遠くで、バタバタと聞こえ始めたのは、蝉の合唱をどうにか気にしないよう格闘しているときだった。
「ごめんね! 遅くなっちゃって!」
 制服姿の吉瀬が、呼吸を乱しながらいつもの場所へと入ってきた。
 その姿に、無性に苛立っていた心が、自然と鎮火していくような不思議な感覚になる。
「いいんだよ、別に遅れたって」
「だめだよ、約束してるんだから」
 吉瀬は毎回律儀に謝る。ごめんね、と。約束してるから、と。
 そんな気負わなくてもいいと思うけれど、逆の立場だったら、たしかに俺も謝罪の言葉を口にしているんだろうなと思った。
「今日も暑いね」
 首筋にくっついた髪を払いながら、艶やかな髪をなびかせる。
 ふわりと香るのは、決して俺からは放たれないような、甘く女性らしい香り。
「暑い中、ほんとごめん」
「もう、いいんだよ。わたしが来たくて来てるんだから」
 吉瀬は、決して人を不快な気持ちにさせたりしない。そういう類の天才だと思う。
 表情にだって、言葉にだって、そんな感情を微塵も滲ませたりしない。本当に、気分を悪くしていないのかもしれないけれど、それにしたって吉瀬の言葉一つで、自分はどこか救われている。
「なんだか呉野くんに会うのは久しぶりな気がする」
 吉瀬が言った通り、夏休みでも週二日会っていたけれど、俺が無理を言って先週は休みにしてもらった。
「こっちのお願いに付き合わせてるのに、勝手なこと言ってごめん」
「もう、呉野くん謝ってばっかだよ。気にしなくていいのに、ほんと」
 会いたかった、本当は。吉瀬に会いたくて、顔を見たかった――けれど、会えなかったんだ。会う勇気が持てなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
「わたしとしては、これで呉野くんの連絡先ゲット出来たからラッキーだったんだから」
 恥ずかし気もなく言うものだから、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまう。
「呉野くんも律儀だよね。先生から家に電話きたとき驚いちゃったよ。〝呉野が連絡先知りたがってるけど教えていいか〟なんて聞かれるものだから」
「友達いないから……知れる手段なくて……」