何を描いたらいいか、分からなかった。コンクール用の絵はなんでもよくて、自由を与えられても、その自由をどう生かせばいいのか分からない。貸し切りのようなこの部屋で、放課後毎日残るくせに、未だまっさらなキャンバスを睨む日々だけが続いている。
 絵の知識はない。興味もなかったし、上手いと言われても、いまいち何が上手いのか分からない。自分が書いたりんごも提出した今ではどんなものだったか覚えていないし、いざ見てみても、それが上手いとは感じられないのだと思う。
 それでも吉瀬は、俺の絵を褒めてくれた。あんなにも褒めてもらえるのなら、もう少しだけ頑張ってみても良かったと若干の後悔が残ってるのは内緒だ。
 りんごの絵は覚えてくれてるのに、俺は覚えてない。
 蝉の墓は忘れてるのに、俺は覚えてる。
 奇妙な話だ。なかなか彼女とはどう話をしていけばいいのか分からない。もしかしたら今話してることも翌日には忘れられているんじゃないかと怖いから。彼女は夕方の記憶だけがないと言っていたけれど、もしかしたら夕方だけじゃなくなるかもしれない。それを俺が知ったような口でぺらぺら話して、彼女にきょとんとされるのが怖いんだ。
 ――コンクールの話をした時みたいに。
 彼女はあの時間のことをごっそり忘れてしまっていた。微かに震える頬が引きつっていたことに、彼女は気付いてしまっていなかっただろうか。
 あんなにも綺麗に忘れてしまうものなんだな、とあれから何度も思い出す。
 窓の外が今日は淡い水色とピンクのグラデーションを作りだしていた。
 この時間のことも、吉瀬は忘れてしまうのだろう。自分が何をしていたかなんて忘れてしまって、思い出したくても思い出せない。どうでもいいものばかりではなくて、大切にしまっておきたい記憶がある時、彼女はどうするのだろうか。どうやって、その瞬間と戦うのだろうか。
「……綺麗だ」
 この空の色も、彼女は忘れてしまう。
 夕方の色を忘れてしまう彼女は今、何を思って過ごしているんだろうか。