プリクラ撮影が終わったことで、ようやく映画館へと向かうことになった。
待ちに待ったタケちゃんの新作だ。
長いエスカレーターを上っているだけで、興奮してくる。
今か今かと胸が高鳴り、自ずと身体が前のめりになってしまう。
マリアがスタッフの人にチケットを渡し、売店でポップコーンと飲み物を買ったら、スクリーンへ直行。
ブーッ! という音と共に、スクリーンの幕が左右に開く。
前作『ヤクザレイジ』にて、子分に裏切られた初老の親分、大林。
エンディングで敵対する組織に刺されて、死んでしまったと思っていたが……。
刑務所の休憩室にて、対峙する2人の男。
1人は金髪の受刑者。もう1人はスーツを着た薄毛の男。
『先輩、今の“創作会”デカくなり過ぎましたよ……。政界とも繋がっていて、平気でAIにエチエチなイラストを描かせて販売……先代だったら、こんなこと許されなかったのに』
それを聞いた金髪の男、大林が鼻で笑う。
『俺になんの関係があるんだよ。あれから何年経ったと思ってんだ。誰も俺のことなんて、覚えちゃいねぇよ……』
『そんな事言わないでくださいよ。先輩だって今も書いているんでしょ? なら、もう一度書籍化して、心が折れて垢を消した底辺作家たちの夢を叶えてくださいよ』
『お前、俺いくつだと思ってんだ? もう、いいよ』
大林の答えを聞いて、啖呵をきる薄毛の男。
『まだ、もうろくする年じゃないでしょ! しっかり書籍化して、ケジメつけてくださいよ! それが作家ってもんでしょうが!』
『なんだ、てめぇ……読み専が書き専を焚きつけんのか!? コノヤロー!』
久しぶりのタケちゃんに、俺は心を躍らせていた。
両手はギュッと拳を作り、次の展開を予想する。
「おお! 前作が静寂なる暴力ならば、今作は言葉の暴力か! さすがタケちゃん!」
なんて絶賛していると、隣りの席が妙に静かなことに気がつく。
マリアだ。
まさかと思いながら、隣りを見てみると……。
「スゥスゥ……」
こいつ、自分から誘っておきながら、“また”寝てやがる。
10年前と同じじゃねーか!
これじゃ、取材にならないと、俺は彼女の肩を揺さぶる。
「おい。マリア、起きろよ。今日は取材じゃないのか?」
「あ……ごめんなさい。昨晩、一睡もしてなくて、あまりの退屈ぶりに寝ちゃったわ」
サラッとタケちゃんをディスるな!
「お前なぁ……」
「本当に悪気はないの。ちょっとお手洗いに行って、顔を洗ってくるわ。私も10年前とは違って、成長したつもりよ」
「そ、そうか」
なんだか、強気なマリアが丸くなったようで、調子が狂うな。
『てめぇら、さっきからガタガタうるせぇんだよ!』
関西のヤクザ組織、腐王会へと赴いた主人公、大林と弟分である幹村。
書籍化を打診されたにも関わらず、作品が気に入らないと一蹴された為、大林は怒りを抑えられずにいた。
『おい、こら。大林……お前、今なに言うた? わざわざ編集長が直々に会って下さってはるのに。なめとんかぁ!?』
オールバックの男が、関西弁で大林に怒号を上げる。
だが、大林も負けずにいた。
『なめてぇよ。俺の作品を拾ってくれるって言うから、わざわざ関西くんだりまで来たってのに。これじゃ意味ねぇだろ!』
それを聞いた関西ヤクザたちが鼻で笑う。
『はん。お前が書いた作品なぁ……あんな古臭いラブコメ、誰が読むねん。それにヒロインは男の娘やと? 中途半端なもん書きやがって、NL、GL、BL。どの層にハマるんじゃ!』
それまで黙って観ていた俺だったが……驚きを隠せずにいた。
タケちゃんの映画だよね、これ?
なんか一般人には、わからない用語が次々と使われているんだけど……。
立ち上がり、睨みあう大林と関西ヤクザ。
見兼ねた弟分の幹村が、すかさずフォローに入る。
『あの、兄貴を勘弁してやってください! 兄貴は……まだ創作界隈に戻ってきて、間もないんです! なろう系とか、テンプレとか、そういうの全然知らないんです!』
『アホがっ! だからって、わしら腐王会がこいつの作品を書籍化したら、大騒ぎじゃ! わしらはな、腐女子の皆さんをターゲットに出版しとんねん。読者が求めているのは、純粋なBLや。男同士の絡みが欲しいんじゃ!』
『そんな……話が違うじゃないですか。兄貴の作品を書籍化してくれるって……今の関東、創作会は平気でAIに百合を書かせるような奴らです。だから、腐王会に頼んだんじゃないですか』
『幹村! お前、腐女子と百合族を喧嘩させる気か? わしら腐女子と百合はなぁ、てめぇの股間に草が生える前から、盃交わしとんねん。戦争になったら、誰が責任持つんじゃ! おお、コラァ!』
「……」
あれ、前作と話が全然違うんだけど。
ヤクザはどこにいったのかしら。
呆然とスクリーンを眺めていると、なんだかんだ揉めてはいたが、利害が一致した両者は、書籍化のため、関東の創作会を潰すことに。
大林たちは、関西の腐王会から力を借りて、戦争を始め。
見事に復讐を果たすのであった。
しかし、最後は弟分である幹村がヒットマンに殺されてしまう。
葬式会場に現れた大林は、冒頭で話していた薄毛の男と再会する。
『先輩、書籍化できなくて、残念でしたね』
『うるせぇよ。線香あげにきただけだ……』
『え、先輩なら、ペンタブの1つぐらい持ってくると思ったのに……。あ、ハジキ持って行きませんか? 護身用に』
そう言って、大林に拳銃を手渡す。
受け取った拳銃に、弾が装填されているか、確かめた大林は、何を思ったのか。
薄毛の男に向かって、銃口を突きつける。
『先輩?』
驚く相手を無視して、大林は静かに引き金をひく。
三発ほど腹に打ち込むと、薄毛の男は地面に倒れて、死んでしまう。
だが、大林は弾がなくなるまで、撃ち続けた。
そして、最後に一言。
『書籍化するつもりもねぇのに、編集部がSNSをフォローしてくんじゃねーよ。勘違いしちまうだろうが』
どこから持ってきたのか、アサルトライフルを取り出し、冷たくなった男の身体を穴が開くまで、撃ち続ける大林。
~FIN~
スクリーンの幕が閉じるまで、俺は微動だに出来ずにいた。
感動していたからだ。
きっと、この作品は、タケちゃんからの贈り物だ。
作家なら誰しもが、抱いている感情を、タケちゃんがヤクザ映画として、昇華してくれたんだ。
涙が止まらない……。
帰りにパンフレットを買って行こうっと。
て、あれ?
映画に夢中で気がつかなかったが、マリアのやつ、まだトイレか。
まさかとは思うが、便器の上で居眠りしているんじゃないだろうな。
そう言えば……アンナとタケちゃんの映画を観ていた時も、途中退席して、最後まで観なかったような。
嫌なデジャブ。
結局、上映が終了するまで、戻って来なかったマリア。
仕方ないので、俺は彼女の飲みかけのドリンクと残ったポップコーンを持って、スクリーンから退場する。
出口でスタッフが大きなゴミ箱を用意して、立っていたので、ゴミを手渡す。
売店あたりを探しても、彼女の姿が見えない。
本当にトイレで居眠りしているでのはないだろうか?
俺は心配になり、女子トイレへと向かった。
廊下を奥へと進むにつれて、なんだか人を多く感じる。
何やら騒がしい。
俺も人ごみを掻き分けて、前へと進む。
「やめてっ!」
「いいじゃないかぁ~」
「イヤだって言っているでしょ! 警察を呼ぶわよ!」
なにやら言い争っている。
「フフ……ずっと探していたよ。ア・ン・ナちゃん♪」
視線をやれば、スーツ姿のチビ、ハゲ、デブの中年オヤジが、マリアの白く細い腕を無理やり引っ張っている。
キモッ! と叫びたいところだが、このオジさん……以前会ったことがあるな。
そうだ。半年前、初めて“女装したアンナ”とデートした時、ハーフの女の子と勘違いして、痴漢した犯罪者だ。
俺が後に警察へと突き出した、前科もちのオジさん。
出所していたのか……。
「いい加減に離してくれる? 私はアンナじゃないわ。マリアよ」
碧い瞳をギロッと光らせて、睨みつける。
「ウソだよぉ~ き、君みたいな可愛いハーフの天使ちゃんは、世界でひとりだけだよ~ おじさん、半年間アンナちゃんを探していたんだ。あの柔らかくて真っ白な太ももの感触。忘れられないよぉ♪」
この人、ガチもんだ……早く治療した方が良いかも。
しかしマリアを、“女装したアンナ”と見間違えても、仕方ないだろう。
双子ってぐらい、そっくりの容姿だからな。
当のマリアときたら、天敵であるアンナと間違えられ、小さな肩をブルブルと震わせて、怒りを露わにしていた。
「私が……あのブリブリ女と同じレベルだと言いたいの? すごく不快なのだけど」
オジさんの腕を引っ叩く。
叩いた瞬間、なんか骨が折れるような音が聞こえてきた……。
もちろん、オジさんは悲鳴をあげる。
「い、痛いよ! なにするんだ、アンナちゃん。半年前の“デート”を忘れたのかい?」
マリアは何を答えることもなく、右手に拳を作り、オジさんの顔面めがけて、ストレートパンチをお見舞い。
鼻からキレイな赤い血を吹き出し、地面へと倒れ込むオジさん。
「ブヘッ!」
これで終わりかと思ったが……マリアの怒りは止まることなく、オジさんの元へとゆっくり近づき。
倒れているオジさんの胸ぐらを掴むと、軽々と左手で持ち上げ、動けないことをいいことに顔面へと拳を叩きつける。
何度も、何度も……繰り返し。
「ねぇ、私の名前はなに?」
冷たい声で問いかける。
「ブヘッ……あ、アンナちゃんです……グハッ!」
その答えが、更に彼女をヒートアップさせる。
オジさんの顔を殴りつけるスピードがどんどん速く、そして殴る力も強くなる。
「もう1回、言ってごらんなさい?」
マリアの瞳からは輝きが失せ、ブルーサファイアというよりは、ブラックサファイアが正しい表現だ。
「あ、アンナちゃん……がはっ!」
殴られ続けたオジさんの顔は、腫れ上がってもう原形がない。
別人のようだ。
なんて、バイオレンスな女子。
タケちゃんの暴力描写より、酷いし怖い。
このままでは、マリアが加害者になってしまうので、俺が止めに入る。
「おい! もう、その辺でいいんじゃないか?」
彼女の小さな肩を掴むと、ゆっくりとこちらに視線を向けられた。
顔は鬼のような険しい剣幕で、今にも殴りかかってきそう。
怖すぎるっぴ!
「あら、タクト……」
俺の顔を見た瞬間、彼女の瞳に輝きが戻る。
「マリア。そのおじさんは以前、痴漢を犯した前科もんだ。アンナの……ストーカーなんだ。許してやってくれ」
「ふぅん……そうだったの。まあタクトがそう言うなら、許してあげるわ。オジさん、覚えておきなさい。私の名前は、マリア。冷泉 マリアよ」
そう言って、地面に倒れているオジさん目掛けて、唾を吐く。
もちろん、顔にだ。
「ヒッ! お、覚えました! マリア様ぁ!」
「それでいいのよ。今度、私に触れたら、また顔を変形させてあげるわ。この拳でね」
よ、容赦ないなぁ……。
見た目が同じでも、こういうところは全然違う。
なんていうか、可愛げがない。
守ってあげたくなるのは、例えあざとくても、アンナなのかもしれない。
文字通り、暴力で痴漢を撃退したマリア。
しつこく口説かれた事よりも、自分が敵視しているアンナと間違えられたことが一番、腹が立ったようだ。
映画館から出ても、何度も舌打ちを繰り返し、苛立ちを隠せずにいた。
「チッ。あの痴漢。もっと殴っておけば良かったわ」
まだ殴りたいのか……。
「あ、あの……マリア? ちょっと気分転換でもしないか。久しぶりのカナルシティだろ。どこか行きたい店はないか?」
俺がそう提案を持ちかけると、彼女の表情が少し柔らかくなる。
「え? 行きたいお店? そうね……なら、最近オープンしたっていうショップへ行ってみたいわね」
「よし。そこへ行ってみるか」
彼女が言う店は、地下一階にあるらしい。
俺たちはエスカレーターを使って、一番下まで降りていく。
色んなテナントがたくさん出店している階だ。
博多土産、期間限定のスイーツショップ、雑貨、アクセサリーショップ。
その中でも、一際目立つ場所で、マリアは足を止めた。
『デブリがいっぱい! でんぐり共和国。カナルシティ店』
可愛らしい、スタジオデブリのキャラクターが飾られている。
ドドロやボニョなど。
「うわぁ、どれもカワイイわねぇ~」
と碧い瞳をキラキラと輝かせるマリア。
「……」
俺は彼女の横顔をじっと見つめて、考えこむ。
マリアって、こういうの好きだったか?
なんていうか、小説とか、映画。あとは食事の話しか、しないから。
彼女の趣味とか、よく知らないが……。
デブリっていうと、どうしてもミハイルのイメージが強く、重ねてしまう。
俺の視線に気がついたマリアが、眉をひそめる。
「な、なによ? そんなに見つめて……私の顔に、変なものでもついているの?」
「いや……そういう訳じゃないが。お前って、デブリとか好きだっか? なんていうか、もっとお堅い趣味っていうイメージだったんだが……」
「は、はぁ!? わ、私だって、デブリぐらい好きよ! なに? またブリブリアンナと似ているとでも言いたいの!?」
なんか必死に、言い訳しているように見える。
「別に人の趣味だから、良いんだけどな。10年前はこういうの好きじゃないって、言っていたような……」
「じゅ、10年前と比較しないでくれる!? 私も成長したって言ったじゃない!」
「すまん……」
うーむ。マリアって俺が思っている以上に、女の子らしく成長したってことかな。
丸くなっちゃったのか……。
どんどん、容姿だけじゃなく、中身までアンナに近づいている気がする。
※
その後も、彼女が選ぶ店は、どれも可愛らしいものばかり。
女の子に大人気のキャラクター、『ザンリオ』の公式ショップに入ると。
期間限定で販売しているという、ピンク色のボアイヤーマフを手に取り、声を上げて喜ぶ。
「うわぁ~ “マイミロディ”のマフだぁ。可愛いわね。買おうかしら。あ、隣りには“グロミ”ちゃんのもある~」
マイミロディのイヤーマフだが、ピンクのもふもふ生地で、フリルとリボンがふんだんに使われたデザインだ。
人気商品なようで、近くにいた若い女性も手に取り、どちらを買うか悩んでいた。
ちなみに、その客のファッションだが、誰かさんに似ている。
そう、我らがメインヒロインのアンナちゃんだ。
マリアが迷っているもう1つのキャラクター、グロミちゃんも色は黒だが、デザインはやはり大きなリボンとフリルが、かなり目立つ。
これを買うのか……あのマリアが?
しかも、イヤーマフってことは、頭につけるんだろう。
想像できない。
散々、迷った挙句。
「やっぱり、2つとも買いましょ。迷った時は、両方よね」
「マジで買うのか……お前」
俺は余りのギャップに呆れていた。
「な、なによ! 私がこういうの買ったら、ダメっていうの?」
「いや……これ、買ってどうするんだ」
俺がそう言うと、彼女は堂々と胸を張ってこう答える。
「はぁ? 使い方を知らないの? 頭につけるのよ、こうやって!」
わざわざ頭につけて、俺に説明してくれる神対応。
ていうか……確かに似合っている。
そりゃ、あのアンナに瓜二つなんだから、似合わないわけ無いよな。
「可愛い……」
気がつくと、口からその言葉が漏れていた。
それを聞き逃さないマリアじゃない。
頬を赤くして、そっとイヤーマフを頭から外す。
「あ、ありがと……買ってくるわね」
「おう……」
なんか、今の俺って、ときめいてないか?
うう……相手が可愛かったら、誰でもイケちゃうタイプなのかな。
空が夕陽でオレンジ色に染まり出した頃。
マリアと言えば、久しぶりのカナルシティでたくさんの買い物を楽しんでいた。
主に、雑貨が多い。
可愛らしいアクセサリーや色んなキャラクターの公式ショップで購入したグッズ。
夢の国で有名なネッキーとネニーが、プリントされたグラスセット。
本当に女の子らしい物ばかりを好むようになったらしい。
頭の回転が早く、活字が大好きな文学少女のマリアはどこに行ったのやら……。
俺が思っていた以上に、10年間という時は、人をここまで変えてしまうのだろうか。
大きな紙袋を4つも抱えて、満足そうに笑うマリア。
「今日はありがとね、タクト。買い物に付き合ってくれて」
「いや、別にこれぐらい訳ないさ。それより、俺の方こそ、映画のチケットありがとな。無料で見られて、助かったよ」
「え、映画? ああ……あのことね。別にいいわよ。それより、まだ時間ある?」
そう言われて、スマホの画面を確認する。
見れば、時刻は『17:31』だ。
男の俺からすれば、まだ全然遊べる時間だが……女子であるマリアは別だ。
両親も心配するだろう。
「少しなら、いいぞ」
俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに微笑む。
「じゃあ……思い出として。最後にあそこへ行きたいわ」
マリアが指をさした方向は……。
カナルシティの屋外にある1つの川だ。
何かと因縁がまとわりついている、博多川。
嫌な予感しか、ない。
だが断れば……それもそれで、後が怖い。
俺は渋々、その案を呑んだ。
※
例の如く、博多川の前に設置されているベンチに二人して腰かける。
もう説明する必要もないと思うが、川の反対側には、ズラーッとラブホテルが大量に並んでいる。
10年前よりも、ホテルは更に増えたような気がする。
河川の周りにはチラホラと、屋台が夜に備えて、料理の下準備を始め出していた。
俺たち以外のカップルは、なぜか暗がりで静かに笑っていた。
時折、顔と顔を近づけて接吻……とまではいかないが、互いの鼻を擦りつけ合う。
「ダ~メ、まだだってば」
「いいじゃん。どうせ、行くんだし」
「ヤダ。ちゃんと部屋に入ってからだよぉ」
「満室だから、ここで待機してんじゃん。もう良いじゃん」
「も~う」
クソがっ!
生々しいんじゃ、コラッ!
一刻も早く、ここから立ち去って空室を探して来い。
俺が辺りのリア充どもへ、殺意を込めて睨んでいると……。
普段、強気なマリアが、辺りの雰囲気に気圧されたのか、頬を赤くして俯いてしまう。
「大丈夫か、マリア? この川はカップルが御用達だからな。喫茶店にでも場所を変えるか」
「ううん……ここで良い。と言うよりも、この川の前じゃなきゃ、ダメなの」
「どういうことだ?」
「実はタクトに相談があって……聞いてくれるかしら?」
「おお……」
マリアは小さな胸の前で、両手を合わせて祈るように、空を眺める。
そして深い深呼吸をした後、俺に視線を合わせて、こう呟いた。
「タクトにしか頼めないことなの……。わ、私の胸を触って欲しいの」
俺は耳を疑う。
「え?」
「あなたの両手で、私の胸を触って……いや、しっかりと揉んで確かめて欲しいのよ」
「……」
頭が真っ白になってしまった。
一体、このヒロインはなにを言い出したのだろうか……と。
心臓の手術が終わったと思ったら、今度は頭の病気か?
「マ、マリア……。意味が分からない。どうして、俺がお前の胸を揉む……いや、触ることに繋がるんだ?」
「私ね……乳がんの疑いがあるのよ。だから、婚約者であるタクトに直接触ってもらって、“しこり”がないか、確かめて欲しいのよ」
彼女の目つきは至って、真剣だ。
ウソをついているようには見えない。
確かに、乳がんを医者よりも先に発見するのは、パートナーだと噂は聞くが……。
だからといって、何故俺が揉むんだ?
「いや……検査したら、どうだ? 普通に」
「絶対にイヤよ! 医者とは言え、他の男に乳房を見せて、触られるだなんて!」
「しかしだな……俺は素人だ。疑いがあるなら、尚更のこと、プロの医師に……」
と言いかけたところで、マリアが大きな声で叫ぶ。
「イヤッ! じゃあ……こうしましょ。医者へ見せる前に、タクトが触診してくれる? それなら、まだ納得できるわ」
「えぇ……」
言い方を変えただけで、俺が胸を揉むのは変わらないじゃん。
マジでどうしちゃったの? マリアちゃんたら……。
結局、マリアの命がかかっているということで、お胸を触診することに……。
彼女と言えば、ベンチに座って、身体を俺へと向ける。
両手は膝の上に置いて、姿勢をピンと真っすぐ伸ばしていた。
そうすることで、改めてマリアの小さな胸が強調される。
思わず、生唾を飲み込む。
合意の元とはいえ、両手でパイ揉みとは、初めての経験だからな。
「じゃあ、いくぞ……」
「うん」
この時ばかりは、マリアも視線を地面に落とし、頬を赤くする。
ゆっくりと、両手を彼女の胸元へと近づける。
大きな白いリボンが邪魔だったから、手で払い、そして低い2つの山へ到着。
お山のふもとから、てっぺんまで優しく押し込む。
いや、感触を楽しんでいるに過ぎないのだが……。
「あんっ……」
甲高い声で反応するマリア。
妙に色っぽい。
そりゃ、そうだよな。
ラブホの前で、触診とはいえ、めっちゃ揉んでいるのだから。
だが、俺は至って冷静だった。
それは乳がんという、疑いがあるから……ではなく。
違和感を感じていたからだ。
「んんっ!?」
思わず、声が出てしまうほど。
“変化”に驚きを隠せない。
それもそのはず、秋ごろに帰国したマリアの胸を事故とはいえ、ダイレクトに揉みまくった時とは、大きな違いがあったからだ。
無い物がある……。
以前の彼女は、付けていなかったはずだ。
ブラジャーを。
ノーブラで柔らかい胸を揉み揉みさせて頂いたから、あの気持ち良さはしっかりと覚えている。
しかし、この感触は……。
硬すぎる。ブラジャーをしていても、肉感が皆無だ。
下着のワイヤーもあるだろうが、それよりも全体的にカチカチ。
パッドで少し膨らみはあるけど……無いに等しい。
これは女性の胸ではない。
「お、お前! 本当にマリアか!?」
驚いた俺は、咄嗟に胸から手を離そうとしたが、両腕を掴まれて動けない。
視線を上にあげると、ニッコリと優しく微笑んでいる彼女の姿が。
「やっと、汚れが落ちたね☆」
喋り方が急に変わった。
「え? ま、まさか……」
「バァ! アンナだよ☆」
「うそでしょ……どこから?」
※
俺の脳内は大パニックを起こしていた。
一体、いつから、アンナだったんだ?
確かに最初、電話で取材を申し込んできたのは、間違いなく女のマリアだった。
喋り方も何1つ違和感のない自然な彼女のまま。
あの強気で上から目線なマリアを演技だけで、今まで騙していたというのか……。
信じられん。
仮に演じていたとしても、中身はおバカなミハイルだ。
頭の良い帰国子女、マリアをあそこまで完コピできるか?
「な、なぁ……今日の取材って、俺はアンナとデートしていたのか?」
「そうだよ☆ 最初からね」
「えぇ……」
血の気が引き、脇から汗が滲み出るのを感じた。
怖い。どこまでやるんだ、この人。
頭が痛くて寝込んでいたんじゃないのか?
両手で頭を抱え、考え込む俺を無視して、アンナは嬉しそうに微笑む。
「タッくん。マリアちゃんなんて、最初からいなかったんだよ☆」
「え? それ、本当か……」
「うんうん☆ 全部、アンナがやっていた偽りの女の子だよ☆ 見ててね」
そう言うと、瞳に人差し指を当てて、何やら小さなレンズを取り外す。
ブルーのコンタクトレンズだ。
両方外せば、エメラルドグリーンの瞳がキラキラと輝き始める。
「慣れないカラコンだから、目がゴワゴワしちゃった☆」
「……」
俺は一体、どうしちまったんだ……。
彼女の言う通り、マリアという幼馴染は、この世には存在しない人物なのだろうか。
それとも、催眠にでもかけられているのだろうか……分からない。
困惑する俺とは対称的に、ずっと笑顔でこちらを見つめるアンナ。
「タッくんはアンナとじゃないと、取材にならないよ☆」
「はぁ……」
放心状態で、彼女のグリーンアイズを見つめる。
なんだか、瞳の奥へと吸い込まれそうだ……。
もう、このままアンナと二人で、川を越えて、どこまでも。
その時だった。
背後から、叫び声が上がったのは。
「待ちなさい! タクト!」
振り返ると、そこには身なりの汚い少女が一人立っていた。
見覚えのある子だが、着ているワンピースがボロボロだ。
襟もとは伸びてしまって、所々破れている。
金色の美しい髪も、バサバサに乱れまくっていた。
一歩、間違えれば、ホームレスかと思ってしまう。
それぐらい汚い女の子だった。
だが1つだけ、キレイな箇所と言えば、その瞳だ。
宝石のような2つのブルーサファイアを輝かせて、こちらをじっと見つめている。
いや、睨んでいるが正解か。
「お前……マリアか?」
「当たり前でしょ! そのブリブリ女が偽物よっ!」
犯人はお前だ的な感じで、人差し指を隣りの少女に突き刺す。
「えぇ、なにこの子。怖~い!」
そう言って、俺の背中に隠れるアンナちゃん。
当然、マリアは小さな肩を震わせて、怒りを露わにする。
「あなたねぇ! 映画館のトイレで私を襲ったくせに、よくもまあ!」
飛び掛かってきた彼女を、俺は必死に抑える。
「ちょ、ちょっと待て……マリア! 堪えてくれ!」
「なによ! タクト、このブリブリアンナの肩を持つ気? トイレで待ち伏せしていたような、狡猾な女よ!」
えぇ……。
もう犯罪とか、ストーカーってレベルじゃないよ。
このあと、マリアを落ち着かせるのに、1時間はかかった。
※
マリアから現在に至るまでの経緯を聞いて、俺は驚きを隠せずにいた。
どうやら、彼女は映画館のトイレで待ち伏せていたアンナに襲われ。
今まで、個室の中で荒縄により縛られ、閉じ込められていたらしい……。
つまり痴漢を殴っていたマリアは、既にもうすり替わっていたということだ。
あれは、正真正銘、女装したアンナが演じていた事に、開いた口が塞がらない。
ファッションもマリアに似せて、コーディネートしている。
まだ1回しか、会ったことがないのに、よくもここまでトレースできたものだ。
「ねぇ、初めてまして……と言いたいところだけど。アンナ! あなた、こんなことをやっても良いと思っているの?」
ドスの聞いた声で睨むマリアを目の前にしても、アンナは余裕たっぷりでニコニコと笑っている。
「え? なんのことかな☆」
全然、悪びれる様子がない。
ここまで来たら、サイコパスだ。
「あなたねぇ……私とタクトの大事なデートを、取材をなんだと思っているのよ!」
「アンナ、分かんないな。だって、タッくんの初めてを奪ったのは、マリアちゃんだったけ? そっちの方でしょ☆」
そう言って、優しく笑いかける余裕っぷりが、更にマリアの怒りを助長させる。
「初めて……って一体なんのことよ! それを婚約者である私がタクトと経験することが、何が悪いの!?」
「悪いよ☆ だって、タッくんが優しいことを良いことに、胸を触らせたもん☆」
「なっ!? あなた……それを根に持って、ここまでの悪行を平気でやったと言うの?」
異常なまでのアンナの『初めて』への執着心に絶句するマリア。
だが、両者一歩も譲ることはない。
怒りをむき出しにするマリアに対し、ニコニコと優しく微笑むアンナ。
カオスな状況に、俺は沈黙を貫いた。
怖すぎるからだ。
この二人の間に俺が入れば、殺される……間違いなく。
マリアは鼻息を荒くして、宿敵であるアンナへ激しく問い詰める。
「いい機会だから、ここでハッキリさせてあげる! 私はタクトの婚約者なの! あなたって、小説のために契約したビジネスパートナーみたいなものでしょ!?」
「違うよ☆ タッくんとは運命的な出会いをした契約関係だよ☆」
なにそれ……その表現だと、俺がパパ活している親父みたいじゃん。
「運命的な出会い? じゃ、じゃあ……恋愛関係に発展する可能性があるってこと!?」
「どうだろね☆」
マリアは僅かだが、動揺していた。
対するアンナと言えば、俺の手を自身の胸で浄化させたという……自身の欲求が満たされた事によって、安心したようだ。
終始、ニコニコ笑ってマリアに対応する余裕っぷり。
「な、なんなのよ! その、タクトの全てを知り尽くしたような態度は……。ま、まさか! あなた達って……」
碧い瞳を大きく見開き、アンナの顔を指差して震え出す。
「ん? タッくんとアンナがどうしたの?」
「き……キ、キッスをした関係じゃないわよね!?」
それまで黙って、見ていた俺だが、思わず空中へと大量の唾を吹き出す。
「ブフーーーッ!」
だって、ついこの前、ミハイルモードとはいえ、ガッツリとファーストキスを交わしてしまったからだ。
マリアの勘だろうが……的をしっかり射抜かれた気分だ。
胸が痛む。そして、息苦しい。
気がつくと、俺の人差し指は自身の唇を撫でていた。
一瞬だったが、あの時の感触を思い出したから。
頬は一気に熱を帯びて、燃え上がる。
心臓を打つ音がドクッドクッとうるさい。
ふと、隣りに立っていたアンナに目をやると……。
同様の仕草を取っていた。
顔を真っ赤にさせて、小さなピンク色の唇を細い指で触っている。
俺と目が合った瞬間に、酷く動揺した様子で、目がぐるぐると泳いでしまう。
お互い、思うことは一致していたいようだ。
すぐにまた視線を逸らして、地面を見つめたが……。
俺たちの不自然な態度を、見逃さないマリアではなかった。
「な、なによ! その反応は!? まさか、もうキッスをした関係だっていうの!? 付き合ってもないのに?」
ド正論だった。
すかさず、俺が弁明に入る。
「いや……あの時のは、事故で……」
しどろもどろに言い訳するから、更に墓穴を掘ってしまう。
「事故でも、キスはキスよ!」
「そ、そうじゃないんだ……。アンナとじゃなくて……ダチとしたって、こと?」
自分で説明していてるくせに、なぜか疑問形。
もちろん、そんな話じゃ納得してくれないマリアさん。
「意味が分からないのだけど? 全く不快だわ、あなた達の関係性が。ハッキリしなさいよ! 聞いているの? アンナ!」
ビシッと人差し指を突き付けられたが、当の本人は“キス”という言葉に動揺しており、余裕が一切なくなってしまった。
顔を真っ赤にさせて、地面をじーっと見つめる。
この恥ずかしがる態度は、ミハイルに近い。
「え……? な、なんだっけ? マリアちゃん……」
「あなたに聞いているのよ! タクトとの関係性! キスまでしておいて、付き合ってないってどういうこと!? 遊びなら、タクトと別れて!」
泣きながら怒るマリア。
よっぽど、ファーストキスを奪われたのが、悲しかったのだろう。
相手は男だから、カウントしなくてもいいのに。
アンナと言えば、ずっと上の空だ。
「はぁ……。マリアちゃんは、アンナに一体なにをして欲しいの?」
「あなたに気安く、名前を呼ばれたくないわ。そうね……関係をハッキリして欲しいのよ。恋愛関係を望んでいるわけでもないくせに。私の婚約者をたぶらかす淫乱ブリブリ女!」
酷い言い様だ。
だが、ここまで人格を攻撃されても、アンナはポカーンと小さな口を開いていた。
頭の中がキッスでいっぱいだからだろう。
「うん……だから、なにをハッキリするの?」
「あぁ! 本当に腹の立つ女ね! じゃあ、言うわよ。あなたとタクトは、あそこに並ぶラブホテルへ行きたいかって事よ! それぐらい彼を愛してるかってこと!」
言われて、また俺とアンナは視線を合わせて、黙り込む。
何故なら“一度”だが、行ったことはある、からだ。
コスプレパーティーをしただけだが……。
「「……」」
謎の沈黙が続く。
それを見たマリアの怒りは、頂点に達した。
「なによ……なんで黙るの……。まさか! あなた達! 付き合ってもないくせに、ラブホテルへ行ったとでも言うの!?」
「「……」」
これ以上、墓穴を掘りたくなかったので、俺たちは何も答えることはせず、沈黙を選んだ。
「さっきから二人とも、なんで黙っているのよ! 本当にラブホテルへ行く関係だとでも言いたいわけ? 聞いているの、タクト!」
アンナが黙っているせいで、怒りの矛先が俺に向けられた。
「いや……本当にそういう関係じゃないんだ。俺とアンナは小説のために、取材をするだけの仲であって……。つまり、ラブホテルは取材目的で行ったに過ぎない」
間違いは言ってない。
少しでも嘘を付けば、勘の良いマリアにはバレてしまうからな。
「ラブホテルに取材? それ、必要なことなの……。じゃあ、若い男女がそういうホテルへ入ったのに、何にもしなかったとでも言いたいの!?」
それに対して、俺は即答する。真顔で。
「ああ。そういうことだ」
「なっ!?」
俺の回答に驚きを隠せないマリア。
「信じてもらえないかもしれないが……。俺たちはホテルへ行ったが、何もしてない。これだけはハッキリ言わせてもらう」
「そ、そんな……健全な男女がラブホテルに入って、何もしない事なんてあるの!? あそこには大人の関係になりたくて、入る以外……使用する意味あるの!?」
「いや、それは一概には言えないんじゃないか、多分……」
だって、ピンク系のサービスを受ける殿方もいるだろうし。
経験が無いから知らんけど……。
「タクト! あなたはさっきから、そう言うけどね! この前は『ラブホテルへ行ったことない』って私にウソをついて……。それにあなたはなんで、ずっと股間が……え、エレクトしているのよ!」
「へ……?」
マリアに指摘されて、俺は恐る恐る視線を股間に下ろす。
すると、彼女の言うように、ガチンゴチンに硬くなってしまった息子くんが目に入る。
膨らみ過ぎて、チャックが僅かに開いてしまうほど、元気になっていた……。
そうか、マリアだと思っていた相手が、アンナだと知ったことにより、無意識のうちに興奮してしまったんだ。
正面から、両手でパイ揉みをしたし、この前、ミハイルとはいえ、ファーストキスを交わした……。
つまり、恋愛における『AからB』を一気に経験してしまったのか。
大人の階段、昇っちゃったの? 男で……ないだろ。
だが、身体はしっかりと反応している。
全身の血流が全て、一か所に集い、パンパンに膨れ上がる。
股間が沈静化することは、難しい。
「ま、マリア……これは、違くて……」
「ナニが違うのよ! 最低っ、そんなに私とデートをしたくなかったの? こんな屈辱は初めてよ……どうせ、今からそのアンナとキスでもして、この川を越えるつもりだったんでしょ!?」
涙目で怒るマリア。
ていうか、よくそこまで想像できたな……。
誤解だって言うのに。
「ちょっと待ってくれ! そんな気はなくて……。おい、アンナもなにか言ってやってくれよ」
隣りにいたアンナへ助けを求めるが、未だに彼女は黙りこくっていた。
頬を赤くして、チラチラとある所を見つめる……。
俺の股間だ。
「……」
黙るなよ、否定してくれ。
しかも、その反応。更に誤解を生むんじゃうよ。
「もう、いいわ! あなた達、本当に最低で卑猥よ! 不快で仕方ないのだけど!」
ヤバい、更に火をつけちゃった……。
「マリア……本当に違うんだ、これは……」
そう言って、彼女の元へ数歩を脚を進めると、「近寄らないで!」と怒鳴られた。
「さっきからエレクトしっぱなしのタクトに触られたくない!」
あ、忘れていた。
常時、卍解している俺の股間を。
顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、碧い瞳は涙でいっぱい。
冷静沈着な彼女が、こんなに感情的になるのは初めてだ。
よっぽど、屈辱的な出来事だったらしい。
「も、もう……いい。私、今日は帰るっ!」
そう言うと、マリアは俺たちに背を向けて、カナルシティの方向へと走り去ってしまう。
良かったのだろうか、これで。
実質、初めてのデートだったろうに。