『コンプライアンスの面で問題があると思わrrrrr・・・・・・』
灯りの落ちた深夜のオフィス。
暗闇に浮かび上がるPCのモニター。
つい先ほどまでカタカタと鳴り響いていたキータッチの音が、唐突に途切れた。
水沼耕介は頬骨の辺りにキーボードのスペースキーの感触を感じながら、眼球だけを動かしてモニターを見上げる。
重力が何十倍にもなったかのように身体が重い。
指先すら動かせそうにない。
「……納期」
それが彼の最後の言葉。
薄れゆく意識の中、彼が最期に目にしたのは、無機質な「r」の文字列だった。
タイフーン、カイゼン、ボンサイ、ツナミ、ゲイシャ、フジヤマ、スシ、テンプラ。
英語圏でもそのまま通じる日本語というのは意外と多い。
クレイジージャパニーズの象徴ともいわれる単語――『過労死』もその一つである。
百十二連勤を数えた日曜日の深夜、水沼耕介は彼の他には誰もいないオフィスでキーボードに突っ伏して、三十八年と十二日の短い人生、その終焉を迎えた。
直接の死因は、ベタなことに心筋梗塞。
睡眠不足とストレスからくる不整脈を延々と放置した結果である。
翌日にはまとめサイトなどで、ブラック企業の残酷物語として面白おかしく取り上げられる出来事には違いない。
だが、彼が勤務する中堅広告代理店がいわゆるブラック企業だったかというと、少し前までは決してそうでは無かった。
能力には疑問符がつくものの人の善い二代目社長の下、それなりに裁量も与えられ、やりがいもあった。
だが、景気が悪くなれば、企業において真っ先に切り捨てられるのが広報予算なのだ。
なんで? 業績が悪化したなら、もっと広告するんじゃないの? しなきゃいけないんじゃないの? そう思うかもしれない。
ごもっとも。至極まっとうなご意見だ。
だが、予算表とにらめっこしてみれば、すぐに分かる。
それなりの金額を削減できて、日々の企業活動に即座に影響が出ないのは大抵の場合、ソコしかないのだ。
そんな訳で、最大手の取引先からの広告発注が無くなって業績が傾き始めると、雪崩を打つように何もかもが悪い方向へと転がっていった。
大手代理店の二番煎じのキャンペーンしか打てない、コバンザメみたいな中小の広告代理店が、一度傾いた業績を立て直すにはリストラ以外に打つ手はなかったのだ。
かくして、ベテラン社員は軒並み退職。
営業から制作、WEBプロモーション、果てはデザインからDTP、校正校閲までを営業人員で賄おうというのだから、クオリティはお察しの通りである。
クオリティの低下に伴って新規の顧客も半減し、苛立ち混じりに繰り返される社員同士の深夜の罵り合い。
悪化する社内の空気に耐えきれなくなった若手社員も次々に辞めていった。
あとに残されたのは、転職するにはやや手遅れといった感のある、三十代後半から四十代の中堅社員たち。
とりわけ、お人好しな上に独り身の耕介の上に、これまで十一人がかりで行っていた業務が一気に圧し掛かったのだ。
もちろん百日を越える連続勤務など、法的にも許されることではない。だが、声を上げなければ法律が守ってくれることなどない。
いや、正確にいえば耕介自身には、日々の業務に忙殺されて声を上げるだけの余裕も無かったのだ。
なんでこうなった……とは思うが、仕方がないとも思う。お人好しにもほどがあると言われるかもしれないが、彼自身にはとりたてて恨む相手もいない。
薄れゆく意識の中、最後に彼の頭を過ったのは、「明日の朝、出勤してきた同僚たちは、一体どんな顔をするだろう」と、いたずらを仕掛けたばかりの子供のような想いだったのは、耕介本人にとっても意外な気がした。
◇ ◇ ◇
「……ずぬまさん、水沼耕介さん」
誰かが自分の名を呼んだような、そんな気がした。
耕介が静かに目を開くと、そこには真っ白な空間が広がっていた。
どちらが上で、どちらが下かも分からないような不可思議な感覚。ふわふわと漂うような、そんな感覚だ。
「お目覚めですかぁ?」
声が聞こえた方へと目を向けると、そこには一人の美しい女性の姿があった。
年のころは十八か十九ぐらいだろうか?
ウェディングドレスかと見まがうような、ゴテゴテとした装飾過剰な白いドレスをまとった西洋系の女性である。
青みがかった長い銀髪に、透き通るような白い肌。垂れ目がちの眼は碧く、どこか自信なさげな雰囲気を醸し出していた。
(日本語喋ってたけど……外国人だよな?)
「あなたは? それに……ここはどこなんでしょう?」
戸惑う耕介の様子に、その女性はクスリと笑った。
「ワタクシは女神ベローチェですぅ。ここは審判の空間なのですよぉ」
「女神さま?」
その瞬間、モニター上に映っていた『r』の羅列が耕介の脳裏を過る。
(なるほど、俺は死んだということか……)
「……ここは天国ってことですか?」
「うふふ、天国とか地獄とか、そんなのありませーん。ただの迷信ですぅ。ここはあなたが次に生まれ変わる先を決める場所。人間の罪の重さに応じて、来世に生まれ変わる先を決定する、ただそれだけの場所ですぅ」
「はぁ……?」
「分かりにくいですか? 言ってみれば、ゲームの分岐選択画面みたいなものですね」
「はあ」
ゲームなんて就職してからは全然やってないし、分岐選択画面と言われても、余計にしっくりこない……というか、女神が口にするには例えが俗っぽすぎるような、そんな気がした。
「あら、あまり動揺されないのですね。ここへ来た方は大抵取り乱すものなのですけれど……」
「はあ」
取り乱すには耕介の精神は摩耗しすぎていたし、目の前の光景があまりにも非現実的過ぎて、脳が処理するのを拒んでいたのだ。
「まあ、良いですわぁ。えーとぉ、水沼耕介さん、享年三十八歳、日本国埼玉県蕨市の御出身ですわねぇ」
「蕨? ……違いますけど?」
「うふふ、誤魔化したってダメですよ。もう死んじゃってますからね。ウソついたって生き返ったりできる訳じゃありませんよ?」
「はぁ、そうですか。でも俺、出身、関西なんですけど……」
「またまたぁ」
「いや、ホントに」
「むぅ……」
なんだか急に、不機嫌そうなムスッとした表情になる自称女神さま。だが、そんな顔をされたって困る。事実は事実なのだ。
「あの……?」
「もう! 往生際の悪い人ですねぇー! じゃあ、ちゃんと経歴を確認しますからね。えーと、自衛隊除隊後にフランス外人部隊に入隊して、アフガン駐留部隊に所属。カミカゼコースケと呼ばれ、テロリストとの死闘の末に、町はずれの廃工場で溶鉱炉におちて、アイルビーバックって親指を立てながら死亡した水沼耕介さんですよね?」
「誰だ、そいつ!?」
「違うんですか?」
「違います! 名前以外一ミリだってかすってませんってば!」
「そんなはずは……」
女神は後ろを向いて、なにやらゴソゴソとし始める。そして、
「あっ……」
と短い声を上げて、錆びた機械のようにぎこちなくこちらを振り向いた。
彼の目に、自称女神さまのただでさえ白い顔が蒼ざめていくのがはっきりと見て取れた。
うん、なるほど。
どうやら同姓同名の別人と取り違えたと、そういうことらしい。
彼女はおもしろいぐらいに動揺していて、アワアワと指先で宙を掻いている。
「ど、どうしましょう」
「どうしましょうって言われても……。いや、まあ、むしろ間違えてもらって良かったかも。ロクでもない人生でしたし」
「へ? …………お、怒らないんですかぁ?」
「まあ、ロクでもない人生でしたから」
「な、なんでそんな落ち着いてるのですかぁ?」
(いや、むしろアンタがなんでそんなに動揺してるのかが聞きたいよ。女神さまなんでしょうが……)
そんな想いは胸の内にしまって、耕介は一つ咳払いをする。
「さっき、生き返ったりできる訳じゃないっておっしゃってましたし、騒いでもどうしようも無さそうですから……。どうせ終わるなら、早めに終わってくれて良かったというか……」
途端に女神は困惑するような表情を浮かべた。
「……あっさり受け入れられるとぉ、それはそれで罪悪感がヒドいんですけどぉ……」
(どないせいっちゅうねん)
思わず肩を竦めると、女神はおずおずと問いかけてくる。
「あの……次は亀に輪廻するはずだったんですけど……。別人なんですよね?」
「少なくとも戦場に行ったことはないです」
「アフガンは?」
「マッチョが大暴れする映画でしか見たことありません」
「アレのロケ地はアリゾナ州です。アフガンじゃありません」
(要らなくないか? その情報)
女神はガクリとその場に膝から崩れ落ちる。器用なヒトだ。上も下もわからないって言っているんだから、設定はちゃんと守ってほしい。
やがて、彼女は泣きそうな顔で口を開いた。
「あの……も、元の身体には戻せませんけどぉ、ワタクシの管轄の別の世界に生まれ変わらせることなら出来ますけどぉ……」
「結構です。俺ももう疲れちゃったんで、亀とか良さそうじゃないですか、のんびりできそうだし」
「な、なにか凄いチートスキルとか付けますから……」
「いや、それはそれで、世界を救えとか言われても困るんで」
途端に女神さまはボロボロと泣きながら、耕介の肩を掴んでものすごい勢いで揺さぶり始めた。
「ぞごをなんどかぁああぁあああ!」
「ちょ! は、離してくださいってば!」
「お願いでずぅ。こんどミスしたら、先輩に殺ざれちゃうんでずぅう。望む形で転生ざぜであげまずがらぁあああ! 転生じでぐだざいぃいい!」
これには水沼耕介も引いた。ドン引きである。
(ポンコツだ、こいつ)
「わ、わかりました、わかりましたから!」
「ほんどぅ?」
「はい、本当です。だから泣き止んでください」
ぐすっと鼻をすすりながら見上げてくる女神に、耕介は思わずため息を吐いた。
(ほんと……何なんだこれ)
「じゃ、じゃあ、どんな人物に転生したいですか? できるだけリクエストには応えますけど?」
「どんな……?」
どんな人物と言われてもそれはそれで困る。イケメン? 金持ち? 天才? いやいや、それはそれで、どれもめんどくさそうなことに巻き込まれそうな気がする。
「えーと……楽な人生を歩めればなんでも」
「楽な人生……ですか?」
「ええ、楽したいです。田舎でのんびりって感じで……」
「わ、わかりました! 任せてください! そのかわりお願いですから、ワタクシのミスは誰にも言わないでください!」
必死に懇願する女神の姿に、耕介は思わず苦笑する。
「言いませんってば」
「言ったら、化けて出ちゃいますからね」
「さっき、死後の世界なんてないって言ってませんでしたっけ?」
生まれ変わるというのなら、スローライフも悪くない。
田舎で土にまみれて田畑を耕して、日の出とともに起き出して、暗くなったら床に入るような生活だ。
そういえば結婚だってしてみたいかも。
学生時代には彼女がいたこともあったけど……結婚というものには多少のあこがれがある。
「それでは……」
女神が手を振りかざした途端、光に包まれて耕介の姿が掻き消えた。
女神は「ふぅ……」と小さく息を吐いて額を拭う。
当面の危機は去った。
とりあえず、管轄している世界の中でも、比較的平和な世界エルステイン。その中堅国家フィグマの辺境貴族の子。それも三男坊という、とにかく楽な地位に生まれ変わらせた。
政治に参加出来るような地位ではないし、働かずとも食べていくことに困ることはない。それこそ、指一本動かさずとも、それなりに楽な人生を歩めるはずだ。
その上、こっそりチート能力を与えておいた。彼自身が気付くかどうかはわからないけれど。
これで大丈夫な筈だ……たぶん。
だが、万一、それでも彼が不満を持ったら……。
彼が次にその人生を終えるのは、長く見積もってもおおよそ八十年後。その頃には輪廻転生の担当神は持ち回りで、あの恐ろしい先輩に交代しているはずだ。
そこで彼が、今回与えられた人生に不満を持ってクレームでも付けようものなら、自分がミスを隠蔽した事がバレてしまう。
「そんなことになったらぁ……」
女神は思わず身震いする。
「も、文句をつける気が起きないくらいの、最高の人生を与えるしかありません! 接待! そ、そう接待ですぅ!」
謝罪対応のコツは相手が望む以上のこと、それも相手の想像を超えるレベルの対応をすることだ。そうすればクレーム化することはない。
でも、あれ……なにか忘れてるような? エルステインって確か……。
そこで、女神はさーっと青ざめる。
「あわ、わわわ……わ、忘れてました。そ、そうです! さ、最強の従者を用意しなくちゃ。あっさりと困難を跳ねのけられるぐらいの強力な従者が必要です」
女神は何もない空間に手を伸ばすと、慌ただしく黒電話の受話器を手に取った。
ゴツゴツとした岩肌。ラストダンジョンの最奥。広大な地下空間で、聖剣の刀身がキラリと光った。
「覚悟しろ! 魔王ッ!」
まだ少年と呼ぶのが相応しい、そんな幼げな勇者が、剣を携えて突っ込んでいく。
物憂げにひじ掛けにもたれ掛かった黒髪の美男子。こめかみに二本のねじくれた角を持つ魔王が、その口元に嘲るような嗤いを貼り付けた。
「ふっ……愚かな」
魔王に慌てる様子はない。
頭上へと振り下ろされる聖剣。それを彼は、指先で摘まむように受け止めた。
「な、なんだってッ!?」
少年勇者は驚愕の表情を浮かべ、彼に従ってここまで共にやってきた仲間たちは目を見開いて言葉を失う。
次の瞬間、魔王の眼が妖しく光ると、剣だけをその場に残して、少年勇者は見えない力に弾き飛ばされ、そのまま壁面に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
「勇者さまぁ――――!」
武道家の少女が悲痛な声を上げて、勇者の下へと駆け寄っていく。
「どういうことだよ、爺さん! 聖剣なら魔王を倒せるんじゃなかったのか!」
「ぬ、ぬぅう、そのはずなのじゃが」
巨漢の戦士が背後を振り返って声を荒げ、老齢の賢者は呻いた。
「ふん、確かに本物の聖剣ならばそうであろうな。しかし、こんな鈍らを聖剣とは……片腹痛いわ」
聖剣だと言われていたその剣が、魔王の手の中で甲高い音とともに粉々になって崩れ落ちる。
「バカな! 偽物じゃったというのか!」
魔王は、老賢者の驚愕の声ににんまりとイヤらしい笑みを浮かべたかと思うと、大儀そうに椅子から立ち上がり、勇者とその仲間たちを睥睨した。
「ここまで来たことは褒めてやろう。だが、この茶番ももう終わりだ」
途端に魔王の周囲で、目視できるほどの濃厚な魔力が立ち昇り始める。
「くっ……」
巨漢の戦士が手にした戦斧を構え直し、もはやこれまでとばかりに、無謀にも特攻を図ろうとする。
だが、その瞬間、それを制して前へと歩み出る者がいた。
それは白い僧衣に身を包んだ若い女性。金色の長い髪に、意志の強そうな口元。凛とした雰囲気をまとった美女である。
「ここはワタクシにお任せください。勇者さまさえ生きておられれば、再度立ち上がることも出来ましょう」
「せ、聖女殿! 何を……」
思わず目を剥く老賢者に、聖女はニコリと微笑みかけた。
「ワタクシの身もろとも魔王を封印いたします」
「ばかな! それではアナタが!」
「ふはは! 女ァ、貴様ごときがこの魔王に敵うとでも思っているのか!」
「早く! 勇者さまを連れてお逃げください!」
「くっ……ス、スマン!」
巨漢の戦士が昏倒したままの少年勇者を脇に抱え、聖女を除いた一行は玄室を飛び出した。
彼らは口惜しげに歯を食いしばり、必死に元来た道を駆け上がる。
やがて、地上へと続く階段の途上、振り返った武道家の少女は、背後で激しい光が明滅するのを見た。
あとのことは、推測するしかない。
だが、この日を境に魔族の侵攻がピタリと収まったことから考えても、聖女の封印は成功したのだと……そう思われた。
そして、八十年余りの時が過ぎた。
ラストダンジョンの最奥。地下空間の一角に描き出された封印の紋章。青白い光を放つその更に向こう側には、外側からは干渉出来ない空間がある。
その空間――暗い石畳の玄室で、重厚な黒檀のテーブルを囲み囁きあう者たちの姿があった。
「ま、まさかあやつがやられたというのか?」
「ふっ、取り乱すでない。なぁに、ヤツは我ら四天王の中でも最弱よ」
暗灰色のローブを目深に被った三人の人影。
三人が囲むテーブルの、そのずっと奥の玉座には、ねじくれた角を持つ黒髪の美男子――八十年の時を経ても容貌に全く変化のない魔王の姿も見える。
「魔王さま、次は私が行かせていただきましょう!」
「いや、吾輩が参ろう」
「馬鹿な! おまえではヤツの二の舞ではないか。おまえを死なせる訳にはいかん」
「何をいう! おぬしを失えばわが軍は大打撃だ。やはり吾輩が!」
言い争いを始める二人をキョロキョロと見やって、残りの一人がここぞとばかりに口を挟む。
「ならば、私が!」
すると残りの二人は顔を見合わせてこう言った。
「「どうぞ、どうぞ」」
「ちょ!?」
それは、もはや伝統芸能の域に達したお約束の展開。
残りの一人が驚愕の声を上げたその瞬間、魔王が拍手しながら重々しく頷いた。
「うむ、完璧である。ブラボーであるぞ!」
拍手の音が響く中、暗い玄室にパッと灯りがともって、鍋を手にした女性が玄室の中へと入ってくる。
「さあ、みんなご飯よぉ~。四天王ごっこはそれぐらいにして、テーブルの上かたずけて。お姉ちゃん、鍋敷きお願いね~!」
「「「は~い」」」
「うむ、今宵の晩餐はなんだ」
「今日はパパの大好きなホワイトシチューよ」
「くっ、くっ、くっ、良いではないか! ママのシチューは最高だからな」
ダンジョンの最奥、聖女が施した何人も破れぬ結界。
その向こう側に封印されたはずの玉座の間は、八十年の時を経た現在、一家団欒の空間へと変貌していた。
よくみれば、魔王はよれよれの部屋着。
それを甲斐甲斐しく世話をするエプロン姿の金髪の女性はあの聖女である。
共に見た目は二十代そこそこ。
八十年前のあの時から、ほとんど変化は見られない。
だが、二人の関係性は百八十度変化していた。
醸し出す雰囲気は亭主関白をきどる夫と、子供じみた夫を掌で転がす賢妻による熟年夫婦といった雰囲気である。
一体なにがあったと言いたくなるような光景ではあるが……。
あの日、二人は共に封印され、以来、この玄室で戦いに明け暮れた。攻める魔王。聖女は魔法を駆使して防御する。そんな長きにわたる戦いの中で、二人は互いを認め合い、やがて……愛が生まれた。
雨の中で捨て犬を抱き上げる不良少年に、生徒会長を務める優等生が思わずキュンとしちゃう的な、そんなラブコメ展開が絶え間ない戦闘の間に幾度かあって、次第に意識しあう二人。
即死魔法とともに放たれる魔王の熱い視線。
恥じらいながら、魔法障壁で跳ね返す聖女。
やがて二人は密かに愛を育み、最後は魔王のプロポーズでまさかのゴールイン。
「平凡でも温かい家庭にしましょうね」
聖女は柔らかな微笑みを浮かべてそう言った。
どのあたりが平凡なのかはわからないが、以来、幸せな毎日が続いている。
「ああっ!? フレちゃんが、リッコの肉とったー!」
「あらぁ~、はしっこによけてるから、いらないんだと思ったわぁ~」
「姉さん……大人げない」
「よぉーし、リッコにはパパのお肉を分けてあげよう」
「ええ……なんかパパが口つけたのヤダぁ……」
「ママぁ……娘が意地悪するよぉぉぉ」
「こら、リッちゃん、そんなこと言うから、パパいじけちゃったじゃないのぉ」
聖女と魔王、そして二人の間に生まれた三人の娘たちによる普通でない人々の、あまりにも普通な家族団らん風景。
末妹の肉を強奪するという暴挙に出たのは、長女フレデリカ。
たれ目勝ちな瞳に、金色のふわふわした肩までの髪。
フリル過多なピンクのドレスを纏った、どことなくたんぽぽの綿毛や日だまりを連想させる、ゆるふわ系のお姉さんである。
その姉の暴挙にため息を吐いたのが次女アーヴィン。
頭の上で揺れる一房のアホ毛に若干の違和感を感じるが、それを除けば清楚という言葉のよく似合う美少女である。
腰まで届く長くつややかな黒髪に紅い瞳。
オレンジの差し色の入ったシンプルな濃紺のドレスを纏った、どこか冷たい印象を与える少女であった。
そして最後に、年頃の娘らしい暴言で父親を凹ましたのが、三女リッコ。
みるからにIQが低そう……もとい天真爛漫な少女。
栗色巻き毛に黄色の短衣とホットパンツ姿が健康的で、幼女と言っても差し支えの無い小柄な女の子である。
さて、賑やかな夕食が終盤に差し掛かった頃、そんな魔王一家の団欒のひと時に、思いもかけない邪魔が入る。
この世界では時折、異世界から漂流物が流れ着くことがある。
その多くは用途もわからぬままに、オブジェや飾り物として高値で取引されるのだが、この玉座の間にも一つ、オブジェとして飾られている異世界からの漂流物があった。
それが、いきなり『ジリリリリン!』と、けたたましい音を立てたのだ。
この玉座の間にあまりにも似つかわしくないそれは――ダイヤル式の黒電話であった。
突然けたたましい音を立てる黒電話。
それまで只の飾りだとしか思っていなかった物体が、いきなり大きな音を立てたのだ。これには魔王と聖女も顔を見合わせる。
「パ、パパ」
「……う、うむ」
魔王は手の中に禍々しい形の暗黒剣を出現させて、警戒しながら立ち上がる。
そして、黒電話の方へと歩み寄った。
緊張感に包まれる玉座の間。
娘たちの誰かが、ゴクリと喉を鳴らした。
「き、気をつけてね、パパ!」
「ふっ、私を誰だと思っておる!」
三女リッコの声援に応えて、魔王は恐る恐る手を伸ばし、けたたましく鳴り響き続けている黒電話。その受話器を握る。
そして、わずかに受話器を浮かせると『リンッ……』とわずかな残響を残して、ベルの音は鳴りやんだ。
思わず、ほっ……と、息を吐く聖女と娘たち。
顔には出さないが、魔王もひそかに胸を撫でおろした。
だが、今度は魔王が手にしたその受話器の奥から、なにやらボソボソと小さな声が聞こえてくる。
「……なんだ?」
魔王が警戒しながら受話器に耳を当てると、聞こえてきたそれは、年若い女の声だった。
「……もしもーし、もっしもーし! 聞こえませんか~!」
「……何者だ」
「あ、やっと繋がったぁ~。えへへ、えーとぉ、聖女カモミールのお宅はこちらですかぁ?」
「何者だと問うておる! こちらの問いに答えよ!」
「これは失礼しましたぁ~。ワタクシ、カモみんの古い知り合いでぇ、ベローチェっていいますぅ。カモみんはいますかぁ?」
「……う、うむ、しばし待て」
困惑を隠しきれない様子で、魔王が首を捻りながら、聖女を手招きする。
「どうしたの? パパ」
「いや、なんか……ママの知り合いだと言っておるのだが、ベローチェなる者を知っておるか?」
「……ベローチェさ、ま?」
その途端、聖女は頭痛を堪えるような素振りを見せた。
明らかにイヤそうな表情だ。
魔王の手から受話器を受け取ると、彼女は苦虫をかみつぶしたかのような渋い顔になって、受話器へと語り掛けた。
「……カモミールです」
「やっほーカモみん。久しぶり~!」
「やっほーじゃありません。女神さま、今度は一体、何をやらかしたんですか?」
「なんで、やらかし前提なの!?」
「違う……のですか?」
「……えへ」
「ほら、やっぱり。女神様が神託を送ってくる時って、いつも何かをやらかした尻ぬぐいに決まってるんですから」
「えーと……そうだっけ?」
「そうだっけじゃありませんよ! 毎回毎回やらかしまくってくれるお陰で、こっちはガンガン信仰心を削られて、すごく、すご――く迷惑してるんですからね!」
久しぶりに見る妻の剣幕に、魔王が思わず身を縮める。
「ま、まあ落ち着きなさい。聖女カモミールよ」
女神はどうにか威厳を取り繕おうとしているらしく、やけに低い声音でそう言った。
「ワタクシがやらかしたとか、そういうのはとりあえず脇に置いておきましょう。今度ばかりは本当に大変なのです。(私の)破滅の時が迫っているのです」
「毎回、今度ばかりはって、仰っておられるような気がしますけど……で、今度は何なんです?」
「今夜、一人の赤ん坊が産まれます。その赤ん坊が寿命を迎えるまで、何の不満も持たないよう、接待してあげて欲しいのです」
「は?」
「接待です、接待! キャー! 社長さんステキーってヤツです」
「なんですそれ? さっぱり意味が分からないのですけど?」
女神の信託には時々、聞きなれない言葉が混じることがある。
シャチョーとは一体なんなのだろう。
「えーと、平たく言うと、その赤ん坊がとても重要人物なのです。ですから、あらゆる危機から彼を守り、あらゆる望みをかなえてあげて欲しい。そういうことです」
「重要人物……」
聖女の脳裏に共に旅をした、少年勇者の姿が浮かび上がる。
つまり、その赤ん坊が成長して、世界を救う人物になるそういうことなのだろうか?
「もし彼が、不満を抱えたまま生を終えれば……」
「終えれば……?」
「世にも悲惨な運命が(私を)待ち受けていることでしょう」
だが、聖女は少しの沈黙の後、迷いのない声でこう応えた。
「お断りします」
「うんうん、カモみんなら絶対やってくれると……って! うえええええっ!? なんで? 今の『仕方ありませんねぇ』とか言って、OKしてくれる流れじゃないの!」
「だって、ベローチェさま。私、主婦ですよ? ウチの主人なんて、一人じゃなーんにも出来ない人なんですから、私がずっと傍に居てあげないと」
「まさか、アナタに惚気られるとは思ってませんでしたけど……そこを何とかぁ……。本当にピンチなんですぅ(私が)」
泣きそうな声で訴えてくる女神に、聖女は思わずため息を吐いた。
「仕方がありません……では、娘たちの誰か一人に行かせましょう」
「娘? えーと、その……大丈夫なの?」
「聖女と魔王の娘ですよ?」
「そっか! えへへ、やっぱ、持つべき者は優しい信徒よね~! カモみんだーいすき! じゃ、ダンジョンの外に出たら、どこに行けばいいかわかるようにしとくから、よろしくぅ~」
そして、聖女は受話器を置いた途端、盛大に肩を落とした。
◇ ◇ ◇
食事を再開しながら、聖女が女神とのやりとりについて説明すると、長女と三女が「おおー!」と歓声を上げた。
「つまりぃ~、結界の外に出ていいってことぉ? その赤ん坊の面倒を見るだけでいいのよねぇ?」
「ハイハイハイ! リッコが行くぅ!」
興奮気味に顔を突きつけてくる長女と三女。思わず苦笑する聖女。そのすぐ隣で、魔王が不機嫌そうな声を漏らした。
「パ、パパは反対だぞ! 娘たちをそ、外の世界になんて出して、悪い男にでも引っかかったらどうするつもりだ!」
「……魔王より悪い男は見てみたい気もしますけどね。どっちにしろ、いつかはこの子たちにも結婚相手を探してあげないと」
「やだ! やだいっ! 嫁になんてやらないんだからな!」
ジタバタと暴れる魔王に苦笑しながら、聖女は娘たちを見回す。
「まぁ、フレデリカは論外として……」
「ええっ!?」
「……前に何やらかしたか、忘れたとは言わせないわよ?」
「ううっ、あれは……だってぇ」
実は、長女フレデリカは、結界の外で生活していた時期がある。
聖女の結界を破ることは誰にもできない。
だが、魔王を封じ込める意味が無くなった今となっては、それももはや外部からの干渉を避ける意味合いしかない。
魔王が人類を滅ぼそうと思っていなくとも、人類の側にそれを受け入れられる器はない。だからこの結界で、誰かがうっかり迷い込んでくるのを阻んでいるのだ。
もはや、結界にそれ以上の意味はない。
だから、聖女はちょくちょく封印を抜け出して、街へ買い出しにも行くし、人間に化けた魔王と時々デートもする。
なにせ、あれから八十年の月日が経っているのだ。
聖女を見知った人間などほとんど生きてはいないのだから、顔バレする恐れもない。
最近では、フィルミナの街にできた巨大商業施設の『ダー★イェイ!』が、特にお気に入りだ。
無駄にテンションの高い店員たちが「いぇーい!」と出迎えてくれる、明るい巨大商店街である。
だが、娘たちを外に出すとなれば話は別だ。
それなりにちゃんと教育したつもりなのだが、あくまで封印の奥でのこと。三人とも、どこか常識に欠けるところがある。
だから、最初の娘のフレデリカがそれなりに大きくなった時点で、素性を隠して王都グラニスにある寄宿学校に入学させたのだ。
聖女自身も学んだの母校であり、女神ベローチェを奉ずる由緒正しい神学校である。
ところが、当の娘はたった一月足らずで、寄宿学校を跡形もなく吹っ飛ばして帰ってきたのだ。
理由は、夏休みが終わりそうになったから。
そのせいでそれ以降に産まれた次女、三女を結界の外に出したことはない。
そういう意味でも、これは良い機会かもしれない。
聖女は次女と三女に目を向ける。
「じゃあ……アーちゃん、ママの代わりに行ってもらおうかしら」
聖女が次女アーヴィンにそう告げると、途端に三女が不満げな声を上げた。
「えー! アーちゃんだけズルい~! リッコが行きたいぃ!」
「私は別に行きたくないから……リッコでいいんじゃないの?」
元々、感情の起伏に乏しい次女がそう口にすると、三女リッコがぴょんと椅子の上で飛び跳ねた。
「ほんとっ!」
「ダメよ。順番、順番だから。お姉ちゃんはだいぶ前にお外に出たし、次はアーちゃんの番、リッちゃんは今度ね」
「むぅー!」
不満げに頬を膨らませる三女に、聖女は思わず苦笑する。
三女のリッコは明るい良い子だが、残念なことに本当に、アホの子なのだ。
その癖、物理戦闘力は姉妹の中でも最強。父親の魔王にも迫るというのだから、外に出したが最後、大惨事になるのは目に見えている。
その点、次女のアーヴィンは、容姿こそ姉妹の中でただ一人父親似ではあるが、比較的大人しいし、それなりに常識を備えている(ように思える)。
「じゃあ、アーちゃん。お願いね」
「うん……あんまり気はすすまないけど」
次女アーヴィンは、見るからに気乗りしないといった様子ではあったが、それでも大人しく頷いた。
良く叱られる姉を見てきたおかげで、逆らったら本当に怖いのはパパではなく、ママであることを知っているからである。
「じゃあ……行ってくる」
「ええ、お願いね。失敗したら女神さまがウザいから、出来るだけ頑張ってね」
「うん、わかった」
(ママは、なんでそんなウザい女神を信奉してるんだろ?)
アーヴィンは首を傾げながら、聖女が結界に開けた空隙をくぐって、外へと歩み出た。
温度制御の完璧な結界の内側と違って、外は少し肌寒い。
ラストダンジョンの最奥、嘗て魔王と勇者パーティが戦闘を繰り広げた広大な地下空間。
それが、彼女の初めて見る外の世界であった。
「外に出れば、すぐに分かるって言ってたけど……?」
ぐるりと見回してみても、そこにあるのはごつごつとした岩肌だけ。
さてどうしたものかとアーヴィンが首をひねったその途端、地の底から響くような低い声が響き渡った。
「お待ちしておりました……黒の姫さま」
途端に轟音とともに岩肌の一角が崩れ落ちる。
立ち上る土煙の向こう側で、巨大な黒い竜が長い首をもたげた。
高い天井につかえそうなほどの巨体。
普通の人間であれば、目にしただけで魂まで擂り潰されてしまいそうな恐ろしい姿の巨大な竜である。
だが、アーヴィンは立ち昇る土煙を煩わしげに払いながら、平然と問いかける。
「誰?」
「我が名は邪竜ベルティモ・ダヌンゲティアヌス・サルトーリ。魔王さまのご下命により、黒の姫さまにお伴させていただきまする」
どうやら子煩悩な父親が、事前に部下に通達しておいたということらしい。
「お伴って……。これから行くのは人間の街なのよ? アナタみたいな大きな魔物、近づいただけで大騒ぎじゃない」
「その点なら問題ございませぬ。我は自在に大きさを変えられますゆえ」
途端に、邪竜の身体がシュルシュルと縮んで、最後には腕に抱きかかえられるほどの、ちまっとした姿になった。
アーヴィンは肩を竦める。
「まあ、いいわ。まずはここから出ないと……ベルティ……なんだっけ?」
「ベルティモ・ダヌンゲティアヌス・サルトーリでございます」
「長い。ベルで良いわね?」
「はっ! 黒の姫さま! どうぞ御心のままに」
「ところで……なに? その黒の姫さまって?」
「魔王さまからは、そうお呼びするようにと、仰せつかっておりまする」
アーヴィンは小さく肩を竦める。
正直、パパは趣味が悪いと思う。
「……まあいいけど。人間の街についたら、アナタは絶対に喋っちゃダメよ」
「承知しております。では、こちらの非常口から、直接外へ出れますゆえ」
そう言って、邪竜ベルは首を伸ばして、岩肌の一角を指し示す。
「えーと、ちょっと待って? ここラストダンジョンの一番奥なのよね? 非常口で直接外と繋がってるの?」
「左様でございます。魔王妃さまも初めてそれをお知りになった時には『あんなに苦労したのに……』と、複雑そうなお顔をなさっておられました」
それはそうだろう。
複雑そうではなくて、複雑なのだ。
アーヴィンも勇者一行の旅については、聖女本人から寝物語に聞かされている。
ラストダンジョンでは無数の魔物たちを打ち倒し、張り巡らされた無数の罠を掻い潜りながら、実に一月近くの時間をかけて、魔王の下へと辿り着いたのだと、そう聞いている。
「その……非常口から攻め込まれたらどうなるの?」
「それはまあ……ものの数分で、ここまでたどり着かれてしまいますな」
「パパらしいといえば、パパらしいけど……」
アーヴィンの知る限り、魔王は非常に大雑把なのだ。
ママは「男はそれぐらいの方がいいのよ」というが、いくらなんでもやることが雑にもほどがある。
「ま……まあ、いいわ。案内して」
「はっ!」
壁面に巧みに隠された階段を邪竜ベルの後について上っていくと、本当にわずか数分で、人一人が屈んで通れる程度の小さな扉に辿り着いた。
邪竜ベルが短い手と鼻先を押し付けてそれを開くと、途端に澄み切った空気がダンジョンの中へと流れ込んでくる。
季節は初春、時刻は深夜のことである。
肌寒くも清々しい外の空気。
アーヴィンは、扉をくぐって表へ出ると、ぐるりと周囲を見回して呟いた。
「綺麗なところ……。あれが月で、あれが星?」
彼女が出たのは、地下にラストダンジョンを持つ魔の山の中腹。
はっきり言って不気味としか言いようのない鬱蒼とした森の中なのだが、生まれて初めて見上げた夜空は、アーヴィンの目に、あまりにも美しかった。
「で、どっちへ行けばいいの?」
「はっ! 我が元のサイズに戻りますゆえ、背にお乗りください。目的地ははっきりしておりますので、その近くまで空から参りましょう」
「目的地ははっきりしている?」
「はっ! あちらをご覧ください」
ベルが鼻先で指し示した方向。そちらに目を凝らす。
暗い夜空と大地が交わる辺り、そこにひときわ明るく輝く星が見える。
だが、星にしてはなにか歪な形のようにも思える。
更にじっと目を凝らしてみると、それは空に描かれた光の文字。
『↓ココ』
アーヴィンは思わず頭を抱える。
……まあ、たぶん普通の人間には見えないに違いない。
そう思うことにした。
「で、あそこまでどれぐらいかかるの?」
「私の翼であれば、一刻とかからないでしょう」
「一刻?」
アーヴィンはため息を吐いて、すっとベルへと手を伸ばして、その身体を抱きかかえる。
「黒の姫さま?」
「そんなの遅すぎて、話にならないわ」
「は?」
「口閉じてなさい、舌噛むわよ!」
次の瞬間、アーヴィンは山の斜面を駆け出し始める。
一気に加速、そして踏み込む。そして跳躍。
ホップ! ステップ! ジャンプ!
三段跳びの要領で飛ぶ。
そして、ステップの「プ」の字を口にする頃には、すでに音速を越えていた。
「うひぃい―――――!?」
ベルが邪竜らしからぬ、情けない悲鳴を上げる。
まったく、騒がしい竜だ。
この程度のヤツが、パパの次に強かったというのであれば、勇者パーティがラストダンジョンの最奥に辿り着いたのも仕方がないことのようにも思える。
別に、アーヴィンは姉妹の中で一番能力が高いという訳ではないのだ。
なにせ、魔力なら長姉フレデリカの方が格段に優れていて、身体能力なら末妹のリッコの方が断然優れている。
それに比べれば、アーヴィンはどちらも中途半端なのだ。
だが、まあ能力が高すぎるのも善し悪しで。
例えば、三女は聖女に三段跳びを禁止されている。
理由は、光速を越えてしまうから。
アーヴィンとリッコは二歳しか年が離れていないのに、リッコがいまだに幼女なのは、過去に三段跳びで、うっかり時を越えてしまったせいである。
わずか数秒で、夜空に浮かんだ『↓ココ』の文字が、視界を覆うほどに大きくなる。
文字の真下に、小高い丘の上にそびえ立つ大きな屋敷が見えた。
「あの屋敷?」
「お、おそらく」
アーヴィンの問いかけに、邪竜ベルが声を上擦らせて答える。
「じゃあ、着地するから気を付けて」
気をつけてと言われても、正直ベルに出来ることなど何もない。
なにせ音速の慣性飛行である。
うまく衝撃を殺してやらないと、ソニックブームで着地点周辺数キロほどが、瞬時に荒野と化してしまうのだ。
アーヴィンは着地と同時にベルを胸に抱え込み、身体を丸めて前方へと身を投げ出す。回転しながら衝撃を宙に散らすのだ。
流石に音速で飛来した物体の衝撃は半端ではない。
まさに地獄車。アーヴィンは凄まじい衝撃をまとった弾丸と化して地面をえぐり取っていく。
それでも、今までの経験から言えば、屋敷の直前辺りで止まれるはず。
アーヴィンはそう思っていた。
疑いもしなかった。
だが、これまで遊びで三段跳びを行ったのは、すべて結界の内側、玉座の間でのこと。
亜空間に存在する玉座の間のサイズは、魔王の意思で自由自在。
常に壁に激突する前に停止出来ていたのは、魔王が娘の動きに合わせて玉座の間のサイズを変更していたからだ。
娘可愛さに甘やかしまくったツケが、第三者の身に降りかかったのだ。
ある意味、魔王らしい出来事ではあった。
結果、『↓ココ』の文字が指し示す屋敷。
アーヴィンは音速を保ったまま、そこに突っ込んだ。
吹き荒れる風、吹き飛ぶ外壁、へし折れる柱、崩落する屋根。
一瞬にして全壊する屋敷。
濛々と立ち上った土煙は、地上数百メートルにまで到達した。
時間を半日ほど遡る。
初春の陽気、窓からは明るい陽射しが差し込む廊下で、扉の向こうから聞こえてくる最愛の妻の呻き声に、辺境貴族マルグリット家の当主クレストは胸を痛めていた。
産気づいてからすでに数刻、四度目の出産だというのに、我が子はなかなか出てきてはくれない。
妻の苦しげな声に耐えかねて、クレストは廊下に跪くと、神に祈りをささげた。
この国の守り神である愛の女神ベローチェに。
すると、クレストの耳朶の奥に突然、若い女性の声が響き渡った。
(忠実なる我が信徒クレストよ。聞こえますか? ワタクシは今、あなたの心に直接語りかけています。ワタクシは女神ベローチェ、誰がどう見ても美しく気高い、女神の中の女神ベローチェです。聞こえますか?)
「め、め、女神さまぁあああ!?」
これには、クレストも流石に腰を抜かしそうになった。
(あなたの子はもうすぐ無事に生まれます。おめでとうございます。あなたの妻の身の安全も、ワタクシが保証しましょう)
「本当ですか! あ、ありがとうございます!」
(そして、その新たに生まれてくる赤ん坊は、ワタクシが選んだ子――女神に選ばれし聖なる子です)
「えっ!?」
(大事に、大事に、育てるのですよ)
「も、もちろんです。私の子が……女神さまにお選びいただけるなんて、なんたる栄誉でしょうか!」
(うん、うん、そうでしょう、そうでしょう。アナタは良くわかっていますね。ご褒美に生え際が後退し始めるのを、二年遅らせてあげましょう)
「ははーっ! ありがとうございます」
(大事に育てるとは言っても、並大抵の育て方ではいけませんよ。まず、怒ってはいけません、叱ってはいけません、説教してはいけません)
「は、はい」
(最高の環境を用意し、最高の待遇を用意しなさい。欲しいというものは何でも買い与えなさい。寝たいというのならいつまでも寝させてあげなさい。食べたいというのなら、なんでも食べさせてあげなさい。女性を望むなら、何人でも侍らせなさい)
「そ、それは……随分な放蕩息子に育ちそうな気もしますが……」
(大丈夫です。そんなに無茶をいうタイプには見えませんでしたから……なんにせよ、その子の望むことを全力で叶えるのです。いいですね)
「は……はぁ」
(返事!)
「ハイッ!!」
(その子が不満を持たずに過ごしている限り、あなたの家の繁栄とあなたの額の生え際の安泰を約束いたしましょう)
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
なんでそんなに生え際? とは思ったが、もちろん口には出さない。
(そして、この子のために従者を遣わしましょう)
「従者でございますか?」
(そうです。この子にふさわしい最強の守護者を遣わせます)
この国、フィグマにおいて貴族は成人と同時に、生涯の主従となる守護者を選ぶ風習がある。
無論、クレストにも守護者、ブルースという名の執事がいる。
だが、生まれたばかりの赤子に守護者をあてがうなど、これまで聞いたこともない。
「どんな方なのでしょう?」
(今夜遅くにこの屋敷を訪れ……え? ちょ!? はぁああああっ!?)
「え、あのぉ……め、女神さま?」
(あ……コホン、失礼。ちょっと未来を覗き見して、ドン引きしてしまいました)
「は?」
(まず、その子が生まれたら、この屋敷から避難しなさい)
「え? それはどういう意味で……」
(ちょっとした手違いです)
「手違い? いや……あの、本当に女神さまなんですよね?」
(そうですよ? なにか問題でも? なんなら今すぐ生え際を後頭部まで移動させてあげましょうか?)
「め、滅相もございません!」
(いいですか、今夜、夜遅く、この屋敷に少女が一人、音速で突っ込んできます)
「音速?」
(音速です)
「…………」
ちょっと、なに言ってんのかわからない。
(そしてその衝撃でこの館は倒壊するでしょう。そして倒壊した後の廃墟、その中央に残った柱に突き刺さっている少女こそが、あなたの子の守護者です)
「突き刺さっ!? ええっ!?」
(インパクト抜群ですよね。あはは、女神のワタクシもドン引きです)
「えーっと……それは一体なんの例えなのでしょう? やっぱり教典的な複雑な解釈の必要なお話なのでしょうか?」
(いいえ、ガチです)
「ガチ?」
(いけません。それ以上考えてはいけません。その時が来ればわかります。いいですね。四の五の言わずに言われた通りにするんですよ!)
「か、かしこまりました!」
かくして、子供が誕生するやいなや、クレストは慌ただしく家財を別邸の方へと運び込み、女神の指示通りに、家族に使用人たち総出で避難する。
そして、別邸で新たに生まれた子の顔を覗き込みながら、妻に女神から受けた神託について説明していると、外からすさまじい轟音が響き渡った。
「き、来た! 音速の守護者か!」
クレストが慌てて表へ飛び出すと、空に浮かんだ月に届くほどに高く砂煙が立ち昇っていた。
それは明らかに本邸のあった場所。
「ブルース! すぐに馬車の用意を!」
「はい、旦那様!」
馬車を用意させ、クレストは自らの守護者たる執事とともに、退去したばかりの本邸へと急ぐ。
そして――
「な、なんだ、これは!」
本邸へと続く道はえぐれて深い溝のようになっていて、えぐれた地面には、プスプスと赤熱した石が黒煙を立ち昇らせている。
クレストと執事ブルースは互いに顔を見合わせると、ゴクリと息を呑んで、その溝の脇を馬車でひた走り、ついに本邸へとたどり着いた。
たどり着いてみれば、本邸は見るも無残な有様である。
柱という柱はへし折れ、屋根は崩落、幾千年の時を経た遺跡さながらに崩れ残った壁が残っているばかり。
そして館を支えていた中央の巨大な柱。
その柱には、蜘蛛の巣上のひび割れの中央に、人間の腰から下が生えていた。
「女神さまのご神託の通り……だが」
一体、何をどうやったら、こんなことになるんだ。
その言葉をぐっと飲みこんで、クレストは柱の方へと歩み寄る。
近づいてみると、その下半身は年若い女性のものらしく、じたばたと暴れていた。
「あ……あの、守護者さま……ですか?」
そう声を掛けた途端、柱の女性の身体がぴくんと跳ねた。
「そう」
そう言って、その女性の下半身はピンと足を伸ばす。
威厳を保とうとでも考えているのかもしれないが、「気をつけ」の姿勢になったせいで、それまで以上に『突き刺さってる感』がスゴかった。
「あの……引っ張りましょうか?」
「ええ、お願い。でもスカートの中を見たら殺す」
「わ……わかりました」
クレストは執事ブルースと頷きあう。
すでにスカートが盛大にめくれあがっていることは、絶対にバレないようにしようと心に決めた。
しれっとスカートを直し、執事と二人でなんとか引き抜いてみる。
畑の根菜さながらに引き抜かれたその人物。それは確かに美しい少女だった。
土煙で多少汚れてはいるが、長い黒髪に紅玉の瞳。三日月のような鋭利な美しさをもつ少女である。
パンツの子供っぽさからは、想像もつかない美しさだった。
「守護者さま、一体、ここでなにが起こったんでしょう?」
「さあ……」
「…………」
さあの一言で誤魔化そうという辺り、すさまじい図太さである。流石は女神が選んだ守護者といったところだろうか。
女神様は『音速』で突っ込んでくると仰っていたが、流石にそれは大袈裟だろう。
そうでなければ、こんな清楚な少女が平然としていられるはずがない。
クレストは、現実を直視するのを止める。そして、気を取り直して少女を馬車に載せ、我が子の眠る別邸まで案内することにした。
クレストは、馬車で向い合せに座った彼女の姿を観察する。
年のころは十七か十八。二十歳は越えていないだろう。
黒髪はこの国でも珍しい訳ではないが、赤い瞳の人間は初めて会った。嘗て世界を脅かした魔王の瞳は、紅だったと聞くが、それをいうのは流石に失礼だろう。
少女が胸元に抱きかかえていた子供の竜は、屋敷につくまでの間、ぐるぐると目を回したまま。
子供とはいえど竜をペットにしているなんて、古の物語に語られる大魔術師ぐらいのもの。
流石は女神さまがお選びになった守護者といったところだろうか。
人との接触を拒むような冷ややかな雰囲気をもつ少女に気後れして、話しかけることも躊躇われたのだが、別邸のすぐそばまで来た頃、彼女の方から口を開いた。
「私が面倒を見る子は、あなたの子供?」
「は、はい。女神さまのご神託で、本日生まれた我が子の守護者が今夜あそこに現れると……」
「ふぅーん、それが私ね。で、その子の名は?」
「は、はい、セルジュと名付けました」
「……最初にいっておくけど、あまり期待しないで。赤ん坊の面倒なんてみたことないから」
「はい、日々の世話は乳母がおりますので、ご心配には及びません」
「そう……良かった。どちらかというと苦手なの、赤ん坊は。妹の時もそうだったけど。意思の疎通もできない生き物は好きじゃない」
まさに気乗りがしないという雰囲気。
いつの間に目を覚ましたのか、胸に抱いた子竜が威嚇するようにクレストの方を眺めていた。
別邸に到着するとその足で、少女を生まれたばかりの我が子のいる部屋へと案内する。
「あなた……そちらがお話の?」
「ああ、そうだ。女神さまが遣わされた守護者殿だ」
「まあ、かわいらしい守護者さまね」
そう言って奥方が挨拶しようと身を起こすのを全く無視して、アーヴィンは赤ん坊の寝かされている籐かごの方へつかつかと歩み寄っていく。
そしてクレストの方を振り返り「この子か?」と問いかけた。
「あ、はい」
アーヴィンは明らかに気乗りしない様子で、藤かごの中を覗き込む。
そこでスヤスヤと寝息を立てているのは、見るからにしわくちゃの生まれたばかりの赤ん坊。
眺めているうちに赤ん坊がうっすらと目を開けた。
産まれたばかりの幼児である。視力などほとんどないのだろうが、青い瞳がぼんやりと少女を見ていた。
(案外かわいらしいものね……泣きわめく様子もないし)
赤ん坊は泣きわめくものだと、偏見めいた思いをもっていたこともあるが大人しいその赤ん坊に、アーヴィンは微かな好感を抱いた。
その瞬間のことである。
赤ん坊と少女の周囲で、魔力が急激に膨れ上がった。
「なっ!?」
それを感じ取れぬアーヴィンではない。
彼女の精神を何かが縛り付けようとしている。特定の感情が膨れ上がっていくのを感じる。
咄嗟にレジストしようとするも、全く歯が立たない。
「なんなの! これ!?」
少女の胸の内が、押さえきれない感情であふれていく。
それは先ほど抱いた微かな好感。それが凄まじい勢いで膨れ上がっていく。
愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。愛しい、愛しい、この子が愛しい、愛してる、可愛い、好き、大好き、超愛してる。
それはポンコツ女神がこの赤子に仕込んでおいたチートスキルの発動。
その名も『愛の大暴走』
互いに好感を覚えたなら、それがたとえわずかなものであったとしても、瞬時に相手のそれを数千倍にも高騰させる、迷惑極まりないチートスキルであった。
(……なんだ? ここは……どこだ?)
水沼耕介は意識を取り戻した途端、まともに身体が動かせないことに気付いて戸惑った。
考えてみれば、あのポンコツ女神は生まれ変わらせる。そう言っていた。つまり、今の自分は生まれたばかりの赤ん坊なのだろう。
耕介はあっさりとそう理解した。
やけに冷静なのは、耕介の元々の性格もあるが、精神が摩耗しきっていたこととは無関係ではないだろう。
「この子か?」
「あ、はい」
どこからかそんな声が聞こえてきて、耕介はゆっくりと目を開けてみる。
瞼が異常なほど重く感じる。
それでもなんとか目を開けてはみたのだけれど、視界はぼんやりとかすんでろくに見えやしない。
どうやら自分は、本当に生まれたばかりの赤ん坊らしい。
また最初からやり直しなのだと思うと、ゲームのセーブデータが消えた時のような絶望感を感じる。いや、違うか。記憶そのものはあるのだ。キャラを引き継いで別のゲームをやるようなものか。
そんなことを考えていると、目の前で何やら肌色の球体がゆらゆらと揺れていることに気付いた。
(なんだ……?)
必死に目を凝らしてみると、それは女の子の顔へと像を結んでいく。前の世界ではあり得ない、紅い瞳に長い黒髪。
(さっきの声はこの娘か。無茶苦茶かわいい女の子だけど、まさか母親ってことはないよな? 産後って雰囲気でもないし……)
そこまで考えて、耕介ははたと気づく。
(そういえば……言葉は通じるんだな。日本語って訳では無かったけれど、何を言っているのかははっきりと分かった。これはポンコツ女神のサービスってことかな。うん、気が利いている。とりあえずポンコツと呼ぶのは止めてあげてもいい。それにしても……)
耕介は目の前の女の子を再びじっと眺める。
やっぱりとんでもない美少女だ。同級生にいたらビビッて声はかけられず、遠くからずっとみているだけが精一杯だろう。
(こんな娘が恋人だったりしたら最高だろうな)
それは正直な感想でしかなかった。だがその瞬間、少女は突然、眉を顰めたかと思うと、急に声を上げた。
「なんですか、これは!」
耕介自身には何の自覚もないが、この瞬間、女神が仕込んだチートスキルが発動したのだ。
彼女の中にわずかに芽生えた「かわいらしい赤ん坊」というプラスの感情と、耕介が彼女に対して抱いた淡い好意がぶつかりあって激しく鳴動する。
少女の身体が一瞬、クラっと揺れたかと思うと、次の瞬間、彼女は陶然とした表情で耕介のことを見下ろした。
(あれ……なんか、ちょっと雰囲気変わったような……)
繰り返すようだが、耕介の方にはなんの自覚もない。だが、彼女の胸の内は生まれたばかりの赤ん坊である耕介への愛情で溢れかえっていたのだ。
「赤ん坊……というのは、こんなに大人しいものなのですか?」
彼女は背後を振り返って、誰かに問いかける。
「いえ、これほど大人しい子は珍しいと思います。流石は女神さまに選ばれた赤ん坊。普通とは違うのだと、妻とも感心しておったところです」
応じたのは男の人の声。
(我が子ってことは、この世界での俺の父親ってことか……)
どんな父親なのかは気になるが、残念ながら首も座っていない赤ん坊の状態では、目の前以外はまともに見えない。
(……赤ん坊は普通、もっと泣きわめくもんなんだよなでも、特別な子だって納得してくれるんなら、泣きわめくフリとかしなくてもよさそうだ)
耕介が胸の内でホッと胸を撫でおろしたのとほぼ同時に、少女は何かを決意したとでもいうように、一つ大きく頷いた。
「今後この子の……いえ、この御方のお世話は、守護者たる私が全て面倒をみます!」
「え、いや、守護者さま? 先ほどは赤ん坊の世話などと……」
少女のその宣言に、父親の戸惑うような声が聞こえた。
「ふっ、状況は刻々と変化するものです。お義父さま」
「お義父さま!?」
父親が驚愕の声を上げた。
「ちょ、ちょっとお待ちください、守護者さま。変化すると言っても限度というものが……。それにお世話を全部と言われても、乳は乳母でもなければ与えられませんし」
「大丈夫です。出します! 気合で!」
(気合で!?)
耕介は思わず二度見する。話の流れはよくわからないが、生まれてすぐの赤ん坊に二度見させるとは、なかなか恐ろしい少女である。
「いやいやいや! 気合でどうにかなるものでもありません!」
「やってみなければわかりませんよ。これでも聖女の娘です。意外とドバドバ出るかもしれません! メガフレアぐらい!」
(メガフレア!?)
ともかくも、これが耕介――セルジュ・マルグリットと魔王と聖女の娘アーヴィンの出会いであった。
若干、発言には常軌を逸したものを感じるが、それを補って余りある美少女である。
だが、耕介は生まれたばかりの赤ん坊。
(俺が大人になる頃には、彼女はおばさんになっているんだろうな)
そう思うと、耕介は少し残念な気がした。
……が、そんなことはなかった。
魔王を父に聖女を母に持つアーヴィンの美貌は、何年経とうと衰えることがなく、彼女は耕介を徹底的に甘やかす。前世の記憶がなければ、間違いなくダメ人間になっていただろう。
五歳になった頃、耕介はアーヴィンの苛烈な甘やかしに耐えかねて、少しは独りになりたいと屋敷を抜け出した。
川辺でのんびりしていた耕介は釣りをする老人と出会う。年齢にそぐわぬ受け答えをする耕介を気に入った老人は、孫娘の遊び相手になって欲しいと頼み、耕介は時々老人の孫娘の遊び相手を務める。
一方で領地を狙って耕介の父を陥れようとする貴族たちが暗躍し始めるが、耕介が気付く間もなくアーヴィンが殲滅した。
十二歳になって始めて耕介は、アーヴィンと大きな町へ出かける。
広告代理店勤務の前世の癖で街中の広告が気になるが、ほとんど発達していないことが分かる。
耕介は昼食に裏通りの小さな料理屋へと入る。若い姉妹の経営するその店は味は美味しいのに場所が悪くて流行っていない。
借金取りが押しかけてくるのを見て、主人公は前世の広告代理店の知識を駆使してその料理屋を立て直し、姉妹を助ける。
前世であれだけ嫌気がさしていた広告業で、人助けが出来たことに満足した耕介は広告事務所を設立する。ただし、あくまで人助けになる仕事しか受けない。
次第に高まっていく耕介の名声。利権を狙って耕介を襲おうとする者たちはことごとくアーヴィンが排除する。
やがて魔道による遠隔通信が可能であることを知った耕介は、前世でいう放送網の開発に乗り出す。
だが、国内全域に放送網を張り巡らせようと思えば王家の支援は不可欠。支援を求めて国王との面談をとりつけてみると、出てきたのは、あの釣り好きの老人。あの老人が国王だった。
国王とその孫娘である姫の積極的な支援を受けて、全国に放送網を敷き、耕介の名声は絶頂を極める。
周辺国が放送網のノウハウを巡って、フィグマ侵略を計画するが、アーヴィン始め魔王一家によって逆に滅ぼされる。もちろん耕介は全く気付いていない。
国王は耕介に孫娘と結婚して、王位を継がないかと持ちかける。耕介のためならとアーヴィンは身を引くつもりであったが、その頃、宇宙では巨大な彗星がエルステインに迫っていた。
彗星との衝突。それがエルステインに予定されていた未曾有の大惨事。アーヴィンと魔王一家は宇宙に出て、彗星の破壊に挑む。
ボロボロになりながら彗星の破壊を成し遂げて、耕介の下へと戻るアーヴィン。
耕介は王位を断り、後を姫に任せてアーヴィンとあてのない旅に出る。
数年後、湖畔の小さな小屋でにぎやかな声。夫婦になった耕介とアーヴィン、その子供たちの穏やかな姿があった。