今まで人と関わることを避けてきた代償なのだろうな、と学校に電話しながら思っていた。たまたま、夏休みに出勤していた担任が電話をとってくれたので話は早かったが、あれが別の先生だったら……なんて考えると、俺の方がよっぽどラッキーだったのだろう。
……まあ、つい最近、たまたまなんてないと痛感したばかりなのだけど。あれもあれで、偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
「わたしたち、連絡先知らなかったもんね」
「うん……聞こうとは思ったけど」
何度か、夏休み前に聞こうと試みたことはあった。
でも、人生でそんな行動に出たことなんて一度もなくて、どう聞いたらいいのかわからなかったというのが正直なところ。連絡先一つ聞くのに、俺はこんなにも臆病なのかと自分を恥じたぐらいだ。
「体調悪いって言ってたけど、今は大丈夫そう?」
いつもの定位置に座る吉瀬と、イーゼル越しに目が合う。
会うのを先延ばしにした理由はそんなありきたりな嘘だった。
体調を崩していたわけではないけど、最もらしい理由なんて頭に浮かばなくて……いや、嘘をついたわけではない。たしかに気分は優れなかった。
「あ……うん。平気。今は回復した」
頷き一つ、ぎこちなさが表れてしまったかもしれない。その証拠に、吉瀬のガラス玉のような綺麗な瞳が、俺をじっと見つめていた。
「なにかあったの?」
どきり、心臓が不規則で、不快な音を立てた。
その目が、あまりにも真っ直ぐに核心をついてくるものだから、自然と瞬きが増えていく。
定まらなくなった視線は、逃げるように目の前に用意された紙の中へと落ちていった。
「……いや、なにも」
なにも、ない。そう言いきればよかったのに、俺はまた、ぎこちなさを露骨に出してしまった。
「うそ、なにかあったんだよね?」
珍しく吉瀬が笑っていない。いつになく真剣な顔で、俺の心の奥へと踏み込んでくる。
「呉野くん、わたしが来たときからずっと……」
彼女の言葉が、ぷつりと消えた。言うべきではないと、直前で判断したんだろうか。
その瞳が、揺れていた。
本気で心配しているように見えたのは俺の気のせいなのかもしれない。俺は吉瀬じゃないからわからない。わからない、けど――
「今の呉野くん……すごく不安だ」
偽りのない言葉が、ずとんと心に落ちてくるみたいだった。
不安なのは、彼女の方なのか。それとも俺の方なのか。
言葉がない。どう捉えていいのかわからない。この瞬間で、わからないことばかりだ。
鉛筆を握る手にぐっと力が入っていく。自然と呼吸が深くなっていく。
「……っ」
このモヤモヤを、ずっとどう消化したらいいのか、答えに辿り着けなくて、もう限界だった。
視線は持ちあがらなかった。吉瀬からズレたまま、ようやく絞り出すような声で言葉が出ていった。
「……先週、俺が通っている病院で――」
頭の中に、拓哉の残像が映し出される。この一週間、何度も何度もその姿が離れなくて、その度に後悔と懺悔が押し寄せる。
「……亡くなった子がいて……小学生の、男の子が」
言葉が詰まってしまう。するすると、出てこない。
吉瀬が、はっとしたような息を漏らした気がした。
「……ずっと、その子に会うたびに罪悪感みたいなものが増えていって、会いたくなかったんだけど……でも、その子は俺のことを好いてくれてて」
いつだって、拓哉の方から声をかけてくれていた。
俺がどれだけ遠ざけたくても、拓哉はそんな壁を壊して、あの無邪気な笑顔で俺を呼んでくれていた。
「……でも、ずっと申し訳なかった。話すことさえ、申し訳なかった」
拓哉に対する気持ちはいつも同じだった。
「……どうして?」
吐息混じりの、切ない声。彼女が今、どんな顔をしているのか、見ることさえ今は怖い。
大きく息を吸って、肺から全ての酸素を吐き出すみたいに、深い息をつく。
「……同じだから」
「同じ?」
「――俺と同じ、病気だから」
黒ずんだ肌が、忘れられない。拓哉の、肌の色が、今も俺の記憶に焼き付いて離れていかない。
「え……」
同じだと、そう伝えるのが怖くて――いや、認めてしまうことが怖かったのだと思う。
拓哉と同じ病気ということが。拓哉と同じということは、自分の命もまた、残りわずかだと認めなければいけなくて。
「その子が亡くなって……俺も、もう……」
拓哉の死が悲しかった。と同時に、自分の死も、すぐそこまで迫っているんじゃないかと思ったら、無性に怖くなって、どこかに縋っていたくなって、心も身体も震えていくような、そんな恐怖に襲われた。
「呉野くんの……その病気は……長く生きることが出来ないの?」
家族以外、誰にも打ち明けたことなんてなかった。
誰にも言えなくて、ずっと自分の心の中にしまい込んできた。
「……できない」
当たり前のように大人になることが、俺には出来なくて、当たり前のように、将来を選ぶことすら、俺には出来なかった。
その現実に向き合うのがずっと怖かった。怖くて怖くて、ほんとうはたまらないことに、気付かれたくなくて、でも誰かと一緒にいたくて。
沈黙が続いた。空気がぐっと重くなって、途端に後悔が押し寄せて、勢いよく吉瀬へと視線を戻した。
「ごめ――」
その続きは、彼女の顔を見たら、止まってしまった。
ぼろぼろと、その綺麗な瞳から、大きな涙が頬をつたっていたのを見て、息をのんだ。
彼女も気付いたのか、はっとして、慌てて手の甲で涙を拭った。
「っ……ごめん……こんなこと聞いて……言いたくなかったよね……っ、言わせちゃって、ごめんね」
その声が、あまりにも悲痛で、胸が痛んだ。
悲しみと、悔しさと、後悔が、一度に表れているような、そんな表情で、俺は何も言えなかった。情けなく、ただ首を振ることしか出来なくて、それと同時に、自分の頬にも、彼女と同じものが流れていることに気付いて、初めて自分が泣いてるんだと知った。
「……吉瀬、ごめん」
たったそれだけ、呟くことが精一杯だった。
夏の終わりを迎えるたびに、俺は来年、夏を迎えられているのだろうかと考えてしまう。
登校日なんてもの、出席する人なんてほとんどいないのに、俺はちゃっかり登校して、そしてその数少ない生徒の中には、あのうるさい高岡がいた。
「呉野! どう? 俺こんがり焼けたと思わない?」
「……どうだろうね。元を覚えてないから」
「興味なっ! 俺に興味なさすぎじゃない?!」
久しぶりに会っても、この男はほんとうにうるさくて参ってしまう。すこしは大人しく出来ないのかと言ったら「大人しくしてたら俺じゃないから」とあっさり断られた。
——ちらり、吉瀬を見れば、友人と楽しく笑っていた。
彼女のあまりにも綺麗な涙が忘れられなくて、どうして言ってしまったのだろうと後悔した。
けれど、あれから彼女は普通で、当たり前だけれど、あの時間は彼女の中では消えてしまっていることに気づいて、その後悔はすこし和らいだ。
拓哉のことが頭に残って、ついあんなことを口走ってしまったけれど、本来なら誰にも打ち明けるつもりなんてなかった。
そもそも友達もいなかったし、打ち明ける人間がいなかったといった方が正しいかもしれないけど。
黙っていることが出来なかったのは、どうしてだろうか。
定められた運命を、十分に生きてきたつもりだったのに。受け入れてきたつもりなのに。
途端に抗いたくなってしまった。この運命から逃れたくなってしまったのかもしれない。
拓哉の死と向き合って、それが自分に降り注ぐものだと思ったら、一気に現実味を帯びて。
——ああ、逃げられないんだ、俺は。
そう思ってしまったから。だから、きっと吉瀬に伝えてしまったんだ。
彼女には苦しい思いをしてほしくない。俺なんかのことで、もう泣いてほしくなんかない。
ただ、笑っていてくれれば。吉瀬にとって大切な夕方を、ただ静かに一緒に過ごせればそれでよかったんだ。
忘れてはいけない。俺は自分の立場を決して忘れてはいけないんだ。
「なに怖い顔してんだよ、モテ顔が台無しだぞ」
「……お前はいい加減静かにしてくれよ」
こうして、高岡みたいに馬鹿騒ぎして過ごせたら、どれだけよかっただろうか。そんな人生を選んでこれなかった俺は、どこを間違えたのだろうか。
「えーっと、夏休みエンジョイしてますかー。えーそうですね、先生は登校日なんてもんは作るんじゃねえぞと抗議したい気持ちで今、みんなの前に立っていまーす。ちなみにエンジョイしてる派は今すぐ先生の前にきなさい。この前無理矢理聞かされた眠れなくなる怖い話を耳元で囁いてあげます」
なんとも気怠そうに、それでいてやる気のなさというのがここぞとばかりに浮き彫りになった担任は、心の底から登校日を恨んでいるのだろう。
「先生だってねえ、休みぐらいほしいんですよ。でもね、登校したのでね、どうか先生を褒めてくださいよ」
俺は三十路なんだ、と。何かと理由をつけるこの男は、調子のいいことばかり言っては生徒の心を上手く掴んでいく。
親しみやすい先生。若くて、白髪が時折光沢を放つように輝いて、それを指摘すれば「もがいて生きてる証なんだ」と答えてくる。その証を、ぶちっと、簡単に引っこ抜いてしまうのはどうなのかといつも思うけれど。
別に登校日なんて、普段なら登校しなかった。けれど、たまたま今日が吉瀬と約束している日だったから。あの特別な教室で、彼女と過ごす大事な時間を与えてもらえるから。だから、このくそ暑い日差しの中でも、俺は男なのに日傘をさして登校する。恥ずかしい云々はもう、今更だ。
「で、お前のこれは白紙でいいんだな?」
また白髪、と、ぎらぎら光るそれを見つけたタイミングで声をかけられ「あ、はい」と芯のないような返事が出ていった。
短いHRが終わり、登校日に出席した勇者が帰っていく中で、俺は職員室に呼ばれていた。あの三十路担任に呼ばれて。
「いや、まあ、お前の事情を知らないわけじゃねえよ?」
そう言って、ひらひらと手元で煽るのは、夏休み前に提出した進路希望調査用紙。
各々で進みたい大学や、就職先を記入していく中で、俺のものは最初からまっさらだった。
「でもさ、白紙は白紙で、なんかなあ」
その提出内容がどうも納得いかなかったようで、三十路先生こと松浦は頭を豪快にかく。黒髪の中で白髪が踊った。
「でも、それが答えなんで……」
すみませんと、消え入りそうな声でぼそぼそ呟けば、松浦は「いや、分かるよ」と続ける。
「俺もお前の親御さんからは話は聞いてるし。でもさ、もうちょっとやりたいことやったらいいんじゃねえかって思うんだよな、俺は」
やりたいことと、思わず松浦の言葉をなぞった。
「お前にだってあるだろ? この先やりたいことって」
それを聞いた瞬間、自分の頭の中に浮かんだのは、漠然とした白い塊だった。それがなんなのか分からず、それを消化しきれないまま口を開く。
「……考えたこともなかったです」
俺の人生は最初から決まっていた。生まれたときから、この地球で産声を上げた瞬間から、絶望という名の札を貼られたような人生だった。
この先、なんて不確かなものが、俺には存在しないと思っていた。
高校を卒業して、その先は考える必要さえないと思っていたこの俺の人生に、道は続いていないと思っているのだから、その質問はかなり難しい。
そもそも、俺は中学までだったはずなんだ、学生生活は。
義務教育は最低でも通えと言われ、どれだけいじめられようが踏ん張って通った。
それをどう受け取ったのか、今度は「高校にも行った方がいいんじゃないか」という結論に至った俺の親はどうかしてるのだと思う。
結局、俺にはなんの選択肢も与えられないまま、決められた高校へと進学するしかなかった。
あそこで反論しなかったのは、もうすでに、決められたルールを走るしかないのだと、人生に悲観していたからかもしれない。
だから松浦の質問は、とても簡単に決められるものではないと思う――
「そうか、それもそうだよな。――なら、考えるきっかけにすればいい」
と自己解決したところで、斜め上の回答を飛ばされた。
「え……」
「考えたことがないなら、考えればいい。この先どうしたいか。どう生きていきたいか。それは、別にお前が背負ってるものを踏まえて考える必要なんてないと俺は思うぞ」
あくまで「俺は」と付け加える当たり、この人が生徒から信頼を寄せられるのが分かる。
意見を押し付けようとはしない。そして真っ向から否定することもない。
松浦という先生は、生徒の意見をうまく汲み取りながら、同じ目線に立とうとしてくれる。
――俺の親とは正反対だなと、どこか冷静に思っていた。
「……難しいです」
「今すぐ答えを出せって言ってないから安心しろ。考えたことがないんだからな。考え甲斐があるってもんだろ?」
「……逆に先生はあったんですか? やりたかったこと?」
「俺? そりゃあ挙げだしたらキリがないぞ。世界一周とか、あ、どっかの社長なんてやりたかったな。そもそも金持ちになりたかったし、綺麗なおねえちゃん連れて都会を満喫したかったし」
「めちゃくちゃ幼稚ですね」
小学生が言いそうな台詞だ――いや、小学生でも言わないかもしれない。特におねえちゃんを連れて歩くなんて、担任としてどうかと思う。
しっかりと幻滅したところで、
「でもな、そんな身構えなくていいんだよ」
ふいに、先生らしい顔をするもんだから、思わず耳を傾けてしまった。
「心の赴くまままに。やりたいと思うことを、やればいい。それを許されている世界なんだから、お前がいるここって」
それがどこを指しているのかは定かではなかったが、ふとこの前の松浦の授業が頭の中を静かに過った。
世界史を教える松浦の授業はいつも楽しくて、よく小さな笑いを生徒から掻っ攫っている。その中で、今も戦争で苦しむ国の話を聞いたときだけは、時間が止まってしまったかのように、誰も声をあげるものなんていなかった。もちろん、笑いなんてものが起きることもなかった。
もしかしたら、選択の自由を与えられていることを教えてくれているんだろうかと思ってしまう。
松浦の表情が和らぐ。
「呉野、お前も大人になるんだ。想像つかねえかもしれないけど、大人になっていく。生きていく限り、成長していく。なれないかもなんて、考えるんじゃねえぞ。そんなもん、やる前から決めてたら、後悔しか残らねえんだから。やりたいことを見つけるって、意外と悪いもんでもないからな」
そう言った松浦の言葉は、今までの授業なんて比じゃないほどに、先生らしい顔つきで。
ふと視界に入った、あの白紙の進路表を見て、〝真っ白にしてるのは、俺自身だったのかもしれない〟と、そう思っていた。
*
いつ来ても、無愛想な机と椅子が並ぶこの教室で、お決まりのようにセットを準備していく。
今日で吉瀬を描くのは通算十枚目。
吉瀬本人には、一枚の絵をずっと描いているように思わせているが、実のところ、吉瀬の線を模ったそれらは、俺の通学鞄にしっかりとしまわれている。
夏にしては緩やかで涼しい風が教室に吹き、その風に紛れるようにしてやってきたのが吉瀬だった。
「あれ? もう来てたんだ」
先にここで待っていてもらった吉瀬がここにいなくて、正直焦ってしまったけれど、彼女が座る椅子に「すぐ戻るから」と書かれたメモを見つけて安堵した。
「うん、意外と早く終わって」
「そっか、松浦なら話長くなると思ってたから、まだだと思っちゃった」
そう言って白いタオル生地のハンカチをスカートのポケットにしまった。
どこに行ってたのか、聞くのは野暮ではないだろう。さすがに男として失礼だ。
「今日は午前中だからなんか新鮮だね」
夕日が差し込む時間帯を共にするけれど、登校日だったということもあり、彼女とこうして膝を付き合わすのは必然的に明るい時間になる。
「そうだね」
「この時間だと、呉野くんと話した内容もばっちり覚えてるよ」
ということは、やはり覚えてはいないのかと、内心傷付いている面倒な俺。
確かに、この前の過ちはもちろん忘れてくれて問題ないものだったけれど、それまでに過ごしてきた時間が、彼女の中に存在しないというのは、何度目の当たりにしても寂しいが付き纏ってしまうものらしい。
「俺は今までの話も全部覚えてるけどね」
「あ、それってなんかいいなあ」
心底羨ましそうな眼差しを向ける彼女からは、悪意めいたものは感じない。
本気でそう思ってくれているのだろう。
「じゃあさ、今までどんな話したか教えてくれる? 今聞いたら、忘れないから」
そう言った吉瀬に自然と笑みがこぼれる。
彼女が微笑んでくれると安心する。笑ってくれていると、俺はここにいてもいいんだと、許しを得たような気持ちになる。
過ごした時間を、なんとなくかいつまんで話していけば、彼女はふふっと肩を竦めたり、目を丸くして驚いたり、真剣に頷いてくれたりと、様々な顔を見せてくれた。
――ああ、よかった、忘れてくれている。
彼女の反応を見るたびに、自分の過ちが消されていくようで、ほっとする。
都合がいいなんて自分でも分かっていた。本当は、あの時間を利用していたんじゃないかとさえ思えてくる。
どうせ忘れられてしまうのだから、と。どこかでそう思っていた自分がいたんじゃないのかと。
「そっか、やっぱり呉野くんといると楽しいな」
そう言った吉瀬は、何も知らない顔で笑ってくれていた。