彼女もまた、夏場に長袖を着てるような変人の俺と、同じような意味で有名だった。
「夕方だけ記憶忘れるって、それもそれで変わってるよな」
 高岡の癖のない声量が、やけに鼓膜にこびりつく。
「……まあ」
 そんな一言を漏らしては、口を噤んだ。正確には、あまり言葉など出なかった。
 彼女は不思議なんだ。俺からすれば。
 ――夕方だけ記憶がなくなる人。
 彼女の印象はそんなものだった。
 時間は定かではないらしいが、基本的に四時から六時のことを、彼女は忘れてしまうらしい。記憶喪失はさすがに大袈裟過ぎ、と彼女が友人に返していた苦笑が瞼の裏に宿る。
 その事実を、彼女は別に隠そうともせず、公にしている。言っておかないと面倒なことになると受け止めてのことらしいが、それでも彼女の事情を、ほとんどのクラスメイトが知っている。
 見えないものを隠そうとしない彼女と、見えているものを隠そうとする俺。
 出来れば、こんな厄介な病を患っていることを周囲に知られたくないし、同情の目を向けられたくもない。
『呉野に触ると変なのが移るぞ』
 小学生の時に植え付けられたトラウマが、水墨画のように滲んで蘇った。病原菌扱いされた過去は、高校にあがっても、ぐちゅぐちゅとした新鮮な傷のまま残っている。
 忘れてしまいたい過去ほど、いつまでも残り続けてしまうのだ。ふと思い出し、傷を抉られ、引き戻されていく。
 ――思ってしまうんだ。せめて夕方だけでも忘れられたらと。この現実から、この病から、少しでも離れることが出来たらと、思ってしまう。俺にとって、彼女は羨ましいと思う対象だった。忘れた時間帯に何がおこたって何も覚えていないのだから。――たとえ、記憶に刻みたくないことがあったとしても、忘れることが出来るのだから。
「夕方だけ記憶がなくなるって、どんな感じなんかな」
 高岡の何気なく呟いた一言で、ふと現実に戻された。
「……さあ」
 たしかに、夕方だけ忘れてしまうとは、一体どんな感覚なのだろうか。本当に、綺麗さっぱり忘れてしまってるんだろうか。思い出そうとしても思い出せないのだろうか。――その時間に、覚えておきたいことがあっても、覚えていられないのは、苦しくないんだろうか。