* * *
「悪い話ではないな」
アキラ兄さんが言った。オベロン王の宮殿にある控えの間。オレたち3人が、謁見の内容を伝え終わったところだ。
「俺たちはこの3ヶ月間、あの村で言葉を学んだ。簡単な日常会話程度なら習得することができた」
皆、だまって最年長の言葉を聞いている。
「けど皆、感じてないか?これ以上先に進むのは難しいって」
「……ですねな」
ハルマが続いた。
「ここ最近、ゲンさんの辞書に追加される言葉が減ってきてます。あの村だけでは新しい発見も少なくなってるんですよ」
他の転生者たちもうなずく。
「まぁ当然っちゃ当然だ。周囲を山に囲まれた小さな平野。ペタフ畑と、近くの山での狩りがすべての村だ。おまけに街へ続く道は、長雨でずっと通行止め。そこで得られる知識なんて、この世界のごく一部だ」
「やっぱ、兄さんもそう思ってた?」
「実は密かに考えていたんだ。この世界の本を一冊でも入手できたら、覚えられる言葉は一気に増えるのにってな」
アキラ兄さんは、テーブルに置かれた本の表紙をコツコツと叩いた。
「それが、ここにある」
タイトルらしき大きな文字の羅列、その下に数行に渡って小さい文字の羅列が続く。1文字1文字は、2~5画程度の単純な線の組み合わせで、漢字のような複雑さはない。けど、当然ながら何を意味している文字なのかは全く想像がつかない。
「とはいえ、楽な道じゃあねえぞ?」
マコトが言うと、ハルマもため息混じりに続けた。
「俺達の世界にも、別の国、別の時代の文字を解読した人はたくさんいますけど、その人達はみな何年、何十年って時間をかけてきたんだ。けど俺たちに用意された時間は半年……」
「しかもノーヒントででしょ…… それって今まで以上の無理ゲーくない?」
シランは眉間にシワを寄せて深刻そうな変顔を作った。
『それについて、我が父から仰せつかっています』
全員の頭の中に日本語が響く。皆、一斉に部屋の入口を見た。
『失礼。父に〈自動翻訳〉をかけていただきました。皆様の手伝いをするようにと……』
そう言って頭を下げたのは、サスルポの巣に囚えられていたあの子だった。確か名前は、フェントだったか。巣穴で救出したときは、ズボンとブーツ、それに革のマントという旅のいでたちだったが、今は絹のように光沢のある薄手のドレスに身を包んでいる。
『父は皆様に、図書館の利用を許しました。文学、哲学、魔法学、数学……あらゆる知識が納められた、我々の聖域です。かの書の解読のための力となるでしょう』
「気持ちは嬉しいけど……結局はオレたちの知らない文字で書かれてるんだろ? それって意味あるのか?」
「うーん。複数の本の文字の並びに共通点が見つかれば、そこに書かれていることを推測できると思います。図書館の本も、使い方次第ではヒントにはなりえるかも」
ハルマが言う。コイツが今話した、俺達の世界の言語学者たちも、そうやって解き明かしていったのだろうか……?
「この方を村へお送りしたら、図書館へご案内します。それまでしばらくお待ち下さい」
フェントの後ろには、キンダーが立っていた。オレたちの方を見て頭を下げる。転生者嫌いの門番がやったのは、オレたち日本から来た転生者が未だにやってしまう挨拶の仕草だった。
「おれも てつだうと いった けど おうは きょぜつした」
キンダーは申し訳無さそうに言う。
「しかたない このせかいの にんげん かんたんに かいどく できる これは おれたちの たたかいだ」
「すまない きょうだい」
思いがけない言葉が飛び出した。タカフ……直訳すれば『兄弟』だ。それは、この世界の人間が友人に親しみを込めて使う、最大級の親愛の呼びかけだった。お調子者のイーズルはアニーラへの好意も絡めて、しきりにキンダーをそう呼んでいた。けど、キンダーが誰かをタカフと呼ぶのは聞いたことはない。
「おれを きょうだいと よんでくれるのか?」
「おまえ センディ たすけた それに むらも たすけよう している」
両目の中間あたりがうずいた。涙腺が刺激され、下のまぶたに涙がたまるのがわかる。
「ありがとう…… かならず せいせき もちかえる!」
そうだ。この解読には、聖石の原石がかかっている。楽な道じゃない、そんな事はわかってる。でも……村を助けるためだ。なんとしてもやり遂げるんだ!
ギョンボーレの図書館は、オベロン王の宮殿よりも更に巨大な建物だった。宮殿の裏から真っすぐ伸びる通路のその先に、それはそびえている。まるで図書館が本殿で、宮殿はその入り口に過ぎないかのような配置だった。
『私たちはなによりも知識を敬い、重んじます。商売も、政も、魔法の使用も、知識があって初めて行うことができる。知識があるからこそ我々は生きることができる。それは王も例外ではありません』
フェントは、ギョンボーレの価値観を語る。見かけはセンディと同じくらいの子供だったが、その話しぶりは大人のものだった。元の世界のファンタジーだと、エルフは人間より寿命が長いという設定が定番だった。この種族も、見た目以上の年齢だったりするのかもしれない。
「これは……」
「ハハ……すげぇなコレ」
図書館の内部に、全員が圧倒された。建物の中央は、吹き抜けのホールになっていて、はるか高い天井に円形のドームがかぶさっている。そのドームを支える円筒形の壁面すべてが本棚だ。
吹き抜けの周囲には本を取るための回廊が巡らされている。その回廊は全部で5層。地上階を含めると6階分の高さの壁。その全てにぎっしりと本が収めれている。
中央ホールだけじゃない。そこから三方に向かって長い部屋が伸びていて、その壁もやはり本棚となっている。壁だけじゃない。室内には人が歩けるスペースを残して、並べられる限りの本棚が並べられている。
「これ、全部で何冊くらいあるんですか?」
『正確な蔵書数は不明ですが、この世界で書かれたありとあらゆる書物が収められていると言われています。ギョンボーレ族、人間族はもとより、魔族の記した書も。……恐らく数十万冊になるかと』
「はぁ~」
「日本の図書館じゃ数十万冊なんて珍しくないけど……」
「この世界には、手書きか、ごく簡単な印刷技術で刷られている本しかなさそうですね。そうなると、数十万はものすごい数です」
いつの間にかリョウとハルマは、棚から何冊か取り出し、ホール中央のテーブルに広げていた。工場で大量に印刷できる令和日本ならいざ知らず、この世界の本の発行部数なんてごく少数だろう。それが数十万冊となると、確かにとんでもないスケールだ。
「リョウ、もし文字が読めるようになったら」
「……うん。投影し放題ね」
この図書館を活用できれば、リョウの〈叡知投影〉は正真正銘SSRスキルとなるだろう。
「その文字が問題なのよ」
テーブルにシランが歩み寄ってきて、開かれたページに目を落とした。
「ウチらそもそも、この世界の文字が全部で何種類あるのかすら知らないワケじゃん? まずはそっからでしょ」
「シラン、いい所に気が付いたね。アルファベットは26文字、ひらがなカタカナは50文字弱。この世界のが表音文字ならそのくらいで済む」
リョウは話す。
「けど漢字はちがう。表意文字とか表語文字っていうんだけど、一つの文字に特定の意味や発音まで含まれるから、何万文字にもなる……」
この世界の文字がどちらのグループかあるいは全く別の発想で作られた文字なのか。それ次第で難易度は大きく変わるわけか。
「リョウさん、それだけじゃないよ」
首を振りながらハルマが言う。
「複数の文字を組み合わせて使ってる可能性だってあります」
「どういうこと?」
「思い返して下さい。俺たち日本人って何種類文字使ってました?」
「あっ!」
漢字とひらがなとカタカナが思い浮かぶ。そうか……その可能性もあるのか。
「日本語だけで漢字、ひらがな、カタカナの3種類。そこにアルファベット加えて4種類。数字は普通アラビア数字ですけど、時々ローマ数字を使うので、6種の文字を使い分けてることになります。それに今、魔族の本もあるって言ってましたよね? 人間とギョンボーレと魔族で違う言葉や文字を使ってるとしたらどうなります?」
クラクラしてきた。それをどうやって整理すりゃいいんだ……?
「ちょっといいですか?」
アツシが手を挙げた。全員の視線が最年少の転生者に向けられる。
「どうした?」
「僕に考えがあるんです。えっと、フェントさん。あなたは何処まで協力してくれるのですか?」
『父より命じられたのは皆様の寝泊まりと食事、それとご希望の書をこの長机に運ぶことだけです。書の内容のや、わからない言葉の解説は出来ません』
つまり翻訳作業自体ではなく、身の回りのサポートに限られるわけか。
「わかりました。それじゃあ、早速一冊持ってきてほしい本があります」
『どのような本をご所望ですか』
「辞書です。そんなに語数はいりませんが、とりあえず辞書を一冊」
『かしこまりました、お待ち下さい』
* * *
『ん……おまたせしました』
数分後、フェントが持ってきたのは、かなり大判の本だった。小柄な彼女が抱えると、上半身がほとんど隠れてしまい、まるで本に足が生えてヨタヨタとこちらに近づいてくるように見えた。
「わわっ、すみません! そんな大きいなんて!?」
アツシは慌てて駆け寄るが、小柄な彼の体格からするとまだこの本は大きい。マコトが間に入って本を受け取る。大柄のマコトが持っていてもなお、それは大きく感じられた。
「でけえな。この世界の辞書ってのは皆こんなサイズなのか?」
『はぁ……正しい決まり事はありませんが、知識の源泉とも言える書ですから、どれもこれくらいの大きさかと』
ん? フェントの言葉のつながりがよくわからなかった。知識の源泉だと、サイズも大きくなるのか?
オレは、隠れ里で毎晩書き連ねていた異日辞典を思い浮かべた。始めは木の板切れに、村に人と仲良くなってから脱穀した後のペタフの繊維で作った藁半紙に書いている。
その束はオレの肩に届くほどの量になっているけど、いつかは一冊の本にしなければいけないと思っている。そのサイズは手の平に収まるくらい……扱いやすいサイズでなければと思っていたけど……
「ああ、そういうことか」
そこまで考えて合点がいった。オレがイメージしているのは元の世界の辞書だ。手のひらに収まる大きさにするために、めちゃくちゃ小さい文字で印刷されている。
でもこの世界にそんな小さな文字を印刷できる機械は多分無い。手書きであの爪の先くらいしかない文字を書いていくのも無理だろう。となると、自然とサイズは大きくならざるを得ない。
「よっと」
マコトは長机の上に、その巨大な直方体を置く。
「で、アツシ。この辞書をどうするんだ。文字が読めないことには使いようが……」
「はい。 辞書にはルールがあります。これはどんな世界でも同じはずです」
「は?」
「まぁ僕らは、リョウさんが投影してくれるから、そのルールがなくてもやってこれましたが……ゲンさんの辞書、普通に使うことは出来ないと思います」
「順番だ……」
オレは言う。自分の辞書の弱点は自分が一番良くわかっている。あの辞書は欠陥品だ。誰でも使える形にするには、文字や版の大きさ以上に重要なことがある。
「オレの辞書は、五十音で並んではいない。投影で直接アタマに叩きこまなければ、あんな辞書使えないよ」
「あ、そうか。インデックスがないのか、ゲンさんの辞書って」
ハルマが納得して、手を叩いた。
「新しい言葉を覚えるたびにページを足していったからな。知らない言葉を探すには特定の順番である必要がある。たぶんそれは、この世界のルールでも同じだ」
「そうです、そういう事です!!」
「お手柄だぞアツシ! 冴えてるな!?」
「はははっ、僕はまだ中学生ですからね」
「は? どういうことだ?」
アツシは苦い表情を浮かべて説明する。
「国語や英語の授業で紙の辞書を使わされるんです。時代はスマホや電子辞書なのに、未だにペラペラって……必要なのはわかりますけど、ちょっとウンザリしてました」
そういう事か。キーボード入力で検索すれば欲しい言葉が見つかる電子辞書では、インデックスは必要ない。それに慣れきった人間には、今のアツシのような発想は難しいかもしれない。授業で紙の辞書の使い方を覚えさせられる中学生ならではのアイデアだった。
「うん、思った通りです! 最初のページ、頭文字は同じ文字が続いています。コレが”あ”や”a"でしょう。同じように頭文字をさらっていけば、この世界で使われている文字の中で、少なくとも一種類は全文字を拾えるはずです!」
* * *
「これが最後のページです」
「ということは全部で42字か」
オレは皆が見守る中、フェントから貰った紙に辞書に記された言葉の頭文字を書き写していった。
未知の文字たちの書き心地は、カタカナに近いように感じた。直線と角が多く、カーブを描く文字は殆どない。直線の本数は1~6本、だいたいが三角形か四角形を作りそこに線を数本付け足して1文字としている。中にはその付け足しの線が複数文字を貫いているものもある。
「こういうのって……アルファベットの筆記体みたいなものでしょうか?」
「どうだろう? 決めつけるのは良くない気もするけど、とりあえずはそう考えておくか?」
「大文字と小文字のような区別は無し……でいいのかな? 見た感じでは、頭文字と同じ形の文字を2文字目以降も使ってますよね」
「うーん、どうだろう。 さっき変な形の文字あったよ?」
それぞれが気がついたことを言い合う。村で仕入れた言葉を辞書に書き加えるときにもこういう会議は行っていた。だから皆、同じノリで思い思いのことを話していた。オレはそれを手元においた別の紙にメモしていく。
「ひとつだけ安心したことがありますね」
と、ハルマ。
「表音文字か表意文字かの問題。42文字程度なら、少なくともこの世界でメインで使われている文字は表意文字と考えていいのでは? ひらがなよりチョイ少ない数。これなら僕達でも覚えられます!」
最悪の予想は、見分けのつかない表意文字が何百何千パターンとある場合だったけど、その心配はなさそうだ。
「それじゃあ次は、これらの文字がそれぞれどんな発音を担っているか、ね」
「あ、それについては俺に考えがあるぞ」
今回手を挙げたのはマコトだった。
「まず、俺たちがこれまでに覚えてきた単語を見つけて、それを手がかりにするしかない。これはいいよな?」
「そうだな」
「となると、俺たちが知ってる単語が多く載ってるジャンルの本がいい。それってなんだと思う?」
「そりゃ……農業関係なんじゃないのか?」
オレたちの言葉の先生である、村人たちはほとんどが農夫だ。村の周囲の広大なペタフ畑を作り、それを挽いてフフッタ粉を作って、王宮への納税や行商との商売に用いている。
「だろ!? なら話は早い。フェントちゃん! 農業の……特にペタフの育て方について解説してる本を持ってきて!」
『…………』
フェントは少し困ったような顔をしただけだ。口を開かず、頭の中にも何も言葉が響かない。
「……あれ?」
『えっと、ペタフの育て方……ですか??』
「う、うん」
『あの、そういうのは……農夫の皆さんは、親から教わるものなので……わざわざ記している書はないかと思います』
「え゛?」
マコトの考えを聞いてる間は「おお!」と思ったけど、よくよく考えてみればその通りだった。この世界の農夫が、テキストを読みながら作物を育てているとは思えない。ベランダで日曜菜園をやるサラリーマンじゃないんだ。そもそも、村で文字を見たことが殆どない。識字率も高くないのかもしれない。
「くっそー! いいアイデアだと思ったのになー!!」
マコトは長机を軽く拳で叩くと、がっくりうなだれた。
「マコトっちにしては、ちゃんと考えたよ、うん!」
シランはマコトの肩をたたいた。
「シラン、てめーすごいムカつくな……!」
「いやアイデアは悪くないです。マコトさん!」
今度はハルマが応える。
「農夫の生活をわざわざ書くような本があればいいんですよ!」
「そんなのあるか……?」
「フェントさん、王宮の貴族や役人がガズト山の近くを訪れた紀行文ってありませんか?」
『紀行文ですか……わかりました、探してみます』
フェントはくるりと踵を返して、本棚へと向かっていった。
* * *
ハルマの希望した通りの本が見つかった。
120年前の王都の徴税官が付けていた日記だ。フェントによれば、彼は任地を訪れるたびに、その土地の地理や文化を日記に書き、引退後にそれを編集して出版したそうだ。
「よくそんなもんがあると分かったな」
「役人が地方に赴任して、その土地の様子を日記に残すってのは文学でよくあるパターンです。土佐日記とか聞いたことあるでしょ?」
そういえば古文の時間に聞いたことがあるワードだ。今思い出さなければ、今後一生(すでに一回死んでるけど……)思い出さなかっただろう。
「やった!!」
リョウは最初のページを開いたとたん歓喜の声を上げた。
「おわっ、なんだよいきなり?」
「見てよコレ! 最高のおまけ付き!!」
「おまけ?」
リョウからその本を受け取る。最初のページには山や林の絵や、道や川を示すだろう曲線が載っている。これは……
「地図……?」
「 この役人さん、自分が赴任した地方の地図を描き残していたみたい」
道の所々には、城壁や家のような図形も描かれている。そしてそれらの横には地名と思われる文字の並びも……
「そうか! オレたちが知っている地形と重なる地図が見つかれば……」
「書き加えられた地名から文字を推測できまる!」
きた! 重大な手がかりが見つかったぞ!
「あ、あのー……ちょっといいですか?」
アツシが申し訳無さそうに、小さく手を挙げる。
「なんだよアツシ……?」
「すごく言いにくいんですけど……僕たちって、言うほどあの村周辺の地名知ってます? そもそもあの村って何て名前なんですか……?」
「…………」
頭の中が白紙になる。そしてそこに何も書き足せない。言われてみれば、あの村は「村」としか呼んでなかったし、あの川も「川」だ。
「名前って、同じものが複数ある時に初めて意味を持つんだな……村は一つだし、川も道も一本ずつ。確かに村人はわざわざ固有名詞で呼んでなかった……」
リョウは固まる。マコトと同じく我らがリーダーのアイデアも不発か? オレはページを行ったり来たり、何度もめくる。
「……いや、いけるぞリョウ」
「え?」
「少なくともホラ、ガズト山はわかる。結構でっかく描かれている」
3ページ目の地図にガズト山の頂上によく似た形の絵が大きく書かれているのだ。村人たちも、村からひときわ近く、ひときわ大きいガズト山だけだは別の山とは区別してガズト山と呼んでいた。あんな目に付きやすい山は他にない。この謎の文字の集合体は間違いなく『ガズト』と読むはずだ。
「この地図、北向きじゃないのね」
「まぁ北側が上ってのは、俺達の世界でも元は西洋のローカルルールですからね。江戸の地図は西が上だったそうですし、オーストラリアの世界地図なんか南極が上にきます」
「何でも知ってるなお前……」
思わず、ハルマの雑学に感心する。
「たぶんですけど、日が昇る方向を地図の上側にするというのがこの世界のルールなんだと思います」
「東が上……あ、そういうことか」
ひらめく。これは皆ほぼ同時に気がついたようで、全員同じような顔をしていた。
同音異義語の存在。例の笑えると草のように、オレたちは同じ発音で異なる意味を持つ言葉をいくつか見つけていた。
柿と牡蠣、あるいはrightとrightのようなもの、それ自体は珍しくない。
けど、『アノア』と『テムア』は異質だった、『アノア』には「上」と「東」という意味があり『テムア』には「下」と「西」という意味がある。対義語同士の同音異義語。絶対に何らかの理由があると思っていたけど、地図を見れば一目瞭然だ。この世界には太陽が現れる方向を上、沈む方向を下と考える概念が存在する。
「てことは、上端にあるこの言葉が『アノア』で下端のこれが『テムア』……なのか?」
「そう考えていいと思います」
「なら、上下を示す文にも同じ字が使われてる事になるな。東西よりも上下の方が使う頻度は高いはず。これは大きな手がかりになるぞ!」
少しずつ、本当に少しずつだけど、オレたちの異世界文字の解剖は進み始めた。
最初に判明した単語は『ガズト』『アノア』『テムア』の3つ。そこを起点に、未知の文字のパズルゲームが始まった。最初に判明した文字は『ア』だ。アノアの最初と一番最後、テムアの一番最後、そしてガズト前から二番目に同じ文字が存在している。
「ということは、ローマ字に近いのかも」
「母音と子音の組み合わせで音を表記する……多分そうでしょうね」
『テムア』の最初の文字と『ガズト』の最古の文字から『村』を探す。その過程で、同じ文字が最後に使われる語を抜き出していく。この単語群の中には、おそらく同じくトで終わる『彼』、『彼女』、『彼ら』、『皿』、『飲む』があるはずだ。
こうして陣取りゲームのように、理解できる文字や単語を広げていく。
基本ルールは確かにローマ字と同じだったけど、例外もあった。どこからどこまでが母音なのか、何を持って子音と扱うのか、その辺りははっきりしない言葉。必ず2文字で1音を表記するのかといえばそうではなく、3文字で1音のパターンや、発音をしない文字なんてのもある。
「まー英語のknifeも最初のkは発音しませんしね、珍しいことでもないかと」
「そのあたりの分類が必須かと言うとそうでもないしな。オレたちは別に言語学者じゃないわけだし」
ともあれ、この作業を初めて1ヶ月。オレたちはなんとか最低限の文字を読めるようになった。同時にかなりの量の新単語も仕入れられた。この勢いで王の歴史書もいけるはずだ!
と思っていたが……
「だめだ……」
さっぱりわからない。どのページを見ても、不可解な文章の羅列だった。
「ねえマコトっち、アタシ待ってんだけど?」
「急かすなよ。あと5つ調べたい単語があるんだ」
「そんなに溜め込まないで、その都度調べに来ればいいじゃん!」
徴税官の日記と同じように、オレが〈連続攻撃〉スキルで写本を作り、分担して解読をしているのだが、すぐにわからない単語にぶつかるから辞典が必要になる。
フェントにもう2冊、辞書を運んできてもらったけどそれでも足りず、常時取り合いの状態が続いていた。
「おい、ゲン!! ここ意味が通らないぞ!? お前が写し間違えてるんじゃないのか?」
マコトが棘のある声でオレを捕まえた。
「『森を飲む』っておかしいだろ『飲む』じゃなくて『近い』じゃないのか?」
「あー……そうだな、悪い」
「ったく、しっかりしてくれよ!」
「ゲンゲンにあたってもしょうがないでしょ? 少しのミスくらい……」
「なんだと!?」
「2人ともやめなさい!!」
リョウが、マコトとシランの間に割って入る。先が見えない作業に、皆が苛立ち始めている。この本ばかりの建物に閉じこもって今日で15日、精神的にもキツくなっていた。
「だいたいさ、ココまでして読まなきゃいけないのか、この本?」
「は?」
「大変だけど村の聖石がかかってるんだ、やるしかないよね?」
「そこだよ! なんでオレたちがゲンの尻拭いしなきゃ……」
「ちょっと! それ言ったらダメじゃん!?」
はっとしてマコトは口をつぐんだ。
「………………」
返すべき言葉が見つからない。そうなんだ。本来これはオレにしか責任がない問題だ。
「転生者全員に責任がある問題。聖石の件は全員それで意見一致したはずだよね?」
珍しく、リョウの口調に怒りの色があった。
「リョウ、やめてくれ。お前まで……」
「ああそうかい! 俺ひとりが悪者ってわけね!!」
「そういう訳じゃ」
「やってられるか」
「お、おい待て!!」
マコトは閲覧室を出ていった。
「はあ……。ゲンゲンにもリョウちんも悪くない。わかってるよ?」
マコトと言い合っていたはずのシランだけど、今はリョウを責めるような眼差しになっていた。
「でもごめん……こういうの、なんかダルい……」
そう言い捨ててマコトの後を追う。
「最悪だ……」
その様子を眺めながらハルマがつぶやく。アキラ兄さんもバツの悪そうな顔をし、アツシはおろおろと皆の様子を伺っていた。
「ふぅ……みんな少し休憩しようぜ」
オレは平静な口調を作りながら残りのみんなに声をかけた。さっきフェントが軽食の差し入れを持ってきてくれたけど、まだ誰も手をつけていない。
「……二人は私が連れ戻してくるから」
リョウはそう言って外に向かおうとする。すかさずオレはその肩を掴む。
「待て! アンタも少し休め。オレが行くから」
「駄目よ。こういうのはリーダーの仕事だし」
「……わかった。じゃあ一緒に行こう。外の空気吸ったほ方がいいかも」
「な、なんなの? 気味悪いんですけど……?」
「リョウ、自分が涙声なのわかってる?」
「え?」
途端に、リョウの目から雫がこぼれた。ここまで泣き言ひとつ言わず、皆を引っ張ってきたリーダーが、初めて見せた涙だった。
* * *
「ああー! 成長ないなあ私」
水路脇の石造りの道を歩きながら、リョウは大きく伸びをする。
「ちょっと、嫌な記憶思い出しちゃってね。大事な案件が納期ギリギリで、さっきみたいな感じでみんなバラバラで……」
日本で会社勤めをしていたときの事か。
「当然、仕事は失敗。その責任はリーダーの私が被ることになって……」
「オレは学生だったから分からねえけど、大変なんだな社会人」
「まーね。実はさ、思ってたんだ。そんな私がみんなを引っ張るなんて出来るのかって」
声の調子は戻ってきてたけど、話す内容はいつになく後ろ向きだ。
「アキラ兄さんは私しかいないって言うし、他のみんなはまだ子供だから、騙し騙しやってきた。そのツケがいよいよ回ってきたかーって感じ」
「アンタが良いリーダーだってのは、7人全員の総意。それは間違いない」
「そんなことないって」
「でなけりゃとっくに頓挫してる! ここに来るどころか、村のみんなにも相手にされてない! 違うか!?」
リョウの足が止まった。
「ゲン、あんたいくつだっけ?」
「え? 18だけど……?」
こたえると、リョウはあははっと笑い出した。
「なんだよ急に?」
「そっか18かー。まいったなあ、7コも下の男の子に励まされるなんて」
あ……。生意気だったか? バリバリ働いてたキャリアウーマンに「アンタは良いリーダーだ」だなんて……。
「そんな、オレは……」
「ふんっ!」
オレが声を弁明しようとしたら、リョウはぱしぱしっと自分の頬を叩き始めた。
「そーだよ。向いてる向いてないじゃない。できることをやってきた。それだけ! 誰かがやらなきゃいけない、そして自分ならできると思った。それだけ!」
自分自身を鼓舞するようにつぶやくリョウ。
「ありがとう。キミのおかげで気持ち切り替わった!!」
オレの焦りとは裏腹に、リョウは清々しい顔だった。この人、強いな。それに……
綺麗だ。
何の意識もなしに、素直そう思った。数秒後にはそう思った自分が、妙に恥ずかしく感じ、思わずリョウから目を反らしてしまう。
「わたしも そうおもいます!」
背後で声。思わずぎくりとした。振り返るとフェントが立っている。
「フェントさん?」
「リョウさん みんなを ひっぱってる リョウさん いがい リーダー ありえません!」
フェントは力強い口調でそう続ける。ああ、なんだ。オレがリョウに見とれたことを見透かされたわけじゃなかったみたいだ。
「みなさん すこし あせっている それは しんぱい」
「しかたない もじを よめるまで ひとつき かかった あのほんいっさつ はんとしで おわるか……」
この都は結界のようなものに覆われて、一年中この快適な気候が保たれている。けど外の世界はもう秋だ。あの村の果たして収穫できたのだろうか?
「すこしずつでも かくじつ すすんでいます 聖神ティガリス そあゆみ みすてない」
「どうかなぁ…… ティガリスさまにだって がまんの げんどが……」
そこまで言いかけて、ようやくフェントの言葉の日本語訳が頭に響いてないことに気づく。そしてオレもリョウも日本語を話していない。
「あれ? フェント、君……」
『ふふっ ごめんなさい。すこし悪戯してみました♪』
この幼い外見のギョンボーレは笑った。今度はその軽やかな口調のままの日本語が、頭の中に直接流れ込んできた。
『ゲンさん、今あなたは無意識にこの世界の言葉で聖神ティガリスの話をしました。それがあなた方が進み続けている、何よりの証拠ですよ』
聖神ティガリスは、この世界に聖石をもたらしたという古代の神だ。オレ達がオベロン王の歴史書に挑み最初にぶつかったのがこの『ティガリス』という言葉だった。村の聖石堂には「神様」と呼ばれている小さな像が安置されていたけど、信仰の対象は聖石そのものだった。だから『ティガリス』という言葉を知らなかった。それが神の名前だと気がついたのは、アキラ兄さんが、聖石と人間の関係の記述の中に、この名前が何度も出ていることに注目してからだった。
「けど、王に与えられた時間は半年しかない……」
リョウはうつむく。リーダーとして自信を持つことと、その焦りは別物だ。いやむしろ、リーダーだからこそオレたち以上に焦りがあるかもしれない。
『未来ばかり見てはいけません。大切なのは、今この瞬間をどう生きるかです。私は、あなた方の"今"に寄り添うよう、命じられました。それに……」
フェントは一呼吸置くと、さらに続けた。
『私はあの洞窟で皆さんに助けられました。王の命で聖石の原石を探していたところ、護衛のシャリポともはぐれてしまい……サスルポに殺される寸前でした。ですから、その恩返しをさせて下さい!』
そう言いながらフェントは、水路の対岸を指差した。
「え?」
オレとリョウは、フェントの指の先を追った。鮮やかな色の草花に覆われた小さな丘がある。その頂上近くに、石造りのあずま屋のような建物がある。その柱に背をもたれかけるようにしてマコトが佇んでいた。
「あいつ……あんな所に」
さらに丘の下には、所在なさ気なシランがいた。マコトを追いかけたは良いけど、直前まで言い合ってただけに話しかけ辛い。そんな雰囲気だった。
「よかった、ふたりとも見つかって!」
『まって、リョウさん!』
リョウが水路を渡るために橋へ向かおうとした所を、フェントに呼び止められる。
『まずは皆の心を解きほぐしましょう? 話し合うとしたらそれから』
「そう……ね。今、私が出ていっても余計こじらせちゃう……か」
『私に、考えがあります。大丈夫。今をないがしろにしない限り、必ず結果は変わります!』
* * *
丘には続々と人が集まってきた。図書館からアキラ兄さんたちを呼んで戻ってくると、フェント以外にギョンボーレ族が集まっており、さらに今も増え続けている。彼らは、丘の上に立つあずま屋のまわりで何かを作業したり、大皿に料理を盛り付けて持ってきたりしている。その集団から少し離れた位置に、マコトとシランがいた。けどバツがあるそうにこちらをチラチラみるだけで、二人がオレたちの輪に戻ってくる様子はない。
「な、なぁフェント、一体何が始まるんだ?」
『ふふっ 皆さんはゲストですので、ゆっくり待っていて下さい』
せわしなく動き回るフェントを捕まえて尋ねても、笑みを浮かべて意味深なことを言うだけでさっぱりわからない。
「宴会でも始める気なんでしょうか……?」
「うん、料理が運ばれてるし、そんな雰囲気だよな」
「いや宗教的な儀式じゃないか? あのあずま屋、よく見ると聖石堂と似た作りだ」
アキラ兄さんに言われて気がついた。あずま屋は、四本の柱で三角の屋根が支えられるた、教会の尖塔のような構造をしている。塔の根本からは四方にも屋根が伸びていて上から見ると、十字形となっている。あの作りをそのまま大きくしたら村の聖石堂だ。
「考えてみると、あの図書館の構造と似たような感じですよね。意味のある形なのかも」
てことは、あの大皿料理はお供え物? 兄さんの読みは正しそうだ。
『そろそろ日が暮れますね。ゲンさん、おまたせしました』
フェントがオレたちの近くに歩み寄ってきた。ギョンボーレの都は、谷底にあるため日が暮れるのが早い。太陽はとっくに山の縁に隠れて見えなくなっており、空に浮かぶ雲の赤色だけが、その名残となっている。
やがてその雲も色あせ、薄暗くなった空にちらちらと星がまたたき始めた。
「ほしみの夜を とりおこないます」
フェントがあずま屋の前でそう宣言すると、三角耳の人々の中から歓声が起きた。次にフェントはオレたちの方を見る。
『今から始めるのは、私たちの一族に伝わる儀式「星見の夜」です。年に四回、暦の区切りで行うもの。王の娘であり星の巫女たる私は、秋の儀式を本日行うことと決めました』
フェントによる解説の日本語訳が頭に響く。彼女は懐からぼんやりと紫色に光る何かを取り出した。あれは、聖石だ。村に祀られていたものと輝きの色が違うけど、間違いない。
フェントはあずま屋の……いや祭壇の中央にそれを捧げた。
「聖神ティガリス 空の神エナウリ 夜の神ウィー みはしらの 神よ わがくもつの 聖石を もって 今宵 われらに みちを しめし給え」
ゆっくり、そしてはっきりと発音するフェントの言葉はオレたちに耳にも捉えやすかった。ティガリス、エナウリ、ウィー、どれもオベロン王の歴史書の序章に登場する神の名前だ。その他の言葉も違和感なく耳に滑り込んでるものが多い。
「ひとの 道のりは わが 道のり 昨日の しるべは 明日の しるべ われは 今を いきる 者 その道は せきじつを いきた 者に ならわん」
聖石の光が強くなり、まっすぐと上に向かって光の柱が伸びる。それが三角屋根にぶつかると、今度は屋根そのものが紫色に輝く。
「すげえ……」
誰かがつぶやいた。オレはゴクリとつばを飲み込む。屋根の発光は、その下で発生した現象と同様、天に向かって光の柱を伸ばし始める。そしてそれがかなりの高さにまで達した所で、夜空そのものが輝き始めた。
* * *
聖石から発せされた光が、陽の沈んだ空を満たす。すると、輝き始めたばかりの星の光が強くなったように見えた。いや、見えたではない。間違いなく明るさが増している。そして……
「あっ」
誰かが小さく叫んだ。ひとつの星の輝きがぼんやりと形を変え始める。光の玉から、手や足が生え、やがて発光する人間の形になった。手には盾と槍を持ち、頭には兜をかぶっている。兵士の姿だ。そこまでわかるほど、星の光はくっきりとした像になっていた。
そして他の星々も姿を変え始める。最初の星のように兵士の姿をするものもあれば、馬の形をなすもの、あるいはドラゴンのような長い首と尻尾と翼を持つ怪物もいる。そして、星の光が生み出した兵士と怪物は動き出し、夜空いっぱいに大戦闘が始まった。
「これは……」
脳裏に浮かんだのはオレたちの世界の星座だった。たしか、多くの星座はギリシャ神話をもとにしていたはずだ。神話の世界の神々や英雄、怪物が、今もなお夜空を舞台に壮大な物語を演じている……小学校の課外授業で、プラネタリウムを見た時にそんな解説があった。
そうだ! 今見ているのは、あのときのプラネタリウムのプログラムに似ている。星を線で結んだ星座の姿からCGのオリオンやサソリが浮かび上がり動き出す。それと似ていた。
「この世界の神話? もしそうなら……」
はっとしたオレは、胸元をまさぐる。無い。初耳の異世界語をメモるために、メモ紙とペンをもっている。が、今に限って図書館に置きっぱなしのようだ。
「ゲンさん、ゲンさん」
後ろから声をかけられる。振り返ると、アツシが携帯用の墨壺付きのメモ帳とペンを手にしていた。
「僕がメモしておきます。」
アツシも同じことに気がついたらしい。空ではいつのまにか怪物と兵士の戦いが終わり、王様らしき姿の光が、勝利した兵士をたたえている。この星の物語はあの本を読み解くヒントになる。そう直感していた。