太陽が赤く染まり始めると、憂鬱で気分が落ちていた。夕方なんてこなければいいと思っていたし、この世界から夕方なんて時間は消えてしまえばいいのにとも思っていた。
 夕方は嫌いだ。夕方だけで記憶がなくなるこの頭も嫌いだ。
 それでも──
「なんでかな……呉野くんとの時間、ぜんぜん覚えてないのに……」
 思い出したい。心の底から強く、呉野くんと過ごした思い出を刻みたいと思った。生きてきて、こんなことを思うのは初めてかもしれない。
 思い出したい、思い出したい、思い出したい。
 呉野くんと過ごしたこのこの時間を、思い出したいのに。
「……思い出せないよ……っ、なんで……なんで」
 わたしにとって、この時間は絶対に忘れたくなんてなかったはずだった。呉野くんとの時間を、覚えておきたかったはずだった。
 縋りたいほど、その記憶にしがみついていたかった。
 日記には、わたしの覚えていない夕方の時間がびっしりと書き込まれていた。呉野くんとなにをしゃべったのか、どんな風に笑い合ったのか、呉野くんがどんな顔をしていたか、こと細かく。
 けれど、それを読んでもなにも思い出せない。わたしの記憶のはずなのに、なんだか物語を読んでいるようで、他人の思い出を見ているようで、自分とはぜんぜん重ならなかった。
 あの日記のわたしは、きっとその時間に縋るようにしがみついていたのだと思う。
 忘れたくないと、覚えていたいと、必死で書けるだけ書いて、奇跡を願って。
 呉野くんと最後に会った日の日記には、呉野くんが退院したことが書かれていた。久しぶりだったと、呉野くんとの再会を喜んでいた。
 まさか、これが最後の日記になるなんて思わなくて。あの日記は、あれから続きを書けなくなっていた。
「弥宵……」
 慧子の手がそっとわたしの背中をさする。
「わたしね、この絵を見たとき、ぜったい弥宵に見せてあげなきゃって思ったの。使命感に駆られたのかもしれない。だって、わたしが描く弥宵よりも、全然弥宵らしいんだもん」
 次第に震えていく慧子の声に、ふっと顔を見上げた。わたしの背中をなでながら、慧子は目の前に広がる絵を、涙を流しながら眺めている。
「正直、悔しいよ……やっぱ、呉野くんってすごいなあ……才能って言葉で片付けたくないけど、でも、すごいよ。必死で絵を勉強してるわたしより、ぜんぜん上手いんだもん。勝てないよ。こんな絵見せられたら。弥宵への愛が、こんなにも伝わってくる絵って……もうほんと敵わないよ」
 悔しさが滲み出ながら、彼女は泣きながら笑っていた。「同じ絵描きとして尊敬する」と呉野くんを讃え、目に焼き付けるように見つめていた。
 呉野くんの絵を見ていると、どうしようもなく温かい気持ちになって、それから悲しさに襲われる。
 呉野くんの死が担任の先生から伝えられた瞬間、世界が真っ白になってしまって、鼻を啜る音だけが教室に響いていた。その中でも、わたしは涙を流すことが出来なくて、呉野くんの死を受け止めることが出来ず、葬式に行くことも出来なかった。いや、葬儀場までは行った。けれど、直前になって足が動かなくなってしまって、まるでその先へと進むことを身体が拒んでいるような気がして、しばらくそこから離れることが出来ずに終わってしまって。
 この絵を見ても、やっぱり呉野くんの死が、受け止められなかった。