には彼の顔がある。
「あのジル様」
「なんだ」
「ちょっとこれでは、疲れませんか?」
「そうか?」
こくこくとエレオノーラは頷いた。「私も馬には乗れます。ジル様もそろそろお忘れになっているかもしれませんが、私、一応騎士ですので」
「そうだな」
ジルベルトは少し寂しそうに顔を歪めると、エレオノーラを抱きなおした。彼女は馬にまたがる形になった。エレオノーラは手綱を手にすると、両脇の下からジルベルトの手が伸びてきた。片方の手は手綱を持ち、片方の手でエレオノーラのお腹を抱える。
「ふむ、これも悪くはないな」
今度は耳の近くでジルベルトの声が聞こえてきた。これはこれで、疲れるかもしれない。エレオノーラが恥ずかしくなって下を向くと、うなじがジルベルトから丸見えになった。別にうなじが好きとかそういうわけではないのだが、そのうなじの脇、つまり耳の下あたりが赤く染まっていることに気付いた。それがあまりにも可愛らしいので、そこに唇を落とした。
「ひゃ、何をなさるんですか?」
エレオノーラは触れられた首元を押さえる。
「すまん、あまりにも可愛いからつい」
「ついって、なんですか? ついって」
そこで頬を膨らませる。こういった姿が彼女の本当の姿なのだろう。
「そうだ。先ほどから一つ気になっているのだが、それはなんだ?」
ジルベルトの言うそれとは、エレオノーラが手にしているバスケットのこと。
「バスケット、つまり籠ですね」
「私が聞いているのはそういうことではないのだが」
「ええ、知っています。ですからわざとです」
どうやら、エレオノーラは少し怒っているようだ。まったくもって、ジルベルトには心当たりが無い。
馬のマックスはカッポカッポとゆっくりと歩いている。目の前に建物は無い。左手に広がる木々と、右手に広がる草原。日差しは穏やかであり、木々たちがそれを遮ってくれている。日々の喧騒を忘れてしまうようだ、というのはこういうことを言うのだろう。馬での遠乗りは、まさしく騎士団としての仕事を忘れさせてくれるような穏やかさを与えてくれる。それと同時に、あの国王からの度重なる嫌がらせも。
川を渡ってすぐのところで、馬を止めた。ジルベルトが颯爽と馬からおりた。エレオノーラもおりようとしたら、ジルベルトによって腰を抱きかかえられ、ふわりとおろされた。
「ここで少し休憩しよう」
マックスを木につなぎながら、ジルベルトが言った。
「お疲れ様、マックス」
エレオノーラはマックスの頭を優しく撫でた。マックスも悪い気はしないのだろう。機嫌の良かった彼は、より一層機嫌が良くなったらしい。そんなマックスさえもうらやましく思ってしまうジルベルト。
「この辺りでいいか?」
誰に聞くわけでもなく、一人呟くと、ジルベルトは敷物を敷いた。大きな木の下。目の前の少し先には川がちろちろと穏やかに流れている。
「では、ジル様。お昼ご飯にしませんか?」
エレオノーラはバスケットを掲げて見せた。
「昼ご飯」
とジルベルトが呟いているが。「いや、こちらでも準備をしている」
ジルベルトが荷物を確認し、昼食が入っていると思われる荷物を解くと、そこにはおやつしか入っていなかった。
「私が準備します、とリガウン家の方には伝えておきましたので」
あまりにも茫然と立ち尽くすジルベルトが面白過ぎて、エレオノーラは楽しそうに笑っていた。
敷物の上に、二人向かい合って座る。その二人の間には、エレオノーラが作ったというお弁当。といっても、サンドイッチだが。
「ジル様は何がお好きですか?」
バスケットを開けると、様々な種類のサンドイッチが綺麗に並んでいた。
「これは、エレンが作ったのか?」
「はい。これも潜入調査の賜物ですね。多分、味も食べられる程度のものかとは思いますので」
エレオノーラはふんわりと笑む。変装はしていない。いつもの知的美人な婚約者を演じていない。それはジルベルトがそのままでいい、と言ってくれたから。それから、この周辺に他に人がいないから。
「こちらがポテトサラダで、こちらがクリームチーズとベーコンで、こちらが」
エレオノーラはサンドイッチの説明をするが、ジルベルトは聞いているのか聞いていないのかわからない。
「お飲み物もありますよ」
水筒を取り出して、カップへと注ぐ。「どうぞ」
「ああ、ありがとう。どれから食べたらいいか、迷ってしまうな」
ジルベルトがバスケットの中身を見ながら難しい顔をしていたのは、どのサンドイッチから食べたらいいかを悩んでいたらしい。
「好きなだけ食べてください。ここには私とジル様しかいませんから、他の人に取られたりしませんよ?」
兄弟の多いエレオノーラにとって、おやつ争奪戦は幼い時には日常茶飯事だった。特に男三人がよくやっていたことを思い出す。
ジルベルトがなかなかサンドイッチに手を出さないので、エレオノーラは適当に一つ差し出してみた。だが、ジルベルトはそれに見向きもせずに、バスケットの中身をじーっと見つめている。見ているだけでは腹にたまらない、と言うのに。
「ジル様。お口をあけてもらってもいいですか?」
ジルベルトはバスケットの中身から目を離さない。それでも、口をポカンと開けたので、そこに手にしたサンドイッチを突っ込んでみた。
ジルベルトは、突然口の中に現れたサンドイッチに驚きつつも、もぐもぐと咀嚼する。
「美味しいですか?」
エレオノーラが尋ねると、無言で頷く。
「これはサラダか?」
「正解です」
彼女はニッコリと笑みを浮かべると、残りのサンドイッチは自分で食べてしまった。「ジル様。早く食べないと、私が全部食べてしまいますよ」
ペロリと指をなめたエレオノーラを、ジルベルトはうらめしそうに見つめていた。そんなにサンドイッチが食べたいなら、さっさと食べればいいのに、と彼女は思う。
「それはなんだ?」
どうやらエレオノーラが手にしているものが気になっているらしい。
「これは、ローストビーフですね」
「それを少しいただいてもよいか?」
「はい」
エレオノーラが手にしていたサンドイッチをジルベルトに手渡そうとしたが、彼はそれを受け取る様子がない。代わりに口を開けて待っている。これではまるで餌を待つ雛鳥ではないか。大きな雛鳥だ。恐る恐るその口に、サンドイッチを近づけた。
「ひゃ」
と変な声が漏れてしまった。ジルベルトがエレオノーラの指ごと食べてしまったからだ。
「あ、すまん。つい」
「ジル様。ご自分で食べてください」
頬を膨らませながらも、バスケットを両手で持ってジルベルトの前に差し出した。
「では、次はこれをいただこう」
やっとジルベルトが自分で食べる気になったようだ。エレオノーラは安心して、目尻を下げた。お茶を一口飲む。
昼食を終えると、ジルベルトは愛馬のマックスに水を与えた。マックスは適当に草を食べていたようだ。
エレオノーラは大きな木の幹に寄り掛かって、足を放り投げて目を閉じていた。頬を撫でつける風が心地よくて、ついつい眠りへと誘われてしまう。
ふっと、太ももの辺りが重くなった。なんだろうと思って目を開けると、ジルベルトと目が合った。
「少し休んだら戻ろうか」
ジルベルトがエレオノーラを見上げながら言った。エレオノーラは頷くと共に、ジルベルトの額に手を置いて優しく撫でた。
「ジル様。今日は私のために時間を割いていただき、ありがとうございます」
「いや、礼を言うのは私の方だ。今日はとても穏やかな時間を過ごすことができた」
「私もです。次の任務の前に、このような時間を持てたこと、とても励みになります」
「任務……。エレンは今までどのような変装しているのだ?」
「えっと、いろいろですね。ジル様と初めてお会いしたときは、酒場の男性店員でしたし。他はレストランの料理人や娼館の娼婦。逆に酒場の常連客とか、パーティに参加するご令嬢とか」
「娼館……」
ジルベルトが額を撫でていたエレオノーラの手首を掴んだ。「娼館ということは、やはりそういうことを」
「いえ、あの。その。そういうことは、致していないのです。兄たちにも笑われたのですが。えと、まあ。それで、その。ジル様が初めてになります。まあ、あれは事故みたいなものですけど」
もう片方のジルベルトの手が伸びてきた。それはエレオノーラの頭の後ろ、つまり後頭部を支えたかと思うと、ぐっと力を入れてきた。ジルベルトの顔が迫ってくる。いや、動いているのはエレオノーラの頭の方だから迫ってくるという表現はおかしいかもしれない。ぶつかると思って目を閉じた。
唇に温かい何かが触れた。この感触は、あの事故のとき、ジルベルトと唇が触れてしまったときとの感触に似ている。だが、恐ろしくて目を開けることができない。
いつまでそうしていたのか。ほんの数秒のような気もするし、数分だったような気もする。後頭部に置かれた手が離れたのを感じて、エレオノーラは顔を離した。
「これは事故ではない」
ジルベルトが真面目な顔をして呟いた。
いつものバーにマリーはいなかった。たいていアンディが足を運ぶと、マリーはカウンターで一人、グラスを傾けているというのに。
「今日は、マリーは来ていないのか?」
いつもの、と頼む前に尋ねてしまった。
「そのようですね」
バーテンダーはグラスを拭きながら、表情を変えずに答えた。
「いつものを頼む」
アンディはそう言い、つまらなさそうにカウンターの上に右肘をついて、その手の上に顎を乗せた。
カランカランと音を立てて扉が開くたびに、マリーが姿を現すのではないかと思って、ついつい顔を向けてしまう。だが、現れたのは別な女性だった。
それを三度繰り返した時。
「あら、アンディ。今日は早いのね」
紫色のドレスを身に纏ったマリーがやっと現れた。今日のドレスも彼女の魅力をより輝かせている。その紫色という色合いもそうであるが、胸元が広く開いたそれは彼女とすれ違う男どもを虜にするし、太ももまでスリットの入っているそれも、すれ違う前の男たちを釘付けにする。
「マリー。君は相変わらず素敵だ」
声を出さずに笑みだけを浮かべ、そして首を傾ける仕草も色っぽい。いや、マリーは存在そのものが色っぽいのだが、とにかく、彼女のそんな仕草の一つ一つがアンディを魅了してくる。
「いつもの、お願いね」
カウンター向こうのバーテンダーに声をかけると、彼は黙っていつものオレンジ色の液体を差し出した。
「奥、空いているかしら?」
彼女のそれに、バーテンダーは無言で頷く。「アンディ、場所を変えましょう」
マリーはオレンジ色が注がれているグラスを手にして、奥のボックス席へと向かう。アンディもその後ろについていくが、目の前の紫色のお尻の動きについつい目を奪われてしまう。
「アンディ。あなた、本当に騎士団の団長に手を出すつもりがあるのかしら?」
座るや否や、マリーの口から出てきた言葉はそれだった。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りだけれど」
そこで彼女は足を組む。上にした右側のスリットが、アンディを誘っているようにも見える。
「あなたが、本当にあの団長に手を出すつもりがあるなら、私はとっておきの情報を教えてあげるわ」
「とっておきの情報、だと?」
「ええ」
そこでオレンジ色の液体に口をつけた。「どうする?」
グラスに浮いている氷を指でチョンチョンと押し付けながら、アンディは考えた。
あの第一騎士団の団長、ジルベルト・リガウン。自分が仕事をこなすためには邪魔な存在ではある。あいつが団長になってからの警備体制はより強化され、自分の仲間たちも捕まったり、仕事が失敗したりしているのも事実。だが、それが程よいスパイスになっていて、仕事にやりがいを与えているのも事実。
「やるか」
独り言のように呟いたのに、それはマリーの耳にも届いていたらしい。ふふっと笑んで、さすがね、と言う。
「だったら、あなたにはこれを差し上げるわ」
一枚の紙切れ。つまり、メモ。それに目を落とすと、日時と場所が書いてある。そのほかに書いてあるのは、何かのタイトルだろうか。
「これは?」
「あの堅物。よっぽど婚約者と二人で出掛けたいのね。その日のその時間のその演目の芝居のチケットを取ったらしいわ」
だからか、どこかで見たことのあるタイトルだと思ったのは。これは婦女子が騒いでいる芝居のタイトルではないか。
「それの帰り道。婚約者が一人になったところを狙えばいいのよ」
マリーが手にしていたグラスの氷が鳴った。グラスは汗をかき始めたようだ。
「だが、あの堅物が屋敷まで送り届けるのではないか?」
「そうね。だから、屋敷の手前で偽の迎えを出すのよ」
「どうやって?」
ふう、とマリーは大きくため息をついた。「少しくらい、自分で考えたら?」
冷たい視線だった。今までこのような視線を彼女から向けられたことはあっただろうか。否。
考えを悟られないように、アンディはグラスに口をつけた。
「仕方ないわね、今回だけよ」
マリーの視線が和らいだ。
「芝居を観終わり、帰るところ見計らって彼らの馬車を止めなさい。そして、第零騎士団を名乗って、婚約者をこちらの馬車に乗せるのよ」
「なぜ、第零を名乗る必要がある?」
「あの婚約者の兄が第零だからよ。きっとあの堅物も兄からの迎えの馬車であると思うでしょうね」
「なるほど」
「彼女をこちらの馬車に乗せてしまえばこちらのものよね?」
そうだな、とアンディは頷いた。
「ねえ、アンディ?」
マリーは首を傾けて、その頭を彼の肩の上に乗せた。「私があなたのものになったら、刺激のある生活を約束してくれるのよね?」
そのまま上目遣いで彼を見る。
「ああ、もちろんだ」
「そう」
マリーは呟くと、その肩から頭を離した。グラスを手にしている右手の肘を左手で押さえ、何やら考えている様子。そのままグラスに口をつけ、一口、オレンジを含む。そしてゆっくりと、グラスをテーブルの上に置くと。
「あなたがあの堅物をやった日には、あなたの女になってあげるわ」
マリーは右手の人差し指でくるくると宙に円を描いた後、それをアンディの口元に当てた。アンディは舌を出して、その指をペロリと舐めた。