吉瀬と共有した時間は、俺にとって忘れられない時間だった。
 今でも鮮明に映像として思い出せるのに、彼女はその時間を覚えてはいない。忘れてしまっているのだ。記憶からごっそり、抜け落ちてしまっている。
 申し訳なさそうに眉を下げた彼女の顔が頭から消えない。
 彼女の症状を目の当たりにしたのはあれが初めてで、一緒にいた時間がなかったことになってる衝撃を、最初受け止められなかった。いや、今でも正直受け止められてはいない。
 けれども、彼女は本当に覚えてはいない。俺と一緒に蝉の墓を作ったことも、コンクールに出るということも、彼女は欠片でさえ覚えてはいないんだ。
 それが毎日、繰り返されていく。あったはずのものが消えていくという障害が。
 俺とはまた違ったものを抱えている彼女は、いつだって明るい性格のように見えた。俺にだってその態度は変わらない。俺に限らず、他の人間にも同じように接する。それは持って生まれた才能としか思えない。
 元々、偏見を持ったりしないのだろう。それが目に見える形でも、見えない形でも、彼女のポテンシャルはきっと変わらない。いつだって、吉瀬は吉瀬のままなんだ。
 そんな彼女に、俺はコンクールに出ると打ち明けた。もちろん、彼女は覚えていないけれど、引き下がれないのは、俺の中でなかったことには出来ないから。
 たとえ彼女が覚えていなくとも、俺は彼女に話をした。彼女の言葉で、俺は決心したようなものだから。忘れられていても、俺は覚えてる。逃げ腰だった姿勢を、奮い立たせるように追い込む。
 描くと決めた。挑戦してきたことのない道に足を踏み入れると決めた、だから逃げない。俺は、俺らしくやっていく。