あのあと、アンナは俺に背を向けると口元を手で隠しながら電話をしていた。
 ヒソヒソ声だが、受話器から相手の怒鳴り声が漏れている。

「あ、あのね…。ねーちゃん、だからさ…」
 女装しているが、声がワントーン下がったミハイルくんに戻っていた。
『あぁ!? ミーシャ、おめぇは今どこにいるんだぁ!』

 スピーカーモードにしているわけではないのに、ミハイルの姉のヴィクトリアがその場にいるようだ。
 大声で叫んでいるため、ホームのまわりの人々がアンナに釘付けだ。

「ご、ごめん、ねーちゃん……わけはあとで話すからさ…」
 あたふたしながら言い訳をするアンナ(♂)
『ミーシャ、お泊りは二十歳になるまでダメったろぉ!』
 どこのお母さんですか?
 なら喫煙とかも注意しとかないと……。

 アンナが叱られている姿を見るのも心苦しかった。
 やはり俺がちゃんと対応していれば、こんなことにならなかったしな。
 責任は俺にもある。
 姉のヴィッキーちゃんにも俺から一言謝りたい。

 心配した俺はアンナの肩をトントンと軽く叩いた。
 振り返った彼女は涙目。
 今にも泣き崩れそうだ。
 スパルタママなんだろうね、おねーちゃんだけど。

「アンナ、俺に代わってくれないか? ヴィッキーちゃんに説明させてくれ」
「え、タッくんが? どうして……」
「まあ、俺にも任せろ」
 俺がスマホに手を伸ばそうとしたその時だった。

「だ、ダメェェェ!!!」

 優しいアンナが初めて俺を拒絶した。
 俺の手を振り払い、スマホを隠す。

「し、しかし……」
 俺がうろたえていると、アンナはすかさずスマホの電源を切ってしまった。
 スマホがブラックアウトする寸前で、断末魔のようにヴィッキーちゃんの声が。

『お、おい、話はまだ……ブツッ』
 知らねーぞ、あとが怖いやつだろ、これ。

「ハァハァ……」
 肩で息をするアンナ。
 尋常ないぐらい大量の汗を吹き出し、顔が真っ青だ。

 やはり女装しているときに、ヴィクトリアと接触するのは良くないようだ。
 すなわち、ミハイルとアンナが同一人物であることを、俺に証明してしまうことになるからだ。
 それにアンナの存在自体を、姉に隠している様子だったし。
 俺が電話に出るのも、なにかと都合が悪いのだろうな。

「ヴィッキーちゃんと電話したいときは、ミーシャちゃんといるときにしてね……」
 目の色が真っ赤になっていた。
 よっぽどヴィクトリアに正体がバレるのが嫌らしい。
 俺にはバレているんだけど、知らないのは本人だけだしな。
 ついでに妹にもバレている。

「わかったよ……。だから落ち着いてくれ、アンナ」
「う、うん」
 頷くとスマホをバッグに隠すようになおした。

 そうこうしているうちに、駅に博多行きの列車が到着する。
 俺たちはヴィッキーちゃんの恐ろしさを互いに知っているため、電話のことには一切触れず、車内に乗り込んだ。
 博多につくまでしばらく無言のままだった。
 このデートのあとが怖いからだ。


 博多駅につくとすぐに天神行きのバスに乗りこむ。
 天神までは片道100円でいけるから西鉄バスのほうがお得だ。

 バスに乗る際、入口でICカードをかざす。
 するとアンナが物珍しそうに言った。
「それなあに?」
「ん? ニモカだ。これがあれば出入りが楽だしポイントも貯まるたからな。もっているとなにかと便利なんだ」
 おいおい、まさかICカードも知らないのか、この子は。
 昭和からタイムスリップしてきたのかな?

「アンナ、持ってないんだ……」
 寂しそうにアヒル口でこちらを睨む。
「それなら問題ない、俺が二人分支払っておく」
「ええ!? そんなことできるの?」
「ああ、降りるときに運転手に言えば可能だ」
「じゃあお願いしてもいいかな? あとでちゃんと払うから☆」
「おう」
 ていうか、100円ぐらいおごらせろよ。

    ※ 

 博多駅から5分ほどで、すぐに天神の渡辺通りに到着。
 バスから降りるときに「二人分」と運転手に告げる。
 運転手が「はいよ」と答え、機械のボタンを押す。
 そして、ICカードをかざして降りようとしたそのときだった。
 アンナが手を叩いて喜ぶ。

「すごぉい、さすがはタッくん☆」
 後ろを振り返ると、アンナが首を右に傾けてニコニコ笑っていた。
 なんかバカにされているような……。
「そうか?」
「うん☆ 二人で一緒にピッ、とか。夫婦みたい☆」
「え……」
 その発想はなかった。

 俺とアンナのやり取りを見て、車内からクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「ヤバッ、あのふたりバカップルじゃん」
「だってペアルックだし」
「二人ともどっちも好みだ! ハァハァ……お持ち帰りしたい」
 いや、最後のバイセクシャルじゃん。

 無垢な顔で微笑むアンナを見て、俺は頬が熱くなる。
「夫婦……」
 言われてドキドキしてしまった。
 
 バスの階段下から俺は彼女を見つめ、少し上で微笑むアンナ。
 まるでロミオとジュリエット。
 そうだ、俺がひざまついて婚約指輪を出してしまえば、すぐさまOKをもらえそうな空間だった。

 そんなひと時を壊したのはおっさんの咳払い。
「おっほん! あとがつかえているので、早く降りてください」

 その一言で俺は我に返った。

「あ、すいません。アンナ早く降りよう」
 俺はアンナに手を伸ばす。
「うん☆」
 アンナは嬉しそうに俺の手を掴む。
 彼女の細く白い小さな指を握ると優しく手を引く。
 相変わらず、華奢な体型のせいか、軽々と身を俺にゆだねる。
 フワッと宙を飛ぶように、俺へ飛び込む。
 まるで天使が空を舞うかのように……。

 アンナを抱きかかえるようにキャッチすると、俺は優しく地面に下ろす。
「よいしょっと☆」
 何事もなかったかのように、アンナは天神の空を見上げる。
 
 まったく、こいつが女だったらめちゃくちゃあざといやつだ。