「あ、でも呉野くんが描いてたりんご、上手だったね」

 終わったと思っていた会話に驚きが滲み、慌てて視線を戻す。

「ほら、席後ろだからさ、どうしても視界に入っちゃって……あ、ごめん。勝手に見るなって話だよね」
「え……あ、いや、しょうがない、と思うし」

 見られていたという気付きと、まあ見られていたよなという再確認が同時に押し寄せる。

「なんていうかさ、光の当たり具合とか、リアルさとか、すごい表現されてるなあって」
「いや、ぜんぜん……適当だよ」

 適当という言葉が適していたのか分からないけれど、褒められるとどう返したらいいか分からない。お世辞なんだろうし、それを受け止めるのもなんだか違うような気がして、だからと言って否定するのもおかしいような気がして、結局どう返事をすればいいのか分からない。そんな俺の曖昧でつまらない返しにも、彼女は「だってさ」と更に続ける。

「たえちゃんもこの前の授業で言ってたでしょ? りんごを描くって、簡単そうで実は奥が深いって。ただの丸のように見えるけど、実際は球体じゃなくて微妙な線の起伏があって、ずっと見てると、だんだんりんごの形が分からなくなってきたりしちゃって。でも呉野くんのりんごは、その線さえもちゃんと捉えてて、すごいなって」

 ごめん、すごいで片付けちゃってと肩を竦めた彼女に、俺はすぐさま首を横に振った。

「……そう見えてくれてたなら」
「見えてるよ。美術部並みに上手かったと思うな」
「そんな、大袈裟な」
「大袈裟じゃないって」

 そんな他愛ない会話を、彼女と出来るとは思わなかった。周りの音が気にならなくなっていたのをこの時初めて気付いた。音が戻ってくるような感覚。そんな空間を味わうのは、かなり久しぶりだった。

「俺から描くね」と、順番をもらえば、彼女は「わかった」と頷き微笑んだ。丁寧にイーゼルをどかし「この辺でいい?」と位置まで調節してくれる。

「あ、うん、そこで」
「うん、じゃあ……えっと、じっとしてればいいんだよね?」

 はにかむように笑うものだから、反射的にその笑みが移ってしまう。人前でこうして笑うのはどれぐらいぶりだろうか。
 きらきらと舞う粒子の先に、おだやかで優しい彼女が座っている。それだけで絵になってしまうほど美しくて、自分にもそう抱く感情があるだなと知った。
 結局その時間、彼女と時折会話を交えながら、なんとなくの輪郭を描いて終わってしまった。人との関わりを極端に避けてきたせいか、緊張が伴い、手をどう動かしたらいいのかわからなくなってしまって。しばらくの間は居心地のいい空気の余韻が抜けなかった。