30日後に死ぬ僕が、君に恋なんてしないはずだった

 夏休みに入って初めての病院だった。8月上旬。夏本番。月に一度でも、こうして病院で診てもらわなければいけない身体というのはどうも不便で仕方がない。
 今日だって、言われる言葉は決まっていて、変わりがないという結果をもらうだけだ。
 この時期に長袖を着ているせいで、周囲からジロジロと不信感を抱いたような視線が飛ばされる。
 夕方、日差しがずいぶんと減った時間だけれど、それでもやっぱり太陽は微かに残っている。
 ――ああ、吉瀬は今頃、なにをしてるのかな。
 大学にいくと言っていた吉瀬は、夏休みも勉強漬けらしく、塾にこもりっきりだという。
 それでも、勉強は夕方まで。その時間に勉強しても忘れちゃうからと、彼女は笑っていた。
 だから、彼女が今、どんな風に過ごしているのか気になってしまう。
 
 病院の中が、やたらと慌ただしいことに気付いたのは、受付を済ませ、ロビーで待っているときだった。
 人が行ったり来たり。その中には俺の主治医の先生も混じっていて、俺に気付かないまま通り過ぎていく。
 ――嫌な予感がする。
 昔から、病院に来ることが多くて、だからこそ、こういう雰囲気をいち早く察してしまう。
 エレベーターが到着した音に視線を向ければ、出てきたのは理子だった。
 冷静で、顔色一つ崩さないあの理子が、この世の終わりだと言わんばかりの顔で走っていく。
 途中、俺と目が合うと、その瞳は不安げに揺れて、唇を噛みしめていた。
「……もしかして、拓哉になにかあった?」
 そのまま通り過ぎて行こうとする理子の背中に問いかけると、その足はぴたりと止まった。
「……状態が悪化したって……今日が山場かもって」
 強気な理子の声が、震えていた。
 俺の顔を一瞥すると、大きく息を吸って、なにかを振り切るように走って行った。
 ――俺は、その後ろ姿を、ただ静かに見つめていることしか出来なかった。理子の背中を追いかけることも――拓哉に会いに行くことも、出来なかった。
 予約の時間になっても先生は現れず、看護師に「ごめんね、今日は診てもらえないかも」と声をかけられた。
「ああ……はい」と答えるので精一杯で、立ち上がることも出来ず、ただ静かにその場に座り続けた。周りがどんどん名前を呼ばれ、診察室に入っていく中、俺はただ一人、取り残されたように、その場から動けなかった。
「……ねえ」
 不意に落とされたその声にハッとする。どれくらいそうしてただろうか。顔を上げれば、いつになく冷たい理子の顔があった。
「拓哉が……あなたに会いたいって、……言ってます」
 か細く、そう絞り出すのがやっとのような、そんな音。
 顔のラインで切りそろえられた黒い髪が闇に溶け込んでいくに見える。
 俺になんて一番会わせたくないと思っているくせに、理子は拓哉に甘い。――いや、甘やかすことが、理子に出来たことだったのかもしれない。
 あまりにも脆く、儚い、姉と弟の関係。
 会いたいと、拓哉が望んでくれたことは嬉しかった――けれど、罪悪感の方が大きかった。あんな小さな体で、あんな純粋な子が、もう山場かもしれないと告げられた。
 俺たちがいる世界は、そういう世界だということを、俺はどこかで忘れてしまっていたのかもしれない。
 理子はロビーで待っていると言った。月の光に照らされた彼女の頬は、涙のあとが残っていて、弟の死を覚悟出来ていないその横顔に心が痛んだ。
 拓哉の病室の前まで行く、すすり泣く声が聞こえる。ぼそぼそと、男女の会話は、きっと拓哉の両親なのだろう。
 家族の時間を邪魔していいものだろうかとノックを躊躇ったが、拓哉が俺に会いたいと願ってくれたことを思い出し、扉をノックした。
 ガラガラと、レールを滑っていく扉の先には、拓哉の両親がベッド脇に座って泣いていた。
 足が竦んでしまいそうになり、声がひゅっと止まってしまいそうになる。
「……あ、あの、すみません。拓哉に、会いたくて」
 ――違う。会いたいは、うそだ。本当は、ここから逃げ出したい。
「もしかして、ゆき……さん?」
 拓哉の母親が俺を見て尋ねる。その目は赤く染まっていた。
「あ……呉野幸人です。拓哉と……よく話をしていて」
 どう説明したらいいのか分からない。よく、なんて関係でもなかったけれど、上手い言葉が見つからない。
 ベッドの上で眠る拓哉は、あどけない顔で弱りきっていた。息をするのもやっとなのだろうか、その呼吸はどこか苦しそうだ。
「……拓哉に、会ってあげて」
 拓哉の両親は、二人揃って無理して笑ってくれた。「拓哉も喜ぶと思うから」と。廊下を出ていった二人に「……ありがとうございます」と小さく漏れていく声。少しでも拓哉と一緒にいたいはずなのに、こんなときでさえ気を使ってくれる拓哉の両親。その心中を察すると、あまりにも痛い。
 ベッドサイドにあるパイプに座っては、静かに眠る拓哉の顔を眺めた。
 ずっと病院暮らしだった。学校にも行ったことがなかった。
 それでも、拓哉はいつもにこにこしていた。病気を感じさせないその顔に、いつだって俺は怯えていた。
 後悔ばかりが押し寄せる。もっと優しくしておけばよかったとか、もっといろんなことを教えてやればよかったとか――俺が拓哉になってやれたらとか。
 そんなことを考えては、拓哉の顔が見れなくなっていく。
 シーツから出ていた拓哉の手は、まだまだ子供の手をしている。小さくて、大人になりきれない手。
「……ゆき、兄ちゃん」
 途切れ途切れに聞こえたその声に視線を上げると、目を閉じてた拓哉が、俺を見ていた。
「……来て……くれたんだ」
 その顔が、ほろほろと緩んでいく。苦しい中でも、人を安心させようとするその顔に言葉が詰まる。
「……ゆき兄ちゃんにね……会いたいって、思ってたんだ」
「……どうして?」
「話、したくて……」
 つたない喋り方で、それでも、普段見せている笑みとは変わらないものを、今なお浮かべようとしている。
 げっそりとした頬が見ていられなくて、視線を逸らしてしまいたくなる。それでも、拓哉の顔から目が離せない。
「前に……アニメの話、してくれた……でしょ? あのね、ぼく、ずっと考えてたことがあって……どうしてぼくは、病気を持って生まれてきちゃったんだろうって……。病気があるとね……おとうさんも、おかあさんも、理子も、ずっと泣いてて……ずっと、頑張ってて」
 拓哉から見た自分の家族は、いつだって辛そうに見えていたのだろう。
 人のことを思いやる拓哉にとって、それはとても耐え難いものだったはずで。
「ぼくね……生まれてこない方がよかったのかなって……おもってたんだ……」
「そんなこと……っ」
「うん……そんなこと、ないんだって……ゆき兄ちゃんの話を聞いて、思ったよ。病気は悪いものじゃないって、神様が与えてくれたものだって……思ったら……ぼくは、特別になれてたんだって……思えるんだ……。ほかの人が……けいけん、できないこと……ぼくは、できてるんだって……これは、ちゃんと、意味があるんだって……」
 それは本心から出る言葉なのだろうか。それともまだ、自分に言い聞かす言葉だったのだろうか。
「ねえ……ゆき兄ちゃん……意味……あるんだよね? ぼくたちが……病気になる意味……ちゃんと……あるんだよね?」
 生まれてからずっと、抱えてきたそれは、自分の力ではどうすることも出来なくて、課せられたのか、はたまた科せられたのか、生きてる人間には分からないんだ。
 周りは、希望を持たす言葉ばかりを投げかける。でも、自分の身体は自分が一番よく知っていて、そんな希望がないことぐらい、本当は分かっているんだ。
 分かっていて、それでもやっぱり、その希望に縋っていたいと思ってしまう。
 たとえ根拠のない言葉でも、たとえただの励ましだったとしても、それを拒絶したくなる気持ちや、それを受け入れたい気持ちと常に戦わなければならない。
 この小さな身体で、一体どれだけの苦悩を背負って生きてきただろうか。
 いつも笑ってるその裏で、一体どれだけ泣いてきただろうか。
「……あるよ」
 病気は憎い。授かれてよかったなんて思えるはずもない。出来れば、健康体で生まれてきたかった。
「神様は、拓哉を選んだんだ。拓哉だから、特別に」
 でも、そんなこと、今の拓哉に言えるはずがない。そんな無慈悲な言葉なんて、衰弱していく拓哉に突きつけられるものじゃない。
 だから、どれだけでも嘘をつく。今だけは、どれだけでも。
「……そっかあ……そうなんだ……特別か」
 拓哉は笑っていた。最期まで。
 目を閉じて、それから、こう言った。
「生まれてこれて……よかったなあ……ぼく……しあわせ、だったなあ……」
 幸せだと、そう残した拓哉は、本当に幸せそうな顔で眠っていった。
 静かで、あまりにも穏やかな、そんな夜が、どうしようもなく怖くて、悲しかった。
 生きてる心地がしなかった。どうしようもなく不安になって、どうやってこれからを過ごしていけばいいのか、漠然ともうわからなくなってしまった。
 たまらなく吉瀬に会いたくなった。病院を出て、がむしゃらに走って、月夜の光るこの時間でしか外を走ることを許されないこの身体が、どうしようもなく脱いでしまいたくてしかたがない。
 病気になる理由なんて、そんな理由がもしあるなら消えてしまえばいいのに。
 どんな理由であれ、公平さを奪い取った神なんか、信じられるわけがない。
 拓哉はほんとうにあの答えで満足しただろうか。あんな答えを最期に聞かされて、それで幸せだったと言えるのだろうか。
 特別なんて、特別な存在だなんて、思えるわけがないだろ。思えるはずがないんだよ。
 あてもなく走り続けた先に、なにがあったというのだろうか。なにが見えたというのだろうか。
 ――俺はこのまま生きてて、いいのだろうか。
 走ることに限界を覚えたのは、これが生まれて初めてだったのかもしれない。
 俺の人生に全力疾走なんて言葉はなかった。ついてまわるものではなかった。
 なあ、拓哉。お前は本当に幸せだったのか?本当に幸せだったなんて思うのか?
 ごめん、ごめんな、拓哉。あんな言葉でしか送りだせなくて、あんな言葉でしか、お前に向けられなくて。
 死ぬのは、本当は俺の方だったのにな。



 油蝉がよく嗤っていた。頭の中の鐘を、じんじんと鳴らすような、そんな音。
 けれど、そんな音は別に今、唐突に聞こえたわけではない。意識する前から忙しなく鳴いていた。それに気付かなかったのは、ふと意識が途切れたから。
 拓哉の命が尽きてから、もう一週間が経とうとしていた。
 それからは、気付いたらぼんやりとしてしまう時間が増えてしまって、一気に深い悲しみに突き落とされたような気がする。
 ――あの日、俺が検診日ではなかったら。
 拓哉に会うことなんてなかった。最期の言葉を交わすこともなかった。
 月に一度の病院で、まるで照らし合わせたかのようにその偶然に鉢合わせてしまった。
 ……いや、偶然、なんて言葉は、この世界には存在しないのかもしれない。
 全て計算されているようにも思う。予定されていたような、自分の人生に最初から組み込まれていたような、そんな気さえしてしまう。
 蝉がうるさくて仕方ない。うんざりとしてしまう。この声で現実に引き戻されるような感覚で、途端に耳を塞ぎこんでしまいたくなる。
 それでも蝉は鳴く。鳴き続ける。
 黙れと声をあげたって、競うように声をあげたって、蝉が静かになることなんてない。

「こんにちは」
 ふと、声が落ちてきたのは、改めて検診日で病院を訪れたとき。ロビーで座っている俺に話しかけてきたのは理子だった。
「……こんにちは」
 いきなり声をかけられ、狼狽えるように弱々しい声が出ていく。そんな俺に、理子はわかりやく「はあ」とため息をついた。
「え……なに?」
「いや? ただ、そんなあからさまに困られるとこっちが困るっていうか。いつもの図々しい態度はどこいったのか」
「……図々しいのはそっちでは?」
「はい?」
「いや、なんでもない」
 年上相手にずけずけと、いつも棘しかないようなボールを投げてくる気がするが。そこを突っ込むとまた面倒なことになりそうだからと、ぐっと口をつぐむ。
「検診ですか?」
 どかっと、人一人分スペースを空けては隣に座る理子に「あ、……うん」と躊躇いがちに頷く。
 拓哉が亡くなって、どんな顔をすればいいかわからなかった。そんな俺に、またしても溜息が飛んでくる。
「なんでこんな人に懐いてたのか……」
 心底わからないといった顔で理子は天井を仰ぐ。おそらく拓哉のことを言っているのだろう。俺もそこは同感だ。なぜ懐かれていたのかわからない。
 しばらく沈黙が続き、はてどうするべきかと思っていれば、
「今日は拓哉の忘れ物、引き取りにきたんです」
「え……」
「っていうのはうそで、あなたに会いに来ました」
「え……なんで一回嘘を挟んだ?」
「そこはいいじゃないですか。乙女心を察してください」
「あ……ごめん」
 相変わらず冷え切った声色に、大人しく従ってしまうが、今のは俺が悪かっただろうか。
「で……なんで俺に?」
「一言、ちゃんと言っておかないといけないと思いまして」
 ぴりっと、緊張が張り詰めたような気がして、自然と背中が伸びる。
 なんだ、また暴言でも飛んでくるのかと構えていれば、
「いろいろ言ってごめんなさい、あと、ありがとうございました」
 予想外の一言に、思わず拍子抜けしてしまった。
「え……」
「あなたと拓哉をいつもと比べていました。どうして幼い拓哉の方が進行が早くて、あなたは遅いんだろうって。なんでそんなに肌も綺麗なんだろうって。同じ病気なのに、全然違って、あなたに会うたびに、いつもどうしてって」
 理子の顔が一瞬歪む。吐露したことのない思いを、初めて口にするような、そんな言いづらさを残しながら、彼女は続ける。
「拓哉がかわいそうだって思って。あなたとは会わせたくなかった。拓哉も同じことを思ってしまいそうだから」
「うん……」
 わかっていた。理子の拓哉に対する思いは、いつだって強く伝わってきていたから。
「でも、拓哉はあなたといることを望んでいた。あなたの話をする拓哉はいつも楽しそうで、子供らしく笑ってました。子供なのに、大人に気を使って、私にまで気を使っていた拓哉が、あなたといるときだけは拓哉のままでいられた」
 理子の髪がさらりと前におち、頭をさげる。
「拓哉にあのとき会ってくれてありがとうございました。辛かったはずなのに、会ってくれて……拓哉の願いを叶えてくれてありがとうございました」
 俯いていた理子の声はかすかに震えていた。いつも強気で、冷たい言葉ばかりを投げてくるあの理子は、今はどこにもいない。
 愛する家族を失った理子、そしてその家族は、きっと今、悲しみに暮れている。
 人の死は、簡単に乗り越えられるものではない。これから先、何年も、拓哉のことを思い出し、涙を流し、拓哉のいない日々を過ごしていく。
「……うん」
 そんな理子に、俺はなにも言えない。なにか言える立場ではないような気がして。
 ただ、理子の思いをしっかりと受け止めることだけが、俺の出来ることだと思った。
 遠くで、バタバタと聞こえ始めたのは、蝉の合唱をどうにか気にしないよう格闘しているときだった。
「ごめんね! 遅くなっちゃって!」
 制服姿の吉瀬が、呼吸を乱しながらいつもの場所へと入ってきた。
 その姿に、無性に苛立っていた心が、自然と鎮火していくような不思議な感覚になる。
「いいんだよ、別に遅れたって」
「だめだよ、約束してるんだから」
 吉瀬は毎回律儀に謝る。ごめんね、と。約束してるから、と。
 そんな気負わなくてもいいと思うけれど、逆の立場だったら、たしかに俺も謝罪の言葉を口にしているんだろうなと思った。
「今日も暑いね」
 首筋にくっついた髪を払いながら、艶やかな髪をなびかせる。
 ふわりと香るのは、決して俺からは放たれないような、甘く女性らしい香り。
「暑い中、ほんとごめん」
「もう、いいんだよ。わたしが来たくて来てるんだから」
 吉瀬は、決して人を不快な気持ちにさせたりしない。そういう類の天才だと思う。
 表情にだって、言葉にだって、そんな感情を微塵も滲ませたりしない。本当に、気分を悪くしていないのかもしれないけれど、それにしたって吉瀬の言葉一つで、自分はどこか救われている。
「なんだか呉野くんに会うのは久しぶりな気がする」
 吉瀬が言った通り、夏休みでも週二日会っていたけれど、俺が無理を言って先週は休みにしてもらった。
「こっちのお願いに付き合わせてるのに、勝手なこと言ってごめん」
「もう、呉野くん謝ってばっかだよ。気にしなくていいのに、ほんと」
 会いたかった、本当は。吉瀬に会いたくて、顔を見たかった――けれど、会えなかったんだ。会う勇気が持てなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
「わたしとしては、これで呉野くんの連絡先ゲット出来たからラッキーだったんだから」
 恥ずかし気もなく言うものだから、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまう。
「呉野くんも律儀だよね。先生から家に電話きたとき驚いちゃったよ。〝呉野が連絡先知りたがってるけど教えていいか〟なんて聞かれるものだから」
「友達いないから……知れる手段なくて……」
 今まで人と関わることを避けてきた代償なのだろうな、と学校に電話しながら思っていた。たまたま、夏休みに出勤していた担任が電話をとってくれたので話は早かったが、あれが別の先生だったら……なんて考えると、俺の方がよっぽどラッキーだったのだろう。
 ……まあ、つい最近、たまたまなんてないと痛感したばかりなのだけど。あれもあれで、偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
「わたしたち、連絡先知らなかったもんね」
「うん……聞こうとは思ったけど」
 何度か、夏休み前に聞こうと試みたことはあった。
 でも、人生でそんな行動に出たことなんて一度もなくて、どう聞いたらいいのかわからなかったというのが正直なところ。連絡先一つ聞くのに、俺はこんなにも臆病なのかと自分を恥じたぐらいだ。
「体調悪いって言ってたけど、今は大丈夫そう?」
 いつもの定位置に座る吉瀬と、イーゼル越しに目が合う。
 会うのを先延ばしにした理由はそんなありきたりな嘘だった。
 体調を崩していたわけではないけど、最もらしい理由なんて頭に浮かばなくて……いや、嘘をついたわけではない。たしかに気分は優れなかった。
「あ……うん。平気。今は回復した」
 頷き一つ、ぎこちなさが表れてしまったかもしれない。その証拠に、吉瀬のガラス玉のような綺麗な瞳が、俺をじっと見つめていた。
「なにかあったの?」
 どきり、心臓が不規則で、不快な音を立てた。
 その目が、あまりにも真っ直ぐに核心をついてくるものだから、自然と瞬きが増えていく。
 定まらなくなった視線は、逃げるように目の前に用意された紙の中へと落ちていった。
「……いや、なにも」
 なにも、ない。そう言いきればよかったのに、俺はまた、ぎこちなさを露骨に出してしまった。
「うそ、なにかあったんだよね?」
 珍しく吉瀬が笑っていない。いつになく真剣な顔で、俺の心の奥へと踏み込んでくる。
「呉野くん、わたしが来たときからずっと……」
 彼女の言葉が、ぷつりと消えた。言うべきではないと、直前で判断したんだろうか。
 その瞳が、揺れていた。
 本気で心配しているように見えたのは俺の気のせいなのかもしれない。俺は吉瀬じゃないからわからない。わからない、けど――