選択授業を美術にしたというのは失敗だった。それでも苦手な音楽から逃げられるなら致し方ないと判断したはずだったのに。
 むわっとした熱気の中で、油絵の具の匂いが鼻を刺激する。ツンと奥を刺激するこの匂いには、数回足を踏み入れただけではどうも慣れてくれないらしい。
 イーゼルを準備し、定位置へと置く。先週までりんごを描けと言われていた授業が終わったため、今週からは別の課題に取り組むことになる。今度は何を描けと言われるんだろうか。石膏像だろうか。美術を選んでいなかったら、ごろごろ置かれている頭から胸の像がラボルトという名前の彫像だとは知りもしなかったのだろう。あれを描けと言われても俺は絶対に描けない自信がある。
「さて、今週からはですね、人物画に取り組んでもらいたいと思います」
 甲高い声とともに、年季の入った肌にしわが浮かぶ。にっこりといつも微笑んでいるような印象のおばちゃん先生を、生徒はたえちゃんと親しみを持って呼んでいる。
 ざわざわ、ほんの少し盛り上がった室内で、
「それでね、はい、こことここセット、こことここね、はいセットね。今ペアになった人を描いてもらうからね」
 突拍子もない台詞を放ち、周囲が目を丸めて隣の人間と顔を見合わせる。
 最初の授業で座った場所が今では定位置になった席で、ちゃっちゃと生徒を組み分けし始めたたえちゃんは、俺の前に来てはぴたりを足を止める。教室の隅を陣取っていた俺の隣は、左に座る女子生徒が一人。しかしその彼女は、今さっきその隣に座る女子生徒とペアになっていた。右は窓と壁だ。つまり、俺は描かなくてもよくなるだろうかと淡い期待は、当然粉々に砕かれる。
「あ、呉野くんとこで切れちゃうわね、それじゃあ後ろの吉瀬さんと組んでね」
 まさかのたえちゃんの爆弾に「え」と唇から小さな驚きが滑る。それに重なるように、後ろから同じような音が聞こえた。
 ちらりと、肩越しに後ろを確認すると、友人の仲林と隣同士で座っていた彼女と目が合う。ぎこちなく会釈をすると、向こうもぺこりと軽く頭を下げた。
「ねえ、せめて友達とか、仲良い子にしようよ」「わたし男子描きたくない」「は? 俺だって女子描きたくねえよ」
 四方八方から飛んでくる不服を、たえちゃんは、ふふ、と肩を竦めて笑う。
「これも縁なのよ。たまたまってね、偶然のようで、奇跡みたいなものだから。嫌よ嫌よも好きのうち、ってね」
 可愛らしく微笑んでは「じゃあ、描いちゃってね」と柔らかく不服を跳ねのけてしまった。