人格がアンナへと入れ替わってしまったミハイル。
未だに「ふふふ」と優しく微笑んで、俺の身体に跨る。
本当の意味で、マウントを取られてしまったのだ。
俺は微動だに、できずにいた。
もちろん、彼の身体はそこら辺の女より軽いが、馬鹿力だから、ひ弱な俺ではミハイルを下ろすとことはできない。
「タッくんのわる~い記憶を消そうか☆」
「え、どうやって?」
もしかして、殴られるの?
イヤだぁ!
「えっと……こうすると、消えるかなぁ」
そう言うと、ミハイルは小さな手で俺の頬に触れる。
いや、正しくは両手でギュッと力いっぱい挟む。
自ずと、俺の頬は前へと膨らみ、唇は飛び出てしまう。
「ば、ばの……だ、だにをずるんだ?」
(あ、あの……な、なにをするんだ?)
彼は何も答えることはなく、自身の顔をゆっくりと俺へ近づける。
エメラルドグリーンの瞳をキラキラと輝かせて。
心なしか、眠たそうな目に見える。
きっと、高熱のせいだろう。
お互いの額がくっつく。
ミハイルのおでこは、火傷するほどの高い体温だ。
しかし、彼は嬉しそうに笑っていた。
「ふふふ。おでこが、ごっつんこしたね☆ ひなたちゃんのこと、消えるかな?」
「おごご……」
答えたいのだが頬を両手でガッチリ挟まれて、ちゃんと言葉に出来ない。
気がつけば、美しい緑の瞳は、僅か1センチほどの至近距離だ。
額だけではなく、鼻の頭もくっついてしまう。
こ、このままでは……まずい!
今のミハイルは、正気じゃないんだ。
どうにかして、彼の熱を冷まさないと……。
俺が一人考え込んでいる間、ミハイルは構わず、じっと見つめる。
「ふふふ……もう、タッくんは誰にも渡さないよ☆ ひなたちゃんにも、あのマリアちゃんっていう子にもね☆」
「ダンナ……」
あ、アンナって言ったんだけどね。
まさか、ここまで引きずっていたとは……。
配慮が足りていなかったのかな。
と、思ったその時だった。
突如として、ミハイルが頭を抱えて叫び出す。
「あああ! 頭が痛い!」
口が自由になった俺は、彼に声をかける。
「ミハイル! 正気に戻ったのか!?」
「痛いよぉ~! イヤだ、イヤだぁ!」
こめかみ辺りを両手で押さえて、頭を左右にブンブンと振る。
よっぽどの激痛らしい。
泣きながら、叫んでいる。
「お、おい。ミハイル……とりあえず、俺から下りて……」
そう俺が言いかけた瞬間、プツンと彼の声が途絶えた。
「……」
あまりの激痛に、意識を失ったようで、瞼を閉じて身体を左右に揺らせている。
今にも倒れそうだ。
危険だと感じた俺は、咄嗟に身を起こす。
ミハイルの小さな肩を掴んで、ケガをしないように守る……つもりだった。
下へ倒れる彼と、上へ身体を起こす俺。
うまく両肩をキャッチしたと思った……。
でも、意外な所も掴んでしまったのだ。
それは……。
「んぐ」
熱を帯びたミハイルの小さな唇。
事故とはいえ、大の男同士がキッスを交わしてしまった……。
「んぐぐ……」
どれだけ、時が経ったのだろうか。
俺はミハイルの両肩を掴んだまま、目を見開き、その光景に驚いていた。
というか、あまりの出来事に身体がビックリして動かない。
一体、これからどうやって、離れたらいいんだ?
ていうか、ミハイルの唇って……めっちゃやわらかい!
プニプニしていて、気持ちが良い! 良すぎる!
水まんじゅうのようなプルプル感。
それに、唇が小さくて薄くて……女の子より、可愛らしい!
いかん。興奮してきた。
相手は男だというのに、初めてのキスで我を忘れているんだろう……きっと。
股間がパンパンに膨れ上がってきたぞ。
ダメだ!
一線は越えてならん。
がんばれ、俺の理性。
「ん……」
ずっと閉じていたミハイルの瞼がゆっくりと開き。
エメラルドグリーンの輝きが眼前に。
彼とは長い付き合いだが、ここまで近い距離で見つめあったことはない。
この間も、お互いの唇は重なったままだ。
「んん!?」
唇を塞がれたまま、ミハイルは正気を取り戻したようだ。
その後の彼は早かった。
眉をしかめたと同時に、俺から身を離し、勢いよく頭突き。
「ふぎゃっ!」
俺は鼻から大量の血を吹き出しながら、ベッドへと急降下。
右手で鼻を抑えながら、彼へと必死に訴えかける。
「ち、違うんだ。ミハイル! これはその……事故で」
だが、そんなことを信じてくれることもなく。
「な、なんで……タクトがオレん家にいるんだよ! 今日はスクリーングだろ!」
顔を真っ赤にさせて、激怒する。
でもちょっと、涙目。
そりゃそうだよな……ファーストキスが、俺だもん。
身体をプルプルと震わせて、泣いて叫ぶ。
「オレの部屋から出ていけ! この変態タクト!」
ビシッと扉の方向を指差したので、俺は「はい」と素直に従う。
鼻血をポタポタと床に垂らしながら……。
※
一時間ぐらい経ったのだろうか。
彼の自室から叩き出された俺は、扉の前で座り込んでいた。
近くにあったティッシュを使って、両方の穴を塞ぎながら。
扉の向こう側……部屋の中は静かだった。
ミハイルはあれから、叫ぶこともなく。
眠っているんじゃないか、ってぐらい何も音が聞こえてこない。
気になった俺は、扉をノックしてみる。
「ミハイル? 寝ているのか? さっきのことは……本当に事故だったんだよ」
「……」
相手から答えはないが、とりあえず理由を説明しておく。
「今日、お前がスクリーングを休むって言うから、心配で……。ただそれだけで、お前の家に来たんだ」
「……え? オレのことが?」
扉の向こうから、微かだが小さな声が聞こえてきた。
「ああ。そうだ……ダチのお前が休むって知ったら、心配でたまらなくて……それで俺も休んじまった」
「……そ、そうだったんだ」
「さっきの……口のやつは、なかったことにしてくれ。看病しようとしたら、ミハイルが頭痛で暴れてな。それを抑えようとしたら……」
話の途中で、扉がゆっくりと開く。
恥ずかしそうにルームウェアの裾を掴んで、顔を赤らめている。
視線はずっと床のまま。
どうやら、許してくれたようだ。
「もう……いいよ。タクトがオレのために、学校まで休んでくれたんだよね?」
「ああ。お前がいないと、なんか行きたくない……って思った」
俺が素直にそう答えると、彼に笑顔が戻る。
「仕方ないな。タクトはオレしか、ダチがいないもん☆」
ところで、俺のファーストキッスって、カウントされないよね?
相手は男だし……。
大丈夫、まだこの唇は、誰の物でもないはず。
ミハイルの誤解は解けたが……。
まだ彼の状態が良くなったわけではなく。
真っすぐに立てないで、フラフラとしていた。
だから、俺が部屋に戻ってベッドで横になるよう促した。
さすがのミハイルも素直に従ってくれたが。
部屋の扉を閉める際、優しく微笑んで。
「来てくれて、ありがと☆」
と頬を赤らめた。
なんだか、先ほどの“事故”を思い出してしまう。
あの小さな可愛らしい唇に、触れてしまったのか……。
自然と右手が自身の唇へと上がり、指先で感触を確かめる。
思い出しただけでも、頬が熱くなる。
身体中が燃え上がるように、体温が急上昇。
「ち、違う……俺はノンケだ……」
と自分自身を言い聞かせるように、呟くと。
「何の気だって?」
背後から甲高い女性の声が聞こえてきた。
振り返ると、コックコートを着た仕事上がりのヴィクトリアが立っていた。
「ぎゃあああ!」
思わず叫んでしまう。
まるで、幽霊を見たかのように。
当然、ヴィッキーちゃんは、鬼のように怒り出す。
「や、やかましい! ここはあたいの家だ! なに泥棒を見た住人みたいな顔してやがんだ!」
「すみません……」
冷静さを取り戻そうと、呼吸を整える。
しかし、未だに心臓の音はうるさく、頬も熱い。
俺の異常に気がついたのか、ヴィッキーちゃんが顔をしかめる。
「坊主? お前もミーシャの風邪でも貰ったのか? 物凄く顔が赤いぞ」
「いえ……俺のは、違います……」
「ふぅん。ま、いいや。あたいは今からシャワー浴びるからさ。あがったら、酒に付き合え」
「え?」
「逃げるなよ。話があるんだ」
「は、はい……」
※
大きなローテーブルの上に置かれたのは、グツグツと音をあげる鍋。
博多名物、もつ鍋だ。
以前も、この家へ遊びに来た時。これを御馳走になったが。
毎晩、こんな濃ゆいものばかり食べているのか?
ミハイルはまだ自室で寝込んでいる。
頭痛が酷いようで、時折、壁越しに唸り声が聞こえてきた。
ヴィッキーちゃんは、11月も近いと言うのに「風呂上がりだからな」とタンクトップにショーパン姿だ。
タンクトップの紐はゆるゆるだから、ブラジャーが丸見え。
弟が風邪を引いたのに、防御力ゼロ。
さすがは元伝説のヤンキーか。
もつ鍋を取り皿によせて、晩酌を始めるヴィッキーちゃん。
「ほれ。お前も食え」
なんて言いながら、ストロング缶をがぶ飲みする。
次の瞬間には、新しい缶を開けるエグい飲み方。
お茶ですか?
俺はあまり食べたくなかったので、出してもらったブラックコーヒーをゆっくり口にする。
「あの……話ってなんですか?」
そう問いかけると、ヴィッキーちゃんの箸が止まる。
「話か。なぁ……あたい、前にも言ったよな? ミーシャの無断外泊はダメだって」
ドスの聞いた声で俺を睨みつける。
やべっ。そうだった。
前もアンナモードで外泊させた時に、偉く怒ってたもんな。
これは謝罪しておかないと……。
「あ、はい……すみません」
「ほう。素直に認めるんだな。まあミーシャも年頃だから、色々とあるんだろうな。だろ? 坊主」
ギロッと睨みをきかせる。
俺は背筋をビシッと正して「はいっ!」と答えた。
「まあな。ミーシャも坊主と出会って、何か色々と変化があるんだろうな。よく笑うし、よく泣くしな……」
犯人はお前だろ? みたいな顔でじーっと見つめてくる。
「そ、その……この前のことでしたら……」
なんか良い言い訳が思いつかない。
ヴィッキーちゃんは深いため息をついたあと、こう言った。
「なあ、坊主。お前、女物の……ブラジャーとかパンツに興味あるか?」
「へ?」
思わずアホな声が出る。
そりゃ、興味はあります……とは答えられない。
「ちょっと待ってろ」
ヴィッキーちゃんは自分の部屋に入ると、何かを持ってきた。
可愛らしいフリルがふんだんに使われたピンクのブラジャーとパンティー。
見覚えがある。
は! これ、アンナが着ているやつだ!
「……」
テーブルの上に載せられた下着を見て、固まる俺。
「あたいは男じゃないから、分からんが……。思春期の奴はこういうのを欲しがるもんなのか?」
「そ、それは……」
まずい。姉のヴィッキーちゃんに女装を知られてしまえば、今後の取材に支障をきたしてしまう。
どうにか、この場を乗り越えないと……。
考えろ! 集中するんだ。仮にも作家だろ、俺は。
作るんだ、今こそ。この場で、フィクションを!
深呼吸した後、俺はこう語り出した。
「めっちゃ欲しいですね。かく言う俺も女性の下着を保有しております。真空パックに保存し、ハァハァするために男の子は、必要なんです」
すまん、ミハイル。
これしか、思いつかなかった。
真実を聞いたヴィッキーちゃんは目を見開き、絶句する。
「な、なんだと……」
驚く彼女を良いことにたたみかける。
「いいですか。ミハイルも15才なんですよ。これぐらいの性癖を持っていても、正常です。それに彼は前も言ったように、“大きなお人形”で夜な夜な遊んでいたでしょ?」
「ま、まさか……」
「そうです。ドールちゃんに着せて、楽しんでいる可能性があります」
「えぇ……」
涙目でうろたえる姉。
だが、俺は断固として、このフィクションで押し通す。
「これ以上、ミハイルの性癖をむやみに詮索しないほうが良いと思います」
「そ、そうなのか? あたいは女だから、よくわかんなくて……」
この人。弟のことになると、偉く弱気だな。
よし、じゃあ最後に脅しを入れておくか。
「あんまりご家族にやられると、ミハイルはグレて家出しますよ!」
「そ、そんなぁ……わかった。もうしないよぉ……」
肩を丸めて、俯くヴィクトリア。
勝ったな。
「ははは。年頃の男なら、ブラジャーとパンティーで、スゥハァするのは普通ですよ! 普通です!」
笑ってごまかせ。
こうして、ミハイルとアンナの秘密は守られたのであった。
あれから、一週間が経とうとしていた。
ミハイルの状態は少し良くなったと、姉のヴィクトリアから連絡はあったが……。
まだ熱が完全に引いてないので、しばらく自宅で安静にさせると言っていた。
俺もその方が良いだろうと感じた。
あの健康で頑丈な身体だけが、取り柄のミハイルだ。
よっぽど、疲れていたのだろう……。
ま、俺もあれから一週間はダラダラと過ごさせて、もらっている。
超短期で20万字も書いたから、肩こりが酷い。
新聞配達とレポート作成以外、ほぼ寝込んでいた。
寝込むというのは、ちょっと表現が違うな。
正しく言うのならば……。
「み、ミハイルの唇って……柔らかいんだな」
と先日の“事故”を毎日思い出しては、悶々と過ごしていた。
あの瞬間、もちろん驚きはしたが……それよりも。
ミハイルの閉じた瞼が、目に焼き付いて頭から離れない。
高熱で頭がフラついていたからだと思うが、なんで俺にあそこまで身を委ねられるというんだ?
考えただけで、胸が痛い……いや、これは違う。
ドキドキしているのか?
俺が、男にときめいているとでも言いたいのか。
違う! 断じて、俺にそっちの気はない!
と脳内で、完全に否定はしているのだが……。
布団の中で肯定してくる方が一人。僕の股間くんです。
元気すぎるのです。一週間前から。
なので、布団に入り込んで、隠しているのだ。
妹にバレたくないから。
一人、布団の中で葛藤していると、枕元に置いていたスマホが振動で揺れた。
画面を見れば、初めて見る名前だ。
「冷泉 マリア」
そうか。彼女とは、連絡先を交換していたのだった。
とりあえず、電話に出てみる。
「もしもし?」
『タクト、久しぶりね』
なんでか知らないが、マリアの声を聞いた瞬間。
股間の熱が一気に冷めてしまった。
きっと理性が働いたからだろう。
「ああ、久しぶりだな。どうした?」
『どうしたって……この前、言ったでしょ。返してもらうって』
偉くドスの聞いた声だ。
怒っているようにも感じる。
「返す? 俺、お前から映画でも借りていたか?」
『本当に記憶力の低い男ね、あなたは……』
「すまん。マリアが返してもらいたい物ってなんだ?」
俺がそう問いかけると、彼女は深呼吸してから、こう言った。
『あなたのハートでしょ』
「……」
そうだった。
マリアはメインヒロインであるアンナに対して、敵対心を抱いているんだった。
10年前に約束した婚約を破棄させるまで、俺の心を奪ったと勝手に勘違いしている。
だから、この前一ツ橋高校で、男装時のミハイルに宣戦布告したばかりだ。
俺は言葉を失っていたが、マリアは構わず話を進める。
『タクト。あなたは小説のために、あのブリブリ女と取材したのでしょ? そのせいで、記憶が封印されてしまったのよ』
「え?」
『なら、そのブリブリした記憶を私が改ざんしてあげる』
「すまん。ちょっと、言っている意味がわからないのだが……」
『簡単なことでしょ? 10年間の空白を埋めましょ。デート、取材をしましょ』
「あ、そういうことか……」
しかし、引け目を感じる。
メインヒロインである、アンナ。いや、ミハイルは今、床に臥せている状態だ。
そんな時に、俺だけが一人で遊びに行ってもいいのだろうか?
今回ばかりは、さすがに断ろう。
「マリア。悪いが今回はちょっと……」
そう言うと、彼女が鼻で笑う。
『もしかして、アンナに引け目を感じているの? 別にただの取材じゃない。それに彼女とはまだ恋愛関係に至ってないのでしょ。なら、いいじゃない?』
「いや……そういうことじゃなくて……」
スマホの向こう側から、「ふふふ」と笑い声が聞こえてくる。
そして、マリアは甘い声でこう囁いた。
『今回の取材は、タケちゃんよ』
「え!?」
思わず、布団から飛び起きてしまう。
『新作の映画チケットを無料でゲットしたのよ、二人分。どうする?』
俺は即座に反応してしまう。
「行きます!」
『じゃあ、明日の朝。博多駅、いつもの場所で会いましょ』
電話を切ったあと、少し後悔してしまった。
タケちゃんというパワーワードにより、考えもせず、即答してしまった。
まあ映画を見るだけだし、良いよね。
それに、本体であるミハイルは今、寝ているし……。
だって、タケちゃんの新作だもん!
翌日の朝。
俺は博多駅へと向かった。
指定された銅像の前で、ひとり彼女を待つ。
考えたら、昔に待ち合わせしていた場所も、この黒田節の像だったな。
ガキの頃だったけど。
ひょっとして、無意識のうちに、あの頃の癖が抜けないのか?
そんなことを考えていると、一人の小柄な少女が目の前に現れた。
黒を基調としたシンプルなデザインのミニワンピース。
胸元には白くて大きなリボン。
細く長い2つの脚は、黒いタイツで覆われている。
ローヒールのパンプスにも、白いリボンがついていた。
ピンクやフリルを好むアンナとは、正反対のファッションだ。
だが、似ているところと言えば、その顔だ。
小さな顔に反して、大きな瞳が2つ。
美しい金色の長い髪を肩まで下ろして、微笑む。
双子ってぐらい、アンナとそっくりだ。
違うところは、瞳の色が、ブルーサファイアってことぐらい。
「おはよう。タクト」
「……」
その姿に、思わず見惚れてしまった。
彼女の挨拶に答えることもできず……。
「タクト?」
低身長だから、自然と上目遣いになる。
「あ、ああ……。すまん、マリア。おはよう」
慌てる俺を見て、なんだか嬉しそうに笑うマリア。
「ふふ。どうしたのかしら? なんだか、10年前とは違うわね。あの横柄な態度の彼はどこに行ったのかしら」
「う、うるさい……」
あの頃とは違う。
どことなく、成長した大人としての女性に感じる。
もうガキ扱いはできない。
彼女の言う通り、友達の関係じゃないような気がした。
※
はかた駅前通りを二人で歩く。
「ふぁあ……」
小さな口に手を当てて、あくびを繰り返すマリア。
碧の瞳に薄っすらと涙を浮かべて。
それを隣りで見ていた俺が問いかける。
「どうした? 映画でも徹夜したのか?」
「いいえ……読んでいた小説が楽しくて、朝まで読んじゃったから」
そう言いながらも、あくびをしている。
「は? 小説を徹夜した? 寝ろよ。今日はタケちゃんの映画を観る取材だろ」
ちょっと、キレ気味になってしまった。
「怒らないでくれる? タクトなら知っているでしょ。私の活字好きが」
「え、わからん……」
俺がそう答えると、彼女はガクッとうなだれてしまう。
「あのね……だからタクトを作家として、応援していたのでしょ?」
「はぁ……」
「なによ、その反応。タクトって仮にも作家なんでしょ? あなたも小説ぐらい読むでしょ?」
俺はその問いに、キッパリと答える。
「読まないぞ」
マリアはそれを聞いて、小さな口を大きく開いて、驚いていた。
「あなた……そんなんだから、作家として大成できないんじゃない?」
冷たい視線を感じる。
「他の作者の小説なんて、読まないな。文字を読むのが面倒だからな……強いて言うならば、タケちゃんの作品ぐらいだ」
「はぁ……タクト。もうちょっと、色んな作者さんの作品を読んだ方が良いわよ」
ダメね、この子みたいなお母さん的な目で、見られてしまった。
「そうか? 俺は映画で充分だ」
深いため息をついたあと、マリアはこう持論を展開させる。
「あのね。文章力や描写とか。他の作者さんが描く文章を読めば、色々と学べるはずよ。私は読む事しかしないけど……毎日5冊ぐらいは読むわよ?」
俺はそれを聞いて絶句する。
「ちょっと待て……5冊ってことは、一冊を10万字と仮定して、50万字も読んでいるのか!?」
書き専からすると、驚愕の数字になる。
だが、マリアは真顔でこう答えた。
「普通のことでしょ。読書なんて、人間の三大欲求の1つに近いものよ。よく履歴書とかに趣味として『読書です』とか答える文学少女もどきを見かけるけど……文字を読むって呼吸に近しいことだから、生きるために必要なことじゃない」
「……」
ちょっと、作家業をやめてきて良いですか。
もう、僕は映画監督を目指してきます……。
カナルシティに着いて、すぐに映画館へ向かおうとしたが。
エスカレーターの前でマリアが俺の手を掴む。
「ちょっと待って……」
振り返ると頬を赤らめていた。
「どうした? トイレか?」
「違うわよ! お腹、空いたの……」
それを聞いた俺は鼻で笑う。
「相変わらずだな。食い意地がはってる」
案の定、マリアは顔を真っ赤にして、怒り出す。
「な、なによ! 小説に夢中だったから、朝食を取る暇がなかっただけよ!」
「構わんさ……ところで、食べる所はどうする?」
俺がそう問いかけると、彼女は再度、頬を赤らめて恥ずかしそうにこう答える。
「タ、タクトさえ、よければ……“キャンディーズバーガー”が良いわ」
「了解」
※
俺とマリアは地下一階に向かい、噴水広場の前にあるファーストフード店。
キャンディーズバーガーへと入る。
かなり腹が減っていたようで、店に入るや否や。
躊躇いもなく、メニューも見ずに店員へ注文するマリア。
「BBQバーガーを単品で30個下さい。あとポテトも10個。飲み物はアイスティーのLサイズを1つ」
その量を聞いて、驚く俺と店員のお姉さん。
「えっと……BBQバーガーを単品で30個に、ポテトを10個。お飲み物はアイスティーのLでよろしかったでしょうか?」
お姉さんが注文を繰り返すと、マリアは苛立ちを隠せず、舌打ちしてみせる。
「ええ。そうです。あまり待たせないでくれますか? お腹空いていると、あまり余裕がないのだけど」
そう言って、カウンター越しに睨みをきかせるマリア。
相手は5才ぐらい年上の女性に見えるが、その迫力に思わず後じさりするほどだ。
「も、申し訳ございません! すぐに調理いたしますので、少々お待ちください!」
自分が頼み終えると、振り返って、涼し気な顔でこう言う。
「タクトはどうするの?」
「あぁ……」
正直、朝ご飯を食べて間もないし、こんなにヘビーなものをすぐには食べたくない。
「俺はアイスコーヒーのブラックで……サイズはSでお願いします……」
男である俺の方が小食に見えてしまった。
※
二人掛けの小さなテーブルの上に、並べられた大量のハンバーガー。
それをひとつ1つ、包み紙を開いて、嬉しそうに頬ばる華奢な女の子。
「やっぱり、ここのハンバーガーが一番だわ。アメリカのよりも日本の……いえ、福岡のが一番♪」
なんて絶賛している。
俺はと言えば、その食いっぷりに絶句していた。
この小さな身体のどこに入っていくんだ?
過食症じゃないよね、マリアって。
スナック感覚で、ポイポイと口に入れていくので、俺は心配になり。
彼女へその疑問をぶつけてみた。
「なぁ……別に人様の食べ方に文句を言うつもりはないが。ハンバーガーを30個も注文するなんて、異常じゃないか? マリア、お前なんかストレスでも抱えてないか?」
俺がそう言うと、彼女は眉をしかめる。
「失礼ね。私は至って健康よ。それに言ったじゃない? 朝を抜いてきたって」
「いや……朝食を抜いたからって、ここまで食うか……」
既にハンバーガーは全て食べ終え、あとはポテトが3個のみだ。
「タクト。きっとあなたは10年前の私と比較しているのよ」
「比較?」
「ええ。あの頃は私も小学生だったもの……。でも、今は第二次性徴を迎えた女よ。食べる量も自ずと増えるってこと。オトナの女って感じかしら♪」
「……」
こんなにバカ食いする大人の女性は、あまり見ませんね。
唯一、僕が知っている女の子……いや、男の娘なら一人いるのですが。
ルックス以外で、似ている所を見つけたな。
たらふく、ハンバーガーを食い終えたところで、ようやく映画館へと到着。
待ちに待ったタケちゃんの新作であり、初めての続編でもある映画。
『作家レイジ ビヨンド』
前作の『ヤクザレイジ』が大好評だったこともあってか、タケちゃん初のシリーズ化だ。
映画館の前に飾られているポスターを見て、俺も興奮してきた。
「おお! これが新作か! マリア、早く入ろう」
そう言って、隣りの彼女に目をやると……。
俺とは正反対の方向を見つめていた。
映画館のチケット売り場のすぐ後ろにある店だ。
ゲームセンターの一部であり、最新のプリクラ機が大量に設置されている。
以前、アンナと入った店だ。
まあ俺もあの時以来、来たことがないし、撮る必要性もない。
生まれて初めて撮ったプリクラだったが……。
もし、アンナが誘わなかったら、一生撮ることはなかっただろう。
「ねぇ。まだ上映まで時間あるのでしょ?」
碧い瞳を輝かせるマリア。
「ああ……。プリクラに、興味があるのか? なんかマリアらしくないな」
俺がそう言うと、彼女はムッと頬を膨らませて睨む。
「失礼ね。私だって女の子なのよ。それに言ったでしょ? 今回の取材のテーマ」
「え? テーマ?」
首を傾げて考えていると、マリアが俺の胸を人差し指で小突く。
「あなたのハートを奪い返す……つまり、記憶の改ざんよ♪」
「?」
※
チケット売り場で座席だけ、指定しておいたので、後で困ることはない。
安心して、プリクラを撮れる。
だが、俺はマリアの言う『記憶の改ざん』が理解できずにいた。
真剣な顔でプリクラ機を選ぶ彼女に、もう一度聞いてみる。
「なぁ。俺の記憶と、このプリクラに何の意味があるんだ?」
そう言うと、マリアは「ふふ」と微笑んで、トートバッグから一冊の小さな本を取り出した。
「答えは、この中にあるわ」
表紙を見れば、どこかで見たことあるライトノベル……。
『気になっていたあの子はヤンキーだが、デートするときはめっちゃタイプでグイグイくる!!!』
作者、DO・助兵衛。絵、トマト。
俺の作品じゃねーか!
「これって、この前発売した俺の作品じゃないか……」
「ええ。穴が開くほど読み返したわ。特に、初デートのくだりをね」
「ん? デート……はっ!?」
ここでようやく気がついた。
彼女が言う、初デートのことを……。
そうだ。俺とメインヒロインであるアンナが、初めて取材した場所は、このカナルシティだ。
二人で観た映画もタケちゃんの作品だったし、そのあとプリクラを撮影した。
つまり……アンナが取材した場所や出来事を再現。
いや、マリア自身によって、俺の記憶を上書きしたい、ということか。
マリアは下から俺をじっと見つめる。怪しく口角を上げて。
「どうやら理解できたようね。さ、タクト。ブリブリ女との差を見せてあげるわ」
「おお……」
※
なんて勝ち誇った顔をしていたマリアだが。
どうやら、彼女自身もプリクラを撮影するのは、生まれて初めてらしく。
どの機械が良いのか、さっぱり分からないようだ。
周りには若い女子高生やカップルで、ごった返している。
そのため、自然と長い列が出来てしまい、機械を選んでいるだけで、置いてけぼりになってしまう。
焦り出したマリアが怒りを露わにする。
「な、なによ! 高々、写真を撮影するのに、こんなに並んでバッカじゃない!」
良いながらも、かなり動揺しているようだ。
こういうところは、ぼっちの俺に似ているな。
仕方ないので、フォローに入る。
「マリア。俺もあまり詳しくないが、全身が撮れて、尚且つ加工の少ない機械が良いって聞いたぞ」
この話は、全てアンナから教わったものだが……。
「フ、フン! じゃあ、それにしましょ」
結局、半年前に撮影した同じプリクラ機で撮影することにした。
改ざんになっているのか?
100円玉を4枚入れて、撮影タイムに入ったが、初めてのマリアはおどおどしていた。
「こ、これ。一体何が起こるの? 何か3Dみたいな感じで飛び出てくるのかしら?」
「そんなわけないだろ……ただ、撮影するだけだ。精々がフラッシュぐらいだ」
経験者である俺が説明する。
するとマリアは安心したようで、胸を撫でおろす。
「な、なるほどね……」
いざ撮影が始まっても、俺とマリアはピクリとも動かない。
機械が『次はこのポーズで撮ろうね』なんて、可愛らしい声で指示を出すが。
それを聞いたマリアは「何が楽しいの? 嫌よ」と一蹴する始末。
ピースもしないで、無表情の男女が二人でパシャパシャ撮られるだけ。
一体、俺たちはなにをやっているんだ?
もうあと一枚でラストってところで、マリアがこう呟いた。
「やっぱり……なにか思い出を作りたいわ……」
「え?」
頬を赤くして、俺の目をじっと見つめる。
強きな性格のマリアにしては、言葉に力がない。
そして、どこか恥ずかしそうだ。
「ポ、ポーズを……とりましょ」
そう言って、小さな手を俺に差し出す。
「なにをするんだ?」
「私。こういうの……分からないから、手を繋ぐことぐらいしか、思いつかないわ」
「え……」
言われて、ガキっぽい発案だと吹き出しそうになったが。
それは10年前の小学生だったらの話だ。
完全に大人になったマリアと……“女”になったこの子と手を繋ぐ?
正直、アンナともろくに手を繋いだ記憶がない。
あの積極的なアンナですら、一緒に手を繋いで歩くことなんて、なかったような……。
つまり、これって初めての出来事では?
うう……“初めて”にこだわるアンナさんが知ったら、どうなることやら。
とりあえず、マリアの小さな手のひらに触れてみる。遠慮がちに。
彼女も緊張しているのか、汗で湿っているのを感じた。
お互い、視線はカメラのまま、ギュッと手を握り、肌の感触を黙って味わう。
意外と柔らかいんだな……マリアの手。
そんなことを考えていると、撮影タイムは終了。
撮影ブースからお絵描きブースに移動する。
モニターに映し出された写真は、どれも似たようなものばかり。
唯一、アンナの時と違うものといえば……。
二人で頬を赤くして、手と手をぎこちなく握っている写真。
何ていうか、付き合いたてのカップルのようだ。
肝心の落書きはなにもしないで、マリアはすぐにプリントを選択する。
「だ、大事なのって……タクトとの思い出だから」
と頬を赤くして。
なんだか妙に女の子らしいな、今日のマリアは……。
見ているこっちが恥ずかしくなりそうだ。
プリクラ撮影が終わったことで、ようやく映画館へと向かうことになった。
待ちに待ったタケちゃんの新作だ。
長いエスカレーターを上っているだけで、興奮してくる。
今か今かと胸が高鳴り、自ずと身体が前のめりになってしまう。
マリアがスタッフの人にチケットを渡し、売店でポップコーンと飲み物を買ったら、スクリーンへ直行。
ブーッ! という音と共に、スクリーンの幕が左右に開く。
前作『ヤクザレイジ』にて、子分に裏切られた初老の親分、大林。
エンディングで敵対する組織に刺されて、死んでしまったと思っていたが……。
刑務所の休憩室にて、対峙する2人の男。
1人は金髪の受刑者。もう1人はスーツを着た薄毛の男。
『先輩、今の“創作会”デカくなり過ぎましたよ……。政界とも繋がっていて、平気でAIにエチエチなイラストを描かせて販売……先代だったら、こんなこと許されなかったのに』
それを聞いた金髪の男、大林が鼻で笑う。
『俺になんの関係があるんだよ。あれから何年経ったと思ってんだ。誰も俺のことなんて、覚えちゃいねぇよ……』
『そんな事言わないでくださいよ。先輩だって今も書いているんでしょ? なら、もう一度書籍化して、心が折れて垢を消した底辺作家たちの夢を叶えてくださいよ』
『お前、俺いくつだと思ってんだ? もう、いいよ』
大林の答えを聞いて、啖呵をきる薄毛の男。
『まだ、もうろくする年じゃないでしょ! しっかり書籍化して、ケジメつけてくださいよ! それが作家ってもんでしょうが!』
『なんだ、てめぇ……読み専が書き専を焚きつけんのか!? コノヤロー!』
久しぶりのタケちゃんに、俺は心を躍らせていた。
両手はギュッと拳を作り、次の展開を予想する。
「おお! 前作が静寂なる暴力ならば、今作は言葉の暴力か! さすがタケちゃん!」
なんて絶賛していると、隣りの席が妙に静かなことに気がつく。
マリアだ。
まさかと思いながら、隣りを見てみると……。
「スゥスゥ……」
こいつ、自分から誘っておきながら、“また”寝てやがる。
10年前と同じじゃねーか!
これじゃ、取材にならないと、俺は彼女の肩を揺さぶる。
「おい。マリア、起きろよ。今日は取材じゃないのか?」
「あ……ごめんなさい。昨晩、一睡もしてなくて、あまりの退屈ぶりに寝ちゃったわ」
サラッとタケちゃんをディスるな!
「お前なぁ……」
「本当に悪気はないの。ちょっとお手洗いに行って、顔を洗ってくるわ。私も10年前とは違って、成長したつもりよ」
「そ、そうか」
なんだか、強気なマリアが丸くなったようで、調子が狂うな。