午前中で終わるはずの会議が、空気の読めない上司の無神経発言で異様に長引き、そのせいで午後からの仕事も芋づる式に遅れてしまった。
 おかげで終電ぎりぎりの残業になり、楽しいはずの金曜日の夜が今むなしく終わろうとしている。
まだ駅まで必死に走れば終電に間に合う時間だったけれど、それも何だか癪な気がして、ちょうど会社を出たところで通りがかったタクシーを拾い乗り込んだ。
「お疲れですね」
 行き先を告げた後、盛大な溜息と共に座席に沈み込む俺をミラー越しに見て、愛想のいい運転手は微笑みかけてきた。
 人懐っこく話しかけてくる感じに、正直、ちょっとうざいな、と思いつつも営業職の悲しさで、俺はにこりと微笑みを返しながら頷いた。
「会議が長引いて、おかげで残業。今日中の仕事もあったから大変だったよ」
「折角の金曜日なのにね」
「本当だよ。また文句、言われそう」
「彼女さん?」
「残念ながら奥さん。うちの、怖いんだよ」
「またまた」
 控えめに笑った後、運転手は思いついたように言った。
「ラジオでも付けましょうか? 音楽でも聴けば心身ともにリラックスできますよ」
 それなら色々話しかけられることもないだろう。願ってもないと内心喜びながら頷くと、運転手はすぐにラジオのスイッチを入れた。
 そして。
「……これ、懐かしいなあ」
 ラジオから出会い頭に流れてきた曲に運転手は優しい声で言う。
「私が高校生の頃に流行っていた曲ですよ。お客さんも見たところ私と同年代だから知っていますよね?」
「……え? あ、うん」
 戸惑って思わず口ごもる。そんな俺の様子に気が付かないらしく、運転手は言葉を続けた。
「何ていう曲だったかな。ええっと、アップルなんとか……」
「『サマーアップル サイダーガール』」
「ああ、そうそう、それ。あと、丁度、その曲が流行っていた時に『サマーアップルパイ』っていうスイーツが女子の間でもてはやされていたでしょう? 彼女と一緒にカフェの前に二時間くらい並んだことを思い出しますよ。夏の暑い日で、たまらなくて。たかがアップルパイ食うために何やってんだかって……」
 最後の方はもう聞いていなかった。
 ラジオから流れる透明感あふれるヴォーカルの声に、俺の心はゆらゆらと頼りなく揺らいでしまう。
そして、夏の黄色い日差しの中に佇む白いワンピースの彼女の姿が、ゆっくりと脳裏に浮かび上がった。
輝子(きこ)
 その名前を呟いた途端、甘酸っぱいリンゴの匂いが俺の鼻孔をくすぐった気がした。