入院して、1週間が経った。
だが依然として俺の治療は、思うように行かず。
病院食を口にしても、たった数口で終わってしまう。
「また食えなかったのか?」
宗像先生は何度も同じ光景を見て、苛立ちを隠せない。
「はい……味がしなくて」
「味がしないねぇ。恋わずらいのくせして、格好つけてんじゃないぞ」
「別に、そんな意味では……」
俺だって食おうと思っているのに、身体が受け付けないんだ。
「そうか。ま、新宮がそんな状態なら、私が奪ってもいいってことだな」
「へ? なにをですか?」
「ふふふ……」
俺がそう尋ねても、先生は不敵な笑みを浮かべているだけ。
宗像先生は自身のスマホを取り出すと、誰かと電話を始めた。
「おう、私だ。この前教えたところまで持って来てくれ」
通話を終えると、先生はニヤニヤ笑いながら、俺を見つめる。
「ヒヒヒッ」
き、気味が悪いな。
※
病院の食事は、いつも早めに届けられる。
これぐらいしか、楽しみがないから……だとナースさんが話してくれた。
今日の昼ご飯はカレーライス。
美味そうだが……やはり今の俺じゃ無理だ。
ひと口で諦めてしまう、ヘタレぷり。
その時、部屋の扉が勢い良く開いた。
宗像先生が満面の笑みで、大きな弁当箱を持って入ってくる。
「だぁはははっははは! お昼だ、お昼っ! やはり外食よりも、人が作った料理に限るぞ!」
この人に料理を作ってくれる相手なんて……いないだろ。
簡易ベッドの前に、ローテーブルを持ってくると。
わざとらしく、弁当箱のふたを開いてみせる。
「おおおっ! こりゃすごい! 愛の詰まった弁当だ」
気になった俺は、ベットから身を乗り出す。
覗き込んで見ると、確かに作った相手の優しさを感じる弁当だ。
タコさんウインナーに、玉子焼き。ハンバーグに焼き鮭。
そして、びっしりと埋められた白米には、大きなハートが何個も並んでいる。
何だ? この異常な女子力は。
「いただきまぁ~す!」
と言いながら、ハイボール缶を取り出す宗像先生。
「かぁ~ うめぇ! 今度から毎日これをつまみに飲めるなんて、教師になって良かったぁ♪」
その言葉を聞いて、ようやく気がついた。
先生が持ってきた弁当……アンナが作ったな。
「ちょ、ちょっと! なんで先生がアンナの作った弁当を、食べているんですか!?」
「あぁん? そりゃお前が悪いんだろ。真面目に食事を食べないから、ケガも治らない。一生、ここで過ごす気か? その点滴くんと」
そう言うと、点滴の袋を指差す。
「うっ……それは」
「これを食いたいなら、さっさと病院食ぐらい食べてみせろ。まず、それからだ」
クソっ!
人の女を女中扱いかよ……。
「分かりましたよ! 食べます、食べりゃ良いんでしょ!?」
「おほ~ 怒ったか? そりゃあ良いことだな。怒るってのも意外とパワーが必要だからな♪」
先生に煽られて、見事この日のお昼ご飯は、全て完食した。
「やりゃあ、できるじゃないか」
「ハァハァ……こんなことを毎日、続ける気ですか?」
「当たり前だ。お前が治るまでずっとな。それから、新宮。忘れていたけど、この弁当を作った本人だが。今この病院の1階にいるぞ」
「えっ!? アンナが?」
驚きのあまり、飛び起きるが、先生に身体を抑えられた。
「この空になった弁当箱が帰ってくるのを、ひたすら待っているそうだ……私ではなく、新宮が食べてくれると願ってな」
「そ、そんな……じゃあ先生は、騙したんですか? アンナを」
「騙したというより、お前らのためを思ってやった行動だ。結果的に、新宮も病院食を完食できたし、古賀も安心できるだろう」
「……」
確かに先生の言う通りだ。
例え、汚いやり方でも。
「古賀は喜んで引き受けてくれたぞ。『タッくんのためなら、毎日行きますっ!』てな」
「アンナ……」
俺のせいで、こんなことに。
「ということでだ! 新宮、お前がしっかり食べられるまで。私はずっと古賀の愛妻弁当を毎食、奪ってやる。あぁ~、今から夜が楽しみだ。あいつの作る料理はつまみに丁度、良いんだよ」
「こ、この……」
拳を作ったが、すぐに引っ込める。
込み上げてくる怒りは、全て明日へ向けよう。
そのために、どんな料理でも腹にぶち込むんだ。
※
それから毎日、目の前でアンナの弁当を、美味そうに食べるところを見せつけられた。
宗像先生に煽られたからではないが、俺も負けじと病院食を残さず、完食する。
日に日に、体重は戻っていった。
ただ病院の食事を食べているだけなのに、体重は55キロほどに上がっている。
元の体重より、まだ痩せているが……。
随分、身体を動かしやすくなった。
並行して、折れた左脚のリハビリも開始している。
この調子で行けば、あと3週間ほどで退院できるらしい。
だが、そんな俺を見ても、宗像先生は満足していなかった。
むしろ、不満そうだ。
食事を取れるようになって、身体も回復してきたところで。
先生が今まで溜まっていたレポートや、前期のテストを持ってきた。
退院する前に全て書き終えろ、と注意された。
仕方なく、デスクテーブルの上でレポートの空欄を埋めていく。
以前は公式のラジオを聴きながら、問題を解く……というか、答えを教えてもらい。
レポートを書いていたが。
今はもうそれすら、面倒くさくなって、教科書も読まずに、答えを書いている。
前後の文章を読んでいれば、なんとなく分かるからだ。
だって所詮は、義務教育の下級生レベルだよ?
一人で黙々と勉強を続けていると、部屋の奥から扉をノックする音が聞こえてきた。
ナースさんの問診かな?
でもいつもより、早いし……。
今は宗像先生が部屋にいないので、大声で叫んでみる。
「はーい! 開いてますよ!? どうぞ~!」
「……あの、本当に入っても良いかな?」
ん? なんだこの控え目な話し方は。
「失礼ですが、どなたですか!?」
「お、オレだよ……タクト」
「はっ!?」
まさか……でも、アイツとは絶交したはずだ。
「ミハイルだよ、入ってもいい?」
「……ああ、もちろんだ! いや、入ってくれ!」
なんてこった。アイツ自ら、赴いてくれるなんて。
そうか。俺が交通事故にあったから、心配してくれたんだ……。
この時、俺の心臓は高鳴っていた。
大きな胸の穴も、どんどん塞がっていく気がする。
俺にとって、そんなに大事な人間だったのか……。
「た、タクト……入るからね?」
「おう」
緊張から生唾を飲み込む。
このドアが開いたら、ミハイルが立っている。
彼と別れて、何十年も経ったような感覚だ。
それだけ、ミハイルがいない時は辛く、耐えられないものだった。
「久しぶり。タクト☆」
「み、ミハイル……」
金色の長い髪は、首元で結い、纏まらなかった前髪を左右に垂らしている。
肩だしのロンTを着ていて、中には黄色のタンクトップが見える。
ボトムスは、デニムのショートパンツ。
そして、細く長い脚……と表現したかったが、ここまでだ。
なぜかと言うと、肌の色が美しくない!
ミハイルの……透明感のある白い肌ではなく。ちょっと肌が焼けている。
太ももには青あざが目立つ。
足元も、若者らしい真っ白なスニーカーを履いているが。
違和感が半端ない。
「タクト☆ 事故だって聞いたから、心配で来たんだよ!」
「あ、そう……」
「どうしたんだよ~ オレが来たのに、嬉しくないの?」
俺のベッドに近寄るとしゃがみ込み、上目遣いで話す。
人工的に作られた、エメラルドグリーンの瞳を輝かせて。
「嬉しいですよ。すごく」
「なんで、けーごを使うんだよぉ~! オレたちマブダチだろぉ~!」
ポカポカと俺の胸を殴ってみせるアラサー女史。
そうだ。こいつはミハイルとは、程遠い生き物だ。
よく見れば、金髪の長い髪はヅラだ。
そりゃそうだろ。今のミハイルは、ショートカットだし。
ファッションも彼に寄せてはいるが……デカすぎる胸で、パツパツだ。
あ~、マジで女じゃなかったら、ボコボコに殴ってたわ。
人の純情を弄びやがって。
「宗像先生……これは一体なんの授業ですか?」
「え? 何を言っているの、タクト。オレは心配だから、病院に来たんだよ☆」
このクソ教師、まだ続ける気か。
「もうそのお芝居は不要です。バレてますから」
「チッ……なんだ。もうバレたのか」
そう言うと先生は、被っていた金髪のヅラを脱ぎ、簡易ベッドに腰を下ろす。
目につけていたカラコンを外すと、身体を横にして休む。
「はぁ~ せっかく新宮が元気になるよう、わざわざコスプレしたのにな」
「色々と無理がありましたよ。ミハイルはもっと可愛いですっ!」
これだけは、語気を強めてしまう。
「あっ? 私が可愛くないってか?」
「いや……そう言う意味じゃなくて」
「フンッ! でも、これで少し分かったんじゃないのか?」
「え? 何がですか?」
「新宮、お前の気持ちだよ」
「俺の……?」
※
ヅラとカラコンを外したから、顔だけは宗像先生に戻っている。
だがファッションは、ミハイルのままだ。
正直、服のサイズが全て小さいから、パツパツ。
ショーパンからは、紫のレースがはみパンしている……。
しんどっ。
しかし先生は、そんなことは気にせず、真面目な顔つきで俺に語りかける。
「なあ、新宮。お前と古賀がこういう関係になった原因は何だ?」
「え、原因って……」
「問題が起きたとしてだ。必ず何らかの原因があるはずだ。告白は古賀からしたんだろ?」
「そうです。でも、女じゃないから付き合えない……と断りました」
「ふむ……そこじゃないか? お前たちが歪み始めたのは?」
「へ?」
何か思いついたようで、急に簡易ベッドから立ち上がる先生。
そして、病室の窓に近づき、オレンジ色に染まった夕陽を見つめる。
「女だったら付き合える……という、新宮の答えがまず有り得ない」
なんて、格好をつけているが、デニムから尻がはみ出ているので辛い。
でも真面目に考えているから、とりあえず黙って話を聞こう。
「新宮が古賀のことを『カワイイと思ったから』と言ったことから、始まったんだよな……。まず同性に対して、こんな感情を抱くことがおかしくないか?」
そう疑問を抱くと、先生は急に振り返る。
何かに気がついたようだ。
「あ、あれは……」
言葉に詰まる。
だが先生の言う通りかもしれない。
でも、このままでは俺がノン気じゃないみたいだ。
否定しておこう。
「あ、あの時はミハイルが……まだ女だと思い込んでいたから、そう感じたし。本人にも言ってしまいました。でも同性と分かったからには……」
「分かったから、古賀の告白を断ったのか?」
「はい……」
なんだか俺が責められているようで、胸が痛む。
「しかし、女に生まれ変わったら付き合える。とも言ったな」
「そうです……」
「新宮。そんなことを他の男たちに言えるか? クラスメイトの千鳥や日田兄弟でも良い。想像してみろ。私が同級生の日葵やヴィクトリアに告白されたら、嘔吐している可能性が高い」
先生に言われて、頭の中で想像してみる。
『なあ、タクオ! ほのかちゃんにまた振られたんだ……だから、一晩だけでいいから、なっ!』
『そ、そんなこと……やめっ、ダメだってば』
リキなら、別府温泉で処女を捧げたから、一晩ぐらい許してもいいような。
って、ダメダメ!
俺はノンケだ。
「あ、有り得ないです……ミハイルはカワイイから、女装も受け入れられたと思います」
「そうか。となると、もうあまり考えなくて良いんじゃないのか? 新宮、お前は間違いなく、入学式で古賀 ミハイルを見て、カワイイと思った。これに間違いはないな?」
「間違いありません……」
「ならば、それが真実なのだろう。きっとアンナという女が生まれたのは、新宮の照れだな」
「て、照れですか?」
「そうだ。お前は男の古賀に告白された時、自分をノンケだと信じたいから、照れ隠しをしたのだろう。初めての経験だから、仕方ないと言えばそうなるが……」
何故か、宗像先生の言うことに反論できない。
もちろん、納得はしていないが。
だが、当たっていると思ってしまった。
「新宮。別に、誰が誰を好きになっても良いじゃないか。もっと自分の気持ちに、素直になったらどうだ? お前は自分にも古賀にも嘘をつき、傷ついた。ならもう、どうでも良くないか?」
「何がですか?」
「ま、世に言う。ゲイだの、バイセクシャルだの……ってやつだ」
実質、俺がノンケじゃないと宣言されたようなものだ。
確かにずっと認めたくなかった。
初めて好きになった相手が、男だなんて。
「じゃあ俺は……」
「そこで自分を否定するな。私が言いたいのは、新宮が誰を好きかって話だ」
「俺が好きな相手?」
「うむ。お前がこの世で一番、カワイイと思った相手だ。ここが重要なポイントじゃないか」
「カワイイ……」
そう言われると、一番最初にカワイイと思ったのは。
俺が決断する前に、先生は俺の肩を掴み、優しく微笑む。
「新宮。大事なのは愛だ。この世は全て、愛で形成されている」
何をいきなりスケールのデカい話にすり替えているんだ?
「愛?」
「そうだ。愛さえあれば、お互いの相性さえ合えば……全てを乗り越えられるのだ!」
「つまり……先生が言いたいのは、性別の壁も」
「うむ、玉と竿。あと尻さえ揃えば……とりあえず十分だろっ!」
と親指を立てるクソ教師。
せっかく何かを掴みそうだったのに……台無しになってしまった。
「俺はノンケだ……間違いなくノーマルで、天才な男」
ひとり、天井を見上げながら、呟く。
もう病院の個室ではない。
我が家に無事、帰宅できたのだ。
その証拠に自室の天井は、入院前と変わらず、ミハイルの写真で覆われていた。
どこに目をやっても、必ず男のミハイルがいる。
しかし、敢えて言おう。
「ノンケだ!」
と天井に向かって叫ぶ。
宗像先生から教わった……。
俺が誰を一番好きかということ。至ってシンプルな話だ。
一方で先生は、俺がゲイを否定している事も考慮した上で。
世間体など気にするな、と言いたかったのだと思う。
それからだ。
肩の荷が下りた気がして、何もかもが前向きに進み始めたのは。
病院食も毎食、全て完食できるようになったし。
ついでに宗像先生が持ってくるアンナの手料理も、半分以上貰って食べていた。
俺が元気になってきたところを見て。宗像先生からリハビリと称して、激しい筋トレを強いられた。
腕立て伏せ、腹筋。背筋にスクワットを各30回、一日3セット。
片脚が折れた状態でも、やらされた。
「相手に想いを伝えられるぐらい、強靭な肉体を手に入れるのだ!」
と昭和的な考えで、スパルタ教育されてしまった……。
俺はようやく回復した……いや、強い男に生まれ変わったのだ。
身体を鍛えたことにより、考え方も変化する。
自分はあくまでもノンケだが、好きになった人間がたまたま男だった。
という考えを受け入れることにより、前へ進める。
ならば、あとは簡単だ。
ジーパンのポケットからスマホを取り出し、相手に電話をかける。
『……もしもし?』
弱々しい声だ。心配させてしまったからな。
「久しぶりだな、アンナ」
『タッくん!? げ、元気にしていたの? 宗像先生が全然、会わせてくれなかったから……』
俺が退院したことは、家族と先生以外知らない。
敢えて、情報を制限したのだ。
しっかりとお互いの間で、ケリをつけるまで、接触することは禁止する。
そう宗像先生に厳しく注意された。
でも、今は違う。ちゃんと準備が整ったから。
「悪かったな、アンナ。色々とあったが、ちゃんと無事に退院できたんだ。弁当も毎日ありがとう」
『良かった……本当に……』
受話器の向こう側から、すすり泣く声が聞こえてくる。
「その礼も兼ねて……いや、やはり正直に言うよ。明日、久しぶりに取材しないか?」
『え? 取材……』
「ダメか?」
『ううん、ダメじゃないよ。でも、退院したばかりなのに、大丈夫なの?』
「心配するな。むしろ元気が有り余っているぐらいだからな、ハハハっ!」
『そう、なんだ……わかった。じゃあ、明日博多で会おうね』
「ああ」
電話を切ったあと、俺はなんとなく手ごたえを感じ、拳を作っていた。
ここまでは、計画通りだ。
あとは、本番次第。もうあんな不幸が続くことのないように……。
※
デート当日、博多駅の中央広場へ向かった。
春の間はほとんど、病院で過ごしていたので。久々に人ごみを見て、懐かしさを感じていた。
1年前のデートを。
いつも通り、黒田節の像で彼女を待つ。
俺のファッションは相変わらず、タケノブルーのTシャツに、ジーパン。
入院をきっかけに筋トレを続けているから、ちょっとサイズが小さく感じる。
「タッくん~!」
「ん?」
甲高い声が聞こえてきたので、そちらに視線を向けると。
そこには、ツインテールの金髪美少女が立っていた。
肩あきの白いブラウスで、胸元にはいつもより大きなリボンがデザインされている。
ボトムスは珍しく、ブルーのミニスカート。
こちらもウエストにリボンが二つ並んでいる。
初夏にピッタリの色合いだ。
可愛い……。
久しぶりに見た彼女を見て、言葉を失う。
「……」
「タッくん? どうしたの? まだ脚が痛むの?」
緑の瞳を潤わせて、俺の顔を覗き込む。
「あ、悪い……久しぶりに会えて嬉しくてな。やっぱりアンナは、いつ見ても可愛いなと思って」
つい本音がポロリと口からすべってしまう。
「そんな、タッくんたら……」
案の定アンナは顔を真っ赤にして、視線を地面に落としてしまう。
「はははっ! 今日はアンナに日頃の感謝を込めて、デートしたくてな。いっぱい博多で楽しもう! とりあえず、カナルシティに行かないか? イチ押しの映画があって……」
と言いかけた瞬間、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
「うう……本当に心配したんだから。タッくんが死んだんじゃないかって、すごく怖かった! 毎日、毎日神様にお祈りしていたんだよ!」
顔は見えないが、どうやら泣いているようだ。
「すまん、アンナ。なかなか連絡も取れず……」
「もう絶対に、遠くへ行かないで。タッくんのいない世界なんて、いらない!」
「ああ、そうだな」
※
しばらくアンナを慰めること20分。
彼女も落ち着いてきたので、再度今日の目的地であるカナルシティへ向かうことに。
はかた駅前通りを二人で歩きながら、俺は今日のデートプランを説明する。
「今日はな。とある有名な映画を観ようと思うんだ。アンナも聞いたことないか? 恋愛映画の名作『大パニック』を」
「アンナ、知らない……」
どうもテンションが低いな。
「俺も昔、DVDで観たけどすごい映画なんだ! 上映時間が3時間を越える超大作なんだが、そんな時間も忘れてしまうぐらい楽しめる作品でな。今回、リマスター版を劇場で観られるんだ」
「そうなの。でもタッくんにしては、珍しいね」
「へ?」
「だって、いつもは恋愛映画とか観ないんでしょ? タケちゃんの映画ばかり、観ている気がするよ?」
「それは……」
痛いところを突かれてしまった。
彼女の言う通りだ。
俺は普段から、恋愛映画なぞ好んで観ることはない。
今回のデートだから、敢えて選んだ作品だ。
「タッくん。何か隠してない?」
「か、隠してないぞ! 心配するな、俺は入院してしまったが、この通り。見事強くなって帰ってきたのだ!」
とTシャツの袖をまくり、少し膨らんだ上腕二頭筋を見せつける。
だが、彼女の反応はいまいちだ。
「なんか、タッくんらしくない……前のタッくんの方が良かった」
えぇ……強い男の方が良くね?
「そうか? 宗像先生に鍛えられて、今度こそアンナを守れる男に……」
言いかけたところで、彼女に遮られる。
「望んでない! アンナはそんなこと、望んでないもん! ただタッくんと一緒にいたいだけ」
「アンナ……」
う~む、どうも今日のデートは、空回りしているような。
「それから、タッくん。忘れてない?」
「え?」
「今日ってタケちゃんの新作映画『作家レイジ 最終章』の公開日だよ。そっちを観なくてもいいの?」
うわっ、マジで知らなかった。
この数日間、今日のことで頭がいっぱいだったからな。
「ああ……今日は観なくていいよ。アンナと一緒に楽しめる作品を観たいからな」
「やっぱり変だよ。あのタッくんが、タケちゃんを選ばないなんて……」
「はははっ、そうかな……」
ヤバい。計画通りに事が進められるかな?
タケちゃんの新作映画が公開されることを知らなかった俺。
本当は観たくて仕方ない……が絶対にダメだ。
計画が狂う。
敢えて、今日は恋愛映画の『大パニック』を観ることにした。
事前にインターネットで調べたところ。
この作品をカップルで観に行くと、感動の余り、劇場から出ると、すぐにラブホテルへ直行するカップルが続出したとか。
いや、俺の目的はそっちではないのだが……。
とにかく、今日はこの映画を観るのだ。
そのためにチケットも、珍しく前売り券を購入しており、座席もインターネットで予約している。
カップルシートを。
なので、チケット売り場に並ばず、スクリーンへと向かえる。
途中、ポップコーンと飲み物を買おうと、売店に並ぶ。
どうもアンナの顔色が悪く見える。
「アンナ? どうした、なんか元気がないな?」
「うん……ごめんね。タッくんに会えるのは、すごく嬉しいし、楽しみだったけど」
「何か、心配なのか?」
「心配ていうか……タッくんが別人みたいに変わった気がして。怖いかな。どこか遠くへ行っちゃいそう」
え? 俺ってそんなに変わったかな。
筋トレのしすぎとか?
「な、何を言っている、アンナ。俺がアンナから離れるわけないだろ」
「本当? 今のタッくん。アンナじゃなくて、別の人を見ている気がする」
「……そんな訳ない! 俺は今日、自分の意思でアンナとデートをしたい、と思って来たんだから!」
なんで、こんなに暗いんだ? アンナ……。
デートをしているのに。
※
ブーッという音と共に、幕が上がる。
20年以上前に公開された名作、『大パニック』は当時、売れに売れて。
公開から約1年間のロングラン上映……という伝説を持つ。
俺が予約した座席は、カップルシート。
二人掛けのソファーみたいなもので、互いの間にひじ掛けが無い。
そのため、彼女が彼氏の肩にもたれ掛かったり、暗闇に乗じてイチャイチャすることも可能だ。
巨大なスクリーンを前に、アンナが好きなチョコ味のポップコーンを右手に持ち。
しれっと左手を、彼女の細い肩に回してみる。
アンナも嫌がる素振りは無い。
これぞ、カップルらしい映画の楽しみ方じゃないか!
しかし……肝心の彼女は。
「……」
終始無言。
そして、大食いのアンナがポップコーンを手につけていない。
何故だ!?
と、とりあえず、この映画を観れば、アンナも感動してくれるだろう。
~約3時間後~
大型客船は氷山に衝突してしまい、船はまもなく沈没。
パニックが起きる船内で、どうにかして生き延びようとする主人公とヒロイン。
壊れたドアの上にヒロインを乗せて、主人公はそれに掴まり極寒の海中を漂っていたが……。
最後は力尽きて、ひとり海へと沈んでいくのであった。
全ては愛するヒロインを守るため。
エンディングロールが流れ始めたころ。
予想通り、観客席からすすり泣く声が聞こえてくる。
主に女性の観客だ。
そして俺の隣りに座っているアンナにも、同じ現象が起きている……かと思ったら。
「うわぁあああん!!!」
両手で顔を覆い、号泣というより……ギャン泣き。
他の客が引くレベル。
「お、おい。アンナ、どうしたんだ?」
「ひどいよぉ! こんな映画、観たくなかったぁ!」
そんなこと言うなよ。監督やキャストに失礼だろ……。
「どうしてだ? 好みじゃなかったのか?」
「だってぇ! 最後に主人公が死んじゃったじゃん! この前のタッくんと重なったの! アンナのために死んで欲しくないっ!」
「あぁ……」
タイミングが悪かったようだ。
彼女に感動どころか、トラウマを植え付けてしまったみたい……。
※
悲しいラストシーンを観たせいで、アンナはかなり落ち込んでいた。
次から次へと、涙が溢れ出て来る。
見かねた俺がハンカチを貸したが、すぐにびしょびしょに濡れてしまう。
アンナ自身も取り乱していることを自覚したのか「とりあえずお手洗いに行かせて」とよろけながら、女子トイレへ向かった。
「……」
彼女の後ろ姿を見守りながら、唇を嚙みしめる。
クソっ、選んだ作品が良くなかったか。
これなら、タケちゃんの方が良かったのかな。
20分ほど経ってから、恐らくメイクを直してきたアンナが戻ってきた。
暗い顔で……。
「ごめんね、タッくん」
「いやぁ……俺こそ、すまん。あの映画を選んだから」
「ううん。アンナも良い映画だと思ったけど。どうしても、ラストの主人公がタッくんと重なって……」
「そうか」
でも、俺はあんなイケメンではないぞ。
失敗したことは、仕方がない。
やり直しなら、いくらでも出来る。
ここは一年前と同じことをやってみよう!
「なあ、アンナ。良かったら、プリクラを撮らないか? 初めて出会った時も、一緒に行ったよな」
「あ、うん……いいよ」
少しだが、笑みが戻った。
ここから彼女のテンションを爆上げさせて、良いムードにしないとな。
※
スクリーンから長いエレベーターに乗り込み、出口に到着すると。
すぐ左手に、ゲームセンターとプリクラ専用のブースがある。
アンナと初めて来た時、プリクラを撮影するのは人生で初めてだったが……。
過去に何度か、経験しているので慣れてきた。
そして今日のために、最新機種は全て把握済みだ。
「なあ、アンナ。今日はあの機種にしないか?」
「え……どうして?」
それを聞かれた俺は、自信満々に答えてみせる。
「ふふっ、プリクラの最新機種や色んな盛り方など。スマホに専用のアプリをインストールしたから、俺も詳しくなったのさ」
なんて格好つけてみる。
「そ、そうなんだ……」
あれ? なんかめっちゃ暗い顔をしてる。
視線も逸らされてるし。
「とりあえず、撮影するか!」
「うん」
機械に硬貨を投入して、いざ撮影タイム。
撮影する人数や背景、全身モードなどは全て俺が選んだ。
慣れた手つきで、画面をタッチしていると、背後にいたアンナが呟く。
「タッくん……見ないうちになんか、すごくプリクラに慣れたね」
「え?」
「前は何も分からなかったのに。アンナはもう要らないのかな?」
「あ、いや。そんなことないぞ? この機種に慣れているわけではなくて、事前に情報を……」
言いかけたところで、また彼女に遮られる。
「ひょっとして、マリアちゃんに教えてもらったの?」
「ち、違うぞ! 俺は自分で操作方法を覚えたにすぎん」
正直に説明したつもりだが、今の彼女には伝わらなかったようだ。
「一年前とは違うもんね。もうあの時のタッくんとは違う。アンナがひとり占めにしちゃダメだもん……強くなったし、色んな子にモテるし」
「いやぁ、そんなことないぞ? 俺はこの数ヶ月、アンナのことしか考えていない」
ここだけは真実であると、強調したかったのだが。
「タッくん、優しい……だからモテるんだよね。もう一般人のアンナとは違って、有名な作家さんだし」
ちょっと理解に苦しむ。
そんな有名人なら、俺は博多を歩けないって……。
何故、今日のデートは、こんなにも上手くいかないんだ?
俺はこの1日に、全てを賭けているのに。
疑心暗鬼に陥ってしまったアンナ。
俺が何を言っても、信じてくれない。
良かれと思ってやったことが、全て裏目に出てしまう。
プリクラの撮影タイムに入っても、彼女は暗い顔のままで、カメラに目線も合わせてくれない。
俺だけがひとり、笑顔でピースしたり。明るくポーズをとってみたが……。
出来上がった写真を確認すると、引きつった笑顔の俺と幽霊みたいなアンナが映っていた。
「……」
彼女を元気にさせるはずが、更に落ち込ませてしまった。
どうしてこうなる?
※
もう一度、撮りなおす勇気は無かったので、昼めしを食べることにした。
一年前と同じく、ハンバーガーショップの『キャンディーズバーガー』を選んだ。
店内に入っても、アンナはどこか上の空。
視線はずっと床に落ちている。
「なあ……アンナ。ハンバーガーは何がいい?」
「タッくんのと同じでいいよ」
「そうか」
大好きな食事でもダメなのか。
一体、どうやったらアンナは元気になってくれるんだろう。
最初のデートと同じく、BBQバーガーセットを二つ頼んだ。
飲み物だけは好みがあるので、アイスコーヒーとカフェオレにしたが。
対面式のテーブルにトレーを運び、アンナを座らせる。
「さ、食べよう」
「うん……」
そうは言ってくれたがいつものように食べてくれない。
小さなポテトを片手に、ちまちまとリスみたいにかじる。
ポテト一本に、どれだけ時間をかけているんだってぐらい遅い。
「タッくん、あのね。アンナ、タッくんが入院している間、ずっと小説を読んでいたの」
急に口を開いたと思えば、まさかの文学少女になったのか?
「そうなのか? 何を読んでいるんだ?」
「“気にヤン”だよ、タッくんが書いている」
「俺のを!? どうして? マンガ版が良かったんじゃないのか?」
アンナのイラストが、ギャルのここあに変えられているからだ。
絵師のトマトさんのせいで。
「そうだったんだけど。やっぱりタッくんが真面目に頑張って書いた生の文章を読んでみたかったの。宗像先生から会うことも話すことも禁止されてたから、寂しくて……。気がついたら、タッくんの小説を手に取ってた」
「なるほど……それで、どうだった?」
「1巻は楽しく読めたよ。でも、マリアちゃんが登場する4巻は……。読んでいるうちにすごい女の子だなって。そう感じたの」
「マリアが?」
「うん。タッくんのために、命をかけてアメリカへ行って。タッくん好みの身体に一生懸命、矯正して。頭も良いから飛び級で大学卒業。アパレルブランドまで立ち上げて……アンナじゃ絶対できないと思った。完璧な女の子だから、タッくんに相応しいのかなって」
いかん、アンナのやつ。すっかり自信を失っている。
多分、俺の入院生活が原因だろう。
離れていた時間が長かったから……。
やはり、俺もこいつも、互いに必要な存在なんだ。
だったら、話は早い。
パートナーである俺が、彼女をフォローするだけだ!
「アンナ! 聞いてくれ!」
「え……」
「俺にはマリアより、アンナの方が……いや、誰よりも輝いて見える」
「アンナが?」
「そうだ。さっき、お前はマリアのことを完璧だと表現した。しかし、それは絶対に無いと断言しよう」
「ど、どうして?」
その問いに、俺はハッキリ答えてみせる。
「あいつは、料理がめっちゃ下手だっ!」
「お料理が? ウソでしょ? あんなに頭が良いのに」
「いや、本当だ! 目玉焼きしか作れない女だ! 弁当箱に白米をぶち込んで、4つも目玉焼きを並べていたほどにな。食い過ぎて気持ち悪かったぞ」
「ふ、ふふっ」
これにはアンナも笑ってしまう。
「あとな、ファッションも結構ダサい」
「え、でもアパレルブランドの社長だから、気を使っているんじゃ……」
「それも無い。自身の販売サイトで人気なものだけ、着ているから年中、同じ服しか着ない。それに比べたら、アンナは四季折々の色を取り入れたファッションで、俺を楽しませてくれるだろ」
「うん……ぷっ! ごめん、なんか笑っちゃって……ふふっ」
マリアには悪いが、彼女の弱点を話すことにより、アンナの自信は少し回復したようだ。
料理が下手と表現したことが、かなりツボに入ったようで、しばらく爆笑していた。
「なんだかいっぱい笑ったら、お腹すいちゃった☆」
「おお、良いことじゃないか! たくさん、食べてくれ!」
「ありがと☆ じゃあ……とりあえず、シュリンプバーガーとてりやきバーガー。あとチキンバーガー。キャンディーズバーガーのダブルを追加で注文していいかな☆」
見事、普段のアンナに戻れたようだ。
大食いグランプリの始まりだ。
「了解した……」
席から立ち上がって、カウンターへ向かおうとしたその時だった。
「待って、タッくん!」
「へ?」
「じゃがバタ味のポテトのLと、フライドチキンもお願い。それから、抹茶フロートも☆」
「お、おう……」
お姫様が完全復活なされた。
※
注文したメニューを一つも残さず、完食したアンナは満足そうだった。
「はぁ~ 美味しかった☆ タッくんと食べるご飯は幸せだな☆」
「そうか……それは良かった」
アンナが一人で食べていたけどな。
ハンバーガーショップを出た瞬間。
目の前に立っていた老婆が、俺たちを見て叫ぶ。
「タッちゃんじゃない!」
着物姿の老婆がベビーカーを押している。
「ばーちゃん? なんでここに?」
「だって、おばあちゃん家から近いものカナルシティ。やおいちゃんのお散歩に来ているのよ」
「え……」
ベビーカーの中を覗くと、一人の赤ん坊が指を咥えて、こちらをじっと見つめている。
なんというか、ふてぶてしい態度で可愛くない。
これが俺の妹なのか?
とりあえず、挨拶だけはしておくか。
「よう。俺がお前のお兄ちゃんだ。これからよろしくな」
「……」
もちろん、言葉を交わすことは無いが。
ばーちゃんとの接し方から、家族だと認識したみたいだ。
「う~ う~」
小さな指を俺に向けて、何かを伝えたいようだ。
「どうした? 俺の名前は琢人だが、お兄ちゃんと呼んでも構わんぞ?」
「う……うけ! うけ!」
「なんだって?」
「受け! 受け!」
誰が受けだ。
お前のお兄ちゃんは、バリバリの攻めだ。
そんなことしている間、ばーちゃんはすかさずアンナに近寄る。
「あらぁ! アンナちゃんじゃない! 今日も可愛いわね♪」
「い、いえ……あ、お着物、ありがとうございました☆」
「良いのよ~ そうだわ。今度は花火大会に向けて、浴衣を送ってもいいかしら?」
「そ、そんな頂けません」
「大丈夫よ。気にしなくても、アンナちゃんはもう家族みたいなものじゃない♪」
グイグイ距離を詰めるばーちゃんに、さすがのアンナもたじろぐ。
だが、アンナの興味は別にあったようで、ばーちゃんに質問する。
「あ、あの子。やおいちゃんって、タッくんの親戚ですか?」
「あら? 聞いてなかったの? 妹よ」
「え!? タッくんのお母さまって、妊娠されていたんですか!?」
「そうなのよ~ 大変だったわ……だから今中洲の家で休んでいるの。やおいちゃんと一緒に」
「へぇ……でも、なんかそう言われたら、やおいちゃんって。タッくんに似ている気がします☆」
ウソ? こんなふてぶてしい赤ん坊が?
それに生まれて数ヶ月なのに、兄貴を受け認定しやがった。
「わかる? さすがアンナちゃん! 良かったら抱っこしてあげて」
「え、良いんですか☆」
なんだか知らんが、女性陣? で話が盛り上がっていた。
ばーちゃんに頼まれて、ベビーカーからやおいを抱きあげる。
思ったより軽いな。
両手を広げて嬉しそうに笑うアンナへ、赤ん坊を手渡す。
優しく包み込むように抱っこしてみせるアンナ。
その姿はまるで聖母だ。
ばーちゃんもアンナを見て、驚いていた。
「あらぁ~ 抱っこが上手ねぇ~ 良いお母さんになるわよ」
一生無理なので、期待しないでね。
「カワイイ~☆ 小さなタッくんを抱っこしているみたい☆ 一日中、抱っこしたいな☆」
満面の笑みで、やおいに頬ずりするアンナ。
参ったな……生後間もない妹に救われるとは。
しかし、母さんやばーちゃんの血を、受け継いでいる妹だ。
そこらの赤ん坊とは、次元が違う。
アンナを指さして、必死に唇をパクパクと動かす。
「せ……せめ! せめ!」
「お喋りしてくれるの? 嬉しいな☆」
お兄ちゃんの大事な人だから、やめてあげてね。
あと、そっちは攻めじゃない。
ばーちゃんが妹のやおいを、連れてきてくれたおかげで、アンナはご機嫌だった。
抱っこしても嫌がらないから、離したくないと。ずっとやおいを嬉しそうに抱きかかえる。
「いい子だねぇ~ やおいちゃん☆」
「う~ 攻め!」
ふたりを嬉しそうに眺めるばーちゃん。
「アンナちゃんは本当に良いお嫁さんになるわよ。タッちゃん、そろそろ決めたらどうなの?」
「それは……」
ここで答えられるかよ。
20分ほど抱っこしても、満足できないアンナだったが。
やおいの方が限界みたいだ。
どうやら眠たいようで、泣き始める。
アンナは慌てて、ばーちゃんにやおいを手渡す。
「あらら、やおいちゃん。おねむなの? じゃあ音楽を聴きながら帰りましょ」
慣れた手つきで、やおいをベビーカーの中に寝かせると。
ハンドバッグからスマホを取り出す。
するとベビーカーの持ち手につけられた、小さなスピーカーから、男の声が聞こえてきた。
『なっ! お兄ちゃん、ダメだよ! 彼女がいるくせに……』
『あれはお前へのあてつけだ。嫉妬させるためにな』
なんだ、急に男性声優の喘ぎ声が聞こえてきたぞ。
『んぐっ……お兄ちゃんも、僕を好きだったの?』
『聞くまでもないだろ? さ、始めよう』
『はあっ、はあっ……お、お兄ちゃーーーん!』
ばーちゃんが用意したBLのCDか。
なんてものを、公共の場で流しているんだ……と思った瞬間。
あることに気がつく。
「すぅ……すぅ……」
やおいが泣き止んでいる。
しかも、気持ちよさそうな顔で寝ていた。
「うんうん、やっぱり寝る時はこれが一番ね。タッちゃんの時と同じ♪」
え? 俺もあんなことされてたの?
劣悪な環境に絶句していると。
ばーちゃんは平気な顔をして「じゃあ、二人ともまたね」と手を振る。
「あ、ああ……」
「はい☆ また抱っこさせてください☆」
早めに妹をばーちゃんから、離した方が良くないか。
※
恐ろしい光景を見てしまったが、アンナの機嫌は良くなったし。
ずっとニコニコ笑ってくれる。
ならば、良しとしよう。
「アンナ、今からどこに行きたい?」
「んとね。夢の国のストアに行きたいな☆」
「了解した」
それからはいつものアンナらしく、大好きなキャラクターグッズを見たり、ペアで着られるTシャツを買ったり、一つのアイスを二人で分けて食べたり……と。
とてもデートらしい、一日を過ごせた。
夕暮れになるまで、たくさん遊ぶことが出来た。
「はぁ、もう夕方か……なんか時間が経つの、早すぎるよぉ」
と頬を膨らませるアンナ。
「それだけ、楽しい一日だったってことだろ。良いことじゃないか」
「うん☆ 今日がタッくんとしてきた取材のなかで、一番楽しかったかも☆」
「そうか。それは良かった……」
彼女が発した一言で、俺は笑みが失せてしまう。
決めていたからだ……今日が最後だと。
「なあ、アンナ。実はその取材の件で話したいことがあるんだ」
「え? 取材のことで?」
どうやら、俺の緊張が伝わったようで、彼女も顔が強張ってしまう。
「そうだ。俺たちにとって、とても大切なことだ。少し落ち着いた場所で話がしたい」
「うん……」
「1年前にも行った場所だが、博多川で良いか?」
俺の問いに彼女は答えることなく、黙って頷く。
少し強引だが、俺はアンナの手を掴むと、カナルシティから出てすぐ見える川。
博多川へと向かう。
小さな横断歩道を渡れば、すぐだ。
人気のない大きな川に、ベンチが2つほど並んで設置されている。
誰も座っていなかったので、アンナに座るよう促す。
二人して、肩を並べ。対岸にズラーッと並び立つラブホテルに目を向ける。
別に見たいからではない。
今は彼女の顔を見ることができないからだ。
緊張して、すぐには思っていることを口に出せない。
でも、俺から言わないと。
「あ、アンナ……実は、今日の取材で最後にしたいと思っているんだ」
「最後って取材を? どうして? まだ小説は終わってないでしょ?」
急に不安に駆られたようで、すかさず俺の右手を握るアンナ。
彼女に触れられて、俺も決心できた。
ようやく、彼女の瞳を。二つのエメラルドグリーンを見つめられる。
「その通りだ、小説は終わっていない。だが、もうそろそろ。この関係にも無理が生じている……そう感じるんだ」
「ど、どういうこと?」
「俺の気持ちの変化だ……アンナも知っている通り、ついこの間まで。俺は生死に関わるような事故を起こしてしまった。これは自分の気持ちを偽っていたからなんだ」
「タッくんが?」
深呼吸をしたあと、俺は彼女の両手を掴んで、持ち上げる。
「いいか? 今から言うことは俺の本音だ。何も一切、嘘はつかない。ひょっとしたら、アンナを傷つける可能性もある。それでも話を聞いてくれるか?」
「……」
まだ何も言っていないが、アンナには俺の緊張が伝わっているようで。
肩が震えていた。
しばらく黙っていたが、彼女の小さな唇が微かに動く。
「い、いいよ……話して」
アンナから許可をもらえて、俺の身体に衝撃が走る。
心臓はバクバクとうるさいし気分が悪い。
手から汗がにじみ出て、彼女の手を湿らせてしまう。
でも、ここでやらないとまた俺は……。
「俺が……一ツ橋高校に入学したのは、恋愛を取材するためだ。そんな時にミハイルが、アンナを紹介してくれて。とても楽しい体験が出来た。生まれて初めてだと思う。こんなに濃い一年は」
「うん」
「これからもずっと続くと思いたかった。でも、もう無理なんだ。アンナとの取材も出来ないほど、俺はダメになってしまった。その原因なんだが……ある人を好きになってしまったからなんだ」
言い切ったと思った直後、後悔してしまう。
目の前にある、美しい瞳に涙が浮かんでいるからだ。
「それって……取材した子たちの誰かなの?」
「いや、違う人だ」
「じゃあ、アンナは?」
「悪いが違う。俺が好きになった人は、ここにはいない」
デートに連れてきて、色々と考えた上で機嫌も良くしたのに。
いい思い出にしたかったけど。
こればかりは、彼女に伝えておかないと。
「……じゃあ、一年前に約束した『報酬』は? アンナのことを気に入ったら、ホントのカノジョにしてくれるって」
「本当に申し訳ないが、その報酬も無理だ」
「うわぁん!」
その場で泣き崩れるアンナ。
俺も見ていて、胸が引き裂かれる思いだった。
だが、ここまでは予想通りの反応だ。
計画通りに事が進んでいる。
パニックに陥っているアンナから、視線を逸らして、川を眺める。
「こんな酷いことをして、本当に悪いと思っている……でも、その相手なんだが。実はアンナが知っている人でな。いや一番近しい人間だと思っている。アンナにも必要な存在だ。名前だけでも聞いてくれないか?」
と視線を彼女に戻したら、誰もいない。
「あ、あれ? アンナ!? どこだ!」
慌ててベンチから立ち上がり、辺りを見回す。
気がつけば、周りはカップルだらけ。
みんなイチャついていた。
だが、今はそんなこと、どうでもいい。
「アンナぁ! どこだっ! まだ話は終わってないぞっ!」
そう叫んでも、反応は無い。
代わりに知らない男が、話しかけてきた。
隣りのベンチに座っていたカップルの彼氏。
「あの……」
「なんだっ!? 今俺は人生で、最大の告白をしようとしているんだぞっ!」
「隣りで聞いていたんで、そうかなって……。彼女さん、たぶん博多駅方面に走っていきましたよ?」
ファッ!?
あのタイミングで、普通逃げるかね?
「すまんな! 礼を言う!」
ベンチから飛び出ると、はかた駅前通りを全速力で走る。
大勢の人で賑わっているため、この中からアンナを見つけるのは困難だ。
クソッ! しくじった!
「はぁはぁ……はぁ……アンナ、どこだ!」
その日のはかた駅前通りは、いつも以上にたくさんの人で賑わっていた。
何かイベントをやっているのか、それとも、ただの帰宅ラッシュか?
広い歩道だが、人混みで埋っており、ここを避けて通るわけにも行かない。
彼女もまだこの道を、歩いているかもしれないから。
最初こそ走っていたが、博多駅に近づくにつれて、そのスピードは落ちていく。
いくら急いでも、信号が赤になれば、みんなが足を止めてしまうから。
結局、俺もそれに合わせるしかない。
だからといって、諦めてなどない。
その証拠に、アスファルトの上で足踏みをしている。
「まだか? 早く青になれっ!」
何度も人と信号に止められたが、どうにか博多駅まで、たどり着くことが出来た。
この頃には息が上がっていて、全身汗だく。
それでも声を振り絞る。
「アンナっ! どこだ!? 俺だ、琢人だっ! まだ話があるんだ!」
叫び声だけが虚しく、中央広場に響き渡る。
何人かの女性が振り返ってはくれたが……本人ではない。
クソっ! こんなはずじゃなかったのに。
ジーパンからスマホを取り出して、アンナに電話をかけてみる。
その間も、広場を見渡す。
何度もぐるぐると身体を回転させるから、気持ちが悪い。
『おかけになった電話は、電波の……』
「ダメか!」
電話は諦めて、彼女が向かった場所を考えてみる。
ショックから逃げるとすれば、駅のホームか……。
いや、帰宅するにしても、この時間に列車へ乗り込むのは簡単じゃない。
ビルの中か、女子トイレ。
彼女が行きそうなところ……ひょっとして、いつもの待ち合わせ場所。
黒田節の像か?
俺は広場の奥へ向かい、銅像の足元を確かめる。
いた!
大きなリボンのブラウスに、ブルーのミニスカートを履いた金髪の少女が立っている。
俯きながら、スマホを触っている。
「アンナっ! 探したぞ!」
慌てて彼女の元へ向い、細い肩を掴む。
「……」
黙り込んで、俯いている。
さきほど伝えたことが、よっぽど辛かったんだろうな。
「聞いてくれ、アンナ! 俺はお前を傷つけるために言ったんじゃない! 好きになった人の名前に意味があるんだ! だから、もう一度。顔を上げて聞いてくれないか?」
そう言って、彼女の肩を強く揺さぶる。
だが、無言を貫くアンナ。
「……」
「ダメか? きっとその名前を聞けば、お前も理解してくれると思うんだが」
その時だった。
何を思ったのか、彼女は俺の腕を叩き落とす。
「いてっ!」
「ねぇ~ さっきからなんなの? 私さぁ、推しのライブを観ているから。邪魔しないでくれる?」
そう言うと、耳元からワイヤレスイヤホンを取り外す。
「え、推し?」
よく見れば、アンナとは程遠い生物だった。
おかめみたいな顔で、眉毛が太く。頬がりんごのように赤い。
ファッションだけはアンナに近いものだが……。
「ひょっとして、ナンパ? その顔でよく勇気あんね? 男ってさ。ちょっとガーリーなファッションするだけで、ホイホイ釣れるからさ。年中、発情期なの?」
「あ……いや、俺はその……」
咄嗟のことで、人違いとは言えなかった。
「な~に? ナンパしてきて、童貞とか? ウケるわぁ~ 鏡見てから出直してきな」
「はい……ごめんなさい」
間違えたのは確かなので、とりあえず謝っておいた。
ていうか、お前みたいなやつを俺がナンパするかっ!
※
時間だけが過ぎていく。
中央広場では、夏に向けてイベントを始めているようで。
売店などが、設置されている。
会社帰りのサラリーマンやOLが、ビールを買って談笑していた。
その光景に釣られたのか、他の客がぞろぞろと集まり出す。
俺にとっては、非常にまずい状況だ。
これだけの人が広場に集まれば、アンナを探すのは至難の業と言える。
彼女と離れて、10分は経っただろう。
もう列車に乗って、帰ってしまったのだろうか?
俺は……どうしたら。また失ってしまうのか。
それだけは、絶対に嫌だっ!
「よしっ!」
気合を入れるために、自身の頬を思い切りぶん殴る。
「ってぇ……」
思った以上に、痛かった。
だが、目が覚めた気がする。
辺りにいた女子高生は、ドン引きしていたが。
大きく息を吸い込むと、俺は博多駅のビル全体に向けて、力いっぱい叫んだ。
「聞いてくれぇーーー! アンナぁーーー!」
突然、一人の男が騒ぎ始めたので、周囲にいた人間たちは驚き、足を止める。
何百人から一斉に、視線を集めてしまう。
それでも、俺はやめない。
「まだいるんだろぉーーー! 話は終わってないぞ! 俺が好きになったのは、アンナじゃなくて……男のミハイルなんだぁーーー!」
言い終える頃には、ぜーぜーと息を切らしていた。
不思議と恥ずかしさは感じなかった。むしろ、すっきりした気分だ。
この声が相手に、届いていればいいのだが。
気がつけば俺の周りに、人々が円を描くように集まる。
「おい、あいつ。こんなところで何を叫んでいるんだ?」
「あれじゃない? 動画の撮影とか?」
「そんなことないだろ……だって、男が男を好きとか、ホモじゃん」
勝手なことばかり、言いやがる。
それに何人かの人間たちは、スマホで動画を撮影する始末。
人の恋路を何だと思って、いやがるんだ!
気がつけば、その怒りを彼らにぶつけていた。
「おい! 誰だっ! 今、ホモだと言ったやつは!? 仮に俺がホモだとして、何が悪いっ! 人が人を好きになることが悪いことなのか!?」
そう怒鳴り声をあげると、野次馬たちは黙り込む。
「いいかっ! 俺のことをホモだと嘲笑うのならば、それでも構わんっ! だが、俺の人生で大事な告白なんだっ! 邪魔だけはしないでくれ!」
言い切った直後は、何も反応がなかったが。
しばらくすると、数人の女性たちから拍手が湧き起こる。
静まり返った辺りを確認した後、もう一度、俺は深く息を吸い込んで、その名前を叫ぶ。
「アンナっ! 誤解させて悪かったぁ! 俺が好きなのは、アンナだけどアンナじゃない。女装していない、素の……男の古賀 ミハイルだったんだぁーーー!」
ミハイルという名前だけが、虚しく博多中のビルに響き渡る。
言い終える頃には、熱い涙が頬を伝う。
これでダメなら……と諦めていたからだ。
「やっぱり、戻ってはくれないのか……ミハイル」
その場で膝をつき、地面に手をつく。
俺が考えていた計画なんて、もうめちゃくちゃだ。
でも、この想いだけは、伝えておきたかったのに……。
「こんなところで、あんまりオレの名前を叫ぶなよ。恥ずかしいじゃん……」
顔を上げると、そこには可愛らしいツインテールの美少女……ではなく。
女装した男の子が立っていた。
野次馬を掻き分けて、俺の前まで来てくれたようだ。
顔を真っ赤にして、視線は地面に落としている。
「み、ミハイルっ!?」
「こんな大勢の人たちがいるところで……好きとか。バカじゃん」
「悪い……もう失いたくなかったんだ。お前を」
そう言うと、ミハイルはようやく視線を合わせてくれた。
「話の続き。まだあるの?」
緑の瞳を輝かせて、恥ずかしそうに俺を見つめる。
俺はゆっくりと立ち上がり、深呼吸した後。
こう答えた。
「まだある。ちゃんと最後まで聞いて欲しい」
「うん」
良い展開になってきたのだが、ミハイルの登場で野次馬たちも盛り上がり。
たくさんの人々に、囲まれてしまった。
俺の告白が終わるまで、帰ってくれないんだと思う……。
「い、いつからなの……? オレがアンナだってことを知ったの」
頬を赤くして、そう問うのは。口調だけが男っぽいツインテールの美少女。
たぶん周りにいる野次馬たちも、彼を女だと思い込んでいるだろう。
「ウソだろ? あの子、女だろ?」
「私より可愛いんだけど!」
「いや……あれで男なら、むしろ興奮してきた」
最後のやつ、マジで便乗してくんなよ。
辺りはざわついてたが、俺はそれを無視し、ミハイルの瞳を見つめ真面目に答える。
「最初からだ、一年前にこの博多で。確かに可愛いらしい服を着ていたから、一瞬、別人だと思ってしまった。誰よりも可愛かったからな」
「そ、そうなんだ……」
俺の答えを聞いて、怒るわけでもなく。恥ずかしそうに視線を地面に落とす。
「でもすぐに、お前だと気づいたよ。この世でミハイル以上に、可愛いと思った人間はいないからな」
今の俺は、どうかしているのかもしれない。
恥ずかしいセリフを、すらすらと口から発している。
ミハイルも俺の変貌ぶりに、驚きを隠せない。
「なっ!? そ、そんなこと、こんなところで言わないでよ……」
そう言われたが、俺が止めることは無い。
だって、これからもっと恥ずかしいセリフを連発するだろうから。
「悪い。でも今ここでお前に伝えないと。また離れてしまいそうな気がするから……」
「そんなにオレが良いの? なんで……タクトが言ったんじゃん。『女だったら付き合える』って! だから、オレ。いっぱい頑張ったのに」
唇を嚙みしめ、スカートの裾を掴む。
アンナではなく、ミハイルを選んだことに憤りを感じているようだ。
その怒りは更に、ヒートアップしていく。
「妹のかなでちゃんに教えてもらって。タクトが好きな声優のYUIKAちゃんが着ているファッションやメイクとか……髪型だって勉強したんだ! 喋り方もタクトが好きそうな女の子に変えたんだゾ!」
「ああ……わかっている。ずっと見ていたからな」
「じゃあ、なんでなの!? 男は嫌だって言ったじゃん!」
気がつくとミハイルの瞳は、涙で溢れていた。
興奮しているのか、俺と距離を詰めて、拳を作っている。
「そうだ。俺はお前の告白を断り、『女じゃないと付き合えない』と言った」
「ならどうして……アンナにしてくれないの? オレ、なんか間違えた? タクト好みにしたつもりだったのに……」
そう言うと、俺の胸をポカポカと叩く。
だが俺は敢えて、そんなミハイルに手を貸さず、自分の気持ちを伝えることにした。
「確かに完璧な女の子だった。俺好みのファッションに、話し方。最初のデートから俺は、アンナに釘付けだった。毎回、取材するのが楽しみで。世界が変わった。何も無かった俺という人生を変えてくれた」
「……」
どうやら、黙って話を聞いてくれているようだ。
「だが、それは元となるミハイルがいたから、成立する世界だ。それを知ったのは、お前が絶交してくれたからだ。ダチとしてな」
「オレが、タクトと絶交したから?」
潤んだ瞳で俺を見つめるミハイル。
「そうだ。絶交されてようやく気がついた。俺にはお前が……ミハイルが必要だと。いなくなって、世界が真っ暗になってしまったんだ。食事は味がせず、喉も通らない。今まで好きだったものでさえ、何も楽しめない。感じない。ただの闇だ」
「オレがいなくなっただけで?」
「ああ……もちろんアンナも好きだ。でもそれよりも大事なのは、好きなのはお前だ。ミハイル。それを伝えたかった」
「男のオレでいいの?」
その質問を待っていたと言わんばかりに、俺の心臓が高鳴る。
ここでしっかり決めないと……。
深呼吸をした後、俺はミハイルの頭にゆっくり手を回す。
「そうだ。男のミハイルで……いや、ミハイルがいいんだ。だからもう、こんな格好しなくてもいいだろ」
俺は彼のツインテールを片方掴み、勢いよく引き剝がす。
カツラを取れば、ミハイル自慢の美しい金髪がサラリと流れてくる……と思っていた。
ショートカットにしていたが、たぶん今着ているガーリーなファッションも似合うだろう。
しかし、俺の勉強不足だった……。
「「あ……」」
ヅラを取った瞬間、二人して声を合わせる。
尼さんのようなスキンヘッド……ではないが。丸くて黒い頭。
きっとカツラがズレないように、地毛をまとめるネットだ。
ツインテールのヅラを片手に、その場で固まる。
これは、ネットを外せばいいのだろうか?
でも、うまいこと髪型を、きれいに整えられるかな。
またヅラをのせるか? う~ん、わからん。
そんなことを一人で、考えていると。
当の本人は、顔を真っ赤にして、視線を地面に落としている。
ヤベッ……またしくじった。
※
どうしていいかわからず、お互い固まっていると。
俺たちを見ていたギャラリーの中から、女性の声が聞こえてきた。
「ちょっと! あんたさ、なにしてんのよっ! 女の子に恥をかかせて!」
「え?」
振り返ると、ビジネススーツを着たお姉さんが、眉間に皺を寄せている。
頼んでもないのに、ズカズカとこちらへ近づき、俺が持っていたミハイルのヅラを取り上げる。
「貸しなさい!」
「いや、それはこいつのヅラで……」
「ヅラじゃなくて、ウィッグていうのよ! あんたね、この子に告白するみたいだったけど。なんでウィッグを外したのよ!?」
「そ、それは。こいつの地毛が見たくて。でも中がネットだとは思わなかったので……」
「バッカじゃない! ウィッグにはネットが必須なのに。これだから、男はデリカシーがないのよ!」
なんで俺が今、めっちゃ叱られないといけないの?
それにミハイルも男だって。
「もういいわ! 私、こう見えて美容系のお仕事しているから。この子の髪型もメイクも地毛だけで、可愛くしてあげる!」
「い、いや……そんな悪いですよ」
「うるさいわね! 男は黙ってなさい! ちゃんとこの子に告白したいんでしょ? なら準備ぐらい、させてあげて!」
「はい……」
だから、なんでミハイルが女の子扱いなの?
その後お姉さんの部下たちが近くにいたようで、3人でミハイルを取り囲む。
ウィッグとネットは紙袋に入れ、大きなポーチを取り出すと。
みんなでミハイルに、どんな風に仕上げるか尋ね始める。
「ビューラー使う?」
「口紅の色はどれが良い?」
「チークは?」
おいおい、女装を解除というか。
アンナからミハイルへ、解放させるつもりが、また女の子化してるじゃん。
残された俺は離れた場所で、ミハイルの準備が終わるまで、じっと眺めていると。
自称、美容系のお姉さんに怒鳴られる。
「ちょっと! なに見てんのよ! 女の子のメイクを見るなんて、最低よっ!」
「すみません……」
仕方なく、ミハイルに背を向けると。
「もう、これだから。男子はっ!」
と吐き捨てられた。
あいつも男なんだけどなぁ……。
ミハイルの準備が終わるまで、俺は反対側を向いてないといけない。
つまり、たくさん集まっている野次馬たちと目が合う。
気まずい……。
そこで一人の少年が、俺に声をかけてきた。
「なあ! さっきは悪かったよ」
「え?」
見れば、学ランを着た真面目そうな高校生だ。
「さっきその……お前にホモって言っちゃったの。俺なんだ」
「ああ。もう、いいさ。告白は出来そうだし」
「俺、お前の男らしい告白を見ていて、ホモって言ったこと。情けなく感じたよ」
「は?」
この少年は一体なにを言いたいのだ。
「実は俺も昔から好きな人がいて……でも、相手は同性で。彼女を家に連れ込むリア充で、それを見ていたら毎日イライラして」
「そ、それが?」
「実の兄貴だから、諦めていたんだ! でも、お前の熱い告白を見て勇気が出たよっ! 俺もお兄ちゃんにこの想いを、伝えようと思う!」
「えぇ……」
こっちはブラコンか。
でもその関係なら、想いは伝えない方が良いような……。
止めようとしたが、彼の決意は固いようで、嬉しそうに拳を突き出す。
「ありがとな! お互い、頑張ろうぜ!」
仕方ないので彼の拳に、自身の拳を合わせる。
「そ、そうだな……」
俺のせいで、無垢な少年を焚きつけてしまった。
俺の告白を見て「勇気が出た」と叫ぶブラコンの少年だが。
もう、居ても立っても居られないそうで。
「今すぐお兄ちゃんへ、この熱い想いを伝えにいってくる!」
と博多駅の中へ走り去ってしまう。
マジで良かったのか、これは……。
そんなことをしている間に、ミハイルの準備が終わったようで。
自称、美容系のお姉さんが俺に声をかける。
「ちょっと! そこの男子、もう出来上がったわよ。可愛くね」
振り返ると、ハンサムショートの美少年が立っていた。
でも、髪型が男ぽいだけで、他はアンナのまま。
ガーリーなファッションだし、メイクもお姉さん達によって、より可愛くなってしまった。
まつ毛が上げられているので、大きな緑の瞳はより強調されて見える。
そして彼の小さな唇には、ピンク色の口紅が塗ってあり、早くキスしてと誘われている気が……。
改めて、ミハイルの顔に見惚れていた。
「さ、私たちは退場するから、続きを始めて」
「え?」
「告白の続き、あるんでしょ? どうぞ」
「はぁ……」
なんだ、このお姉さんも色々と俺に説教したり、ミハイルのことを奇麗にしてくれたけど。
結局、野次馬の一人なんだな。
お姉さんと部下たちが、ギャラリーの中に戻ったところで。
俺は恥ずかしさを紛らわすため、咳払いをする。
「ごほんっ! その……ミハイル」
「う、うん。なぁに?」
彼も俺の言葉を待っているようで、ぐっと距離を詰める。
上目遣いで、俺を見つめるから、理性を保つので精一杯だ。
「俺はノンケだ。意味は分かるか?」
「え? のんけってなに?」
「まあ、同性を好きにならないってことだ」
そう答えると、なぜかしゅんと落ち込むミハイル。
「そうなんだ……」
「だが、同時に俺は面食いでもある。顔にうるさい、かなり厳しい人間だ」
「それがどうしたの?」
首を傾げるミハイルを見て、俺は確信した。
やはり、こいつしかいない。
なんてカワイイんだ。
早く抱きしめたい。
「その俺が一番カワイイと思ったのは、ミハイル。お前だけだ」
「え? オレが?」
「ああ……この世の誰より、世界で一番カワイイ! この想いは一目見た時から変わらない! だから、これを受け取ってくれないか?」
俺はその場で片膝をつき、事前に用意していた小さなケースを、ジーパンのポケットから取り出す。
そして、パカッと音を立てて開くと。
中には小さな指輪が輝いていた。
「え、これって……」
驚くミハイルを無視して、俺は自分の想いをぶつける。
「ミハイル。好きだ、愛している」
「た、タクト……」
突然のプロポーズに動揺していたが、嫌がる素振りはない。
「俺と結婚してくれっ!」
「なっ!? け、結婚って、オレとするの!?」
「当たり前だ。お前と一生を共に生きたい! だから、この婚約指輪を受け取ってくれないか?」
「そんな……オレとタクトは男同士じゃん。結婚なんて出来ないんじゃないの?」
「別に法的な意味で、結婚しなくてもいい。俺とミハイルの間で誓約を立てれば良いんだ。同性愛とか、未だに俺もよく分からない。でも、俺はお前を独占したいんだ! そう考えたら、こういう答えになっていた……」
俺が全てを吐きだすと、ミハイルは黙ってしまう。
しかし反応としては、悪くないように感じる。
これが俺の考えた計画。
ミハイルとの結婚だ。
※
数分間、経っただろうか?
沈黙が続く。
俺は片膝をついたまま、リングケースを開いている状態だ。
ミハイルは地面と睨めっこ。
「で、でも……もし結婚するにしても、オレたちまだ高校生だよ?」
「すまん。その辺は説明不足だった。結婚を前提に付き合って欲しい、と言うことだ。まずは高校を卒業しないと。だから、早くても二年後。そのためにもミハイルと一緒に高校へ通って欲しい。戻って欲しいんだ!」
「そっか……そういうことか。オレも、またタクトと高校へ行きたいな」
その言葉に俺は、思わず身を乗り出す。
「な、なら!」
微かな声だが、確かにミハイルは答えてくれた。
「うん☆」
ニッコリと微笑んで、俺を見つめる。
これはどう考えてもYESだろう!
「じゃあ、良いんだな? 薬指に指輪を入れても……」
「お願い☆」
俺の給料三ヶ月分で購入した、ネッキーの婚約指輪。
リングケースから取り出すと。
既にミハイルが、左手を差し出していた。
彼の細い指にゆっくりと指輪をはめる。
しっかり、お店で店員のお姉さんと話し合って購入したのに。
ミハイルの指が細すぎて、サイズはガバガバだ。
ゆるゆるで格好の悪いプロポーズとなってしまった。
それでも、ミハイルは嬉しそうに手を掲げている。
「うわぁっ! ネッキーのやつだ。ありがとう、タクト!」
「……」
喜んでいる彼には悪いが、もう俺の方が限界だった。
ようやく想いを伝えられて、そしてミハイルが二人の未来を受け入れてくれた。
気がつけば、俺はミハイルの身体に飛びついていた。
華奢な身体を両手で強く抱きしめる。
「ずっと怖かった。寂しくて潰れそうだった……会いたかったよ」
今まで格好をつけていたくせに、緊張の糸が切れてしまったようで。
弱音を吐いてしまう。
そんな俺でも、ミハイルは優しく包み込んでくれる。
「……ごめんね。寂しかったよね、これからはずっと一緒だから、安心してね。タクト☆」
「約束だからな」
「うん、約束☆」
やっと渇いた心が満たされていく気がした。
胸に空いた大きな穴も、ミハイルという愛で塞がれていく。
去年の誕生日に、そうやってお互い抱きしめた仲だ。
彼も分かった上で、俺の腰に手を回す。
お互いの気持ちが繋がっている……そんな気がする。
「早くこうしかった……」
「今度からタクトが苦しい時、オレが抱きしめてあげるよ☆」
「ミハイル……」
一旦、彼から身体を離して、じっと瞳を見つめる。
相変わらず、エメラルドグリーンがキラキラと輝いてまぶしい。
「好きだ、ミハイル」
「オレもタクトのことが、大好きだよ☆」
「じゃあ……キスしてもいいか?」
直球の質問に、ミハイルは一瞬固まってしまう。
でも、俺の気持ちに合わせようと必死だ。
「う、うん。いいよ、だってオレたち。け、結婚するんだもん。キスぐらいなんてこと……」
と言いかけている際中だが。
俺は強制的にミハイルの話を止めさせた。
彼の唇を奪ったのだ。
「んんっ!?」
驚く彼を無視して、ミハイルのぬくもりを味わう。
一度だけ、唇を重ねるつもりだったが……。
試しにキスすると、その気持ち良さに病みつきになってしまう。
色んな角度から、何度も繰り返し、ミハイルの唇を楽しむ。
最初は戸惑っていたミハイルだったが、今では静かに瞼を閉じて、俺の動きに合わせてくれる。
自分でも驚いていた。
初めてのキスが男だし、大勢の人間が見守る中、熱い口づけを繰り返す。
何度もくっついては、離れる……を繰り返しているうちに、とあるミスを起こしてしまう。
一瞬だったが、俺の舌先がミハイルの唇に入り込んでしまった。
「ん!?」
これには、さすがのミハイルも怒ると思ったが……。
特に嫌がる素振りはない。
ならばと俺は舌先を、彼の口の中へ突入させる。
奥には小さなミハイルの舌が、待っていて。
優しく俺を受け入れてくれた。
それを良いことに、俺はディープキスを楽しむことにした。
~10分後~
「も、もお~! いい加減にしてよっ! 長すぎるし、こんなところでしなくても良いじゃんか!」
顔を真っ赤にさせて、俺から離れるミハイル。
「悪い……あまりにも美味かったら。嫌だったか?」
「嫌とかじゃなくて、場所を考えてよっ!」
そう言うと、ミハイルは周囲で盛り上がっていた野次馬たちを指さす。
「ほぉ~ 最高な二人!」
「すごく尊いわっ!」
「もっとお願いしますっ!」
「あ……」
「べ、別にガッつかなくても、これからは一緒だし」
「ミハイル」
「とりあえず、もうここから離れよっ!」
ミハイルは俺の手を掴むと、野次馬たちを搔き分け、その場から逃げる。
大きな交差点を渡り、はかた駅前通りへ入ると。
顔を真っ赤にしたミハイルが、俺にこう言った。
「ホントにいいの?」
「え?」
「アンナのこと、忘れられる? もう女装はいらないの?」
「それは……」
男のミハイルが良い、と宣言しておきながら俺は……。
でも、もう嘘はつかないと決めていた。
「悪い。たまにでいいから、女装してくれるとありがたい」
俺の答えにミハイルは怒ると思ったが、クスッと笑ってこう言う。
「もう、タクトはエッチだからな。いいよ、してあげる☆」