気になるあの子はヤンキー(♂)だが、女装するとめっちゃタイプでグイグイくる!!!


 もうYUIKAちゃんのことでさえ、興味を持てない。
 常に頭の中は、泣き顔のミハイルでいっぱい。
 早くアイツに会いたい……でも会えない。
 俺は、捨てられたから。

「……」

 アニメ化の話を聞いても、全く盛り上がらない俺に、白金はうろたえてしまう。
「ちょ、本当にどうしたんですか? DOセンセイの推しでしょ? 以前は『YUIKAちゃんの犬になりたい』とか、ほざいてたのに……」
「今は別に……」
「おかしいですよ。童貞のくせして、なに格好つけてんですか? 似合わないですよ」
 普段なら、口ゲンカを始めるところだが、そんな元気はない。
「いいよ。なんでも」
「センセイ……」

 落ち込んでいる俺を見て、白金は話題を変えようと必死だ。
 とりあえず原稿を見せて欲しいと言われ、リュックサックからノートパソコンを取り出す。
 デスクの上にパソコンを置いて起動すると、テキストファイルを開く。
 そして、白金にモニターを向けると。
 別に頼んでもないのに、俺が書いた原稿を、声に出して読み上げる。

「……その時、ミハイルは叫んだ。『オレの白うさぎを食べたな! 許さないぞ!』しかし俺も引けない。『ミハイルがおてんてんを見せたから悪いんだ。もうお前の白うさぎしか食べられないんだ!』……って、これ。誰の話ですか?」
 
 ヤベッ。白うさぎばかり食べていたから、作品にまで影響を及ぼしている。
 でも、これ以上偽るのにも、疲れてきた……。
 空腹で頭がしっかり回っていないこともあったが。

「そいつ、ミハイルは……俺のダチで。そして、アンナだ」

 気がついた時には、白金に真実を話していた。
 ちゃんと、相手の目をしっかりと見て……。

「なっ!? み、ミハイルくんって……確か一ツ橋高校の?」
「白金も一回、会ったことがあるだろう。ほら、お前が高校に来て、宗像先生と事務所で“気にヤン”の設定を4人で話し合ったとき」
「あの時の、ハーフの男の子……?」
「そうだ。ミハイルが、女装した姿がアンナだ」

 アンナの正体を聞いた白金は、驚きのあまり口を大きく開き、固まってしまう。

「……」

 数分間の沈黙のあと、ようやく白金の身体が動いた。
 小さな手で拳を作り、デスクを思い切りブッ叩く。

「なんてことをしてくれたんですか! 今や“気にヤン”は、少年たちの間で大人気のラノベであり、マンガなのです!」
 俺の顔面めがけて、大量の唾を吐き出す白金。
 どんどんヒートアップしていく。
 
「前にも言いましたよね!? ラノベの読者は、大半が童貞のティーンエイジャーで。汚れを知らないピュアな少年です! そのヒロインが女装男子でしたとか……かなり偏ったラブコメですよっ! なんでそんな子をメインヒロインにしたんですか?」
 その問いに、俺はまっすぐ答えた。
「一番、可愛かったからだ……」
「可愛かったって……DOセンセイはゲイだったんですか? だとすると、読者の性癖を大きく歪めることになってしまいますよ。それこそ、アンナちゃんというキャラは、既に二次創作まで作られています。使っちゃった編集部の社員はどうなるんですか? ファンがそっち界隈に旅立っちゃいますよ!?」

 人の女で、使うなよ……。
 でも謝っておくか。
 
「悪い……」
「センセイ。私はノンケ向けのラブコメを書いて欲しくて、一ツ橋高校を勧めたんですよ?」
「俺も最初は、そのつもりだったさ……」
 
 ていうか。俺ってゲイとして扱われてる?
 
  ※

 ついにアンナの正体がミハイルであることを、編集の白金にバラしてしまった。
 アニメ化も決まっている人気作品だったので……。
 それを聞いた白金は、顔を真っ赤にして怒っていた。

「もう~! なんで、そんな大事なことを黙っていたんですか!? せめて小説の発売前に、教えてくださいよっ!」
「……言いたくても、言えなかったんだ。俺が可愛いと思った子が、男だなんて」

 ミハイルに絶交された今となっては。こうやって彼のことを、話すことに恥などない。
 むしろ後悔している。
 もっと、俺が素直になれていたら……と。

 白金は首を横に振りながら、ため息をつく。
「はぁ……ま、DOセンセイは恋愛経験が皆無だし。若いから一過性の気持ちもあるでしょう。しかしですね、読者に対して嘘をつくのは、良くないですよ!」
「すまん。今からアンナは、男だと発表すべきか?」
「ダメですっ! 嘘に嘘を重ねるようなものです。こうしましょう……とりあえず、連載が終了するまでは、アンナちゃんはメスってことで♪」
「……本当に、それで良いのか?」
「大丈夫ですよ♪ 読者は童貞ですから、気がつきませんよ♪」
 こいつが一番、読者をバカにしているような……。

「ところで、アンナちゃんが男だと分かった以上。私からDOセンセイに聞きたいことがあります!」
「え?」
「他のヒロイン達ですが……野郎ばかりってことは、ないでしょうね!?」
 これには、俺も唾を吹き出す。

「な、ないに決まっているだろ……アンナだけだ」
「本当ですか? お股をちゃんと確認してます?」
「出来るわけないだろ……」
「怪しいですねぇ。DOセンセイは童貞ですから、ちょっと可愛いければ騙せそうですよ?」
「……」

 なんとも失礼な疑惑を持たれたものだ。

 結局、白金がアンナのことは、今まで通り女という設定で貫けと言うので。
 黙って従うことに。
 またこの事は、二人の間で秘密にしましょうと言われたから……。

 俺は既に何人か、事情を知っている人間がいると答えた。
 妹のかなでと宗像先生。それにミハイルの親友、花鶴 ここあだ。

 そう説明すると、白金は一瞬険しい顔をしたが……。
「じゃあ、その人達まで! しっかり話を留めてください!」
 と久しぶりに業務命令を出してきた。

「了解した」
「お願いしますよ! 私の昇格とボーナスが、かかっているんですから!」
 こいつは金のためなら、何でもするな。
 

 最後に、今の状態を伝える。
 小説を書けなくなった理由を。
 俺がミハイルを抱きしめたことから、始まったケンカ。
 絶交宣言。
 女装したアンナとは、もう取材が困難であること。

「だから俺は、もう小説を。ラブコメを書けなくなってしまったんだ。アンナと取材なんて出来ないし。最近じゃ、食事も取れない有り様だ」
「……DOセンセイ。あの、それって痴話げんかですよね?」
「へ?」
「男同士だから、私にはよくわからないのですが……。とりあえず、今起きている出来事を忘れないうちに、文字にしてください。倦怠期みたいなもんでしょ? あ~、聞いていてイライラするわぁ。早く付き合えよ、クソがっ!」
「……」

 なんか宗像先生と、同じ反応なんだが?
 じゃあ俺は、どうしたら……。

 ヒロインであるアンナが、男だと分かった以上。
 このままアニメ化するには、不安要素が多すぎると白金は頭を抱える。
 とりあえず、原作は売れているので、設定は女の子のまま……。
 
 またアンナ役にYUIKAちゃんを、起用することも保留にするらしい。
 可愛い女の子としてオファーしたのに。正体が女装男子だとバレたら、役とは言え、炎上しかねない。
 
 俺を元気にするため、博多社まで呼んだ白金だったが。
 結局、何の解決にも至らず。
 アニメの話さえ、ボツになりそうだ。
 なんだったら白金の方が、ダメージが大きく見える。

「ま、まあ……DOセンセイ。どうにか、ミハイルくん。いや、アンナちゃんとしっかり仲直りしてください」
 青ざめた顔で、視線は床に落ちている。
「善処してみる……」
 覇気のない声で呟くと、その場を去った。

  ※

 何度かミハイルに、連絡を取ろうと電話をかけてはみた。
 しかし電源を切っているようで、出てくれない。
 メールも同様だ。

 仕方がないので、今度はアンナのL●NEに、メッセージを送ってみたが。
 既読マークすらつかない。
 完全に、心を塞いでいるようだ。

 最初こそ、宗像先生に言われた通り、SNSを使い。
 楽しんでいる自分を演じ、発信していたが……。
 俺自身が耐えられなくなり、今は放置している。

 毎日、あの日を思い出す。
 ミハイルに、絶交された日のことを……。

 俺があの時、ちゃんとアイツの想いに答えることが出来たら。
 今でも二人仲良く学校へ、行けたのだろうか?
 後悔だけが残り、何もやる気が出ない。

 前回の試験が実質、最後のスクリーングだった。
 あとは、終業式のみ。
 一ツ橋高校は単位制の高校だ。編入して、半年で卒業する生徒も多い。
 だから終業式と合同で、卒業旅行を行う。
 去年、みんなで別府温泉へ旅行に行ったのは、そのためだ。

 ある日、宗像先生から電話がかかってきて。
『新宮。終業式に必ず来るんや! 今回は大阪に行くんやで! 食いだおれやで!』
 と誘われたが……。

 ミハイルが来ないなら、意味がない。
 俺は初めて、高校をサボってしまった。

 ~それから時は経ち~

 もう俺には、限界だった。
 この終わらない毎日が……。

 白うさぎを食べられるとは言え、体重は下がる一方だ。
 空腹により、思考が上手くまとまらない。
 小説を書く以前に、日常生活に支障をきたすレベル。

 気がつけば、俺もミハイルと同じ行動を取っていた。
 退学届……。
 これを宗像先生に渡して、終わりにしよう。

 そう決断したのは、季節が変わり、春になったころ。
 2年生になったばかり。
 今期、1回目のスクリーングの日。

 本当なら、教科書や体操服で、リュックサックはパンパンに膨れ上がるはずだ。
 しかし、俺が中に入れたのは、一枚の封筒のみ。
 軽くなったリュックサックを背負うと、リビングへ向かう。

「あら、おにーさま。おはようございます♪」

 妹のかなでが、テーブルに並べられた朝食を、美味そうに食べていた。
 玉子焼きに鮭。納豆と味噌汁。大盛りの白飯。
 実に健康的な食事。最後にこんなご飯を食べたのは、何時だろう……。
 
 俺とは対照的で顔色も良く、新しいセーラー服は持ち前の乳袋で破れそうだ。
 高校生になって、更に胸が巨大化したような。

 猛勉強の末、かなでは見事、国立の名門校に合格した。
 福岡県内では、トップレベル。
 いつも男の娘ゲーで興奮している変態だが、偏差値が70越えという結果が出ているので。
 実力なんだろうな……。

「か、かなで……。お前、今日は高校、休みじゃないのか?」
「そうですけど。高校の友達と天神で待ち合わせしてますの♪」
 日曜日に天神で、級友と遊ぶだと?
 こいつが? 高校デビューってやつか。
「な、なるほど……。気をつけてな」
「気をつけるも、なにも。インテリぶったJKを沼に落とすだけですから♪ “オタだらけ”で薄い本を買い漁るのですわ!」
「……」

 うちの妹のせいで、優等生が腐ってしまうのか。
 かわいそうに……。

「それより、おにーさま。最近ご飯を食べませんのね? 一体どうしてです?」
「ちょっと色々あって……」
 ミハイルに振られたから、ショックでとは言えん。
「何か悩み事のようですね。でも、ご安心くださいな。今日あたり必ず良いことが、起こりそうですよ♪」
「え?」

 妙に自信たっぷりのかなでを見て、まさか……とは思ったが。
 ミハイルは今、携帯電話の電源を切っているし。

  ※

 地元の真島駅から、小倉行きの列車に乗り込み。
 一ツ橋高校がある赤井駅へと向かう。

 本当なら、2駅離れた席内駅で。
「おっはよ~☆ タクト☆」
 と一人のショーパンの少年が、駆け込んでくるのだが。

 なにも起こらない。
 ため息を漏らして、赤井駅にたどり着くまで、待つことに。


 駅から15分ほど歩いた先に、名物である心臓破りの地獄ロードが見えてきた。
 もう慣れたと思っていたが、久しぶりにこの坂道を歩くと。
 足が鉛のように重く感じた。

 リュックサックには、何も入れてないのに。
 誰かが俺の肩を引っ張っているような……。
 息遣いも荒くなる。

「はぁ……はぁ……」

 今日で終わりだ。
 もうこの坂道とも、お別れ。
 俺にはやっぱりガッコウなんて、居場所は似合わない。
 宗像先生に怒られても良いから、退学届を出して。
 さよならだ。

 自分にそう言い聞かせて、坂道を登る。
 登り切ったところで、強い風が吹きつけた。
 今のやせ細った身体では、立っていることさえ困難だった。

 ふらつくとバランスを崩し、俺はそのまま坂道へ転げ落ちる……。
 そう思った瞬間、誰かが優しく背中を押してくれた。

「危ないよ☆」

 この声は、まさか。
 そんなことは……ありえない。
 だって、俺を捨てたはずだ。

「タクトはやっぱり、オレがいないとダメだな☆」

 そう言って、エメラルドグリーンを輝かせるアイツ。
 胸に空いた大きな穴が、やっと塞がった気がする。

 彼の顔を確認しようと、振り返る。

「み、ミハ……?」

 後ろに立っていたのは、俺が待っていたアイツじゃなかった。

 桜の花びらが舞い散る坂道で、優しく微笑むのは。
 
 胸元に大きなピンクのリボン、フリルのワンピースをまとった女の子。
 カチューシャにも、同系色のリボンがついている。
 美しい金色の長い髪を、肩から流していた。
 
「タッくん。おはよう☆ こんなところから落ちたら大変だよ☆」
「あ……アンナ? なぜ、お前がここに?」
「ふふっ。なんでだろね☆」

「タッくん、久しぶりだね☆」
「……アンナ。どうして?」

 俺の隣りに立つ金髪のハーフ美少女は、間違いなく本物だ。
 幻影などではない。
 その証拠に、2つのエメラルドグリーンを輝かせている。
 しかし、なぜ?

「あのね、ミーシャちゃんが教えてくれたの☆」
「ミハイルが?」

 目の前に本人がいると言うのに、驚いてみせる。
 だって俺は、アイツに絶交されたから……。
 もう二度と会ってくれない。そう思っていた。

「うん☆ なんかSNSを見ていて、タッくんがどんどん痩せているから。心配なんだって」
「そ、そうか……ミハイルが、俺を心配してくれたのか……」

 安心したところで、どっと気が抜ける。
 その場で、地面に倒れ込んでしまった。
 するとアンナが慌てて、俺のそばに駆け寄る。

「タッくん!? 大丈夫? やっぱり食べてないから、元気がないんだよ……アンナが作ってきたから、あそこで食べよ」
「え?」

 アンナに手を引かれて向かった先は、一ツ橋高校の校舎。
 玄関の近くに、ベンチが1つだけある。
 ベンチの下には、錆びたペンキ缶が置いてあった。

 ここは、宗像先生がスクリーングの時だけに、設ける喫煙所だ。
 ヤンキーだけが、利用する場所なのだが……。
 今朝は誰も使っていない。
 きっと、朝が弱い……というか、やる気がないからだろう。

「さ、タッくん。ここに座って。また倒れちゃうよ?」
「ああ……でも、俺は学校へ来たんだ」
 そう断ろうとしたが、アンナの馬鹿力で強制的に座らせられる。
「ダメだよっ! 今のタッくんは、栄養不足で危ないんだから!」
「わ、悪い」


 とりあえず、ベンチの隣りにリュックサックを置いて。
 彼女に言われるがまま、黙ってベンチで休憩することに。
 
 アンナは持参してきた、かごバッグの中をごそごそと探している。
 そこで、俺はようやく気がついた。
 髪が長いことに。
 この前ミハイルに会った時は、ショートカットへばっさりと短くしていたのに。
 
 彼女の横顔をまじまじと眺めていると、アンナが視線に気がつく。

「どうしたの? 何かアンナの顔についている?」
「いや……髪型が変わってないなって」
「なに言っているの? アンナは最近、美容室とか行ってないよ?」
「そ、そうか……じゃあ、気のせいだな」

 ひょっとして、ヅラか?

  ※

「さ、タッくん。朝ごはんを作ってきたからねぇ☆」
 そう言って、弁当箱の蓋を開けるアンナ。
 中には、色とりどりの具材が挟まれたサンドイッチが、ギッシリと詰まっていた。
 おしゃれなワックスペーパーで、1つずつ包まれている。

 最初に渡されたのは、卵サンド。
 手に持つと、まだ冷たい。
 彼女が持ってきた弁当箱をよく見ると、保冷剤が目に入った。
 傷まないように……アンナの優しさを感じる。

「いただきます……」

 恐る恐る、ひと口かじってみる。
 正直、怖かった。
 なにも受けつけない毎日だったから、アンナの食事でも吐き出してしまうのでは?
 という恐れがあった。

「……っくん。うまい」

 それを隣りで聞いたアンナは、パーッと顔を明るくさせる。

「良かったぁ~! まだまだおかわりがあるから、食べてね!」
「ああ、ありがとう。アンナ、これなら食べられそうだ……」
「うん☆ 魔法瓶に温かいトマトスープを入れているから、それも出すね☆ 身体がぽかぽかするよ☆」

 そう言って、コップにスープを注ぐアンナ。
 彼女が言う通り、まだ温かいようだ。湯気が立っている。
 ふと、アンナの横顔を見つめると、緑の瞳に涙を浮かべていた。

 サンドイッチを頬張りながら、呟く。

「アンナ……」
「タッくん。もっともっといっぱい食べてね☆ これからちゃんと食べられるまで、アンナが作ってあげるから!」
「すまん」

 ん? 食べられるまで?
 どういうことだ?

  ※

 まだ弁当を食べている際中だが、そろそろ生徒たちが校舎に集まってきた。
 普段はヤンキーが、タバコを吸っている喫煙所なので。
 悪目立ちしていた。

 すれ違う生徒たちの視線が、気になったのか。
 アンナは慌てて、ベンチから立ち上がる。

「ご、ごめん。タッくん! アンナ、やることがあったの! ちょっと2階の事務所に行かなきゃ……」
「へ?」
「タッくんはまだ食べていてね☆ 食べられるなら全部食べるんだよ!」
「お、おう……」

 卵サンドを食べ終え、今度はレタスサンドを味わっている。
 非常に美味い。
 レストランに出していいレベルだ。

「じゃあ、またあとでね☆」
 そう言うとアンナは、一ツ橋高校の玄関へと走り去る。

「……」

 一人取り残された俺は、温かいトマトスープをすする。

「っはぁ~」

 青空の下で愛妻弁当を、食べられるとか。
 幸せだなぁ……って、何を気取っているんだ俺。
 部外者であるアンナが、なぜこの一ツ橋高校に来たんだ?
 しかも、2階の事務所へ向かった。
 わ、分からん……。


 彼女に言われたからではないが、とりあえずアンナの作った弁当は残さず、キレイに全部食べた。
 空になった弁当箱を持って、俺も校舎の中に入り、2階へと上がる。

 今日から俺は、2年生になったので。
 教室も隣りのクラスへと移動することになった。
 ちなみに教室棟の2階は、3クラスしかない。
 だから、真ん中のクラスへ移ったってことだ。

 教室のドアを開くと、既にホームルームが始まっていた。
 遅れて入ってきた俺を見て、宗像先生がギロっと睨む。

「新宮! 進級したばかりなのに、遅刻か!? たるんでいるぞ!」
 えらく機嫌が悪そうだ。
「す、すみません……食事を取っていたので」
「な~にが食事だっ! 終業式をサボりやがって! 去年の単位を全部はく奪しちまうぞっ! 早く席に着け!」
「はい……」

 ていうか、俺。
 本当は今日、退学届を出しに来たんだけどな。
 いつもの癖で、教室に入ってしまった。

 前のクラスと同じ位置にある、席へ着くと。
 後ろから、肩を突かれる。

「ねぇねぇ……」

 振り返ると、赤髪のギャル。花鶴 ここあが座っていた。
 専属絵師のトマトさんは、なぜか床で正座している。
 ここあに怒られているのかと思ったが、「ブヒブヒ」言いながら、彼女の太ももを拝んでいるので。仲は良いのだろう……。

「どうした? ここあ」
「オタッキーさ。その後どう? ミーシャは戻ってきそう?」
「それなんだが……」

 言いかけた瞬間、宗像先生が怒鳴り声を上げる。

「こらぁっ! 新宮と花鶴、私語は慎め! 額にナイフを投げちまうぞ、バカ野郎!」
「す、すみません……」

 だから、いつまでそのネタを引きずっているんだよ……。

「ええ……話が逸れた。ごほんっ! 古賀 ミハイルについてだが、事情があって遠くへ引っ越すことになった」
 宗像先生の話を聞いた俺は、驚きのあまり席を立つ。
「そ、そんな……ウソでしょ? 先生っ!?」
 立ち上がった俺を注意せず、宗像先生は黙って首を横に振る。
 ただ、人差し指を唇に当てていた。
 黙って見ていろってことか。
 
「古賀は休学となるが、いとこの女子が編入してくることになった。お前たちと同じ2年生だ。仲良くしてやれ」
「まさか……」
「おいっ! そろそろ良いぞ。教室に入って来い!」

 先生が手招きすると、教室の扉がガラっと音を立てる。
 現れたのは、先ほど俺に愛妻弁当を作ってきてくれた美少女だ。
 
「初めまして。古賀 アンナです☆ 皆さん、今日からよろしくお願いします☆」
 礼儀良く、おじぎをする金髪のハーフ美少女。

「な、なんで……?」
 ミハイルじゃなくて、アンナが戻ってきたのかよ。

 アンナが自己紹介を終えると、生徒たちがざわめき始める。
 無理もない。
 男のミハイルが、急に遠くへ引っ越し……。
 女として、別人のアンナが編入してきたのだから。

 その場で立ち尽くす俺に、アンナが手を振る。

「タッくん~☆」

 これには、周りの生徒たちも驚きを隠せない。
 だって俺たち二人は、仮にとはいえ、彼氏彼女の関係みたいなものだから。
 何も言わなくても、友達以上の関係に見えるだろう……。

 そこへ宗像先生が「静かにせんかっ!」と一喝し、場をなだめる。
 生徒たちが静かになったところで、アンナに「新宮の隣りに座れ」と促す。

 コツコツと音を立てて、優雅に歩いて見せるアンナ。
 よく見れば足もとは上靴ではなく、ヒールが高いローファーだ。
 大きなリボンがついた可愛らしいデザイン。
 完全に、デートモード。

 嬉しそうに、俺の隣の席へ座るアンナ。

「タッくん。今日からよろしくね☆」
「あ、ああ……」

 この時、心の中で2つの強い気持ちがぶつかり合っていた。
 それは安心感と寂しさ。

 目の前に元となるミハイルがいるのに、女として振舞うアンナ。
 せっかく俺のために、学校へ編入してくれた彼女には悪いが……。

「そこは、ミハイルの場所だ」と思ってしまった……。

  ※

 ホームルームが終わると、宗像先生が俺を呼びつける。

「新宮! ちょっと話がある。一人で事務所へ来いっ!」
「は、はい……」

 話し方からして、きっとお説教だろう。
 次の授業まであまり時間がないのだが、とりあえず、事務所へ向かう。
 って、教科書を一冊も持って来なかった奴が、何を言ってんだか……。

 事務所へ入ると、宗像先生が不味そうなコーヒーを用意して、俺を待っていた。
 またアレを飲まされるのか。

「なにを突っ立っておるか? 早くソファーに座れ」
「はい」

 俺は二人掛けのソファーへ腰を下ろし、反対側のソファーにガニ股で座る宗像先生。
 こういう時の先生は、絶対に怒っている。
 興奮のあまり、太ももを閉じないから、今日も紫のレースが丸見え。
 しんどい。

「……新宮。一体どうしてこうなったんだ? 私は古賀を呼び戻せ、と言ったはずだが。なぜ女装したブリブリのアンナが編入したんだ?」
「えっと、それは俺にもわかりません……ずっと連絡が取れなくて……」
 そう答えると、宗像先生は深いため息をつく。
「はぁ……どうせ、お前たちの歪んだ愛情表現のせいだろ?」
「え、どういうことですか?」
「数日前のことだ。急に古賀から私に電話がかかってきてな。遠くへ引っ越すから、代わりにいとこを編入させてくれと言われたんだ」
「ミハイルがですかっ!?」
「当たり前だ……。でもその本人は引っ越していないよな? 現に今も女装してクラスにいるのだから」
「うっ……」

 何も言い返せなかった。

「去年の運動会を覚えているか?」
「あ、はい……ミハイルがMVPを獲ったんですよね」
「うむ。その時に私が何でも願いを叶えてあげると、約束したろ? あれを使ったんだ古賀は」
「?」
 俺が黙って首を傾げていると、宗像先生が代わりに答えてくれた。

「わからんか? ヒソヒソ声だったからな。古賀はあの時『オレのいとこをいつか編入させてください』と私に頼んだのだ」
「なっ!?」
「私もその時は、女装する趣味とか知らなかったから、了承したが。まさかこんな形で利用されるとはな……」
「じゃあ……アンナは女の子として、編入したんですか?」
「ま、そういうことだな」
 と肩をすくめて見せる先生。

 ていうか、あんたが願いを断れば良かったじゃん……。

  ※

 アンナが編入してきたことは、全く予想できなかった。
 まだ頭の中は混乱している。
 しかし、少しずつ。彼……ミハイルが望んでいることが見えてきた気がする。

 俺と絶交する際、ミハイルは男の自分を選んだことに傷つき、怒っていた。
 女のアンナではなく、素の彼を抱きしめ、キッスまでしようとした俺に。

 つまり逆ならば、ミハイルは傷つかなったのかもしれない。
 女装した状態……完璧な女の子。アンナならば。


「先生……ミハイルを、いやアンナを女子として、編入させたんですよね?」
「そりゃそうだろ? だってお前らが作った設定だし……それに古賀を取り戻すには、嘘を突き通さないとなぁ」
「でも、中身はあくまでも、男のミハイルですよ? トイレとか、更衣室とか一体どうする気ですか?」
「うむ……私もそれは悩んだが、大丈夫だろう。便所は3階の職員用を使えば良い。スクリーングは日曜日だから、他の女性教員は使用しない。私ぐらいだ。逆にどんな下着をつけているのか、覗いてやろうと思っている」
 
 ふざけろ。見ていいのは、俺だけだ。

「そ、そんな……無理があるでしょ?」
「無理なもんか。私はお前ら生徒たちが、一番だと言っているだろ! 更衣室も時間をずらして使わせたら良い。その辺はちゃんと配慮してやるから大丈夫だ。それよりも……いつまで持つか? って話じゃないのか?」
 宗像先生はそう言うと、鋭い目つきで俺の顔を睨みつける。
 
「え?」
「あのな。私はお前ら二人とも、心配なんだよ……。女装して恋愛ごっこをするのも結構だ。しかし、新宮。そのやせ細った身体はなんだ?」
 薄くなった胸板を、人差し指で小突かれてしまう。
「こ、これは……最近、食欲がなくて。でも、さっきアンナが作ってくれたサンドイッチを食べられましたよっ!」
 それを聞いた先生は、鼻で笑う。
「フンッ。アンナね……どっちでも良いが、この前古賀に振られたのが原因だろ?」
「はい……」
「新宮、お前。あれから何キロ瘦せた?」
「えっと……3キロぐらいですかね、ははは」
 笑ってごまかそうとしたら、更に宗像先生を怒らせてしまう。

「なめるな! 10キロ近く痩せたんだろ!? 何年教師をやっていると思うんだ! 見ればわかるっ!」
「すみません……その通りです。今52キロぐらいです……」
「ほれみろ。言わんこっちゃない! ちなみに身長はどれぐらいある?」
「え、170センチですけど?」

 俺がそう答えると、宗像先生は自身のスマホを取り出し、何かを検索し始めた。

「おい……お前は、シンデレラになりたいのか?」
「え? なんのことですか?」
「身長が170センチで、体重が52キロだと“シンデレラ体重”になるんだよっ! 女の私より細くなりやがって!」
「はぁ……」

 なんだ、ただの嫉妬か。
 しかし……ミハイルがいなくなっただけで、俺はここまで落ちてしまうのか。

「でもな、新宮。冗談じゃないが……シンデレラってのはさ。午前零時で魔法がとけちまう、お姫様だよな?」
「はぁ……」
「結局のところ、お前が作り上げた幻想だろ? 古賀 アンナっていう女は」
「そ、それは……」

 言葉につまる俺に対し、宗像先生はそっと肩に触れる。

「私は心配なんだ。急に痩せちまう新宮と、自分を女だと言い張る古賀がな」
 先生の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「宗像先生……」
「お前がかけた魔法だろ? なら王子様の新宮が、古賀を解き放ってやれ」
「解き放つって……どうやってするんですか?」
「そんなものは簡単だ! スカートをめくって男だということを、クラスのみんなに教えてやれ。そして、そのままお前が襲えばいいだろ♪」
「……」

 できるわけないだろ、そんなこと。
 聞いた俺が、バカだった。

  ※

 とりあえず宗像先生から事情を聞いて、ホッとしたいうか。
 ミハイルの考えを、理解できた気がする。
 要は、女であるアンナだけを見て欲しいってことだろう。

 事務所を出て、廊下を歩いていると。
 二年生の教室が何やら騒がしい。
 窓から中を覗くと、たくさんの男子生徒がアンナを囲んでいる。
 みんな別人だと思い込んでいるようだ。

「アンナちゃん。この前はマジでサンキューな! おかげでほのかちゃんとイブを過ごせたよ。でも一ツ橋高校へ来るなんて、奇遇だね」
 と話しかけるのは、スキンヘッドの千鳥 力だ。
 幼なじみだと気がついてない。
「ううん☆ ほのかちゃんと仲良くなれて、アンナも嬉しいよ。取材の効果が出たみたいだね☆」
「おお! 取材もバリバリやってるぜ! この前なんか、ネコ好きおじさんと出会いのバーに行ってきてさ……」

 ちょっと、リキ先輩たら。どんどん界隈の深いところまで、取材しているじゃない。
 とりあえず放っておこう。

 教室の扉を開こうとした瞬間。
 ガラっと中から、開けられてしまう。
 目の前に立つのは、ギャルのここあ。
 腕を組んで、俺を睨んでいる。

「あんさぁ……ちょっと、廊下で話そうよ」
「お、おう」

 きっとアンナのことだろう。
 とりあえず、教室に入るのは諦めて、彼女の話を聞くことに。

「ねぇ、どうして。ミーシャじゃなくて、女装したアンナが学校へ来たの?」
「いや……この前も話したが、俺が抱きしめたり……色々とあって。女装した姿を見てほしいみたいだ。ミハイルは」
「は? 言っている意味が分かんないんだけど?」
「まあ、そうだろな……」

 俺は宗像先生が話してくれた内容を、ここあにも説明した。
 すると、ここあは難しい顔で考えこむ。

「え? マジで頭が混乱するんだけど……女役だから、カワイイ自分を見てってこと?」
「そんなところだ」
「ふぅ~ん。でもさ、それって元はと言えば、オタッキーのせいじゃん!」
 と俺の胸に人差し指を突き刺す。
「うっ……」
 何も言い返せない。

「オタッキーさ。わがままだよ! ミーシャも欲しがって、女役まで欲しいなんて! ミーシャがかわいそう!」
 気がつくと、ここあの瞳は涙でいっぱいだった。
 一日に二人も女を泣かすなんて……最低だ。

「わ、悪い……」
 とここあをなだめようとした瞬間。
 廊下の奥から、誰かがこちらへ近づいてきた。

「え? ケンカ?」

 眼鏡女子の北神 ほのかだ。
 えらく怯えた顔をしている。

「あ、ほのか。違うぞ! こ、これは……」
 上手く言い訳できない俺を見かねて、ここあが代弁してくれた。
「違うんよ。ほのかちゃん……オタッキーにミーシャの相談をしてたの。急に引っ越したていうじゃん? だから寂しくてさ」
 アホなここあにしては、ナイスなフォローだ。
 これで女装の話やアンナの正体を隠せる。

「ミーシャって……ミハイルくんのことでしょ? 引っ越してなんか、してないでしょ」

 これには、俺とここあも驚きを隠せない。

「「え?」」

「今も教室の中で、リキくんと仲良く話しているじゃん。なんかアンナとかいう、謎の設定で先生に紹介された時は、ビックリしたけど……」
 まさか……バレているの?

「な、なにを言っているんだ、ほのか。あの子はミハイルのいとこだぞ。紛れもない女の子だ」
 ここあも俺の話に合わせる。
「そうそう! 双子ってぐらい似ているけど、全然違うって!」

 俺たちの話を聞いて、ほのかは真顔で答える。

「いや、どう考えてもミハイルくんでしょ? 女装しているけど……」

「「……」」

 よりにもよって、腐女子のほのかにバレてしまった。
 担当編集の白金にこれ以上、関係者を増やすなと言われていたのに……。

  ※
 
 もうバレてしまったことは、仕方ないので。
 ほのかにも、ミハイルが女装をする理由を簡単に説明した。
 そのうえで協力してほしいと、ここあと頭を下げる。

「そっかぁ。なるほどねぇ……そんな趣味があったんだぁ~ うーん、琢人くんって受けだと思ってたのに、バリバリ攻めだったとは」
 そう言うと、眼鏡を怪しく光らせる。
「あ、あの……ほのか? なんか勘違いしていないか?」
「私のことなら大丈夫よっ! ミハイルくんの女装も黙っておくわ。二人で好きにヤッちゃっていいわ! 校内でも無理やりするんでしょ!?」
「……」

 やっぱり言わなければ、良かった。
 腐女子のネタにされちゃう。

「いやぁ~ 琢人くんが弱みを握って、女装させる鬼畜プレイが好きとか……盲点だったわ! 忘れないうちにペンタブで漫画にしよっと♪」
 もう勝手にしてくれ……。

 とりあえず、三人の中で話はついたので。
 教室へ戻ることに。

 相変わらず、たくさんの男子生徒がアンナを囲んでいた。
 女装した途端、ミハイルを見る目が違う。
 なんというか……いやらしい目つきに感じる。

 俺は強い憤りを感じていた。

「あ、タッくん~☆ 戻ってきたんだ☆」
 アンナの声がなかったら、こいつらをぶっ飛ばしているところだ。
「ああ……待たせたな」
 自分の席に座り、次の授業。数学の準備をしようとした瞬間。
 思い出す。なにも教科書を持って来ていないことに。

「タッくん、どうしたの?」
「その……今日の教科書を、全部忘れて……」
「なら、アンナと一緒に読もうよ☆」

 そう言うと彼女は、机をピッタリとくっつけて、教科書を広げる。

「これで一日、一緒にいられるね☆」
「あ、ああ……」

 無意識にやっていると思うが、肘と肘がくっつく距離感。
 間接的とはいえ、久しぶりにアンナの肌に触れられて、嬉しかった。
 その証拠に……最近、無反応だった股間が、ギンギンに盛り上がってしまう。

 これで一日を過ごすのか……本当に持つかな?

 女の子として、初めての授業を受けることになったアンナ。
 なぜか単位が認められて……2年生という扱い。
 全部、宗像先生が仕組んだものだ。

「どうせ、中身は一緒なんだから、単位も一緒でいい」

 すごく適当なやり方。
 じゃあ、十年以上も通っている妻子持ちでアラフォーの夜臼先輩にも、単位をあげて欲しいものだ。

 そんなことを考えていると、一時限目の教師が入ってきた。

「は~い。じゃあ数学Ⅰを始めますよぉ~」

 若い男性教師で、前年度に受けていた教科と同じ人だ。
 ちなみに、今年度から『数学Ⅰ』になる。
 動物園レベルの高校なので、去年受けていた教科は『数学Ⅰ入門編』だ。
 Ⅰの前があることに、驚きはしたが……。

「なんかドキドキしてきたよ。アンナ、お勉強が苦手だし……」
 と弱音を吐くアンナ。
 中身は、あのミハイルだからな。苦労するだろう。
「まあ、そんなに構えなくて良いと思うぞ? この高校はレベルが低いし」
「それはタッくんが頭良いからでしょ。アンナには無理だよ」

 あの……褒められているのに、全然嬉しくないんですけど。

  ※

 男性教師がマジックを使って、ホワイトボードに数式を書いてみせる。
 そして「この問題をノートに書いて。解けたら僕のところまで持って来て」と生徒たちに指示する。
 自力で問題を解き、教師のところまで持って行く……という行為は、一ツ橋高校の生徒からすると、ハードルが高いらしい。
 みんな困惑していた。
 
 アンナも同様だ。
「え、えぇ……どうしよう? あんな問題、解けないよぉ~」
「別に間違えても良いから、提出すればいい。怒られることはないさ」
「でもぉ~」
 と頬を膨らませるアンナ。
 カワイイ……俺が教えてあげたい。

 ~20分後~

 数学Ⅰと言っても、昨年習った入門編の延長だ。
 小学生レベルが、中学生へ進級したようなもの。
 天才の俺はサクッと問題を解いて、教師に提出。

 全問正解したので、あとはのんびりと授業が終わるのを待つ。

 俺以外に問題を解けたのは、おかっぱ頭の双子。日田兄弟。
 それと床で、勉強するトマトさんぐらいだ。

 あとの生徒たちは、みんなノートと睨めっこ。
 唸り声をあげてフリーズしている。

「ダメだよ……わかんない」
 アンナのノートを覗いたが、まだ一問も解けていない。
 俺が教えるわけにもいかないし、ここは黙って見守ろう。

 そう考えていると……。

 何やら辺りから、女子の笑い声が聞こえてくる。

「あ、そっか~♪ 簡単だぁ!」
「でしょ? 次の問題もね、こうして……」

 教師が生徒にヒントでも教えている。と思ったのだが。
 鼻の下を伸ばして、嬉しそうに女子生徒の肩に触れる。

「ここはこう」
「すご~い、先生!」

 忘れていた。
 この教師、昨年の期末試験で女子にだけ、堂々と解答を教えていたゲス野郎だ。
 男子は放っておいて、女子限定で答えを教えまくる。

 当然、アンナの番になると……。

「あ、きみ。全然解けてないじゃ~ん。ハーフで可愛いのにねぇ~」

 いやらしい目つきで、アンナを上から下まで眺める。
 舌なめずりをしながら。

「す、すみません……私、数学とか英語は苦手で」
 別に意識していないと思うが。アンナは座っているため、自ずと上目遣いになる。
 あの美しいエメラルドグリーンの瞳で。
 これには、教師も興奮してしまう。

「ふふ……そんなに気にしなくてもいいよ。僕は君みたいな子に教えるのが楽しいから、教師をやっているんだ♪」
 何を思ったのか、アンナの頭を撫で回す。

「ぐっ!」

 怒りのあまり、シャーペンの芯を折ってしまった。
 このまま立ち上がって、ゲス野郎を殴ろうかと思ったが。
 後ろの席にいた、ここあに感づかれ、肩を掴まれる。

(オタッキー。気持ちはわかるけど、ダメだよ。正体がバレちゃう)
(りょ、了解……)


「アンナちゃんって言うんだぁ。きみ2年生なの? こんな可愛い子なら、覚えているけどなぁ♪」

 左手で彼女の頭を撫で回し、右手で一緒にペンを持つ。
 完全に、密着状態。

 あ~、ぶっ殺してやりてぇ!
 しかし、アンナの単位がかかっている。ここは堪えよう……。

  ※

 結局、その後も数学の教師は、終始アンナにべったりで。
 他の女子生徒でさえ、放置。
 完全にえこひいきした状態で、授業は終わってしまった。

 アンナ自身は、答えを教えてくれたことに感謝していたが。
 俺は今からでもあのゲス野郎を、窓から突き落としてやりたかった。


 それから午前中の授業を、色々と受けたが。
 やはり、アンナだけ異常に優しく。特別な待遇を受けていた。
 特に男性の教師からは……。

 ミハイルが女装しただけなのに、こんなにも態度が変わるもんかね?
 なんか、とても複雑な気分だった……。
 
 俺のカノジョ役が可愛いのは知っているし、たくさんの生徒や教師から、優しくされるのも嫌ではない。
 でも……それだけの人たちから、視線を集めるということは。常に俺が気を張っていないとダメだ。
 男のミハイルだったら、こんなことはなかったのに。
 
 そうか。アイツなら、俺だけを見ていてくれて。
 他の人間が、寄ってくることもなかったのか……。


 昼休みに入り、アンナへ「お昼を一緒に食べないか?」と誘ったが。

「ちょ、ちょっと……お手洗いに」

 と3階へ行ってしまった。
 
 そうか。宗像先生がアンナ用に、3階の職員用トイレを貸してくれたんだ。
 なるほどね。というか、女装している時は、個室なのだろうか?
 座ってするのかな……。
 いかん、想像したら興奮してきた。

  ※

 20分経っても、教室に戻ってこない。
 これはさすがにおかしいだろうと、俺は心配になって、3階へと上がる。
 職員用トイレの前で、数人の男子生徒が誰かを囲んでいた。
 制服を着ているから全日制コース、三ツ橋高校の生徒だろう。

「ねぇ~ いいじゃ~ん。L●NEぐらい教えてよ~」
「そんなフリフリの服って、どこで売ってんの?」
「ハァハァ……きみさ。モデルのMALIAに似てない? だとしとら、許せないんだぶ~! よくも男とラブホテルへ行ったな! 貢いだ金を返せだぶ~!」

 最後の奴、色んな意味でヤバいよ。
 しかもマリアに貢いだって……レディースファッションを購入したのか?

「イヤッ!? 離して! アンナはタッくんとしか、L●NEしないの!」

 よく見れば、捕まっているのは伝説のヤンキーこと、金色のミハイルじゃないか。
 本当に女装したら、みんなから女の子として見られるんだね……。

 設定が悪いんだよな……。
 俺のために、非力な女子を演じているため、自慢の馬鹿力で対応できない。

 体重が激減した俺ひとりで、あの3人相手に勝てるかな……。

 女装した途端、可愛い女の子としてチヤホヤされるアンナ。いや、ミハイル。
 今も目の前で全日制コースの男子高校生から、ナンパされている……。
 困ったものだ。

 しかし、どう出るか?
 きっと部活の練習に来ているような、活発な男子たちだ。
 やせ細った俺では、3人も相手に出来るだろうか……。

 助けるのを、躊躇していると。

「イヤッ! やめて!」

 と悲鳴が上がる。

 これには俺も咄嗟に身体が反応し、間に入り込む。

「お前らっ! いい加減にしろ! この子は俺の大事な連れだ!」

 格好つけて、彼女の前に現れたのはいいが……。
 やはり3人相手は、無理がありそうだ。
 改めて見ると、アンナを囲んでいる男子生徒は全員が高身長。
 180センチ以上はある。

 上から睨みつけられて、恐怖から縮こまってしまう。

「は? 誰、お前……ちょっとこの子に聞きたいことがあるんだけど?」
「そうだよ。質問ぐらい良いだろが!?」
「本当にラブホテルへ行ったのか、知りたいんだぶ~!」

 と、とりあえず、最後の方にだけ答えます。
 真実は、両方のヒロインと行きました。
 でも、一線は越えてないので、セーフです。

 なんて、考えていると。
 アンナが俺の背中に隠れる。

「タッくん……この人たちが、アンナの身体を触ろうとしたの」
 それを聞いた俺は、先ほどまでの恐怖なぞ吹き飛ぶ。
「貴様らっ! やって良い事と悪い事があるだろ!? 同意なく、女の子の身体に触れるのは犯罪だっ!」
 俺だってあんまり触れてないのに……。

「は? 触ろうとしたんじゃなくて、見たかったんだよ。そのワンピースのブランド」
「え、ブランド?」
「おお……妹が最近、失恋してよ。そういう可愛いブランドでも着たら、今度は成功するのかと思ってよ」

 と頭をかいてみせるお兄ちゃん。
 なんだ……ただのシスコンか。

  ※

 妹想いのお兄さんに話を聞くと。
 ずっと片想いをしていた妹さんが、中学を卒業するまで勇気を持てず。
 告白できないまま、相手が海外へ旅立ってしまったらしい。
 でも、1年間の留学を終えたら、戻って来るようだ……。
 
 そこで、アンナの可愛らしいファッションを目にしたお兄さんは、ブランド名が知りたくなったそうだ。
 帰国した際に、妹がその服を着たら、勇気が出るかもと。
 
 恥ずかしくて、ちゃんとアンナへ伝えられなかったそうだ。
 それを知ったアンナは、安心する。
 スマホでブランドを検索して、お兄さんに色々と教えていた。

 なんだったんだ……この茶番は?


 ただ俺が現れてから、お兄さんの視線は、ずっとこちらへ向けられていた。
 まさか、シスコンでゲイなのか?

 アンナから色々と教わって、恥ずかしそうに頭を下げるお兄さん。
 去り際に「二人だけで話そう」と腕を掴まれ、少し離れた場所へ向かう。

 口説かれるのかな、と身構えていたら……。

「あのさ、お前って。今恋わずらいしていないか?」
「なっ!?」
「やっぱり……そうなんだな。一目で分かったよ。うちの妹と同じだからな」
「え……?」

 お兄さんから事情を聞くと、妹さんは大好きな彼がいなくなってから。
 一切の食事を受けつけず……10キロ近く痩せたそうだ。
 正に、今の俺じゃん。

「悪いことは言わない。相手がいるうちに、想いは伝えた方がいいぜ? 妹はなんでか、“白うさぎ”しか食えなくなってよ……見てられねぇよ」
「……」

 なんか、俺が乙女みたいじゃん。
 相手なら、目の前にいるんだけどなぁ……。

  ※

 そのあと、無事に解放された俺たちは、教室に戻り。
 アンナが作ってくれた弁当を仲良く食べた……というか、食べさせてもらった。

 俺がまだフラつくからと心配した彼女が、わざわざお箸でおかずを「あ~ん」してくれる神対応。

 正直、浮いていた。
 急にアンナという美少女が、俺のカノジョ役として現れたこと。
 そして、俺にベタ惚れだということも。

 他の男子生徒たちはイチャつく俺たちを見て、舌打ちをしたり、睨みつけたり……。
 居心地が悪いったら、ありゃしない。


 昼休みに入って、20分ぐらい経ったあと。
 アンナが教室の掛け時計を見て、慌て始める。

「っけない! 次の授業、体育だった!」
「へ?」
「ごめん、タッくん。アンナ、ちょっと先に着替えないと。お弁当、全部食べて来てね!」
「おお……」

 そうか。宗像先生が更衣室の時間をずらすと言っていたな。
 まったく、不憫だな。
 男のミハイルなら、一緒に着替えられたのに……。


 アンナに言われた通り、しっかりと愛妻弁当を残さず食べ終えた。
 急にたくさんのおかずと白米を、胃袋に放り込んだから。
 ちょっと、お腹はビックリしていたが……。
 しかし、感じるぞ。
 みなぎる愛の力を……。


 チャイムが鳴る前に、俺も校舎を出て、武道館へと向かう。
 なんか心配だった。女装した彼は、モテるからな。
 それに俺自身、早く彼女の元へ行きたかった。


 武道館へ入ると、地下へ降りる。
 更衣室は左右に分かれて、2つある。

 一年前のスクリーングで、全日制コースの女子。
 赤坂 ひなたが着替えているところを目撃したのが、懐かしい。

 今回は、間違いなど起こすまいと、アンナが更衣室から出て来るのを待つ。
 アンナと仲良く体育かぁ……。
 色んな意味で、密着できる楽しい授業になりそう。

 ~10分後~

 女子更衣室の扉が、開く音がした。
 俺が想像していた装いとは、正反対の少女が現れる。

 長い金色の髪は、三つ編みのツインテールで女子力高め。
 トップスは、ピンクのポロシャツで。ボトムスはプリーツの入ったミニスカート。
 シューズも可愛らしいピンク。

「あ、タッくん。来てたんだ☆」
「おう……ちょっと心配でな。また絡まれてないかって」
「心配してくれたの? 嬉しい☆」

 可愛い……。
 ていうか、これで運動するのかって服装だ。
 完全に見せる前提で、用意してきたな。

「なあ、アンナ?」
「ん? なあに、タッくん」
「その……そんな丈の短いスカートで大丈夫か? 今日の授業は何か知らんが、運動するんだぞ」

 俺がそう言うと、彼女はクスクスと笑い始める。

「タッくんたら、心配性なんだから☆ 大丈夫、中には“ペチコート”を履いているよ」
「ぺち……なんだって?」
 聞いたことのない言葉に、首を傾げていると……。
 何を思ったのか、アンナがスカートの裾を詰まんで見せた。

「お、おい……」
「大丈夫だって☆」

 彼女の言う通り、スカートをたくし上げても、パンティーが露わになることは無かった。
 フリルがふんだんに使われた、薄い生地のズボンを履いている。
 いわゆる、見せパンってやつかな?

「ね? これなら大丈夫でしょ☆」
「ううむ……」
 
 合法的にスカートの中を見られて、嬉しいし可愛いんだけど。
 ブルマを堂々と履いていたミハイルが恋しいと、思ってしまうのは何故だろう。

 アンナと仲良く体育を、受けられると思ったが……。
 俺の考えが甘かった。

 彼女は今、女子として高校に通っている。
 ということは、当然みんなから、ひとりの女性として扱われるのだ。

 今日は珍しく、武道館を利用することが許された。
 広々と運動が出来ると知った宗像先生は、男女別々になって、バレーボールの試合を行うと発表した。

 俺たちは黙って従うしかない。
 最初こそ、仲良く並んで立っていたが……。
 アンナも寂しそうに「じゃあ、またね」と女子のコートへ去っていく。

 彼女を見かけたここあが、声をかける。
「ねぇ、あーしたちと組もうよ。絶対勝てるから♪」
 以前会った時、その正体を疑われたので、アンナはたじろいでしまう。
「べ、別に組まなくても……ひとりでやれるよ?」
 そんな言い訳が、通用するわけもなく。
「な~に、言ってんの♪ バレーは一人じゃ無理っしょ。それにね、オタッキーからアンナちゃんのことを、守るように頼まれてんの♪」
「タッくんが!?」

 さすが、ここあだ。
 これなら、彼女の警戒心を解ける。

「だから、二人でオタッキーに頑張ってるところを見せてあげようよ♪」
「うん☆ ありがとう、ここあちゃん☆」

 どうやら、仲良くやれそうだな。

  ※

 男子もそれぞれグループを作って、早速試合をすることに。
 やる気のない俺は、日田兄弟の片割れに混ぜてもらった。

 相手チームには、やる気満々のリキがいる。
 それを見てすぐに負けると思った。
 こちらは、陰気な真面目グループだし……。

 体育の時だけ、超やる気が出るヤンキーたちに勝てるわけがない。
 さっさと負けて終わらせよう。

 そう思っていたが。
 どうしても、隣りのコートが気になる……。

「えいっ!」

 フリフリのミニスカートを履いた女の子とは思えない、豪速球が相手コートに投げ込まれる。
 対戦していた女子生徒が、恐怖から固まってしまうほどの。

 だが、それより心配なのは……。
 彼女のファッションだ。

 ジャンプする度に、見せパンとはいえ。
 白いフリルがひらひらと、目立ってしょうがない。

 武道館の隅で筋トレをしていた、全日制コースの男子生徒たちから歓声があがる。

「見ろよ、あのハーフ。パンツ丸見えだぜ」
「マジかよ……可愛いじゃん。あんな子、一ツ橋にいたっけ?」
「とりあえず、ローアングルで撮影してきます」

 最後のふざんけんな。
 撮るにしても、ちゃんと顔も撮ってやれ。
 俺なら、そうする。

 
 試合そっちのけで、アンナばかり眺めていたら。
 隣りに立っていた日田が、叫び声を上げる。

「新宮殿! 危ないでござる!」
「へ?」

 視線を正面に戻すと、目の前にはぐるんぐるん回転しているバレーボールがあった。
 避けようと思った時は、すでに遅く。
 顔面に直撃した俺はそのまま、床に倒れてしまった。

  ※

「大丈夫? タッくん、ねぇ。起きてよ!」

 誰かが、俺を呼んでいる。
 頬にぷにんと、柔らかい感触が伝わってくる。
 これは、太ももか?
 つまり膝枕をしてくれている……アンナに違いない。

 瞼をパチッと開くと、そこにいたのは。

「おう! 起きたじゃねーか、タクオ!」
「……」

 スキンヘッドの老け顔。リキくんでした。
 なんで、こいつが膝枕をしてんだよ!

 一刻も早く離れたかったので、身体を起こそうとしたが。
 リキに止められる。

「おい! かなり鼻血も出てたし、まだ寝とけよ!」
「わ、わかった……」

 仕方なく、リキ先輩の膝で休むことにした。

 武道館の隅で、男二人が仲良く膝枕。
 非常に誤解されやすい風景だが……。
 リキは気にする様子もなく、女子のコートで活躍するアンナを見て笑っていた。

「良かったな、タクオ」
「え? なんのことだ?」
「アンナちゃんだよ。お前、ミハイルがいなくなって、元気なかったじゃん。でもあの子が代わりに入ってくれかたら。これからも、タクオは学校に来られるだろ?」
「そ、それは……」
「俺が言うのもなんだけどさ……二人とも好き同士なんだろ? 付き合ったらどうだ?」
「いやぁ……」

 返す言葉が見つからなかった。
 リキに悪意はない。
 彼は女の子として、アンナを見ている。
 元となるミハイルのことを知らないから、言えることだ。

 でも、仮に俺がその選択肢から選んだとして。
 本当に彼女……いや、彼は受け入れてくれるのだろうか?

  ※

 結局、体育の授業は2時間ずっと、リキの膝の上で休んでいた。
 鼻血も止まらなかったし。
 まあアンナが楽しそうに、バレーボールをしていたから、良かったか。

 着替えを済ませ、校舎に戻る。
 帰りのホームルームが始まる前、隣りに座っていたアンナが声をかけてきた。

「タッくん。大丈夫だった? なんかリキくんのボールが当たったって聞いたけど」
「ああ……問題ない。ちゃんとリキが、休ませてくれたからな」
「ごめんねぇ~ アンナ、試合に夢中で……」
「気にするな。俺がよそ見をしていたせいだ。誰が悪いわけでもない」

 試合中にあなたのパンチラが、気になっていたとは言えんからな。

「そっか。あのね、ホームルームが終わったら一緒に帰ろうよ☆ 二人で☆」
「え……?」
 当たり前のように言われたので、驚いてしまう。
「もしかして、アンナと一緒は嫌かな?」
「そんなことないぞ! 嬉しいさ。帰ろう、二人で!」
「フフッ、嬉しい☆」

 そうか。今日から女の子と一緒に帰るんだ。
 夢にまで見たシチュエーション。
 学校帰りに、可愛い彼女と制服デート。
 あ、うちの高校は私服だ……。

 それでも、男なら誰しもステータスを感じて良い場面だろう。
 こんな金髪のハーフ美少女から、誘われるなんてさ。

 でも……なんで、こんなに寂しいんだ?
 アンナによって埋められた胸の穴が、徐々に広がっていく気がする。
 心臓に針が刺さっているような……痛みを感じる。

 帰りのホームルームを終えると、アンナが言った通り、二人で仲良く駅まで歩く。
 彼女は終始、ご機嫌だった。

「次のスクリーングが楽しみだなぁ☆ 今度はお洋服、何にしよう? 私服だから、選べるのが良いよね☆」
「まあな……」
「あ、そうだ。明日、タッくん家へご飯を持っていくね☆」
「え?」
「約束したでしょ? これからタッくんが食べられるまで、ずっとアンナがご飯を作るって☆」
 とウインクしてみせる。

 非常に嬉しい提案だったが、どうしても俺には……気になることがある。
 それは、アイツがいつ帰ってくるかだ。

「あ、アンナ……その引っ越したんだろ? ミハイルは……」
「うん。なんかやりたいことがあるらしくて。遠くへ行っちゃったの」
「そうか。あいつ……ミハイルは、いつ帰って来るのか、分かるか?」

 俺の質問に、彼女はとても困っていた。
 だって、本人は目の前にいるのだから……。

「え、えっとね……かなり遠いから、なかなか帰って来られないと思うよ? たぶん1年……ひょっとしたら、2年ぐらい戻ってこないかも」
「2年!? そんなにか?」
「多分、だけどね……」

 引きつった笑顔のアンナを見ていて、辛くなる。

 1年以上、戻らないということは……自分を消す覚悟でアンナに変身したのか。
 もう二度と一緒に、学校へ通うことは無いのか?
 これも、俺のせいなんだな……ミハイル。

 アンナが戻って来て、10日経った。
 優しい彼女は手作り料理を、毎日自宅へと持って来てくれる。

「早く元気なタッくんを見たいな☆」

 と1日に2回も、重たい圧力鍋を抱えて、玄関のベルを鳴らす。

 俺はその姿を見る度に、罪悪感を感じていた。
 彼女の優しさに、応えられていないから……。

 最初の頃は喜んで、アンナの手料理を口の中に放り込んでいたが。
 今となっては……彼女の作る早さに、俺が追いつけなくなり。
 冷蔵庫やリビングのテーブルを、埋めてしまうほど残っている。

 また感じなくなった。
 大好きなアンナの料理でさえ、味がしない。
 食べても、数口でお腹がいっぱい……いや、胸が痛む。

 そのせいで、体重は上がるどころか。また下がっていく。
 ついに50キロを切ってしまい、今の体重は48キロだ。

 ガリガリに痩せてしまったせいで、春だってのに寒気を感じる。
 新聞配達もバイクが重すぎて、ふらついて運転するから危険だ。
 

 俺はこれから一体どうしたら、良いのだろう?
 失って気がついた事と言えば……ミハイルが必要だってことだ。
 だからといって、アンナの存在を否定し、彼を呼び戻すなんて……。
 また傷つけてしまう。

「ダメだな……俺は」

 自室で一人、学習デスクに座り、天井を見上げる。
 
 今年の春から俺は、妹のかなでと別室になった。
 かなでが国立の名門高校へ合格したから、そのお祝いらしい。
 親父が使っていた書斎に、かなでは移動した。

 二段ベッドも二つに分けて、大量の男の娘グッズも移動。
 各部屋にはプライベート空間として、扉に鍵をつけてもらえた。
 だったら、もっと早く配慮して欲しいものだ。

 こんな風になる前に……。

 天井にはビッシリと並べられた少年たち。
 ブロンドのハーフで、緑の瞳を輝かせている。
 この世に一枚しかない、アイツの写真だ。

 A4サイズに拡大コピーして、部屋中の壁に貼っている。
 部屋全体をミハイルで包み込むことで、安心する。

「もう、会えないのかな……」

 写真にそう問いかけても、彼は答えてくれない。

 食べられない日々が続くが、最近は睡眠もろくに取れていない。
 瞼の下はクマが酷く、どう見てもヤバイ顔つき。

 それでも、仕事は始まる。
 スマホからアラームが鳴り響き、新聞配達の時間だと知る。
 仕方なく、家を出て自転車を走らせると。
 地元、真島の新聞配達店へ向かった。

  ※

 大量の新聞紙を丸めて、バイクの荷台へと積み込む店長。
 俺の顔を見て、何故かため息をつく。

「琢人くん……一体どうしたの? 最近、おかしいよ」
「いや、ちょっと色々あって……」

 店長とは小学校からの付き合いだが、未だにアンナのことは話せていない。

「う~ん、実はさ……最近、お客さんからの苦情が多いんだよ」
「え? 俺にですか?」
「そうなんだよ……琢人くんもこの仕事、長いからさ。僕は信用しているんだよ? でもね、配達ミスが多いんだ。君が担当している、エリアからの苦情がすごいんだ」
「知りませんでした。す、すみません……」

 優しい店長のことだ。俺がミスした軒数を、隠しているのだろう。
 きっと、10軒以上はあるな。
 クソッ……配達ミスなんて、したことないのに。

「琢人くん、何か悩みがあるんじゃないの? 良かったら、僕に話してよ。君をこのまま、配達に行かせていいものか……とても不安なんだ」
「そ、それは……いえ。大丈夫です! 今日こそ、ちゃんとやって見せますので!」
「本当なんだね?」
「はい……」

 初めて店長の怒っている顔を見た気がする。
 きっと俺が悩みを、店長に打ち明けないから、心配しているのだろう。

  ※

 その日の配達は、何時になく慎重に行った。
 何度も何度も、配達先の家を確認し、ポストに入れた後も戻って見たり。
 2時間で終わるはずの仕事に、3時間も使ってしまった。
 それだけ、参っていたのだと思う。

 配達を終えるころには、もう朝になっていた。
 いつもなら、まだ薄暗い道路を走っている頃なのに……。

 でも、今日は間違いなくミスをせず、仕事を終えられただろう。
 安心していた。

 あとはこのバイクを配達店まで走らせ、店長に報告すれば、家に帰られる。
 すごく疲れた……。
 帰ったら、ぐっすりと眠れそうだ。

 閑静な住宅街をバイクで走っていると、何時になく、車が多いことに気がつく。
 そうか……もう朝の7時だから、通勤ラッシュか。
 国道に入ると、渋滞が起こっていた。

 しかし、俺はバイクだから、道路の隙間を走れば良い。
 さっさと渋滞を抜けて、帰ろうと思ったが。
 最後に大きな交差点を右折しなければ、いけなかった。

 ただでさえ、みんなイライラしている通勤ラッシュ。
 無理して右折しようとすれば、反対側からクラクションを鳴らされる。
 信号が黄色になったら、ゆっくりと曲がろうと待っていたが。

 俺の後ろにいた車から「早く行けよ!」と怒号が聞こえてきた。

「ちっ、何を生き急いでいるんだか……」

 仕方なく、右折しようとした時。
 ちゃんと辺りを、確認していてなかったのだろう。
 視界に入っていなかった。

 横断歩道を、若い母親と男児が歩いている。
 このまま曲がれば、彼らに激突してしまう。

 俺は咄嗟にブレーキをかけて、急停止した。
 その間に親子は横断歩道を渡り、ホッとしていると……。
 巨大なトラックがこちらへ向かってくる。
 運転しているおっさんが、一生懸命、なにかを伝えようとしているが。
 こちらには、聞こえない。
 一瞬の出来事だった……。
 
 それからの記憶は、とても曖昧で。

 アスファルトの上で倒れている俺と、ぐしゃぐしゃになった愛車。
 たくさんの人が、地べたに寝転がっている俺を囲む。

 みんな青ざめた顔で、俺に声をかけていた。
 ただ、何を言っているのか、サッパリ分からん。

 気がつけば、頭に白いヘルメットを被ったお兄さんたちが登場。
 俺を担架に乗せて、どこかへ連れて行く。

 けたたましいサイレンと共に、その車は発進する。

 薄れゆく記憶のなか、最後にその名を口にした。

「ミハイル……」