「あの俺──」
 窮屈な場所から、はやく飛び出したくて、必要ないでしょと言われていた制服に袖を通した。もう、これを着ることはないんだと思っていた。もう、ここから出られることはないのだと。
 たえちゃんは、俺の愚行を笑って受け止めてくれていた。
『心が動いたときじゃないと、見られない景色があるものよ』
 そうだと思う。ほんとうにその通りだと思う。今の俺じゃないと描けないものがあると思った。
 ふと、松浦の言葉が浮かんだ。
『心の赴くまままに。やりたいと思うことを、やればいい」
 今、まさしく心が動いた通りに、体が動いている。
 会いたい、吉瀬に今すぐ会いたい。会って、今の吉瀬を描きたい。
 やりたいことなんてこの先見つからないと思っていた。けれど、強烈に今、描きたい欲に駆られている。
 大人になることは出来ないけれど、今できることはやりたい。許されている時間があるのなら、俺は今、できることをする。
 太陽が燦々と世界を照らしていた。病院を抜け出した俺を誰も追いかけてはこない。きっとまだ気づかれていないのだと思う。気づかれたらきっと大騒ぎだ。母さんにも連絡がいくだろう。「息子さんがいません」「逃げ出しました」などと言われるのだろうか。
 ──いや、それよりも、肌を守る術がなにもないことを咎められるのだろうか。
 肌を保護するクリームも、日傘も、手袋も、帽子も、今はなにもない。なにも、持ってこなかった。
 制服のまま、駆け出すように病院から飛び出し、太陽の下をめいいっぱい走っている。
 怖かった。この太陽の光を浴びてしまうことが。肌が焼け、じりじりと焦がされていくような感覚がたまらなく怖くて、どんどん死に近づいていくようでずっと避けてきた。
 それなのに、太陽に照らされたら世界を、思いっきり走ってみたいという夢は消えなかった。消えなかったからこそ、思いっきり太陽を浴びて走っている。
 それは恐怖よりも、快感に近かったのだと思う。
 なにも怖くない。恐れるものがなにもない。ずっと、焦がれていた世界で、俺は息をして生きている。そう感じられるこの瞬間がどうしようもなく嬉しかった。
 眩い光が、こんなにも気持ちのいいものだとは知らなかった。目の前で輝く夕日は、太陽そのもので、赤く染まった世界をこんなにも堂々と走れることに幸せを感じていた。
 下校時間はとっくに過ぎていて、校舎に近づくたびに、ぼんやりと人の声が届いてくる。
 ここに来ることも、正直もうないと思っていた。もうここに来ることは許されていないと思っていたのに。
 呼吸が乱れている。こんなに走ったのは人生で初めてかもしれない。油断すると膝から崩れてしまいそうで、校舎を囲う緑のフェンスに片手だけをついた状態でなんとか持ち堪えた。 
 走ると、心臓はこんなにもうるさいのか。
 そんなことを漠然と思っていた。それでいて、死にかけの自分の心臓がきちんと動いていることをきちんと認識出来た。
 俺はまだ生きている。まだ、ちゃんと、生きている。