突然けたたましい音を立てる黒電話(オブジェ)

 それまで只の飾りだとしか思っていなかった物体が、いきなり大きな音を立てたのだ。これには魔王と聖女も顔を見合わせる。

「パ、パパ」

「……う、うむ」

 魔王は手の中に禍々(まがまが)しい形の暗黒剣を出現させて、警戒しながら立ち上がる。

 そして、黒電話(オブジェ)の方へと歩み寄った。

 緊張感に包まれる玉座の間。

 娘たちの誰かが、ゴクリと喉を鳴らした。

「き、気をつけてね、パパ!」

「ふっ、私を誰だと思っておる!」

 三女リッコの声援に応えて、魔王は恐る恐る手を伸ばし、けたたましく鳴り響き続けている黒電話。その受話器を握る。

 そして、わずかに受話器を浮かせると『リンッ……』とわずかな残響を残して、ベルの音は鳴りやんだ。

 思わず、ほっ……と、息を吐く聖女と娘たち。

 顔には出さないが、魔王もひそかに胸を撫でおろした。

 だが、今度は魔王が手にしたその受話器の奥から、なにやらボソボソと小さな声が聞こえてくる。

「……なんだ?」

 魔王が警戒しながら受話器に耳を当てると、聞こえてきたそれは、年若い女の声だった。

「……もしもーし、もっしもーし! 聞こえませんか~!」

「……何者だ」

「あ、やっと繋がったぁ~。えへへ、えーとぉ、聖女カモミールのお宅はこちらですかぁ?」

「何者だと問うておる! こちらの問いに答えよ!」

「これは失礼しましたぁ~。ワタクシ、カモみんの古い知り合いでぇ、ベローチェっていいますぅ。カモみんはいますかぁ?」

「……う、うむ、しばし待て」

 困惑を隠しきれない様子で、魔王が首を捻りながら、聖女を手招きする。

「どうしたの? パパ」

「いや、なんか……ママの知り合いだと言っておるのだが、ベローチェなる者を知っておるか?」

「……ベローチェさ、ま?」

 その途端、聖女は頭痛を(こら)えるような素振りを見せた。

 明らかにイヤそうな表情だ。

 魔王の手から受話器を受け取ると、彼女は苦虫をかみつぶしたかのような渋い顔になって、受話器へと語り掛けた。

「……カモミールです」

「やっほーカモみん。久しぶり~!」

「やっほーじゃありません。女神さま、今度は一体、何をやらかしたんですか?」

「なんで、やらかし前提なの!?」

「違う……のですか?」

「……えへ」

「ほら、やっぱり。女神様が神託を送ってくる時って、いつも何かをやらかした尻ぬぐいに決まってるんですから」

「えーと……そうだっけ?」

「そうだっけじゃありませんよ! 毎回毎回やらかしまくってくれるお陰で、こっちはガンガン信仰心を削られて、すごく、すご――く迷惑してるんですからね!」

 久しぶりに見る妻の剣幕に、魔王が思わず身を縮める。

「ま、まあ落ち着きなさい。聖女カモミールよ」

 女神はどうにか威厳を取り繕おうとしているらしく、やけに低い声音でそう言った。

「ワタクシがやらかしたとか、そういうのはとりあえず脇に置いておきましょう。今度ばかりは本当に大変なのです。(私の)破滅の時が迫っているのです」

「毎回、今度ばかりはって、仰っておられるような気がしますけど……で、今度は何なんです?」

「今夜、一人の赤ん坊が産まれます。その赤ん坊が寿命を迎えるまで、何の不満も持たないよう、接待してあげて欲しいのです」

「は?」

「接待です、接待! キャー! 社長さんステキーってヤツです」

「なんですそれ? さっぱり意味が分からないのですけど?」

 女神の信託には時々、聞きなれない言葉が混じることがある。

 シャチョーとは一体なんなのだろう。

「えーと、平たく言うと、その赤ん坊がとても重要人物なのです。ですから、あらゆる危機から彼を守り、あらゆる望みをかなえてあげて欲しい。そういうことです」

「重要人物……」

 聖女の脳裏に共に旅をした、少年勇者の姿が浮かび上がる。

 つまり、その赤ん坊が成長して、世界を救う人物になるそういうことなのだろうか?

「もし彼が、不満を抱えたまま生を終えれば……」

「終えれば……?」

「世にも悲惨な運命が(私を)待ち受けていることでしょう」

 だが、聖女は少しの沈黙の後、迷いのない声でこう応えた。

「お断りします」

「うんうん、カモみんなら絶対やってくれると……って! うえええええっ!? なんで? 今の『仕方ありませんねぇ』とか言って、OKしてくれる流れじゃないの!」

「だって、ベローチェさま。私、主婦ですよ? ウチの主人なんて、一人じゃなーんにも出来ない人なんですから、私がずっと傍に居てあげないと」

「まさか、アナタに惚気(のろけ)られるとは思ってませんでしたけど……そこを何とかぁ……。本当にピンチなんですぅ(私が)」

 泣きそうな声で訴えてくる女神に、聖女は思わずため息を吐いた。

「仕方がありません……では、娘たちの誰か一人に行かせましょう」

「娘? えーと、その……大丈夫なの?」

「聖女と魔王の娘ですよ?」

「そっか! えへへ、やっぱ、持つべき者は優しい信徒よね~! カモみんだーいすき! じゃ、ダンジョンの外に出たら、どこに行けばいいかわかるようにしとくから、よろしくぅ~」

 そして、聖女は受話器を置いた途端、盛大に肩を落とした。


 ◇ ◇ ◇


 食事を再開しながら、聖女が女神とのやりとりについて説明すると、長女と三女が「おおー!」と歓声を上げた。

「つまりぃ~、結界の外に出ていいってことぉ? その赤ん坊の面倒を見るだけでいいのよねぇ?」

「ハイハイハイ! リッコが行くぅ!」

 興奮気味に顔を突きつけてくる長女と三女。思わず苦笑する聖女。そのすぐ隣で、魔王が不機嫌そうな声を漏らした。

「パ、パパは反対だぞ! 娘たちをそ、外の世界になんて出して、悪い男にでも引っかかったらどうするつもりだ!」

「……魔王より悪い男は見てみたい気もしますけどね。どっちにしろ、いつかはこの子たちにも結婚相手を探してあげないと」

「やだ! やだいっ! 嫁になんてやらないんだからな!」

 ジタバタと暴れる魔王に苦笑しながら、聖女は娘たちを見回す。

「まぁ、フレデリカは論外として……」

「ええっ!?」

「……前に何やらかしたか、忘れたとは言わせないわよ?」

「ううっ、あれは……だってぇ」

 実は、長女フレデリカは、結界の外で生活していた時期がある。

 聖女の結界を破ることは誰にもできない。

 だが、魔王を封じ込める意味が無くなった今となっては、それももはや外部からの干渉を避ける意味合いしかない。

 魔王が人類を滅ぼそうと思っていなくとも、人類の側にそれを受け入れられる器はない。だからこの結界で、誰かがうっかり迷い込んでくるのを阻んでいるのだ。

 もはや、結界にそれ以上の意味はない。

 だから、聖女はちょくちょく封印を抜け出して、街へ買い出しにも行くし、人間に化けた魔王と時々デートもする。

 なにせ、あれから八十年の月日が経っているのだ。

 聖女を見知った人間などほとんど生きてはいないのだから、顔バレする恐れもない。

 最近では、フィルミナの街にできた巨大商業施設の『ダー★イェイ!』が、特にお気に入りだ。

 無駄にテンションの高い店員たちが「いぇーい!」と出迎えてくれる、明るい巨大商店街である。

 だが、娘たちを外に出すとなれば話は別だ。

 それなりにちゃんと教育したつもりなのだが、あくまで封印の奥でのこと。三人とも、どこか常識に欠けるところがある。

 だから、最初の娘のフレデリカがそれなりに大きくなった時点で、素性を隠して王都グラニスにある寄宿学校に入学させたのだ。

 聖女自身も学んだの母校であり、女神ベローチェを奉ずる由緒正しい神学校である。

 ところが、当の娘はたった一月足らずで、寄宿学校を跡形もなく吹っ飛ばして帰ってきたのだ。

 理由は、夏休みが終わりそうになったから。

 そのせいでそれ以降に産まれた次女、三女を結界の外に出したことはない。

 そういう意味でも、これは良い機会かもしれない。

 聖女は次女と三女に目を向ける。

「じゃあ……アーちゃん、ママの代わりに行ってもらおうかしら」

 聖女が次女アーヴィンにそう告げると、途端に三女が不満げな声を上げた。

「えー! アーちゃんだけズルい~! リッコが行きたいぃ!」

「私は別に行きたくないから……リッコでいいんじゃないの?」

 元々、感情の起伏に乏しい次女がそう口にすると、三女リッコがぴょんと椅子の上で飛び跳ねた。

「ほんとっ!」

「ダメよ。順番、順番だから。お姉ちゃんはだいぶ前にお外に出たし、次はアーちゃんの番、リッちゃんは今度ね」

「むぅー!」

 不満げに頬を膨らませる三女に、聖女は思わず苦笑する。

 三女のリッコは明るい良い子だが、残念なことに本当に、アホの子なのだ。

 その癖、物理戦闘力は姉妹の中でも最強。父親の魔王にも迫るというのだから、外に出したが最後、大惨事になるのは目に見えている。

 その点、次女のアーヴィンは、容姿こそ姉妹の中でただ一人父親似ではあるが、比較的大人しいし、それなりに常識を備えている(ように思える)。

「じゃあ、アーちゃん。お願いね」

「うん……あんまり気はすすまないけど」

 次女アーヴィンは、見るからに気乗りしないといった様子ではあったが、それでも大人しく頷いた。

 良く叱られる姉を見てきたおかげで、逆らったら本当に怖いのはパパではなく、ママであることを知っているからである。