「いいんだって。呉野くんってどこまで自分に自信ないの」
 困ったように笑った彼女に「だって……」とこぼれていく。
 俺にとって、彼女は特別だ。俺とこうして普通に話してくれるのも、こうして俺の願いを聞き入れてくれるのも彼女ぐらいだから。
 特別で、変に扱うと壊れてしまうような繊細さがあって、どう扱ったらいいのか分からなくなる。けれど、俺の特別と、吉瀬の家族が彼女を特別に思うとでは、その重みが違う。
「ねえ、呉野くん」
 気付けば、彼女は窓の外を眺めていた。視線を俺に戻すわけでもなく、ただじっと、静かに見つめている。
「わたしね、この時間のことをきっと明日には忘れちゃうんだ」
 吉瀬の穏やかな声で紡がれる、心の痛い話。
「こうして話した内容も、こうして一緒に見た風景も、覚えていられないと思う」
 夕日に染まるその横顔がきらきらと輝いて見える。溶けてしまいそうなその煌びやかな世界で、彼女はゆっくりと瞼を落とし、それから、また同じ速度で視界を広げる。
「でもね、呉野くんが良ければいつでももらってほしいんだ。わたし、この時間を誰かと過ごすことって記憶がなくなるようになってからなかったと思うから。わがままだけど、この時間のわたしを、呉野くんが覚えててくれたらいいなって思うの。わたしは忘れちゃうから、無責任なんだけど、でも、呉野くんさえ覚えててくれてたら、いらないって思ってたこの時間も、必要に思えるような気がするの」
 彼女にとって、この時間は存在しないも同然で、意味を見出すことすら出来なかったのかもしれない。橙色の世界で、切なげに見えた彼女は、きっと誰よりも深くこの時間のことを考えている。
 忘れていくこの時間。忘れ去られていくこの時間。
 忘れる方と、忘れられる方とでは、一体どちらが苦しいのだろうか。
「うん……覚えてる、ちゃんと」
 明日には、この時間もなかったことになってしまう。こんな時間が、彼女にとっては存在しなくて、俺の記憶だけには強くいつまでも残り続けていくのだろう。
 この時間が好きだった。太陽が沈んでいくと、安心するから。あの光を浴びなくていいんだと思えるから。薄暮と呼ばれる時間は、赤く燃える太陽が僅かに残り、ほとんど濃紺の空が覆いかぶさっているような時間帯。この世界に光の量が行き届かなくなる時間が好きで、俺にとって、どこか救いに見えていた。
 けれど、彼女にとってこの時間は、あの太陽が沈んでいくように、気持ちが落ちていくような時間でしかなかったのかもしれない。あったはずの時間がなくなってしまうことの違和感は、きっと俺には到底分からない。何をしても、覚えていない時間がやってくるのは、俺にとっては少し怖い。思い出せなくなる時間を必要ないと思うのは、仕方がないことだ。
「吉瀬が忘れても、覚えてるから」
 それでも俺は、吉瀬のこの時間をもらうことにした。彼女が必要としていないなら、俺は必要だと感じたい。忘れられても、それでもいいから、俺は覚えていたいと強く思う。
「呉野くんって意外とお人好しだね」
 彼女の頬が、静かに綻んだ。