「でも退院したばかりで学校来て平気?」
「平気……それより、今の吉瀬を描いてもいいかな」
今じゃないと描けないものがある。絶対に、今じゃないと、今の俺じゃないと、描けないものがある気がする。
吉瀬はすこし戸惑った表情を浮かべたけれど、すぐにあの優しい笑みへとかわる。
「わかった」
鼓膜に甘く響くその音と、ふんわりとした彼女の笑顔は、簡単に俺の心を満たしていく。
イーゼルを準備して、画用紙をセットする。その向こうで、彼女が座っている。この光景を、俺は絶対に忘れないと誓った。俺のためにさいてくれた彼女の時間を、決して無駄にはしたくない。
この忘れられていく夕方の記憶を、どうか俺の中だけでいいから大切にしまっておきたい。それだけでもういい。
「ねえ、吉瀬」
「ん?」
「覚えていないかもしれないけど、夏休み前に、蝉の墓を作ったんだよ、おれたち」
鉛筆を何度も画用紙の上で滑らせながら、思い出話に興じる。
俺から話しかけることは滅多にないけれど、そんな事実は彼女の中では消えているはずだから。話しかけたところで、不思議には思わないと思った。
案の定、彼女は怪訝そうな顔を浮かべることなく「そうなの?」と目を丸くしていた。
「うん。俺がさ、その蝉を触れないでいたら、吉瀬がなんてことなく掴んで、そのまま土に埋めたんだ」
「え、やだ。わたしそんなことしてたの?」
おかしそうに肩を竦めた彼女に、口元が自然と緩んだ。
「あのとき、吉瀬は〝はやく生まれ変わるといいね〟って蝉に言ってて。そんなこと言う人初めて見たからびっくりした」
「わたしも自分のことなのにびっくりしてる」
「形だけだけど、それで救われることもあるって、吉瀬が言ってて、あのときはあまりわからなかったけど、今ならなんとなくわかる気がするんだ」
それが本当に意味のあるものなのかどうかわからないけれど、でもそれで救われることも大なり小なり人間にはある。葬式だってひとつだ。それが本当に必要なのかわからないけれど、でも、そうすることで残された側はどこかで安心する。
「俺、吉瀬の言葉で救われてることたくさんあるんだよ」
「わたしの言葉で?」
「そう、今までたくさん、救ってもらってきて」
数えきれないほど、彼女という存在になんど救われてきたか。
知らなかった感情をたくさん教えてもらった。自分に醜い感情があることも知った。人を愛する気持ちだって知った。