「……それで、絵を本気で描いてみないかって言われて」
「絵? あ、もしかして呉野くん、美術部に入るの?」
「あ、いや、さすがに……もう高三だし、部活入るようなタイミングでもないんだけど」
 そこまで言って、用意していた言葉に迷いが生じる。
 話していいのだろうか。このまま続けてしまっても。
 ぷつりと切れた会話に、彼女が不思議そうな顔で首を傾げる。その顔は、俺の話す内容を待ってくれているような顔で、生じた迷いをざっと拭う。
「……秋にあるコンクールに、出品しないかって」
「え、コンクール?」
「うん……」
 たえちゃんから告げられたその言葉が、今でも頭の中をぐるぐると再生される。柔らかい表情は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
 美術部員でもない俺が、そもそもコンクールになんてと思ったし、もちろん断るつもりでいた。
『呉野くんはね、絵を描くのに向いてると思うの。無理強いをするわけじゃないんだけどね、でも、呉野くんには描いてほしいなって。もしすることがなかったら、もしすこしでも興味があるなら、絵の道に触れていてほしいな』
 思い出づくりとしても最適よ、と締めたその提案に、断るはずだった選択肢が、ふわりと消えてしまった。
『それにね、こうして呉野くんの絵を見せてもらえたことも、なにかの縁だと思うの。ごめんなさいね、おばさんの縁に付き合わせちゃって』
 たえちゃんはなにかと縁を強調する。けれど、その縁が、嫌だと思わなかったのは不思議だ。
 することはない。部活に入るわけでもなく、帰宅部を貫いてきたこの三年間。中学は部活に入ることを強制されたが、幽霊部員でもいいとの誘いで卓球部に在籍した。もちろん、絵とは無縁の生活。
 ただ、このままでいいのだろうかとは思っていた。いい加減、進路を決めなければいけないのに、俺はまだぼんやりとしている。もう夏なのに。もう卒業という文字が迫ろうとしてきているのに。俺は未だに、この先の人生をどう生きていきたいのか決められないでいる。
 ――いや、決める必要があるのだろうかと、思っているんだ。それに触れないように、今を生きているだけで。
「コンクール……出ようと思って」
 弱々しく出ていく決意は、なんとも頼りないもの。まだ半日も経っていないというのに、それでも俺はもう、コンクールに出てみようかという気になっていた。
 何かが変わるような気がして、変わってほしいと願って、それを、彼女に伝えたかった。
「すごいね!」
 そんな俺の選択肢を、彼女は笑わないで聞き、それから本日二度目のすごいをもらった。
「えー呉野くんがコンクールかあ! うん、いいと思う! うん、いいよ!」
 その顔は、どこか嬉しそうな表情に見えて、思わず口元が緩んでしまう。――ああ、そうか、いいんだ、これで。
 不安だった気持ちが、彼女の笑みで和らいでいく。たえちゃんとはまた違う、優しさの滲んだ笑い方。
「すごいなあ、コンクールかあ……あ、描けたらわたしも見せてね」
 彼女の頬が夕日色に染まり、きらきらと輝く。その美しさに目を奪われながら「もちろん」と、自然と口角が上がっていた。