アンナが戻って来て、10日経った。
 優しい彼女は手作り料理を、毎日自宅へと持って来てくれる。

「早く元気なタッくんを見たいな☆」

 と1日に2回も、重たい圧力鍋を抱えて、玄関のベルを鳴らす。

 俺はその姿を見る度に、罪悪感を感じていた。
 彼女の優しさに、応えられていないから……。

 最初の頃は喜んで、アンナの手料理を口の中に放り込んでいたが。
 今となっては……彼女の作る早さに、俺が追いつけなくなり。
 冷蔵庫やリビングのテーブルを、埋めてしまうほど残っている。

 また感じなくなった。
 大好きなアンナの料理でさえ、味がしない。
 食べても、数口でお腹がいっぱい……いや、胸が痛む。

 そのせいで、体重は上がるどころか。また下がっていく。
 ついに50キロを切ってしまい、今の体重は48キロだ。

 ガリガリに痩せてしまったせいで、春だってのに寒気を感じる。
 新聞配達もバイクが重すぎて、ふらついて運転するから危険だ。
 

 俺はこれから一体どうしたら、良いのだろう?
 失って気がついた事と言えば……ミハイルが必要だってことだ。
 だからといって、アンナの存在を否定し、彼を呼び戻すなんて……。
 また傷つけてしまう。

「ダメだな……俺は」

 自室で一人、学習デスクに座り、天井を見上げる。
 
 今年の春から俺は、妹のかなでと別室になった。
 かなでが国立の名門高校へ合格したから、そのお祝いらしい。
 親父が使っていた書斎に、かなでは移動した。

 二段ベッドも二つに分けて、大量の男の娘グッズも移動。
 各部屋にはプライベート空間として、扉に鍵をつけてもらえた。
 だったら、もっと早く配慮して欲しいものだ。

 こんな風になる前に……。

 天井にはビッシリと並べられた少年たち。
 ブロンドのハーフで、緑の瞳を輝かせている。
 この世に一枚しかない、アイツの写真だ。

 A4サイズに拡大コピーして、部屋中の壁に貼っている。
 部屋全体をミハイルで包み込むことで、安心する。

「もう、会えないのかな……」

 写真にそう問いかけても、彼は答えてくれない。

 食べられない日々が続くが、最近は睡眠もろくに取れていない。
 瞼の下はクマが酷く、どう見てもヤバイ顔つき。

 それでも、仕事は始まる。
 スマホからアラームが鳴り響き、新聞配達の時間だと知る。
 仕方なく、家を出て自転車を走らせると。
 地元、真島の新聞配達店へ向かった。

  ※

 大量の新聞紙を丸めて、バイクの荷台へと積み込む店長。
 俺の顔を見て、何故かため息をつく。

「琢人くん……一体どうしたの? 最近、おかしいよ」
「いや、ちょっと色々あって……」

 店長とは小学校からの付き合いだが、未だにアンナのことは話せていない。

「う~ん、実はさ……最近、お客さんからの苦情が多いんだよ」
「え? 俺にですか?」
「そうなんだよ……琢人くんもこの仕事、長いからさ。僕は信用しているんだよ? でもね、配達ミスが多いんだ。君が担当している、エリアからの苦情がすごいんだ」
「知りませんでした。す、すみません……」

 優しい店長のことだ。俺がミスした軒数を、隠しているのだろう。
 きっと、10軒以上はあるな。
 クソッ……配達ミスなんて、したことないのに。

「琢人くん、何か悩みがあるんじゃないの? 良かったら、僕に話してよ。君をこのまま、配達に行かせていいものか……とても不安なんだ」
「そ、それは……いえ。大丈夫です! 今日こそ、ちゃんとやって見せますので!」
「本当なんだね?」
「はい……」

 初めて店長の怒っている顔を見た気がする。
 きっと俺が悩みを、店長に打ち明けないから、心配しているのだろう。

  ※

 その日の配達は、何時になく慎重に行った。
 何度も何度も、配達先の家を確認し、ポストに入れた後も戻って見たり。
 2時間で終わるはずの仕事に、3時間も使ってしまった。
 それだけ、参っていたのだと思う。

 配達を終えるころには、もう朝になっていた。
 いつもなら、まだ薄暗い道路を走っている頃なのに……。

 でも、今日は間違いなくミスをせず、仕事を終えられただろう。
 安心していた。

 あとはこのバイクを配達店まで走らせ、店長に報告すれば、家に帰られる。
 すごく疲れた……。
 帰ったら、ぐっすりと眠れそうだ。

 閑静な住宅街をバイクで走っていると、何時になく、車が多いことに気がつく。
 そうか……もう朝の7時だから、通勤ラッシュか。
 国道に入ると、渋滞が起こっていた。

 しかし、俺はバイクだから、道路の隙間を走れば良い。
 さっさと渋滞を抜けて、帰ろうと思ったが。
 最後に大きな交差点を右折しなければ、いけなかった。

 ただでさえ、みんなイライラしている通勤ラッシュ。
 無理して右折しようとすれば、反対側からクラクションを鳴らされる。
 信号が黄色になったら、ゆっくりと曲がろうと待っていたが。

 俺の後ろにいた車から「早く行けよ!」と怒号が聞こえてきた。

「ちっ、何を生き急いでいるんだか……」

 仕方なく、右折しようとした時。
 ちゃんと辺りを、確認していてなかったのだろう。
 視界に入っていなかった。

 横断歩道を、若い母親と男児が歩いている。
 このまま曲がれば、彼らに激突してしまう。

 俺は咄嗟にブレーキをかけて、急停止した。
 その間に親子は横断歩道を渡り、ホッとしていると……。
 巨大なトラックがこちらへ向かってくる。
 運転しているおっさんが、一生懸命、なにかを伝えようとしているが。
 こちらには、聞こえない。
 一瞬の出来事だった……。
 
 それからの記憶は、とても曖昧で。

 アスファルトの上で倒れている俺と、ぐしゃぐしゃになった愛車。
 たくさんの人が、地べたに寝転がっている俺を囲む。

 みんな青ざめた顔で、俺に声をかけていた。
 ただ、何を言っているのか、サッパリ分からん。

 気がつけば、頭に白いヘルメットを被ったお兄さんたちが登場。
 俺を担架に乗せて、どこかへ連れて行く。

 けたたましいサイレンと共に、その車は発進する。

 薄れゆく記憶のなか、最後にその名を口にした。

「ミハイル……」