ぷしゅっと空気の抜けるような音がして、俺は思わず振り返った。
 人がまばらだったこともあって、俺とその人はまっすぐに目が合う。何か用があって振り返ったわけじゃないから、そのまま固まってしまった。
 何せ相手は女の子だったから。
 白いワンピースを着た女の子。多分、同い年くらい? いや、もっと上かな。
 その彼女が片手に透明な瓶を持ち、不思議そうに俺を見返していた。
 あ、そうか。さっきの音。
 俺はまじまじと瓶を見る。
 水色の瓶には見覚えがあった。サイダーだ。そうか、さっきの『ぷしゅっ』は、サイダーの栓を抜いた時の音か。結構、大きな音が出るんだな、ペットボトルじゃなくて瓶か、珍しいな、なんてどうでもいいことをいろいろ考えていると、不意に彼女が笑った。
「サマーアップルパイだね」
 気が付くと、今度は彼女が俺の持っている包装紙につつまれたアップルパイをみつめていた。
「いいな、買えたんだ。私が来た時はもう完売だった」
「あ、うん。これがラスイチ」
「そっか。一歩、遅かったか」
 名残惜しそうな彼女に、少し迷った後、俺は言った。
「良かったら……半分、食べる?」
「食べる!」
 一瞬の迷いもなく彼女は返事をし、駆け寄ってきた。その時、風に乗ってふわりと、どこか懐かしいような匂いがした。

 俺が半分渡した『サマーアップルパイ』を少しの遠慮もなくぺろりと平らげると、彼女は満足そうな表情で持っていたサイダーをぐいとひとくち飲んだ。短くカットした癖のない髪がさらりとゆれる。
「はーっ、おいしかった。話題になるだけのことはあるわね、サマーアップルパイ」
「ふうん。そう」
 店の前に置かれているベンチに結構な至近距離で俺たちは座っている。
 初対面の知らない女の子とこうして肩を並べて座って、サマーアップルパイなる流行りもののスイーツをほおばっているこの状況って、我ながらかなりぶっ飛んでいるシチュエーションだと思う。
 俺は複雑な気持ちのまま、パイの最後のひとかけを口に入れると隣の彼女をそっと観察した。
 小麦色に焼けた腕と清楚なワンピースの白が本来ミスマッチなはずなのにそのコントラストが意外と調和している。小柄で細身。顔もすっごく可愛いってわけじゃないけど、何だか愛嬌がある。いわゆる人好きのする顔。目はその反面、細くて凛としている。眩しそうに空を見上げるその感じがとても魅力的で、実際よりもずっと美人に見えた。
「君は気に入らなかった? サマーアップルパイ、美味しくなかった?」
 不意に彼女がこちらを向いたので、おれは慌てて目を背ける。じろじろ見ていた罪悪感からぶっきらぼうに答えた。
「別に。普通に美味しかっただけだよ」
「はあ?」
 細い目が見開かれる。本気で驚いているようだ。その驚きにこっちも驚く。
「え? 何だよ」
「だって、このアップルパイを食べたくてこのお店に来たんでしょ? 並んでまで買ったんじゃないの?」
「まあ、そうだけど」
 確かに、今話題の『サマーアップルパイ』を食べるためにここに来た。
 平日の午前中だからと侮っていたら、店の前には既に結構な人数が並んでいて、俺が買えたのは並び始めて一時間後。それも最後のひとつだった。
「だったらなんでそんなに薄い感想なの? そもそもサマーアップルパイがどんなパイか知ってる?」
「サマーアップルっていう品種のリンゴで作ったアップルパイってことじゃないの? 味は普通のリンゴだったけど」
「ないわ」
 低い声で否定すると彼女は信じられないという顔をして頭を横に振った。
「サマーアップルってリンゴの品種じゃないわよ」
「え。じゃあ、何?」
「食べて気が付かなかった? 普通のアップルパイより甘さ控えめでスパイスをきかせているの。夏に食べるにふさわしいさっぱりしたアップルパイってこと。だから『サマーアップルパイ』って名前なのよ」
「あー、そういうことか」
 言われて納得する。
 確かにあまり甘い物が得意でない俺も、半分だけだったとはいえさらりと最後までおいしく食べることができた。
 なるほどと頷いている俺を不思議そうに眺めて、彼女は言葉を継ぐ。
「どういうスイーツか、知らなくて買いに来たんだ?」
「あ、うん。俺がここのパイを食べたかった理由は音楽だから」
「音楽?」
「うん。知らないかな、この曲」
 俺が『サマーアップル サイダーガール』のメロディを軽く口ずさむと、彼女はますます奇妙な顔をする。
「うーん、知っているような知らないような」
「音楽に興味ないんだ? 大ヒットってわけじゃないけど、そこそこ流行っているよ、『サマーアップル サイダーガール』っていう曲なんだけど」
「うん? サマーアップル? パイじゃないのね?」
「そうだけど、あくまでイメージ」
 俺が笑うと、彼女もつられるように笑って言った。
「さわやかなタイトルだけど、歌詞はどんなの? 恋愛もの?」
「うん、初恋ソング。夏の日に、海で見かけたサイダーのようなさわやかな女の子に恋をして、その子からリンゴの匂いがしたっていう。結局、恋は実らないんだけど、大人になってもリンゴの匂いを嗅ぐと、サイダーのような彼女のことを思い出すって感じの曲」
「へえ、未練だね」
「そういう感想? もっと言い方あるだろ」
 憮然とすると、彼女は慌ててごめんごめんと繰り返した。
「そういうとこズレてるってよく言われるよ。女の子らしくないって」
「なのに、流行りのサマーアップルパイは食べたかったんだ。そこは女の子だね」
「というか、たまたまここのお店のこと……知り合いから聞いて『サマーアップルパイ』を食べようって感じになったの。その子は来られなかったから、私ひとりで自転車とばしてここまで来ちゃった。甘いだけのスイーツじゃなくて甘さ控えめでスパイスをきかせたアップルパイなんて魅力的だよ。最後の晩餐にふさわしい」
「……は?」
 俺は少し考える。それから青い空を見上げた。
「最後の晩餐って……晩餐っていうのはたしか晩ごはんのことだろ? まだ午前中だけど」
「え? 引っかかるのそこ?」
 途端に彼女は笑い出した。もうたまらない、そんな感じの大笑いだ。
「ちょ、ちょっと、笑いすぎだよ。だいたいそんなに笑うこと、俺、言った?」
「いや、君ってピュアだなあって思って」
「ピュアって……馬鹿にしてる?」
「違うよ」
 ちょっと黙ってから彼女は言った。
「最後の晩餐は人生最後に食する食べ物っていう意味」
「何か、重たい話になってきてる?」
「そうでもない。ただの例え。で、ここにサマーアップルパイを張り切って買いに来たわけだけど、なんと完売でがっかり。そうしたら君と目が合った。で、念願のサマーアップルパイを半分くれるって言うじゃない。神さまかと思ったよ。だから決して君のことは馬鹿にしていません」
「神さまって大げさだな。そういう言い方がもう馬鹿にしてるよ。だいたい人生最後に食する食べ物ってやっぱり重たいよ。意味わからん」
「そうかな、そのままの意味だよ。とにかく君に会えて良かったよ。このサイダーだけじゃちょっとしょぼいでしょ?」
 言われて彼女の持つサイダーの瓶に目をやる。
「そんなのどこで売っているんだよ。コンビニにはないよな?」
「ここに来る途中に小さな駄菓子屋さんがあってね、そこに売ってたの。なんかレトロでいいでしょ。でもね、ちょっと残念なのは栓なの。ほら、手で開けられるようになってんの。栓抜きいらずよ」
 見てみると瓶にはプラスチックのキャップが付いていた。
「手軽でいいじゃん」
「そうだけど、簡単すぎて拍子抜けする」
 そう言って彼女は空を見上げた。つと瞳を細めて眩しそうな表情になる。
「君の方は音楽のためにここのアップルパイを食べに来たって言ってたけど、そんなにその曲が好きなの?」
「というより、そうだな、俺もある意味、最後の晩餐かもしれない」
「はい?」
 彼女がきょとんと俺を見る。本当は話す気はなかったけど、仕方ない。
「右手をね、怪我したんだ。一か月くらい入院していて、ほら、この近くのY病院。退院した今もリハビリに通っているんだ。実は今日もこれから行くんだけど……でも、リハビリをいくら頑張っても、残念ながら指はうまく動かなくて。日常生活にはあまり不便はないんだけど、例えば楽器を弾くとか、そういう繊細な動きは難しいんだ」
「楽器を弾く人なの?」
「そういう人に、プロになりたくて目指してた。でも、もうダメなんだ。それで、好きなミュージシャンの曲に使われているサマーアップルのパイを食べることで吹っ切ろうと思ってね」
「それって、いわゆる厄落としみたいな感じ?」
「自分でもよく判らんけど、けじめをつけたかったんだよ。例えばバンドが解散する時にラストライブみたいなことするだろ? 俺はそんなのないから、好きな曲にまつわるパイを食べることで、自分の中でけじめをつける、というかきっかけ、かな。これで俺の音楽の夢は終わり。さあ、次行こうぜ、みたいな。他人が聞いたら馬鹿みたいなことだろうけど」
「うん、馬鹿みたい」
「あっさり言うなよ」
 苦笑していると、彼女が言った。
「そうか、それも最後の晩餐だね」
「今、朝だけどな」
「まだ言うか」
 そうしてふたりして笑い合った後、彼女は不意にベンチから立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行くね。自転車、その辺に放置してきたからやばい」
「あ、そう」
 慌てて俺も立ち上がると、彼女は三分の一ほどサイダーが残っている瓶を俺に突き出した。
「パイを半分くれたお礼にこれをあげよう」
「は? 飲みかけなんていらんし」
「中身は捨ててよし。瓶をね、この先の坂を下ったところに小さな駄菓子屋さんがあるから、そこに返しておいて」
「……自分で返せよ」
「だから、自転車がやばいんだって。早く取りに行きたいの。それに瓶を返せば、瓶代が戻ってくるよ」
「いらんし」
「遠慮するな」
 かかと笑う彼女にこれ以上、抗えなくて、俺は渋々サイダーの瓶を受け取った。
「じゃあね」
 手を振って、あっさり背を向けた彼女に、俺は慌てて言った。
「おい、あんた、自殺なんか考えてないだろうな?」
「え? 何で?」
 肩越しに振り返った彼女はもう笑っていなくて、その表情に俺はどきりとする。
「い、いや、だって、最後の晩餐とか言うから……」
「いつかは死ぬよ。誰だってね。だから慌てなくていいんだよ」
「え? どういう意味?」
「なんでもない。リハビリ、頑張って。これからは車に気を付けるんだよ」
「あ、待って」
「はい?」
「ええっと……な、名前ぐらい……教えろよ」
 一瞬の沈黙の後、彼女は真顔で言った。
「個人情報ですので安易には教えられません」
「おい……」
「はいはい、冗談です」
 表情を柔らかく崩すと彼女は答えた。
「きこ」
「え? きこ?」
「うん。輝く子と書いてきこと読む。てるこじゃないからね」
 にっと笑いかけると、もう一度、彼女は手を振った。そしてそのまま、振り返ることなく歩いて行った。
俺はぬるくなったサイダーの瓶をぶら下げて、その白い背中が見えなくなるまでぼんやりと見送っていた。