「呉野くんがいないとね、この部屋ってなにもないんだなって思ったの。こんなにも静かだったのかなって。呉野くんと過ごした思い出は抜けてるのに、さみしいって感情は抱いたんだよ。なんだか不思議だよね」
吉瀬の艶やかな黒髪がさらりとなびく。枝毛さえ知らないような綺麗な髪が、夕日に染まっていることに視線が奪われた。
「病院は? 入院してるって聞いたけど、大丈夫?」
途端に黙りこくった俺に、吉瀬はこてんと首を傾げて心配そうな目をする。
「あ……うん、退院したんだ、今日。だから、一番にここに来たくて」
嘘をついた。本当は病院から抜け出したんだと言えば、彼女はひどく心配するに決まっている。事実を、口にすることは出来なかった。
そんな俺に、彼女の瞳はきらきらと輝きを放ち、口元で両手を合わせる。
「そうなの? え、退院おめでとう! よかったね!」
真っ直ぐで、無垢な声。微塵も疑っていないような声に、一瞬うっと息が詰まって、無理に喉の奥に押し込んだ。
そんな俺に気づかないでくれている吉瀬は「あのね、絵が完成したの」と脇においてあったイーゼルをこちらに向けた。
「美術の授業で描いてた絵。呉野くんみたいに才能があるわけじゃないからうまくないし、本人に見せれたものじゃないけど……」
そんな謙遜を前置きとして並べていた彼女の絵には、俯き加減にどこを捉えているのかわからない目をした俺の姿が描かれていた。
「……すごい、俺だ」
こんな風に、彼女の目には俺が写っているのかと思うとどこか恥ずかしさを覚えてしまう。
「本当? でもやっぱ人を描くって難しいね」
「難しいと思う」
人は、簡単には描けないものなんだと知った。写真とは違って、一瞬で切り取れるわけでもないし、時間もかかる。出来栄えに満足いくようなものもなかなか出来ない。
「でも、それに挑戦しようとしてる呉野くんはやっぱすごいね」
しみじみと呟いた彼女に、小さく首をする。
「すごくはないよ、ぜんぜん」
賞賛されるようなものじゃない。俺は、ぜんぜんすごいわけではない。
「……ごめん。授業の絵は完成出来てなくて。もう次の授業にかわった?」
「あ、うん。今度はラボルトだって。人だけど、首から上しかないから、みんな安心してたよ」
そう苦笑する顔につられて頬がゆるむ。そうか、今度はラボルトになったのか、それはたしかに安心だ。