*
それから数日――あの旋律は、ずっと僕の頭の中に居座り続けていた。
学校へ向かう電車の中でも。
授業を受けているときも。
帰り道でも。
気を抜くと、いつの間にか続きを考えている。
そして。
彼女のことも。
相変わらず、名前は知らない。
あの日以来、一度も会えていない。
それでも僕は毎日、ロゼッタの前を通った。
もともと帰り道なんだし、別に深い意味はない。ただ、あの時の彼女の印象があまりにも鮮烈だったから。忘れていないだけで。
――そんな言い訳も、そろそろ苦しくなってきた。
そして、今日もいない。
「……はぁ」
何でため息なんてついてるんだろう。
会える約束なんて、していないのに。
そもそも。
彼女がロゼッタによく来る子なのかどうかすら分からない。
分かっている。
分かっているのに。
もう一度だけ。
彼女に会いたかった。
*
その夜。
机に向かい、途中まで書いた譜面を眺める。
――君がいて 僕がいて
――世界が次第に色づいて
「世界が、色づく……か」
大袈裟だな。
たった一度会っただけなのに。
だけど。
あの日から、確かに何かが違う。
昨日まで何とも思わなかった街の景色。
冬の空。
道端の花。
人混みの中を歩く、長い黒髪の女の子。
何を見ても。
気づけば、彼女の残像を目で追うようになっていた。
「…………」
ペンを取った。
考えるより先に、言葉が浮かんだ。
――幸せな時を刻む日も。
「幸せな時……」
彼女は、どうしてあんなに“浮かれて”いたんだろう。
思い出すと、また笑ってしまう。
『つい浮かれてて……』
普通、自分から言うかな。
でも。
きっと何か、嬉しいことがあったんだろう。
だったら、あの子が今も笑っていればいい。
僕の知らない場所で。
僕の知らない誰かと一緒にいたとしても、幸せでいてほしい。
そう思った。
そして。
次の言葉を書こうとして――。
ペンが止まった。
「……」
何故だろう。
頭に浮かんだのは、幸せとは正反対の言葉だった。
――終わり告げる鐘が響く日も。
「…………」
書かれた文字を、じっと見つめる。
終わり。
どうして僕は、こんな言葉を書いたんだろう。
まだ何も始まってすらいないのに。
だけど、僕は知っている。
始まったものには、いつか終わりが来る。
楽しい時間も。
幸せな時間も。
人と人との関係も。
そして――命だって。
永遠なんて、存在しない。
幼い頃から、それを嫌というほど感じてきた。
明日も今日と同じように目を覚ますこと。
大切な人と、また明日会えること。
そんな当たり前のことだって。
本当は、誰にも約束されていない。
保証のない明日が、終わりを連想させたのか。
「…………」
胸元へ、そっと手を当てた。
規則正しく脈打つ鼓動。
あの日とは違う。
今は静かだ。
それでも、僕は知っている。
この鼓動だって、永遠ではない。
だからこそ、残したいと思った。
たとえいつか終わってしまっても。
確かにそこにあったものを、忘れたくないと思った。
――すべて君と僕がいた
そこまで書いて、
「……いや」
と、思わず苦笑した。
「僕たち、まだ何も始まってないのに」
君と僕。
そんなふうに並べて書けるような関係じゃない。
名前すら知らないんだから。
消しゴムを手に取った。
――すべて君と僕がいた
「…………」
消そうとした。
でも、できなかった。
あの冬の昼下がり。
ほんの僅かな時間だったけれど。
確かに、君と僕は同じ場所にいた。
僕は君の手を取った。
君は僕を見上げた。
僕は君の夢を聞いた。
そして――君に夢を叶えてほしいと思った。
たったそれだけ。
それだけなのに。
僕にとっては――愛しい記憶になってしまった。
「……重症だな、僕」
小さく笑って、消しゴムを置いた。
そして続きを書く。
――愛しい記憶 永遠より永い。
永遠なんてない。
そう思っている僕が、
永遠より永い、なんて……矛盾している。
だけど。
だからこそ、そう願ったのかもしれない。
いつか記憶が薄れても。
いつか僕がいなくなっても。
あの日の出来事だけは、この歌の中に残る。
だったら。
歌は、僕よりもずっと遠くへ行ける。
僕が行ったことのない街へ。
僕の知らない誰かのもとへ。
そして――。
もしかしたら……君のところへも。
「…………あ」
そこで、ようやく最後の言葉が見つかった。
――宇宙の彼方に
――いつまでも どこまでも
ペンを走らせる。
最後の二つの言葉だけは、迷わなかった。
――届け 響け
「…………」
書き終える。
静かな部屋。
目の前には、一枚の譜面。
何度も書き直した跡。
消した言葉。
残した言葉。
そして――名前も知らない、一人の女の子への想い。
「届け……か」
もう一度、会いたい。
ようやく認めた。
僕は――あの子に会いたい。
名前を知りたい。
もっと話してみたい。
あの子がどんな花を好きなのか。
どんなことをして笑うのか。
どんな夢を見ているのか。
もっと知りたい。
「……そうか」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
今まで分からなかったものに。
ようやく名前がついた気がした。
「僕……あの子のこと、好きなんだ」
口に出した途端。
今度は急激に恥ずかしくなった。
「…………」
両手で顔を覆う。
「一回しか会ってないのに……」
我ながら信じられない。
だけど。
否定しようとすると、あの日からの自分の行動を全部説明できなくなる。
朝起きて思い出したことも。
通りかかるたびにロゼッタを覗いてしまったことも。
長い黒髪を目で追ったことも。
もう一度会いたいと思ったことも。
そして。
一曲、作ってしまったことも。
「……参ったな」
顔を上げる。
もう一度、譜面を見る。
まだ一つだけ、空いている場所があった。
タイトル。
「…………」
世界が次第に色づいて。
宇宙の彼方に。
いつまでも。
どこまでも。
届け。
響け。
もし僕が、もう二度と君に会えなかったとしても。
この歌だけは。
いつか、世界を越えて――君のところまで。
「タイトルは――」
ペンを走らせた。
『Over the World』
書き終えた文字を見つめる。
名前も知らない君へ。
僕から贈る、君自身さえまだ知らない歌。
「……いつか、届くといいな」
僕は、小さく呟いた。
(世界を越えてでも、届けたい)
☆
そのときの僕は、本当に知らなかったんだ。
もう一度、君に会えることも。
君の名前を知ることも。
君の夢を、すぐそばで応援する日が来ることも。
いつか君が――僕にとって、かけがえのない人になることも。
そして、何よりも。
僕の歌より先に、君の方が――
僕の世界を変えていたことを。
それから数日――あの旋律は、ずっと僕の頭の中に居座り続けていた。
学校へ向かう電車の中でも。
授業を受けているときも。
帰り道でも。
気を抜くと、いつの間にか続きを考えている。
そして。
彼女のことも。
相変わらず、名前は知らない。
あの日以来、一度も会えていない。
それでも僕は毎日、ロゼッタの前を通った。
もともと帰り道なんだし、別に深い意味はない。ただ、あの時の彼女の印象があまりにも鮮烈だったから。忘れていないだけで。
――そんな言い訳も、そろそろ苦しくなってきた。
そして、今日もいない。
「……はぁ」
何でため息なんてついてるんだろう。
会える約束なんて、していないのに。
そもそも。
彼女がロゼッタによく来る子なのかどうかすら分からない。
分かっている。
分かっているのに。
もう一度だけ。
彼女に会いたかった。
*
その夜。
机に向かい、途中まで書いた譜面を眺める。
――君がいて 僕がいて
――世界が次第に色づいて
「世界が、色づく……か」
大袈裟だな。
たった一度会っただけなのに。
だけど。
あの日から、確かに何かが違う。
昨日まで何とも思わなかった街の景色。
冬の空。
道端の花。
人混みの中を歩く、長い黒髪の女の子。
何を見ても。
気づけば、彼女の残像を目で追うようになっていた。
「…………」
ペンを取った。
考えるより先に、言葉が浮かんだ。
――幸せな時を刻む日も。
「幸せな時……」
彼女は、どうしてあんなに“浮かれて”いたんだろう。
思い出すと、また笑ってしまう。
『つい浮かれてて……』
普通、自分から言うかな。
でも。
きっと何か、嬉しいことがあったんだろう。
だったら、あの子が今も笑っていればいい。
僕の知らない場所で。
僕の知らない誰かと一緒にいたとしても、幸せでいてほしい。
そう思った。
そして。
次の言葉を書こうとして――。
ペンが止まった。
「……」
何故だろう。
頭に浮かんだのは、幸せとは正反対の言葉だった。
――終わり告げる鐘が響く日も。
「…………」
書かれた文字を、じっと見つめる。
終わり。
どうして僕は、こんな言葉を書いたんだろう。
まだ何も始まってすらいないのに。
だけど、僕は知っている。
始まったものには、いつか終わりが来る。
楽しい時間も。
幸せな時間も。
人と人との関係も。
そして――命だって。
永遠なんて、存在しない。
幼い頃から、それを嫌というほど感じてきた。
明日も今日と同じように目を覚ますこと。
大切な人と、また明日会えること。
そんな当たり前のことだって。
本当は、誰にも約束されていない。
保証のない明日が、終わりを連想させたのか。
「…………」
胸元へ、そっと手を当てた。
規則正しく脈打つ鼓動。
あの日とは違う。
今は静かだ。
それでも、僕は知っている。
この鼓動だって、永遠ではない。
だからこそ、残したいと思った。
たとえいつか終わってしまっても。
確かにそこにあったものを、忘れたくないと思った。
――すべて君と僕がいた
そこまで書いて、
「……いや」
と、思わず苦笑した。
「僕たち、まだ何も始まってないのに」
君と僕。
そんなふうに並べて書けるような関係じゃない。
名前すら知らないんだから。
消しゴムを手に取った。
――すべて君と僕がいた
「…………」
消そうとした。
でも、できなかった。
あの冬の昼下がり。
ほんの僅かな時間だったけれど。
確かに、君と僕は同じ場所にいた。
僕は君の手を取った。
君は僕を見上げた。
僕は君の夢を聞いた。
そして――君に夢を叶えてほしいと思った。
たったそれだけ。
それだけなのに。
僕にとっては――愛しい記憶になってしまった。
「……重症だな、僕」
小さく笑って、消しゴムを置いた。
そして続きを書く。
――愛しい記憶 永遠より永い。
永遠なんてない。
そう思っている僕が、
永遠より永い、なんて……矛盾している。
だけど。
だからこそ、そう願ったのかもしれない。
いつか記憶が薄れても。
いつか僕がいなくなっても。
あの日の出来事だけは、この歌の中に残る。
だったら。
歌は、僕よりもずっと遠くへ行ける。
僕が行ったことのない街へ。
僕の知らない誰かのもとへ。
そして――。
もしかしたら……君のところへも。
「…………あ」
そこで、ようやく最後の言葉が見つかった。
――宇宙の彼方に
――いつまでも どこまでも
ペンを走らせる。
最後の二つの言葉だけは、迷わなかった。
――届け 響け
「…………」
書き終える。
静かな部屋。
目の前には、一枚の譜面。
何度も書き直した跡。
消した言葉。
残した言葉。
そして――名前も知らない、一人の女の子への想い。
「届け……か」
もう一度、会いたい。
ようやく認めた。
僕は――あの子に会いたい。
名前を知りたい。
もっと話してみたい。
あの子がどんな花を好きなのか。
どんなことをして笑うのか。
どんな夢を見ているのか。
もっと知りたい。
「……そうか」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
今まで分からなかったものに。
ようやく名前がついた気がした。
「僕……あの子のこと、好きなんだ」
口に出した途端。
今度は急激に恥ずかしくなった。
「…………」
両手で顔を覆う。
「一回しか会ってないのに……」
我ながら信じられない。
だけど。
否定しようとすると、あの日からの自分の行動を全部説明できなくなる。
朝起きて思い出したことも。
通りかかるたびにロゼッタを覗いてしまったことも。
長い黒髪を目で追ったことも。
もう一度会いたいと思ったことも。
そして。
一曲、作ってしまったことも。
「……参ったな」
顔を上げる。
もう一度、譜面を見る。
まだ一つだけ、空いている場所があった。
タイトル。
「…………」
世界が次第に色づいて。
宇宙の彼方に。
いつまでも。
どこまでも。
届け。
響け。
もし僕が、もう二度と君に会えなかったとしても。
この歌だけは。
いつか、世界を越えて――君のところまで。
「タイトルは――」
ペンを走らせた。
『Over the World』
書き終えた文字を見つめる。
名前も知らない君へ。
僕から贈る、君自身さえまだ知らない歌。
「……いつか、届くといいな」
僕は、小さく呟いた。
(世界を越えてでも、届けたい)
☆
そのときの僕は、本当に知らなかったんだ。
もう一度、君に会えることも。
君の名前を知ることも。
君の夢を、すぐそばで応援する日が来ることも。
いつか君が――僕にとって、かけがえのない人になることも。
そして、何よりも。
僕の歌より先に、君の方が――
僕の世界を変えていたことを。



