女装した途端、可愛い女の子としてチヤホヤされるアンナ。いや、ミハイル。
今も目の前で全日制コースの男子高校生から、ナンパされている……。
困ったものだ。
しかし、どう出るか?
きっと部活の練習に来ているような、活発な男子たちだ。
やせ細った俺では、3人も相手に出来るだろうか……。
助けるのを、躊躇していると。
「イヤッ! やめて!」
と悲鳴が上がる。
これには俺も咄嗟に身体が反応し、間に入り込む。
「お前らっ! いい加減にしろ! この子は俺の大事な連れだ!」
格好つけて、彼女の前に現れたのはいいが……。
やはり3人相手は、無理がありそうだ。
改めて見ると、アンナを囲んでいる男子生徒は全員が高身長。
180センチ以上はある。
上から睨みつけられて、恐怖から縮こまってしまう。
「は? 誰、お前……ちょっとこの子に聞きたいことがあるんだけど?」
「そうだよ。質問ぐらい良いだろが!?」
「本当にラブホテルへ行ったのか、知りたいんだぶ~!」
と、とりあえず、最後の方にだけ答えます。
真実は、両方のヒロインと行きました。
でも、一線は越えてないので、セーフです。
なんて、考えていると。
アンナが俺の背中に隠れる。
「タッくん……この人たちが、アンナの身体を触ろうとしたの」
それを聞いた俺は、先ほどまでの恐怖なぞ吹き飛ぶ。
「貴様らっ! やって良い事と悪い事があるだろ!? 同意なく、女の子の身体に触れるのは犯罪だっ!」
俺だってあんまり触れてないのに……。
「は? 触ろうとしたんじゃなくて、見たかったんだよ。そのワンピースのブランド」
「え、ブランド?」
「おお……妹が最近、失恋してよ。そういう可愛いブランドでも着たら、今度は成功するのかと思ってよ」
と頭をかいてみせるお兄ちゃん。
なんだ……ただのシスコンか。
※
妹想いのお兄さんに話を聞くと。
ずっと片想いをしていた妹さんが、中学を卒業するまで勇気を持てず。
告白できないまま、相手が海外へ旅立ってしまったらしい。
でも、1年間の留学を終えたら、戻って来るようだ……。
そこで、アンナの可愛らしいファッションを目にしたお兄さんは、ブランド名が知りたくなったそうだ。
帰国した際に、妹がその服を着たら、勇気が出るかもと。
恥ずかしくて、ちゃんとアンナへ伝えられなかったそうだ。
それを知ったアンナは、安心する。
スマホでブランドを検索して、お兄さんに色々と教えていた。
なんだったんだ……この茶番は?
ただ俺が現れてから、お兄さんの視線は、ずっとこちらへ向けられていた。
まさか、シスコンでゲイなのか?
アンナから色々と教わって、恥ずかしそうに頭を下げるお兄さん。
去り際に「二人だけで話そう」と腕を掴まれ、少し離れた場所へ向かう。
口説かれるのかな、と身構えていたら……。
「あのさ、お前って。今恋わずらいしていないか?」
「なっ!?」
「やっぱり……そうなんだな。一目で分かったよ。うちの妹と同じだからな」
「え……?」
お兄さんから事情を聞くと、妹さんは大好きな彼がいなくなってから。
一切の食事を受けつけず……10キロ近く痩せたそうだ。
正に、今の俺じゃん。
「悪いことは言わない。相手がいるうちに、想いは伝えた方がいいぜ? 妹はなんでか、“白うさぎ”しか食えなくなってよ……見てられねぇよ」
「……」
なんか、俺が乙女みたいじゃん。
相手なら、目の前にいるんだけどなぁ……。
※
そのあと、無事に解放された俺たちは、教室に戻り。
アンナが作ってくれた弁当を仲良く食べた……というか、食べさせてもらった。
俺がまだフラつくからと心配した彼女が、わざわざお箸でおかずを「あ~ん」してくれる神対応。
正直、浮いていた。
急にアンナという美少女が、俺のカノジョ役として現れたこと。
そして、俺にベタ惚れだということも。
他の男子生徒たちはイチャつく俺たちを見て、舌打ちをしたり、睨みつけたり……。
居心地が悪いったら、ありゃしない。
昼休みに入って、20分ぐらい経ったあと。
アンナが教室の掛け時計を見て、慌て始める。
「っけない! 次の授業、体育だった!」
「へ?」
「ごめん、タッくん。アンナ、ちょっと先に着替えないと。お弁当、全部食べて来てね!」
「おお……」
そうか。宗像先生が更衣室の時間をずらすと言っていたな。
まったく、不憫だな。
男のミハイルなら、一緒に着替えられたのに……。
アンナに言われた通り、しっかりと愛妻弁当を残さず食べ終えた。
急にたくさんのおかずと白米を、胃袋に放り込んだから。
ちょっと、お腹はビックリしていたが……。
しかし、感じるぞ。
みなぎる愛の力を……。
チャイムが鳴る前に、俺も校舎を出て、武道館へと向かう。
なんか心配だった。女装した彼は、モテるからな。
それに俺自身、早く彼女の元へ行きたかった。
武道館へ入ると、地下へ降りる。
更衣室は左右に分かれて、2つある。
一年前のスクリーングで、全日制コースの女子。
赤坂 ひなたが着替えているところを目撃したのが、懐かしい。
今回は、間違いなど起こすまいと、アンナが更衣室から出て来るのを待つ。
アンナと仲良く体育かぁ……。
色んな意味で、密着できる楽しい授業になりそう。
~10分後~
女子更衣室の扉が、開く音がした。
俺が想像していた装いとは、正反対の少女が現れる。
長い金色の髪は、三つ編みのツインテールで女子力高め。
トップスは、ピンクのポロシャツで。ボトムスはプリーツの入ったミニスカート。
シューズも可愛らしいピンク。
「あ、タッくん。来てたんだ☆」
「おう……ちょっと心配でな。また絡まれてないかって」
「心配してくれたの? 嬉しい☆」
可愛い……。
ていうか、これで運動するのかって服装だ。
完全に見せる前提で、用意してきたな。
「なあ、アンナ?」
「ん? なあに、タッくん」
「その……そんな丈の短いスカートで大丈夫か? 今日の授業は何か知らんが、運動するんだぞ」
俺がそう言うと、彼女はクスクスと笑い始める。
「タッくんたら、心配性なんだから☆ 大丈夫、中には“ペチコート”を履いているよ」
「ぺち……なんだって?」
聞いたことのない言葉に、首を傾げていると……。
何を思ったのか、アンナがスカートの裾を詰まんで見せた。
「お、おい……」
「大丈夫だって☆」
彼女の言う通り、スカートをたくし上げても、パンティーが露わになることは無かった。
フリルがふんだんに使われた、薄い生地のズボンを履いている。
いわゆる、見せパンってやつかな?
「ね? これなら大丈夫でしょ☆」
「ううむ……」
合法的にスカートの中を見られて、嬉しいし可愛いんだけど。
ブルマを堂々と履いていたミハイルが恋しいと、思ってしまうのは何故だろう。
アンナと仲良く体育を、受けられると思ったが……。
俺の考えが甘かった。
彼女は今、女子として高校に通っている。
ということは、当然みんなから、ひとりの女性として扱われるのだ。
今日は珍しく、武道館を利用することが許された。
広々と運動が出来ると知った宗像先生は、男女別々になって、バレーボールの試合を行うと発表した。
俺たちは黙って従うしかない。
最初こそ、仲良く並んで立っていたが……。
アンナも寂しそうに「じゃあ、またね」と女子のコートへ去っていく。
彼女を見かけたここあが、声をかける。
「ねぇ、あーしたちと組もうよ。絶対勝てるから♪」
以前会った時、その正体を疑われたので、アンナはたじろいでしまう。
「べ、別に組まなくても……ひとりでやれるよ?」
そんな言い訳が、通用するわけもなく。
「な~に、言ってんの♪ バレーは一人じゃ無理っしょ。それにね、オタッキーからアンナちゃんのことを、守るように頼まれてんの♪」
「タッくんが!?」
さすが、ここあだ。
これなら、彼女の警戒心を解ける。
「だから、二人でオタッキーに頑張ってるところを見せてあげようよ♪」
「うん☆ ありがとう、ここあちゃん☆」
どうやら、仲良くやれそうだな。
※
男子もそれぞれグループを作って、早速試合をすることに。
やる気のない俺は、日田兄弟の片割れに混ぜてもらった。
相手チームには、やる気満々のリキがいる。
それを見てすぐに負けると思った。
こちらは、陰気な真面目グループだし……。
体育の時だけ、超やる気が出るヤンキーたちに勝てるわけがない。
さっさと負けて終わらせよう。
そう思っていたが。
どうしても、隣りのコートが気になる……。
「えいっ!」
フリフリのミニスカートを履いた女の子とは思えない、豪速球が相手コートに投げ込まれる。
対戦していた女子生徒が、恐怖から固まってしまうほどの。
だが、それより心配なのは……。
彼女のファッションだ。
ジャンプする度に、見せパンとはいえ。
白いフリルがひらひらと、目立ってしょうがない。
武道館の隅で筋トレをしていた、全日制コースの男子生徒たちから歓声があがる。
「見ろよ、あのハーフ。パンツ丸見えだぜ」
「マジかよ……可愛いじゃん。あんな子、一ツ橋にいたっけ?」
「とりあえず、ローアングルで撮影してきます」
最後のふざんけんな。
撮るにしても、ちゃんと顔も撮ってやれ。
俺なら、そうする。
試合そっちのけで、アンナばかり眺めていたら。
隣りに立っていた日田が、叫び声を上げる。
「新宮殿! 危ないでござる!」
「へ?」
視線を正面に戻すと、目の前にはぐるんぐるん回転しているバレーボールがあった。
避けようと思った時は、すでに遅く。
顔面に直撃した俺はそのまま、床に倒れてしまった。
※
「大丈夫? タッくん、ねぇ。起きてよ!」
誰かが、俺を呼んでいる。
頬にぷにんと、柔らかい感触が伝わってくる。
これは、太ももか?
つまり膝枕をしてくれている……アンナに違いない。
瞼をパチッと開くと、そこにいたのは。
「おう! 起きたじゃねーか、タクオ!」
「……」
スキンヘッドの老け顔。リキくんでした。
なんで、こいつが膝枕をしてんだよ!
一刻も早く離れたかったので、身体を起こそうとしたが。
リキに止められる。
「おい! かなり鼻血も出てたし、まだ寝とけよ!」
「わ、わかった……」
仕方なく、リキ先輩の膝で休むことにした。
武道館の隅で、男二人が仲良く膝枕。
非常に誤解されやすい風景だが……。
リキは気にする様子もなく、女子のコートで活躍するアンナを見て笑っていた。
「良かったな、タクオ」
「え? なんのことだ?」
「アンナちゃんだよ。お前、ミハイルがいなくなって、元気なかったじゃん。でもあの子が代わりに入ってくれかたら。これからも、タクオは学校に来られるだろ?」
「そ、それは……」
「俺が言うのもなんだけどさ……二人とも好き同士なんだろ? 付き合ったらどうだ?」
「いやぁ……」
返す言葉が見つからなかった。
リキに悪意はない。
彼は女の子として、アンナを見ている。
元となるミハイルのことを知らないから、言えることだ。
でも、仮に俺がその選択肢から選んだとして。
本当に彼女……いや、彼は受け入れてくれるのだろうか?
※
結局、体育の授業は2時間ずっと、リキの膝の上で休んでいた。
鼻血も止まらなかったし。
まあアンナが楽しそうに、バレーボールをしていたから、良かったか。
着替えを済ませ、校舎に戻る。
帰りのホームルームが始まる前、隣りに座っていたアンナが声をかけてきた。
「タッくん。大丈夫だった? なんかリキくんのボールが当たったって聞いたけど」
「ああ……問題ない。ちゃんとリキが、休ませてくれたからな」
「ごめんねぇ~ アンナ、試合に夢中で……」
「気にするな。俺がよそ見をしていたせいだ。誰が悪いわけでもない」
試合中にあなたのパンチラが、気になっていたとは言えんからな。
「そっか。あのね、ホームルームが終わったら一緒に帰ろうよ☆ 二人で☆」
「え……?」
当たり前のように言われたので、驚いてしまう。
「もしかして、アンナと一緒は嫌かな?」
「そんなことないぞ! 嬉しいさ。帰ろう、二人で!」
「フフッ、嬉しい☆」
そうか。今日から女の子と一緒に帰るんだ。
夢にまで見たシチュエーション。
学校帰りに、可愛い彼女と制服デート。
あ、うちの高校は私服だ……。
それでも、男なら誰しもステータスを感じて良い場面だろう。
こんな金髪のハーフ美少女から、誘われるなんてさ。
でも……なんで、こんなに寂しいんだ?
アンナによって埋められた胸の穴が、徐々に広がっていく気がする。
心臓に針が刺さっているような……痛みを感じる。
帰りのホームルームを終えると、アンナが言った通り、二人で仲良く駅まで歩く。
彼女は終始、ご機嫌だった。
「次のスクリーングが楽しみだなぁ☆ 今度はお洋服、何にしよう? 私服だから、選べるのが良いよね☆」
「まあな……」
「あ、そうだ。明日、タッくん家へご飯を持っていくね☆」
「え?」
「約束したでしょ? これからタッくんが食べられるまで、ずっとアンナがご飯を作るって☆」
とウインクしてみせる。
非常に嬉しい提案だったが、どうしても俺には……気になることがある。
それは、アイツがいつ帰ってくるかだ。
「あ、アンナ……その引っ越したんだろ? ミハイルは……」
「うん。なんかやりたいことがあるらしくて。遠くへ行っちゃったの」
「そうか。あいつ……ミハイルは、いつ帰って来るのか、分かるか?」
俺の質問に、彼女はとても困っていた。
だって、本人は目の前にいるのだから……。
「え、えっとね……かなり遠いから、なかなか帰って来られないと思うよ? たぶん1年……ひょっとしたら、2年ぐらい戻ってこないかも」
「2年!? そんなにか?」
「多分、だけどね……」
引きつった笑顔のアンナを見ていて、辛くなる。
1年以上、戻らないということは……自分を消す覚悟でアンナに変身したのか。
もう二度と一緒に、学校へ通うことは無いのか?
これも、俺のせいなんだな……ミハイル。
アンナが戻って来て、10日経った。
優しい彼女は手作り料理を、毎日自宅へと持って来てくれる。
「早く元気なタッくんを見たいな☆」
と1日に2回も、重たい圧力鍋を抱えて、玄関のベルを鳴らす。
俺はその姿を見る度に、罪悪感を感じていた。
彼女の優しさに、応えられていないから……。
最初の頃は喜んで、アンナの手料理を口の中に放り込んでいたが。
今となっては……彼女の作る早さに、俺が追いつけなくなり。
冷蔵庫やリビングのテーブルを、埋めてしまうほど残っている。
また感じなくなった。
大好きなアンナの料理でさえ、味がしない。
食べても、数口でお腹がいっぱい……いや、胸が痛む。
そのせいで、体重は上がるどころか。また下がっていく。
ついに50キロを切ってしまい、今の体重は48キロだ。
ガリガリに痩せてしまったせいで、春だってのに寒気を感じる。
新聞配達もバイクが重すぎて、ふらついて運転するから危険だ。
俺はこれから一体どうしたら、良いのだろう?
失って気がついた事と言えば……ミハイルが必要だってことだ。
だからといって、アンナの存在を否定し、彼を呼び戻すなんて……。
また傷つけてしまう。
「ダメだな……俺は」
自室で一人、学習デスクに座り、天井を見上げる。
今年の春から俺は、妹のかなでと別室になった。
かなでが国立の名門高校へ合格したから、そのお祝いらしい。
親父が使っていた書斎に、かなでは移動した。
二段ベッドも二つに分けて、大量の男の娘グッズも移動。
各部屋にはプライベート空間として、扉に鍵をつけてもらえた。
だったら、もっと早く配慮して欲しいものだ。
こんな風になる前に……。
天井にはビッシリと並べられた少年たち。
ブロンドのハーフで、緑の瞳を輝かせている。
この世に一枚しかない、アイツの写真だ。
A4サイズに拡大コピーして、部屋中の壁に貼っている。
部屋全体をミハイルで包み込むことで、安心する。
「もう、会えないのかな……」
写真にそう問いかけても、彼は答えてくれない。
食べられない日々が続くが、最近は睡眠もろくに取れていない。
瞼の下はクマが酷く、どう見てもヤバイ顔つき。
それでも、仕事は始まる。
スマホからアラームが鳴り響き、新聞配達の時間だと知る。
仕方なく、家を出て自転車を走らせると。
地元、真島の新聞配達店へ向かった。
※
大量の新聞紙を丸めて、バイクの荷台へと積み込む店長。
俺の顔を見て、何故かため息をつく。
「琢人くん……一体どうしたの? 最近、おかしいよ」
「いや、ちょっと色々あって……」
店長とは小学校からの付き合いだが、未だにアンナのことは話せていない。
「う~ん、実はさ……最近、お客さんからの苦情が多いんだよ」
「え? 俺にですか?」
「そうなんだよ……琢人くんもこの仕事、長いからさ。僕は信用しているんだよ? でもね、配達ミスが多いんだ。君が担当している、エリアからの苦情がすごいんだ」
「知りませんでした。す、すみません……」
優しい店長のことだ。俺がミスした軒数を、隠しているのだろう。
きっと、10軒以上はあるな。
クソッ……配達ミスなんて、したことないのに。
「琢人くん、何か悩みがあるんじゃないの? 良かったら、僕に話してよ。君をこのまま、配達に行かせていいものか……とても不安なんだ」
「そ、それは……いえ。大丈夫です! 今日こそ、ちゃんとやって見せますので!」
「本当なんだね?」
「はい……」
初めて店長の怒っている顔を見た気がする。
きっと俺が悩みを、店長に打ち明けないから、心配しているのだろう。
※
その日の配達は、何時になく慎重に行った。
何度も何度も、配達先の家を確認し、ポストに入れた後も戻って見たり。
2時間で終わるはずの仕事に、3時間も使ってしまった。
それだけ、参っていたのだと思う。
配達を終えるころには、もう朝になっていた。
いつもなら、まだ薄暗い道路を走っている頃なのに……。
でも、今日は間違いなくミスをせず、仕事を終えられただろう。
安心していた。
あとはこのバイクを配達店まで走らせ、店長に報告すれば、家に帰られる。
すごく疲れた……。
帰ったら、ぐっすりと眠れそうだ。
閑静な住宅街をバイクで走っていると、何時になく、車が多いことに気がつく。
そうか……もう朝の7時だから、通勤ラッシュか。
国道に入ると、渋滞が起こっていた。
しかし、俺はバイクだから、道路の隙間を走れば良い。
さっさと渋滞を抜けて、帰ろうと思ったが。
最後に大きな交差点を右折しなければ、いけなかった。
ただでさえ、みんなイライラしている通勤ラッシュ。
無理して右折しようとすれば、反対側からクラクションを鳴らされる。
信号が黄色になったら、ゆっくりと曲がろうと待っていたが。
俺の後ろにいた車から「早く行けよ!」と怒号が聞こえてきた。
「ちっ、何を生き急いでいるんだか……」
仕方なく、右折しようとした時。
ちゃんと辺りを、確認していてなかったのだろう。
視界に入っていなかった。
横断歩道を、若い母親と男児が歩いている。
このまま曲がれば、彼らに激突してしまう。
俺は咄嗟にブレーキをかけて、急停止した。
その間に親子は横断歩道を渡り、ホッとしていると……。
巨大なトラックがこちらへ向かってくる。
運転しているおっさんが、一生懸命、なにかを伝えようとしているが。
こちらには、聞こえない。
一瞬の出来事だった……。
それからの記憶は、とても曖昧で。
アスファルトの上で倒れている俺と、ぐしゃぐしゃになった愛車。
たくさんの人が、地べたに寝転がっている俺を囲む。
みんな青ざめた顔で、俺に声をかけていた。
ただ、何を言っているのか、サッパリ分からん。
気がつけば、頭に白いヘルメットを被ったお兄さんたちが登場。
俺を担架に乗せて、どこかへ連れて行く。
けたたましいサイレンと共に、その車は発進する。
薄れゆく記憶のなか、最後にその名を口にした。
「ミハイル……」
ピッ、ピッ、ピッという電子音が一定のリズムで、どこからか聞こえてくる。
ここはどこだ?
頭が酷く痛む……それに何かが、俺の胸に覆いかぶさっているようだ。
手で外そうと試みたが、力が入らない。
瞼を開こうとしても、接着剤でもつけたかのように重たく感じる。
とりあえず起きなきゃいけないと思って、上半身を起こそうとした瞬間。
先ほどまで流れていた電子音のリズムが激しくなる。
「あぁ……」
何かを話そうとしてみたが、これも上手く出来ない。
口をマスクで塞がれているからだ。
マスクの先端には管が繋がれており、強い風が流れてくる。
薄っすらとだが、辺りが見えるようになってきた。
ここは全てが白い。
壁も天井も、だだっ広い部屋を忙しそうに走り回る看護婦たち。
頭の中に靄がかかったようで、スッキリしない。
一体、俺は何をしでかした。
そう思っていると、一人のナースと目が合う。
「あっ!? 起きちゃダメだって!」
「……?」
その声に気がついた他の看護婦も、慌てて俺の元へ駆けつける。
「寝てなさい! 薬が効いているから!」
「そうよ! 君は交通事故で搬送されたの! 絶対安静なの! 分かる?」
叩きつけるような勢いで、俺をベッドに寝かせるナースたち。
左上にかけられた点滴の袋を確認しながら、看護婦が説明してくれた。
「あなたは、数日前にこの真島総合病院……の近くで交通事故にあったのよ。詳しいことは後で先生が話してくれるから。まだじっとしてなさい!」
厳しく注意されたから、黙って頷いて見せる。
「じゃあ、安静にしていてね。ミハイルくん」
今、なんて言った?
トラックに轢かれて、ミハイルに転生したとか……。
※
ナースが言った通り、数時間後、担当医が現れた。
軽く質問をしたあと。触診したり、脈を計ると。
近くにいたナースへ指示を出す。
「この子、ミハイルくんだっけ? もう、個室へ移動させていいよ」
だから何故、名前がミハイルで登録されているんだよ。
「分かりました」
なんの薬かは分からんが、効果が無くなってきたようだ。
意識もハッキリしているし、視界も良好。
4人のナースさんが、俺のベッドを囲むと。
「今から個室へ移動するから、そのまま寝ていてね」
と言われた。
自分で歩こうと、ベッドから降りようとしたらすごく叱られた。
この年で若いねーちゃんに介護されるとか……屈辱だわ。
仕方なく、黙ってナースさんに『お神輿』をしてもらうことに。
寝たままガラガラと廊下を走り回る。
途中エレベーターを使って、移動すること10分ほど。
ようやく、個室へ到着した。
部屋に入るとベッドの各キャスターをロック。
そのあと、俺の身体についていた様々な管や機材を外してくれる。
これで身体が軽くなった……と思ったが。
そうでもない。
俺の左脚は、頑丈なギブスで固定されていた。
つまり、歩けないってわけだ。
参ったな……次のスクリーングも近いってのに。
※
ナースさんたちが出て行くと。
入れ替わるように一人の女性が、ノックもせずに入ってきた。
ボディコンのミニワンピースを着た淫乱女。
こちらをギロっと睨んでいる。
「おい、何日人を待たせる気だ?」
「……え?」
ようやく声を出すことに成功した。
ずっとマスクをつけていたから、喉が乾燥していて、かすれている。
「とりあえず、意識が戻ったと聞いたから……一発、殴らせろ」
「な、なにを……」
ツカツカと音を立てて、こちらへ向かってきたと思ったら。
途中から走り出し、勢いをつける。俺の頬へ目掛けて、ストレートパンチをお見舞い。
「がはっ!」
こっちはケガ人だぞ! と叫ぼうと思ったが、そんな気はすぐに失せてしまう。
殴った本人はベッドの上でうずくまり、泣いていたから。
「バカ野郎……死んでどうするんだ。これ以上、心配させるな」
俺は彼女の頭に触れてみた。
小刻みに震えている。
「せ、先生」
「うう……死ぬことなど、絶対に許さんからな」
※
しばらく、俺の膝で泣いていた先生だったが……。
近くにあったテイッシュを数枚掴むと、勢いよく鼻をかむ。
「チーン! あ~、すっきりしたぁ♪」
まだ鼻水が顔についているよ。
汚ねぇ、大人。
「先生……俺どれぐらい、意識がなかったんですか?」
「まあ、そう慌てるな。お前は交通事故により……。脳震とう、左脚の骨折及び裂傷で、この病院へ担ぎ込まれたのだ」
「事故ですか」
「うむ。トラックに轢かれたようだが、新宮の位置がもう少しズレていたら。おっ死んでいたらしいぞ」
先生は警察から聞いた情報を元に、色々と説明してくれた。
事故から、既に3日経っているらしく。
左脚の外科手術のため、麻酔を使ったらしいが。
それよりも、身体の衰弱が激しく……医師から栄養を補う点滴を、指示されていたそうだ。
「これを見ろ、新宮」
先生はそう言うと、真っ二つに割れたヘルメットをベッドの上に置いてみせた。
「あ、俺の……」
「そうだ。奇跡的に助かったが、トラックの運転手がブレーキをかけなかったら……お前の頭は、こうなっていたんだ!」
「……」
先生はすごく怒っていた。
この怒りは、新聞配達の店長と同じ感情だ。
心配してくれたのだろう。
「あのな、新宮。私はお前が必要だ。生徒してな。今までどんな大人たちがお前を見捨てて、学校から逃げたのか。私には理解できん。それでもだ。私はどんなことがあっても、お前たちを見捨てることはない!」
「はい……」
気がつくと、熱い涙が頬を伝う。
「たかが、恋愛の一つで死ぬなんて絶対に許さん! いいか、新宮。今回の事故を機に踏ん切りをつけるんだ! 生まれ変われ!」
「え……どういうことですか?」
「決まっているだろ。古賀のことで、自分を見失っているお前を元に戻す。いや、以前よりも強くなるのだ! 一ヶ月以上、入院するんだから。自分を磨いて、古賀への想いを、ちゃんと伝えられるようにな」
「は?」
なんで、宗像先生にそこまで決められてしまうんだ。
でも、確かに……以前の健康な身体を、取り戻さないとな。
また事故っちまう。
「あと、ちなみに今から私は教師として、お前を24時間監視するからな」
「はぁ!? どうしてそんなことに……」
「だって今、女装した古賀が来たら、お前はどうする気だ?」
「それは……」
「アンナとして接するんだろ? ならば、ダメだ。家族以外の面会は禁止とする!」
いや、それを言うなら、あんたも面会しちゃダメだろ。
「どうしてですか?」
「お前の気持ちが中途半端なせいだ! 相手を傷つけまいと、下手な嘘をつく。だから、このような事態に陥ったのだ! そうなれば、古賀も巻き込まれるぞ、分かっているのか? 自分の立場を」
「はい……」
先生の言う通りだ。
もし、俺が死んでいたら、ミハイルやアンナは……。
「新宮。そろそろタイムリミットだ、ちゃんと自分の意思で選べ」
「選ぶ?」
「ああ……男のミハイルか、女のアンナかをだ」
どっちもは、選べないんだよな。
宗像先生は今夜から早速、この個室で寝泊りするそうだ。
部屋には、折り畳み式の簡易ベッドが備えてあり、それを使うらしい。
俺が意識を取り戻して、数時間経ったが……。
先生以外、誰も部屋に訪れることはなかった。
「そういえば、先生。家族以外は面会禁止なんですよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「どうかしたって……なんで、他人の先生が来ているのに。俺の家族は見舞いにすら、来ないんですか」
「え? それはアレだろ? お前のお母さんが、育児で忙しいからだろ?」
「い、育児……?」
一体、誰を育児しているってんだ。
「お前の妹さん。大変なんだろ?」
「妹って……かなでは、もう高校生ですよ。一人で色々とやれますよ」
「違うよ。そっちの子は養女だろ? 最近、産まれたもう一人の方だよ」
「は……?」
「なんでも、18年ぶりのお産だから、大変だったそうじゃないか。今は、中洲のおばあちゃん家でお世話になってるらしいな」
ちょっと待ってよ。
誰の子?
母さんが妊娠していただと……。
そういえば、最近母さんの姿を見ないと思っていたが。
まさか、里帰り出産だったのか?
当たり前のことだが、どうしても疑いがあったので、質問してみた。
「その妹って、父親は誰ですか?」
「はぁ? そりゃ、お前のお父さんだろ。名前もお父さんが決めたって聞いたぞ」
ファッ!?
六弦の野郎……たまに帰って来て、激しく愛し合っていたと思ったら。
ちゃんと、避妊しとけよ! ガキじゃないんだから。
一体、何を考えているんだ。あの親父。
「へ、へぇ……それで名前は?」
「うむ。やおいちゃんって言うらしいぞ」
「……はぁあああ!?」
これには入院中の俺でも、ブチギレてしまった。
「なんだ? いきなりうるさいな。可愛らしい名前じゃないか」
どこがだ! その名前でよく役所に通ったな。
「先生は意味を知らないからでしょ? 子供につける名前じゃないですよ!」
「そうか? でも、戸籍上は“やよい”らしいぞ」
「な、なら、どうして……?」
「やよいって呼びかけると、泣き叫ぶそうだ。そこで、おばあちゃんがやおいちゃんと言ってみたら、落ち着いたそうだ。だから、やおいと呼ぶことにしたらしい」
「……」
ばーちゃん、もうやめてよ。
これ以上、被害者を増やさないで。
その後、宗像先生から詳しい話を聞くと。
母さんは実家の中洲で、寝込んでおり。
代わりに、ばーちゃんが俺の妹であるやおいのお世話をしているそうな。
なんて、かわいそうな妹だ。
きっと今頃、ばーちゃんお手製のBL絵本で洗脳されているに違いない。
※
それから数日後。
宗像先生は、スクリーングのために一度、学校へ行くことになった。
折れた脚や傷を治すのも当然だが。
それよりもまずは、ちゃんと食事を取れるようにならないと。宗像先生からきつく注意された。
だが……ベッドテーブルに置かれた病院食は、一切手をつけていない。
病院の食事だから、薄味というのもあるが。
それよりも、まだ胸の痛みが激しく、喉を通らない。
部屋の奥から、扉をノックする音が聞こえてきた。
若いナースさんが、新しい点滴の袋を持って、問診に訪れた。
俺が未だに食べられないので、栄養を補う点滴は外せないらしい。
「あらぁ、また食べてないじゃない。ミハイルくん、ダメでしょ!」
「すみません……」
俺が病院に担ぎ込まれた際、ずっとミハイルの名を呼び続けていた為、そのまま登録されてしまった。
「そんなんじゃ、また高校の先生に怒られるよ? ずっと看病してくれる良い先生じゃない~ 今時あんな教師いないよ」
「はい。頭では分かっているんですけど。どうしても食べられないんです……」
「困った子ね。あ、違ったらごめんね。ひょっとして、恋わずらいとか?」
ギクッ! なぜ女性には、すぐにバレるんだ?
「その……はい」
もうめんどくさいので、認めてしまった。
「はは、若いねぇ。いいなぁ~ ならちゃんと、相手に想いを伝えるためにも、しっかり食べなきゃ」
「がんばります」
「そうだよ。健康になったら、当たって砕けておいで♪」
なぜ、砕ける前提なの?
看護婦だってのに、酷くね。
「じゃあ、また何かあったら言ってね。食べられるようになったら、点滴の交換も無くなるから。あ……それとさ、ミハイルくんって、全然ハーフぽくないね」
「……」
当たり前だろ。
※
夕方になり、宗像先生が病院に戻ってきた。
かなり不機嫌そうだ。眉間に皺をよせ、簡易ベッドにダイブする。
「あ~、疲れたぁ」
「お疲れ様です。どうでした?」
特に悪気はなかったのだが、その言葉で先生に火がついてしまう。
「どうかしただと? 新宮っ! 全部、お前のせいだ!」
「え、俺の?」
「ああ……これを見てみろ」
先生は自身のスマホを、ベッドテーブルの上に置いて見せる。
画面を確認してみると、遠くから誰かを撮影した写真だ。
「あ、アンナ……?」
ツインテールの金髪美少女が、ベンチに座っている。
前回、俺とサンドイッチを一緒に食べたあの場所だ。
ひとり、しかめっ面で何かを咥えている。
チェック柄のミニワンピースに、リボンのついたローファー。
相変わらずガーリーなファッションで、可愛らしい。
しかし問題がある。
その態度だ。
女装している時は、完全に女として演じるのがアンナだ。
だが、この写真ではガニ股で、パンツが丸見え。
今日は白か……じゃなかった。
なんでこんなにガラが悪いんだ?
「せ、先生……これは一体?」
「見りゃわかるだろ? タバコを吸っているんだよ」
「なっ!?」
もう一度写真を確認すると、口に咥えているのは白いタバコだ。
当然、火がついている。
「どうしてタバコを吸っているんですか!? ミハイルはもう喫煙者じゃないですよ!」
「そんなのものは、私が知りたいぐらいだ。あんなに素直で可愛い古賀だったのに……。新宮が事故で一ヶ月以上、入院。面会もできないと伝えたら、一気にグレてしまったんだ!」
「えぇ……」
その後、先生に「もう一枚の写真も見てみろ」と言われたので、画面をスワイプしてみる。
全日制コースの男子たちが、アンナを囲み。
何やら、いやらしく笑っている。
「古賀がパンツ丸見えの状態で、タバコを吸っていると話題になってな。三ツ橋高校の生徒たちがナンパに来たのだ」
「そ、それで?」
「答えは最後の写真を見ろ」
恐る恐る、次の写真を見てみると。
ボコボコにされた全日制コースの男子たちが、アスファルトの上で倒れていた。
可愛らしいツインテールの少女が、体格の良い少年の胸ぐらを掴んで、睨みつける。
そして、少年の瞳に向かって、火のついたタバコを近づけようとしていた。
「私が止めなかったら、危なかったぞ」
「え……?」
宗像先生は咳ばらいした後、ブリブリした女を演じてみせる。
『ねぇ☆ あなたの瞳、涙でいっぱいだから。このタバコの火を消すのにちょうど良いよね☆』
と脅したらしい。
「新宮、やはりお前らはどちらが欠けると、全然ダメだ。さっさと身体を治せ!」
「は、はい……」
入院して、1週間が経った。
だが依然として俺の治療は、思うように行かず。
病院食を口にしても、たった数口で終わってしまう。
「また食えなかったのか?」
宗像先生は何度も同じ光景を見て、苛立ちを隠せない。
「はい……味がしなくて」
「味がしないねぇ。恋わずらいのくせして、格好つけてんじゃないぞ」
「別に、そんな意味では……」
俺だって食おうと思っているのに、身体が受け付けないんだ。
「そうか。ま、新宮がそんな状態なら、私が奪ってもいいってことだな」
「へ? なにをですか?」
「ふふふ……」
俺がそう尋ねても、先生は不敵な笑みを浮かべているだけ。
宗像先生は自身のスマホを取り出すと、誰かと電話を始めた。
「おう、私だ。この前教えたところまで持って来てくれ」
通話を終えると、先生はニヤニヤ笑いながら、俺を見つめる。
「ヒヒヒッ」
き、気味が悪いな。
※
病院の食事は、いつも早めに届けられる。
これぐらいしか、楽しみがないから……だとナースさんが話してくれた。
今日の昼ご飯はカレーライス。
美味そうだが……やはり今の俺じゃ無理だ。
ひと口で諦めてしまう、ヘタレぷり。
その時、部屋の扉が勢い良く開いた。
宗像先生が満面の笑みで、大きな弁当箱を持って入ってくる。
「だぁはははっははは! お昼だ、お昼っ! やはり外食よりも、人が作った料理に限るぞ!」
この人に料理を作ってくれる相手なんて……いないだろ。
簡易ベッドの前に、ローテーブルを持ってくると。
わざとらしく、弁当箱のふたを開いてみせる。
「おおおっ! こりゃすごい! 愛の詰まった弁当だ」
気になった俺は、ベットから身を乗り出す。
覗き込んで見ると、確かに作った相手の優しさを感じる弁当だ。
タコさんウインナーに、玉子焼き。ハンバーグに焼き鮭。
そして、びっしりと埋められた白米には、大きなハートが何個も並んでいる。
何だ? この異常な女子力は。
「いただきまぁ~す!」
と言いながら、ハイボール缶を取り出す宗像先生。
「かぁ~ うめぇ! 今度から毎日これをつまみに飲めるなんて、教師になって良かったぁ♪」
その言葉を聞いて、ようやく気がついた。
先生が持ってきた弁当……アンナが作ったな。
「ちょ、ちょっと! なんで先生がアンナの作った弁当を、食べているんですか!?」
「あぁん? そりゃお前が悪いんだろ。真面目に食事を食べないから、ケガも治らない。一生、ここで過ごす気か? その点滴くんと」
そう言うと、点滴の袋を指差す。
「うっ……それは」
「これを食いたいなら、さっさと病院食ぐらい食べてみせろ。まず、それからだ」
クソっ!
人の女を女中扱いかよ……。
「分かりましたよ! 食べます、食べりゃ良いんでしょ!?」
「おほ~ 怒ったか? そりゃあ良いことだな。怒るってのも意外とパワーが必要だからな♪」
先生に煽られて、見事この日のお昼ご飯は、全て完食した。
「やりゃあ、できるじゃないか」
「ハァハァ……こんなことを毎日、続ける気ですか?」
「当たり前だ。お前が治るまでずっとな。それから、新宮。忘れていたけど、この弁当を作った本人だが。今この病院の1階にいるぞ」
「えっ!? アンナが?」
驚きのあまり、飛び起きるが、先生に身体を抑えられた。
「この空になった弁当箱が帰ってくるのを、ひたすら待っているそうだ……私ではなく、新宮が食べてくれると願ってな」
「そ、そんな……じゃあ先生は、騙したんですか? アンナを」
「騙したというより、お前らのためを思ってやった行動だ。結果的に、新宮も病院食を完食できたし、古賀も安心できるだろう」
「……」
確かに先生の言う通りだ。
例え、汚いやり方でも。
「古賀は喜んで引き受けてくれたぞ。『タッくんのためなら、毎日行きますっ!』てな」
「アンナ……」
俺のせいで、こんなことに。
「ということでだ! 新宮、お前がしっかり食べられるまで。私はずっと古賀の愛妻弁当を毎食、奪ってやる。あぁ~、今から夜が楽しみだ。あいつの作る料理はつまみに丁度、良いんだよ」
「こ、この……」
拳を作ったが、すぐに引っ込める。
込み上げてくる怒りは、全て明日へ向けよう。
そのために、どんな料理でも腹にぶち込むんだ。
※
それから毎日、目の前でアンナの弁当を、美味そうに食べるところを見せつけられた。
宗像先生に煽られたからではないが、俺も負けじと病院食を残さず、完食する。
日に日に、体重は戻っていった。
ただ病院の食事を食べているだけなのに、体重は55キロほどに上がっている。
元の体重より、まだ痩せているが……。
随分、身体を動かしやすくなった。
並行して、折れた左脚のリハビリも開始している。
この調子で行けば、あと3週間ほどで退院できるらしい。
だが、そんな俺を見ても、宗像先生は満足していなかった。
むしろ、不満そうだ。
食事を取れるようになって、身体も回復してきたところで。
先生が今まで溜まっていたレポートや、前期のテストを持ってきた。
退院する前に全て書き終えろ、と注意された。
仕方なく、デスクテーブルの上でレポートの空欄を埋めていく。
以前は公式のラジオを聴きながら、問題を解く……というか、答えを教えてもらい。
レポートを書いていたが。
今はもうそれすら、面倒くさくなって、教科書も読まずに、答えを書いている。
前後の文章を読んでいれば、なんとなく分かるからだ。
だって所詮は、義務教育の下級生レベルだよ?
一人で黙々と勉強を続けていると、部屋の奥から扉をノックする音が聞こえてきた。
ナースさんの問診かな?
でもいつもより、早いし……。
今は宗像先生が部屋にいないので、大声で叫んでみる。
「はーい! 開いてますよ!? どうぞ~!」
「……あの、本当に入っても良いかな?」
ん? なんだこの控え目な話し方は。
「失礼ですが、どなたですか!?」
「お、オレだよ……タクト」
「はっ!?」
まさか……でも、アイツとは絶交したはずだ。
「ミハイルだよ、入ってもいい?」
「……ああ、もちろんだ! いや、入ってくれ!」
なんてこった。アイツ自ら、赴いてくれるなんて。
そうか。俺が交通事故にあったから、心配してくれたんだ……。
この時、俺の心臓は高鳴っていた。
大きな胸の穴も、どんどん塞がっていく気がする。
俺にとって、そんなに大事な人間だったのか……。
「た、タクト……入るからね?」
「おう」
緊張から生唾を飲み込む。
このドアが開いたら、ミハイルが立っている。
彼と別れて、何十年も経ったような感覚だ。
それだけ、ミハイルがいない時は辛く、耐えられないものだった。
「久しぶり。タクト☆」
「み、ミハイル……」
金色の長い髪は、首元で結い、纏まらなかった前髪を左右に垂らしている。
肩だしのロンTを着ていて、中には黄色のタンクトップが見える。
ボトムスは、デニムのショートパンツ。
そして、細く長い脚……と表現したかったが、ここまでだ。
なぜかと言うと、肌の色が美しくない!
ミハイルの……透明感のある白い肌ではなく。ちょっと肌が焼けている。
太ももには青あざが目立つ。
足元も、若者らしい真っ白なスニーカーを履いているが。
違和感が半端ない。
「タクト☆ 事故だって聞いたから、心配で来たんだよ!」
「あ、そう……」
「どうしたんだよ~ オレが来たのに、嬉しくないの?」
俺のベッドに近寄るとしゃがみ込み、上目遣いで話す。
人工的に作られた、エメラルドグリーンの瞳を輝かせて。
「嬉しいですよ。すごく」
「なんで、けーごを使うんだよぉ~! オレたちマブダチだろぉ~!」
ポカポカと俺の胸を殴ってみせるアラサー女史。
そうだ。こいつはミハイルとは、程遠い生き物だ。
よく見れば、金髪の長い髪はヅラだ。
そりゃそうだろ。今のミハイルは、ショートカットだし。
ファッションも彼に寄せてはいるが……デカすぎる胸で、パツパツだ。
あ~、マジで女じゃなかったら、ボコボコに殴ってたわ。
人の純情を弄びやがって。
「宗像先生……これは一体なんの授業ですか?」
「え? 何を言っているの、タクト。オレは心配だから、病院に来たんだよ☆」
このクソ教師、まだ続ける気か。
「もうそのお芝居は不要です。バレてますから」
「チッ……なんだ。もうバレたのか」
そう言うと先生は、被っていた金髪のヅラを脱ぎ、簡易ベッドに腰を下ろす。
目につけていたカラコンを外すと、身体を横にして休む。
「はぁ~ せっかく新宮が元気になるよう、わざわざコスプレしたのにな」
「色々と無理がありましたよ。ミハイルはもっと可愛いですっ!」
これだけは、語気を強めてしまう。
「あっ? 私が可愛くないってか?」
「いや……そう言う意味じゃなくて」
「フンッ! でも、これで少し分かったんじゃないのか?」
「え? 何がですか?」
「新宮、お前の気持ちだよ」
「俺の……?」
※
ヅラとカラコンを外したから、顔だけは宗像先生に戻っている。
だがファッションは、ミハイルのままだ。
正直、服のサイズが全て小さいから、パツパツ。
ショーパンからは、紫のレースがはみパンしている……。
しんどっ。
しかし先生は、そんなことは気にせず、真面目な顔つきで俺に語りかける。
「なあ、新宮。お前と古賀がこういう関係になった原因は何だ?」
「え、原因って……」
「問題が起きたとしてだ。必ず何らかの原因があるはずだ。告白は古賀からしたんだろ?」
「そうです。でも、女じゃないから付き合えない……と断りました」
「ふむ……そこじゃないか? お前たちが歪み始めたのは?」
「へ?」
何か思いついたようで、急に簡易ベッドから立ち上がる先生。
そして、病室の窓に近づき、オレンジ色に染まった夕陽を見つめる。
「女だったら付き合える……という、新宮の答えがまず有り得ない」
なんて、格好をつけているが、デニムから尻がはみ出ているので辛い。
でも真面目に考えているから、とりあえず黙って話を聞こう。
「新宮が古賀のことを『カワイイと思ったから』と言ったことから、始まったんだよな……。まず同性に対して、こんな感情を抱くことがおかしくないか?」
そう疑問を抱くと、先生は急に振り返る。
何かに気がついたようだ。
「あ、あれは……」
言葉に詰まる。
だが先生の言う通りかもしれない。
でも、このままでは俺がノン気じゃないみたいだ。
否定しておこう。
「あ、あの時はミハイルが……まだ女だと思い込んでいたから、そう感じたし。本人にも言ってしまいました。でも同性と分かったからには……」
「分かったから、古賀の告白を断ったのか?」
「はい……」
なんだか俺が責められているようで、胸が痛む。
「しかし、女に生まれ変わったら付き合える。とも言ったな」
「そうです……」
「新宮。そんなことを他の男たちに言えるか? クラスメイトの千鳥や日田兄弟でも良い。想像してみろ。私が同級生の日葵やヴィクトリアに告白されたら、嘔吐している可能性が高い」
先生に言われて、頭の中で想像してみる。
『なあ、タクオ! ほのかちゃんにまた振られたんだ……だから、一晩だけでいいから、なっ!』
『そ、そんなこと……やめっ、ダメだってば』
リキなら、別府温泉で処女を捧げたから、一晩ぐらい許してもいいような。
って、ダメダメ!
俺はノンケだ。
「あ、有り得ないです……ミハイルはカワイイから、女装も受け入れられたと思います」
「そうか。となると、もうあまり考えなくて良いんじゃないのか? 新宮、お前は間違いなく、入学式で古賀 ミハイルを見て、カワイイと思った。これに間違いはないな?」
「間違いありません……」
「ならば、それが真実なのだろう。きっとアンナという女が生まれたのは、新宮の照れだな」
「て、照れですか?」
「そうだ。お前は男の古賀に告白された時、自分をノンケだと信じたいから、照れ隠しをしたのだろう。初めての経験だから、仕方ないと言えばそうなるが……」
何故か、宗像先生の言うことに反論できない。
もちろん、納得はしていないが。
だが、当たっていると思ってしまった。
「新宮。別に、誰が誰を好きになっても良いじゃないか。もっと自分の気持ちに、素直になったらどうだ? お前は自分にも古賀にも嘘をつき、傷ついた。ならもう、どうでも良くないか?」
「何がですか?」
「ま、世に言う。ゲイだの、バイセクシャルだの……ってやつだ」
実質、俺がノンケじゃないと宣言されたようなものだ。
確かにずっと認めたくなかった。
初めて好きになった相手が、男だなんて。
「じゃあ俺は……」
「そこで自分を否定するな。私が言いたいのは、新宮が誰を好きかって話だ」
「俺が好きな相手?」
「うむ。お前がこの世で一番、カワイイと思った相手だ。ここが重要なポイントじゃないか」
「カワイイ……」
そう言われると、一番最初にカワイイと思ったのは。
俺が決断する前に、先生は俺の肩を掴み、優しく微笑む。
「新宮。大事なのは愛だ。この世は全て、愛で形成されている」
何をいきなりスケールのデカい話にすり替えているんだ?
「愛?」
「そうだ。愛さえあれば、お互いの相性さえ合えば……全てを乗り越えられるのだ!」
「つまり……先生が言いたいのは、性別の壁も」
「うむ、玉と竿。あと尻さえ揃えば……とりあえず十分だろっ!」
と親指を立てるクソ教師。
せっかく何かを掴みそうだったのに……台無しになってしまった。
「俺はノンケだ……間違いなくノーマルで、天才な男」
ひとり、天井を見上げながら、呟く。
もう病院の個室ではない。
我が家に無事、帰宅できたのだ。
その証拠に自室の天井は、入院前と変わらず、ミハイルの写真で覆われていた。
どこに目をやっても、必ず男のミハイルがいる。
しかし、敢えて言おう。
「ノンケだ!」
と天井に向かって叫ぶ。
宗像先生から教わった……。
俺が誰を一番好きかということ。至ってシンプルな話だ。
一方で先生は、俺がゲイを否定している事も考慮した上で。
世間体など気にするな、と言いたかったのだと思う。
それからだ。
肩の荷が下りた気がして、何もかもが前向きに進み始めたのは。
病院食も毎食、全て完食できるようになったし。
ついでに宗像先生が持ってくるアンナの手料理も、半分以上貰って食べていた。
俺が元気になってきたところを見て。宗像先生からリハビリと称して、激しい筋トレを強いられた。
腕立て伏せ、腹筋。背筋にスクワットを各30回、一日3セット。
片脚が折れた状態でも、やらされた。
「相手に想いを伝えられるぐらい、強靭な肉体を手に入れるのだ!」
と昭和的な考えで、スパルタ教育されてしまった……。
俺はようやく回復した……いや、強い男に生まれ変わったのだ。
身体を鍛えたことにより、考え方も変化する。
自分はあくまでもノンケだが、好きになった人間がたまたま男だった。
という考えを受け入れることにより、前へ進める。
ならば、あとは簡単だ。
ジーパンのポケットからスマホを取り出し、相手に電話をかける。
『……もしもし?』
弱々しい声だ。心配させてしまったからな。
「久しぶりだな、アンナ」
『タッくん!? げ、元気にしていたの? 宗像先生が全然、会わせてくれなかったから……』
俺が退院したことは、家族と先生以外知らない。
敢えて、情報を制限したのだ。
しっかりとお互いの間で、ケリをつけるまで、接触することは禁止する。
そう宗像先生に厳しく注意された。
でも、今は違う。ちゃんと準備が整ったから。
「悪かったな、アンナ。色々とあったが、ちゃんと無事に退院できたんだ。弁当も毎日ありがとう」
『良かった……本当に……』
受話器の向こう側から、すすり泣く声が聞こえてくる。
「その礼も兼ねて……いや、やはり正直に言うよ。明日、久しぶりに取材しないか?」
『え? 取材……』
「ダメか?」
『ううん、ダメじゃないよ。でも、退院したばかりなのに、大丈夫なの?』
「心配するな。むしろ元気が有り余っているぐらいだからな、ハハハっ!」
『そう、なんだ……わかった。じゃあ、明日博多で会おうね』
「ああ」
電話を切ったあと、俺はなんとなく手ごたえを感じ、拳を作っていた。
ここまでは、計画通りだ。
あとは、本番次第。もうあんな不幸が続くことのないように……。
※
デート当日、博多駅の中央広場へ向かった。
春の間はほとんど、病院で過ごしていたので。久々に人ごみを見て、懐かしさを感じていた。
1年前のデートを。
いつも通り、黒田節の像で彼女を待つ。
俺のファッションは相変わらず、タケノブルーのTシャツに、ジーパン。
入院をきっかけに筋トレを続けているから、ちょっとサイズが小さく感じる。
「タッくん~!」
「ん?」
甲高い声が聞こえてきたので、そちらに視線を向けると。
そこには、ツインテールの金髪美少女が立っていた。
肩あきの白いブラウスで、胸元にはいつもより大きなリボンがデザインされている。
ボトムスは珍しく、ブルーのミニスカート。
こちらもウエストにリボンが二つ並んでいる。
初夏にピッタリの色合いだ。
可愛い……。
久しぶりに見た彼女を見て、言葉を失う。
「……」
「タッくん? どうしたの? まだ脚が痛むの?」
緑の瞳を潤わせて、俺の顔を覗き込む。
「あ、悪い……久しぶりに会えて嬉しくてな。やっぱりアンナは、いつ見ても可愛いなと思って」
つい本音がポロリと口からすべってしまう。
「そんな、タッくんたら……」
案の定アンナは顔を真っ赤にして、視線を地面に落としてしまう。
「はははっ! 今日はアンナに日頃の感謝を込めて、デートしたくてな。いっぱい博多で楽しもう! とりあえず、カナルシティに行かないか? イチ押しの映画があって……」
と言いかけた瞬間、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
「うう……本当に心配したんだから。タッくんが死んだんじゃないかって、すごく怖かった! 毎日、毎日神様にお祈りしていたんだよ!」
顔は見えないが、どうやら泣いているようだ。
「すまん、アンナ。なかなか連絡も取れず……」
「もう絶対に、遠くへ行かないで。タッくんのいない世界なんて、いらない!」
「ああ、そうだな」
※
しばらくアンナを慰めること20分。
彼女も落ち着いてきたので、再度今日の目的地であるカナルシティへ向かうことに。
はかた駅前通りを二人で歩きながら、俺は今日のデートプランを説明する。
「今日はな。とある有名な映画を観ようと思うんだ。アンナも聞いたことないか? 恋愛映画の名作『大パニック』を」
「アンナ、知らない……」
どうもテンションが低いな。
「俺も昔、DVDで観たけどすごい映画なんだ! 上映時間が3時間を越える超大作なんだが、そんな時間も忘れてしまうぐらい楽しめる作品でな。今回、リマスター版を劇場で観られるんだ」
「そうなの。でもタッくんにしては、珍しいね」
「へ?」
「だって、いつもは恋愛映画とか観ないんでしょ? タケちゃんの映画ばかり、観ている気がするよ?」
「それは……」
痛いところを突かれてしまった。
彼女の言う通りだ。
俺は普段から、恋愛映画なぞ好んで観ることはない。
今回のデートだから、敢えて選んだ作品だ。
「タッくん。何か隠してない?」
「か、隠してないぞ! 心配するな、俺は入院してしまったが、この通り。見事強くなって帰ってきたのだ!」
とTシャツの袖をまくり、少し膨らんだ上腕二頭筋を見せつける。
だが、彼女の反応はいまいちだ。
「なんか、タッくんらしくない……前のタッくんの方が良かった」
えぇ……強い男の方が良くね?
「そうか? 宗像先生に鍛えられて、今度こそアンナを守れる男に……」
言いかけたところで、彼女に遮られる。
「望んでない! アンナはそんなこと、望んでないもん! ただタッくんと一緒にいたいだけ」
「アンナ……」
う~む、どうも今日のデートは、空回りしているような。
「それから、タッくん。忘れてない?」
「え?」
「今日ってタケちゃんの新作映画『作家レイジ 最終章』の公開日だよ。そっちを観なくてもいいの?」
うわっ、マジで知らなかった。
この数日間、今日のことで頭がいっぱいだったからな。
「ああ……今日は観なくていいよ。アンナと一緒に楽しめる作品を観たいからな」
「やっぱり変だよ。あのタッくんが、タケちゃんを選ばないなんて……」
「はははっ、そうかな……」
ヤバい。計画通りに事が進められるかな?
タケちゃんの新作映画が公開されることを知らなかった俺。
本当は観たくて仕方ない……が絶対にダメだ。
計画が狂う。
敢えて、今日は恋愛映画の『大パニック』を観ることにした。
事前にインターネットで調べたところ。
この作品をカップルで観に行くと、感動の余り、劇場から出ると、すぐにラブホテルへ直行するカップルが続出したとか。
いや、俺の目的はそっちではないのだが……。
とにかく、今日はこの映画を観るのだ。
そのためにチケットも、珍しく前売り券を購入しており、座席もインターネットで予約している。
カップルシートを。
なので、チケット売り場に並ばず、スクリーンへと向かえる。
途中、ポップコーンと飲み物を買おうと、売店に並ぶ。
どうもアンナの顔色が悪く見える。
「アンナ? どうした、なんか元気がないな?」
「うん……ごめんね。タッくんに会えるのは、すごく嬉しいし、楽しみだったけど」
「何か、心配なのか?」
「心配ていうか……タッくんが別人みたいに変わった気がして。怖いかな。どこか遠くへ行っちゃいそう」
え? 俺ってそんなに変わったかな。
筋トレのしすぎとか?
「な、何を言っている、アンナ。俺がアンナから離れるわけないだろ」
「本当? 今のタッくん。アンナじゃなくて、別の人を見ている気がする」
「……そんな訳ない! 俺は今日、自分の意思でアンナとデートをしたい、と思って来たんだから!」
なんで、こんなに暗いんだ? アンナ……。
デートをしているのに。
※
ブーッという音と共に、幕が上がる。
20年以上前に公開された名作、『大パニック』は当時、売れに売れて。
公開から約1年間のロングラン上映……という伝説を持つ。
俺が予約した座席は、カップルシート。
二人掛けのソファーみたいなもので、互いの間にひじ掛けが無い。
そのため、彼女が彼氏の肩にもたれ掛かったり、暗闇に乗じてイチャイチャすることも可能だ。
巨大なスクリーンを前に、アンナが好きなチョコ味のポップコーンを右手に持ち。
しれっと左手を、彼女の細い肩に回してみる。
アンナも嫌がる素振りは無い。
これぞ、カップルらしい映画の楽しみ方じゃないか!
しかし……肝心の彼女は。
「……」
終始無言。
そして、大食いのアンナがポップコーンを手につけていない。
何故だ!?
と、とりあえず、この映画を観れば、アンナも感動してくれるだろう。
~約3時間後~
大型客船は氷山に衝突してしまい、船はまもなく沈没。
パニックが起きる船内で、どうにかして生き延びようとする主人公とヒロイン。
壊れたドアの上にヒロインを乗せて、主人公はそれに掴まり極寒の海中を漂っていたが……。
最後は力尽きて、ひとり海へと沈んでいくのであった。
全ては愛するヒロインを守るため。
エンディングロールが流れ始めたころ。
予想通り、観客席からすすり泣く声が聞こえてくる。
主に女性の観客だ。
そして俺の隣りに座っているアンナにも、同じ現象が起きている……かと思ったら。
「うわぁあああん!!!」
両手で顔を覆い、号泣というより……ギャン泣き。
他の客が引くレベル。
「お、おい。アンナ、どうしたんだ?」
「ひどいよぉ! こんな映画、観たくなかったぁ!」
そんなこと言うなよ。監督やキャストに失礼だろ……。
「どうしてだ? 好みじゃなかったのか?」
「だってぇ! 最後に主人公が死んじゃったじゃん! この前のタッくんと重なったの! アンナのために死んで欲しくないっ!」
「あぁ……」
タイミングが悪かったようだ。
彼女に感動どころか、トラウマを植え付けてしまったみたい……。
※
悲しいラストシーンを観たせいで、アンナはかなり落ち込んでいた。
次から次へと、涙が溢れ出て来る。
見かねた俺がハンカチを貸したが、すぐにびしょびしょに濡れてしまう。
アンナ自身も取り乱していることを自覚したのか「とりあえずお手洗いに行かせて」とよろけながら、女子トイレへ向かった。
「……」
彼女の後ろ姿を見守りながら、唇を嚙みしめる。
クソっ、選んだ作品が良くなかったか。
これなら、タケちゃんの方が良かったのかな。
20分ほど経ってから、恐らくメイクを直してきたアンナが戻ってきた。
暗い顔で……。
「ごめんね、タッくん」
「いやぁ……俺こそ、すまん。あの映画を選んだから」
「ううん。アンナも良い映画だと思ったけど。どうしても、ラストの主人公がタッくんと重なって……」
「そうか」
でも、俺はあんなイケメンではないぞ。
失敗したことは、仕方がない。
やり直しなら、いくらでも出来る。
ここは一年前と同じことをやってみよう!
「なあ、アンナ。良かったら、プリクラを撮らないか? 初めて出会った時も、一緒に行ったよな」
「あ、うん……いいよ」
少しだが、笑みが戻った。
ここから彼女のテンションを爆上げさせて、良いムードにしないとな。
※
スクリーンから長いエレベーターに乗り込み、出口に到着すると。
すぐ左手に、ゲームセンターとプリクラ専用のブースがある。
アンナと初めて来た時、プリクラを撮影するのは人生で初めてだったが……。
過去に何度か、経験しているので慣れてきた。
そして今日のために、最新機種は全て把握済みだ。
「なあ、アンナ。今日はあの機種にしないか?」
「え……どうして?」
それを聞かれた俺は、自信満々に答えてみせる。
「ふふっ、プリクラの最新機種や色んな盛り方など。スマホに専用のアプリをインストールしたから、俺も詳しくなったのさ」
なんて格好つけてみる。
「そ、そうなんだ……」
あれ? なんかめっちゃ暗い顔をしてる。
視線も逸らされてるし。
「とりあえず、撮影するか!」
「うん」
機械に硬貨を投入して、いざ撮影タイム。
撮影する人数や背景、全身モードなどは全て俺が選んだ。
慣れた手つきで、画面をタッチしていると、背後にいたアンナが呟く。
「タッくん……見ないうちになんか、すごくプリクラに慣れたね」
「え?」
「前は何も分からなかったのに。アンナはもう要らないのかな?」
「あ、いや。そんなことないぞ? この機種に慣れているわけではなくて、事前に情報を……」
言いかけたところで、また彼女に遮られる。
「ひょっとして、マリアちゃんに教えてもらったの?」
「ち、違うぞ! 俺は自分で操作方法を覚えたにすぎん」
正直に説明したつもりだが、今の彼女には伝わらなかったようだ。
「一年前とは違うもんね。もうあの時のタッくんとは違う。アンナがひとり占めにしちゃダメだもん……強くなったし、色んな子にモテるし」
「いやぁ、そんなことないぞ? 俺はこの数ヶ月、アンナのことしか考えていない」
ここだけは真実であると、強調したかったのだが。
「タッくん、優しい……だからモテるんだよね。もう一般人のアンナとは違って、有名な作家さんだし」
ちょっと理解に苦しむ。
そんな有名人なら、俺は博多を歩けないって……。
何故、今日のデートは、こんなにも上手くいかないんだ?
俺はこの1日に、全てを賭けているのに。