「じゃあ……行ってくる」

「ええ、お願いね。失敗したら女神さまがウザいから、出来るだけ頑張ってね」

「うん、わかった」

(ママは、なんでそんなウザい女神を信奉してるんだろ?)

 アーヴィンは首を傾げながら、聖女が結界に開けた空隙(くうげき)をくぐって、外へと歩み出た。

 温度制御の完璧な結界の内側と違って、外は少し肌寒い。

 ラストダンジョンの最奥、(かつ)て魔王と勇者パーティが戦闘を繰り広げた広大な地下空間。

 それが、彼女の初めて見る外の世界であった。

「外に出れば、すぐに分かるって言ってたけど……?」

 ぐるりと見回してみても、そこにあるのはごつごつとした岩肌だけ。

 さてどうしたものかとアーヴィンが首をひねったその途端、地の底から響くような低い声が響き渡った。

「お待ちしておりました……黒の姫さま」

 途端に轟音とともに岩肌の一角が崩れ落ちる。

 立ち上る土煙の向こう側で、巨大な黒い竜が長い首をもたげた。

 高い天井につかえそうなほどの巨体。

 普通の人間であれば、目にしただけで魂まで()り潰されてしまいそうな恐ろしい姿の巨大な竜である。

 だが、アーヴィンは立ち昇る土煙を煩わしげに払いながら、平然と問いかける。

「誰?」

「我が名は邪竜ベルティモ・ダヌンゲティアヌス・サルトーリ。魔王さまのご下命により、黒の姫さまにお伴させていただきまする」

 どうやら子煩悩な父親が、事前に部下に通達しておいたということらしい。

「お伴って……。これから行くのは人間の街なのよ? アナタみたいな大きな魔物、近づいただけで大騒ぎじゃない」

「その点なら問題ございませぬ。我は自在に大きさを変えられますゆえ」

 途端に、邪竜の身体がシュルシュルと縮んで、最後には腕に抱きかかえられるほどの、ちまっとした姿になった。

 アーヴィンは肩を竦める。

「まあ、いいわ。まずはここから出ないと……ベルティ……なんだっけ?」

「ベルティモ・ダヌンゲティアヌス・サルトーリでございます」

「長い。ベルで良いわね?」

「はっ! 黒の姫さま! どうぞ御心のままに」

「ところで……なに? その黒の姫さまって?」

「魔王さまからは、そうお呼びするようにと、仰せつかっておりまする」

 アーヴィンは小さく肩を竦める。

 正直、パパは趣味が悪いと思う。

「……まあいいけど。人間の街についたら、アナタは絶対に喋っちゃダメよ」

「承知しております。では、こちらの非常口から、直接外へ出れますゆえ」

 そう言って、邪竜ベルは首を伸ばして、岩肌の一角を指し示す。

「えーと、ちょっと待って? ここラストダンジョンの一番奥なのよね? 非常口で直接外と繋がってるの?」

「左様でございます。魔王妃(せいじょ)さまも初めてそれをお知りになった時には『あんなに苦労したのに……』と、複雑そうなお顔をなさっておられました」

 それはそうだろう。

 複雑()()ではなくて、複雑なのだ。

 アーヴィンも勇者一行の旅については、聖女本人から寝物語に聞かされている。

 ラストダンジョンでは無数の魔物たちを打ち倒し、張り巡らされた無数の罠を掻い潜りながら、実に一月近くの時間をかけて、魔王の下へと辿り着いたのだと、そう聞いている。

「その……非常口から攻め込まれたらどうなるの?」

「それはまあ……ものの数分で、ここまでたどり着かれてしまいますな」

「パパらしいといえば、パパらしいけど……」

 アーヴィンの知る限り、魔王は非常に大雑把なのだ。

 ママは「男はそれぐらいの方がいいのよ」というが、いくらなんでもやることが雑にもほどがある。

「ま……まあ、いいわ。案内して」

「はっ!」

 壁面に巧みに隠された階段を邪竜ベルの後について上っていくと、本当にわずか数分で、人一人が屈んで通れる程度の小さな扉に辿り着いた。

 邪竜ベルが短い手と鼻先を押し付けてそれを開くと、途端に澄み切った空気がダンジョンの中へと流れ込んでくる。

 季節は初春(しょしゅん)、時刻は深夜のことである。

 肌寒くも清々しい外の空気。

 アーヴィンは、扉をくぐって表へ出ると、ぐるりと周囲を見回して呟いた。

「綺麗なところ……。あれが月で、あれが星?」

 彼女が出たのは、地下にラストダンジョンを持つ魔の山の中腹。

 はっきり言って不気味としか言いようのない鬱蒼(うっそう)とした森の中なのだが、生まれて初めて見上げた夜空は、アーヴィンの目に、あまりにも美しかった。

「で、どっちへ行けばいいの?」

「はっ! 我が元のサイズに戻りますゆえ、背にお乗りください。目的地ははっきりしておりますので、その近くまで空から参りましょう」

「目的地ははっきりしている?」

「はっ! あちらをご覧ください」

 ベルが鼻先で指し示した方向。そちらに目を凝らす。

 暗い夜空と大地が交わる辺り、そこにひときわ明るく輝く星が見える。

 だが、星にしてはなにか(いびつ)な形のようにも思える。

 更にじっと目を凝らしてみると、それは空に描かれた光の文字。


『↓ココ』


 アーヴィンは思わず頭を抱える。

 ……まあ、たぶん普通の人間には見えないに違いない。

 そう思うことにした。

「で、あそこまでどれぐらいかかるの?」

「私の翼であれば、一刻とかからないでしょう」

「一刻?」

 アーヴィンはため息を吐いて、すっとベルへと手を伸ばして、その身体を抱きかかえる。

「黒の姫さま?」

「そんなの遅すぎて、話にならないわ」

「は?」

「口閉じてなさい、舌噛むわよ!」

 次の瞬間、アーヴィンは山の斜面を駆け出し始める。

 一気に加速、そして踏み込む。そして跳躍。

 ホップ! ステップ! ジャンプ!

 三段跳びの要領で飛ぶ。

 そして、ステップの「プ」の字を口にする頃には、すでに()()を越えていた。

「うひぃい―――――!?」

 ベルが邪竜らしからぬ、情けない悲鳴を上げる。

 まったく、騒がしい竜だ。

 この程度のヤツが、パパの次に強かったというのであれば、勇者パーティがラストダンジョンの最奥に辿り着いたのも仕方がないことのようにも思える。

 別に、アーヴィンは姉妹の中で一番能力が高いという訳ではないのだ。

 なにせ、魔力なら長姉フレデリカの方が格段に優れていて、身体能力なら末妹のリッコの方が断然優れている。

 それに比べれば、アーヴィンはどちらも中途半端なのだ。

 だが、まあ能力が高すぎるのも善し悪しで。

 例えば、三女は聖女に三段跳びを禁止されている。

 理由は、光速を越えてしまうから。

 アーヴィンとリッコは二歳しか年が離れていないのに、リッコがいまだに幼女なのは、過去に三段跳びで、()()()()時を越えてしまったせいである。

 わずか数秒で、夜空に浮かんだ『↓ココ』の文字が、視界を覆うほどに大きくなる。

 文字の真下に、小高い丘の上にそびえ立つ大きな屋敷が見えた。

「あの屋敷?」

「お、おそらく」

 アーヴィンの問いかけに、邪竜ベルが声を上擦らせて答える。

「じゃあ、着地するから気を付けて」

 気をつけてと言われても、正直ベルに出来ることなど何もない。

 なにせ音速の慣性飛行である。

 うまく衝撃を殺してやらないと、ソニックブームで着地点周辺数キロほどが、瞬時に荒野と化してしまうのだ。

 アーヴィンは着地と同時にベルを胸に抱え込み、身体を丸めて前方へと身を投げ出す。回転しながら衝撃を宙に散らすのだ。

 流石に音速で飛来した物体の衝撃は半端ではない。

 まさに地獄車。アーヴィンは凄まじい衝撃をまとった弾丸と化して地面をえぐり取っていく。

 それでも、今までの経験から言えば、屋敷の直前辺りで止まれるはず。

 アーヴィンはそう思っていた。

 疑いもしなかった。

 だが、これまで遊びで三段跳びを行ったのは、すべて結界の内側、玉座の間でのこと。

 亜空間に存在する玉座の間のサイズは、魔王の意思で自由自在。

 常に壁に激突する前に停止出来ていたのは、魔王が娘の動きに合わせて玉座の間のサイズを変更していたからだ。

 娘可愛さに甘やかしまくったツケが、第三者の身に降りかかったのだ。

 ある意味、魔王らしい出来事ではあった。

 結果、『↓ココ』の文字が指し示す屋敷。

 アーヴィンは音速を保ったまま、そこに突っ込んだ。

 吹き荒れる風、吹き飛ぶ外壁、へし折れる柱、崩落する屋根。

 一瞬にして全壊する屋敷。

 濛々と立ち上った土煙は、地上数百メートルにまで到達した。