占い喫茶と神降ろしの絵

「じゃあ、降沢さんは、どうなのです? あの『慕情』は……?」
「……それ、言わせるんですか?」
「そうしないと、好奇心から気になってしまうので……」
「君も、お察しのとおり、沙夜子姉さんが僕の初恋だったということですね。今回の件でようやく分かりました」
「……ですよね」

 そうだろう。
 ただの従姉であれば、彼女のことを想った作品を、店の目立つ場所に飾ったりしない。
 まして、その絵の下を定位置に座るなんて、そんなこともしないのだ。
 様々な感情が入り混じっているけど、解きほぐしていけば、元は単純な感情一つなのだ。
 そういうことではないのか……。

「ほらね、やっぱり……。私は、最初からそう思っていたんですよ」

 でも、今度は美聖の心が穏やかではいられない。
 美聖の声は、我知らず、何オクターブも裏返り、早口になっていた。

「酷いなあ。一ノ清さん、そんな勝ち誇ったように言わなくとも……」
「大体、何十年も前の初恋を初恋と認められないなんて、恋愛ができない体質になってしまうかもしれませんよ。降沢さんはただでさえ、女っ気がないんだから」

 頭が真っ白な状態で、深く考えずに言葉を放っている美聖に対して、降沢は寝癖頭を撫でながら、独り言のようにぼそりと言い返してきた。

「女性なんて……僕から誘わなくても……ね」 
「………………はあっ?」

 その一言にこそ、美聖は愕然とした。

「…………あ」

 降沢も不味いと思ったのだろう。紅茶を一気に流し込んだ。

「…………降沢さん、まさかのスケコマシ発言ですか?」
「いまどき、スケコマシという言葉自体、聞きませんけど?」
「降沢さんに、いまどきの言葉なんて指摘されたくはありませんよ。ああ、ほら、もうこんな時間! 私、明日は早いので、もう帰りますからー」

 美聖は、わざと茶化した口調で告げた。
 格好良い、大人な女性だったら、ここで適当に笑って流せたり、自分の経験談まで語りだせるだろうに、美聖は真に受けてしまって、どうしていいか分からなくなる。降沢の真意も読めずに、振り回されてしまうのだ。

「えっ、あっ、ちょっと……。僕も行きますから。一ノ清さん、待って下さい」

 伝票を持ってレジに行く美聖の後を、珍しく小走りで降沢が追いかけてきた。
 そして、無理やり一万円札で支払ってしまった降沢は、おごってもらってありがとうございます……と憮然と礼を述べる美聖に、謎の笑みを湛えて向き合ったのだった。

「な、何ですか? 何か私の顔についているんですか?」
「思ったんですけど……」
「えっ?」
「一ノ清さんって、本当に、男慣れしていませんよね?」

 ――スケコマシに、上から発言されているような気がするのは、気のせいなのだろうか。

「君の素の顔って、占い師をしている時とは別人ですよね。占い師の時は、いつも自信に満ちた物言いをするのに、一ノ清美聖さんに戻ると、いつも……眉間にしわを寄せて、何かに悩んでいるようで、些末なことにも真剣になっていて……面白いです」
「ええ……我ながら、ぼろぼろで。人生経験が貧弱で、占い師にむいてなくて、申し訳ないです」
「そういう人の方が、人間味があって、いいと思います」
「いい?」

 ――何が良いのか?
 美聖は降沢にとって、都合の良い駒なのではないか?
 趣味と実益をかねた絵を描く上で、危険度を図るセンサーのようなものだ。
 トウコの目が見えなくなりつつある今、適度な能力を持っている美聖の存在を重宝しているだけではないのか?

「では、降沢さん。今日は用件も終わったことですし、現地解散ということでよろしいでしょうか。また明日、よろしくお願いします。お疲れさまでした」

 やはり、自分にこの人は無理だ。
 やめた方がいいと、もう一人の冷めた自分がそう言っている。
 降沢を直視できず、駅方向に歩き出そうとしていた美聖のショルダーバックを、不意に降沢が引っ張った。

「ちょっ!……ちょっと、ひったくり犯ですか?」
「君の財布をひったくるほど、僕は落ちぶれていません」
「何ですか?」
「気分を害してしまったのなら、申し訳ありません。お詫びといっては何ですが、これから、僕と食事でも行きませんか?」
「…………はっ、なぜ?」
「まだ帰るには、早いでしょう? 子供の下校時間ですよ。せっかく、お洒落をしてきたんだし、食事くらいいいじゃないですか。僕もたまにはレトルトと浩介の手料理以外を食べたいです」
「はあ……」

 よりにもよって、どうして、美聖がお洒落をしてきたことを知っているのだろう。
 普段の美聖の装いを、さりげなく、チェックしていたのか。

(イヤらしい……わ)

 さすがの女たらしだ。
 完ぺきに、普段の人畜無害っぽい容姿に騙されてしまう。
 更に、普段、外に出たがらないくせして、食事などと口にしている。
 フリーズしている美聖に、降沢は念を押した。
 それは、美聖が断れない魔法の言葉だった。

「…………食事代は全額、僕の奢りです」
「行きます」

 何にしても、一食分浮くのは有難い。

(ついでに、家族分も、持ち帰りしちゃおうかしら?)

 美聖は悪巧みを働かせつつ、日が傾き始めた元町の中心地を降沢と二人、歩き始めたのだった。
◆◆◆

 高台に行きたいと降沢が言うので、元町の坂道をゆっくりと上ることにした。
 おそらく、この上にデートスポットの外国人墓地や、港の見える丘公園があるのだろう。

(いやいや……。そんなところに行ったら、完璧にデートだわ。絶対に、あり得ない)

 変な期待に心臓が正直な反応を見せている。冗談ではないと、美聖は懸命に顔を横に振っていた。

「一ノ清さん、どうしたんですか?」
「えっ、はいっ。な、何でもありません!?」

 思わず、声が裏返ってしまった。
 今日はそんなことばかりで、嫌になってしまう。
 降沢は、なにも変わらない。
 彼の何を見ても、もうすでに女たらしという印象しか持てなくなりつつある美聖だが、さすがに、女性慣れしていると主張しただけあって、降沢は意外にリードが上手かった。

「一ノ清さん、この辺り見晴らし良さそうだし、洋食のレストランとか色々とお店があると思うんですけど。何がいいですか? 好き嫌いとかあったら、仰ってください」
「特にないです。好きなのは、高級料理です」
「はははっ」

 降沢は乾いた笑い声を上げた。
 この辺りの店のことまで知っているなんて、一体降沢は誰と来たというのだろう。
 何ということだろう。
 ただのひきこもりではなかったということだ。

「一ノ清さん、この辺りは来たことがなかったんですっけ?」
「うーんと、昔、近くまでは来たんですけど……外国人墓地も港の見える丘公園も敷居が高くて、引き返したんですよね?」
「敷居が高い?」

 降沢が本気で分からないといったふうに、目を瞬かせている。
 無理もないだろう。
 モテない女の戯言など、降沢には分かるまい。

「あ、いいえ。先に進みましょうよ。高台に行ったら綺麗な夕陽も見えるかもしれません」
「えっ、あっ? 一ノ清さん!?」

 美聖は小走りで坂を上って行く。
 汗ばんだ肌を、少しだけ心地よい夕方の風が撫でた。

(ここって?)

 ……と、すぐ脇に煉瓦作りの大きな建物があった。
 最初、教会だと思い込んだその建物の正体に気づく前に、聞いたことのある旋律が美聖の耳に運ばれてきた。 

 澄んだピアノの音色だった。

 どこかで聴いたような気がするのは、テレビなどの媒体からだろうか?
 しかし、この音色は、テレビよりもはるかに耳に残る『感情』を持っていた。
 気が付くと美聖の隣で、降沢が顎に手を当て考えこんでいた。

「綺麗で、悲しい曲ですね……」
「そうですね」

 美聖も同意だ。
 橙色に染まっている煉瓦の建物は、学校だった。目を凝らせば、門の前に私立の学校名がちゃんと書かれていた。
 つまり、誰かが音楽室から、奏でている音色がここまで聞こえているのだ。

「ああ、貴方たちも聴いているの? たまに聞こえてくるんですよ」

 犬の散歩中のマダムが立ち止まって、陽気に答えてくれた。

「誰が弾いているのかしらね……。学校の生徒さんかしら。今日はまた素敵なモーツァルトね」
「えっ、これ、モーツァルトの曲なんですか……」

 降沢が尋ねると、マダムは気を良したふうに、笑いながら教えてくれた。

「そうよ。よくテレビとかで流れているでしょう? モーツァルトのイ短調じゃない」
「……そう……なんですか」

 美聖が振り仰ぐと、校舎の四階辺りの部屋のカーテンがふわりと揺れた。
 散歩の女性を見送った後で、降沢がぽつりと口にした。

「モーツァルトが天才って、誰が言い出したのでしょうか……」

 校舎に目を向け、降沢は呟き続けた。

「いや、モーツァルトが天才だというのは、その通りだと思うんですけど。でも………………僕は、いまだに自分に才能があるなんて思ってもいません。だけど、あの人は、僕には視えない僕の才能とやらを慈しんでいました」
「…………降沢さん?」
「でも、あの頃の僕は、ずっと勘違いしていて。彼女の表面だけが……きっと好きだったんです。あの人と同い年になったら、彼女がどんな想いで僕に絵を描くよう遺言したのか、分かるようになるかと思いましたが、残念ながら、僕にはさっぱり分かりません」

 いつも、淡泊で浮世離れしている降沢が拳を握りしめて、うなだれている。
 美聖はそんな降沢の姿に、愛おしさを感じながら、同時に踏み込んではいけない領域を見極めようとしていた。 

「べ、別に、分からなくてもいいじゃないですか」

 迷った末に、美聖は明るく答えることにした。
 ……もう一度。

「分からなくてもいいと思います」

 ただの初恋でもない。
 『慕情』からにじみ出る、愛おしさと狂気を、美聖は怖いと思っていたはずだ。

(私は、本当に愚かだわ……)

 それが分かっていたはずなのに……。
 美聖は自分の気持ちで精いっぱいで、先ほどの喫茶店で、降沢を茶化してしまったのだ。

 ―――憧れと崇拝と、嫉妬と恋情。

 すべてを飲みこんで、あそこで鍵盤を叩いているのは、彼女が愛していた先生なのではないだろうか……。
 多分、美聖も降沢も同じことを考えて、黄昏色の風景の中、その曲が終わるまで佇んでいた。
◆◆◆

 ――ヒグラシが鳴いていた。

 北鎌倉は夏であっても、少し日没が早いように感じる。
 山の中にひっそりと佇む『アルカナ』は尚のことだ。
 午後二時を過ぎた途端、徐々に翳りはじめた日差しを確認しながら、美聖は閉店準備のことを考える毎日を送っていた。
 だいぶこのアルバイトに慣れたとはいえ、急な鑑定が入ってしまうと、片づけが雑になってしまっているような気がして、最近一人で反省していたところだった。
 美聖の至らないところを笑いながら、一人でカバーしてくれているトウコに申し訳ない。

(トウコさんに、なんかお礼がしたいんだけどな……)

 丁度、お中元の季節だ。
 日頃の感謝を、ここぞとばかりに形で渡したいところだが、唐突にプレゼントをするのも、恐縮されてしまうように思えて、気が引けていた。
 それに、トウコに贈り物をするのなら、降沢にも何かしなければいけないだろう。

(困ったな……)

 トウコには気軽にプレゼントも渡せそうだが、降沢に渡すとなると、格段に難易度が高まる。
 美聖には無理だ。

(……と、いけない。いけない)

 がらがらと引き戸が開く音が響いた。
 その合図に合わせて、美聖は早足で店の入口まで出て行った。
 本日、ぴったり二十人目のお客様だ。

「いらっしゃいませ!」

 そのお客様は、満面の笑みで応対した美聖とは正反対の仏頂面をしていた。
 腕組みをして、店先に佇んでいる長身の女性。
 四方八方、隅々を舐めるように、鋭く観察していたお客様は『アルカナ』には珍しい一人客のようだった。
 胸元の開いた黒いシャツに、体にフィットした膝丈の花柄スカートをはいている。肩掛けの小さなポシェットは、ブランド品だ。女性の持っている手提げ袋の店名も、セレブ御用達の都内の洋菓子店のものだろう。美聖はテレビでその店の放送を見たことがあった。
 とても、ハイキングの途中で、迷い込んだというふうには見えない。
 わざわざ、この店を目指して来たようだった。
 そして、そういうお客さんの九割方が『占い』目当ての人だった。

「あの……どうかされましたか?」

 多分、占いをご所望なのだろうが、そうだと言ってくれないと、美聖も対応できない。
 むっつりと押し黙られていても、困るだけだ。
 しかし、美聖が問いかけても、微笑みかけても、彼女はうんともすんとも応えてくれず、無表情のままだ。
 その割に、鋭い双眸が美聖に向かって、値踏みするように細められているので、怖くて仕方なかった。

(ひーっ、なんで初対面なのに、怒ってるの?)

 美聖は内心、肝を冷やしながら、必死に仕事をこなそうとしていた。

「あっ、今日は、お一人様ですか?」
「………………」

 それからしばらく、女性は黙っていたものの、やがて美聖以外の人間が来ないことを悟ったらしい、億劫そうに口を開いた。

「ええ。私、一人……よ。ここにトウコっていう占い師がいるって聞いたんだけど?」
「ああ、トウコさんですね」

 そういうことか……。
 トウコ目当てだったから、美聖にはあまり興味がなかったらしい。

(……て、いや……だったら、そう言ってくれてもいいよね?)

 ……などと、心の中でいろんな愚痴を零しながら、美聖は笑顔の仮面を装着し直した。

「トウコさんは、接客中で今すぐの鑑定は難しいのですが、お待ちになりますか?」

 トウコは美聖より遥かに忙しいのだ。
 軽食だって作るし、デザートも担当している。
 今は丁度、軽食のお客さんと、ケーキセットのお客さんが重なる時間なので、店内にそれほど客がいない状態であっても、トウコだけはてんてこまいなのだ。
 美聖もデザート作りくらい手伝いたいと申し出ているのだが、トウコ曰く、占いを勉強しろということなので、彼の言葉に甘えてしまっていた。
 そういうことで、基本的に現在『アルカナ』の占い担当は、美聖なのだが、トウコ指名というのなら、取り次ぎをしないわけにもいかなかった。

「じゃあ、どのくらい、かかるの?」

 自分の時計を見下ろして、苛々しながら尋ねてきた。
 美聖も自分の時計を見下ろす。
 丁度、二時ぴったりだった。
 ランチタイムが二時三十分までなので、それ以降ならトウコも多少融通は利くだろう。
 以前も、そのように案内したことがあったし、基本的にトウコは、鑑定までに待ち時間を設けるタイプなのだ。

「あと三十分ほどですね」
「三十分!?」

 女性は、感情そのままに舌打ちをした。
「どうにかならないの?」
「厨房の仕事を、トウコさんが一人でしているので……」
「貴方がやればいいじゃない……」
「私は、まだここで働き始めてから、日が浅いのです」
「日が浅くても、ホールなんでしょう?」
「主に占いをやるように、仰せつかっています」

 出来れば、こんなこと話したくはない。
 だが、そこまで言わなければ納得もしないタイプなのは、この短時間で美聖にも伝わってきていた。

「ふーん。貴方が占い師ねえ。見えないわ」

 再び、女性は上から下まで、顎を引いて美聖の品定めを始めてしまった。
 横に一つに髪を緩く結んだ美聖は、ボーダーのシャツに、ハーフパンツ姿だ。
 確かに、占い師っぽくはないだろう。 

(私、余計なことを言っちゃったな……)

 失敗した。
 気持ち半分で、鑑定しろと命令されるくらいなら、ホール専門のアルバイトで役立たずなんだと、へらへら笑っていれば良かったのだ。
 嫌な予感は、おおよそ的中するものだ。

「じゃっ、トウコって人が来るまで、貴方、私の占いをしてよ……」

(うっ、やっぱり……) 

「駄目だって言うの?」
「いえ……」

 美聖は、迫力に満ちた美人に、押し切られてしまったのだった。
 こういう時に限って、給仕業務は一段落していて、やるしかない状況となっている。
 彼女の名前を聞いてから、先に向かったキッチンは、今まさに戦場と化していた。

「トウコさん。灰田様という方の紹介で、剣崎さんという女性の方が鑑定して欲しいとお越しです。以前と同じように、あと、三十分後には鑑定出来ますとお答えしましたけど……」 
「ああ、灰田……知音ちゃんのお知り合いの方ね。はいはい、了解」

 トウコはサンドウィッチのセットを作りながら、デザートの盛り付けもこなしている。
 一体、幾つのことが彼の脳内で同時並行に進行しているのか、分かりはしなかった。

「それで、私……。剣崎様の希望で、トウコさんが来るまで、占って欲しいということなので、鑑定入りますね」
「はーい、分かったわ。よろしくね、美聖ちゃん」

 さすが、トウコだ。
 この凄まじい環境でも笑みを絶やさない。

(ああ、私はああいう人になりたいよ……)

 かつかつとピンヒールで、店内に入ってきた剣崎(けんざき) 容子(ようこ)容子と名乗る女性は、一般席で待ちたくないので、とにかく、占い席に連れて行けということだった。

(降沢さん……?)

 途中、降沢が困ったような微笑で、美聖にエールを送っていた。
 見るからに、容子は手強いタイプに見えたのだろう。
 降沢からして、そう感じるのなら、ここが美聖の試練になるかもしれない。

「さっ、こちらに……」

 美聖はカーテンを開ける。
 そして、鑑定席と向き合うように設けられたリクライニングの椅子を彼女に勧めた。

「……暑いわねえ」

 容子はポシェットの中から、取り出した扇子を使って一人涼んでいる。
 常に、殺気立っているのは、暑いせいなのか、性格なのか……。

(多分、性格なんだろうな……)

「冷房の温度を下げますね……」

 美聖は円卓の上にあったリモコンで室温を3℃ほど下げると、静かにタロットカードをシャッフルし始めた。

「では、剣崎さま。私はタロットカードメインで鑑定します。今日は、どういったことを視るのか、教えて下さいませんか?」
「私を見て、わからないの?」
「霊視と占いは、別ですよ」

 美聖は、断言した。

『私の悩みを当てて下さい……』

 それが一番占い師をやっていて、困る依頼なのだ。

「タロットカードは、悩みに応じて、テーマにあった占い方法を展開するので、曖昧な内容ですと、かえって命中率が下がります」
「ふーん。じゃっ、私の恋愛運をお願い」
「恋愛ですね?」
「そっ」
「お相手はいらっしゃるのですか?」
「いるというか、いないというか、別れた男のことを視て欲しいのよ」
「承知しました」
「なんかね、あいつ……。私に未練たらたらな感じがするのよ。半年前に別れたんだけどね。私、こういう勘は鋭いの。あいつ、私に連絡取りたがってるんじゃないかって? 前世からのソウルメイトだから、困ったことに別れられないのよね。私は迷惑なんだけど」
「そうなんですか……」

 ソウルメイトとは、魂の伴侶という意味らしい。
 前世からの宿縁というやつだ。
 スピリチュアル好きな人に、この手の言葉が出てくることが多かったりする。
 電話占いをしていると、頻繁に耳にするフレーズだが、北鎌倉の土地柄のせいなのか、対面鑑定のせいなのか、『アルカナ』で対面鑑定をするようになってから、余り聞かなくなっていた。

(久々に耳にしたわ…………)

 美聖は、そういう運命的なものを否定するつもりもないし、むしろ、そういう話はロマンチックで好きなのだが、その運命やら前世やらが今生で、影響力を発揮しすぎるのもいかがなものだろうと思ったりはしていた。

(あくまでも、私が感じていることかもしれないけど……)

 つまり、灰田という女性は、トウコに霊視をしてもらったのだろう。
 そして、剣崎はそれ目当てで『アルカナ』まで遥々やって来たのだ。

(でも、私は霊視なんて出来ないし……)

 美聖は自分のスタイルを貫くしかないのだ。
「分かりました……。その別れた彼が何をしているのか、視てみます」

 ちょっとした言葉選びで、怒鳴りだしそうなお客様だ。
 美聖は、なるべく、丁寧に占おうと躍起になったものの……。

 ――導き出された鑑定結果は、散々たるものだった。

(お相手の男性、未練の一つもないんだけど?)

 元恋人の男性には、すでに付き合っている女性がいるようだった。
 彼女に対しての恋愛感情など、欠片もない。

(…………恋敵……か)

 小アルカナのカードで、(ワンド)の5と、9の逆位置。
 彼というより、容子の方が未練たっぷりだった。
 気持ちのところに、やる気満々の戦車や(ソード)騎士(ナイト)のカードが出ている。別れた男性に執着しているのは、彼女の方なのだ。

「どうなの?」

 容子は、脅すように、円卓の端に両肘をつけて、身を乗りだした。

「…………彼は彼の人生、容子さんには、容子さんの人生が始まっているようですね」
「どういう意味よ?」
「過去に未練はあったかもしれません。でも、今の彼の気持ちは平穏を取り戻しています」
「嘘?」
「容子さんは、素敵な女性だから、きっと他に男性がいるのだろうと、諦めていますよ」
「…………まあ、私は他の男にも言い寄られているけどさ」

(あっ、これなら、いけるかな……?)

 美聖は彼女をおもいっきり持ち上げて、話題を反らす作戦に転じた。
 いくら占っても未来のない男性より、新たな男性にシフトしてくれた方が彼女の人生にとって遥かにプラスだ。
 …………しかし……だ。
 思った以上に、容子は手ごわかった。

「でも、あいつ絶対私のこと諦めてないんでしょう? あの男の念が飛んでくるから、私が他の男つ付き合うことができないのよ」
「……念?」

 何だそれは……。むしろ、念を飛ばしているのは、容子側だろう。

「……で? 私はこいつに連絡取った方がいいの? どうしても私じゃないと駄目だって言うのなら、もう一度付き合ってあげてもいいと思うんだけど?」
「それは……その」

 ――悪いが、そんなチャンスはもうない。
 いや、もしかしたら、容子に劇的な変化があって、別人のように変わればあるかもしれない。
 けれど、凄まじいことに、容子は彼の気持ちが自分にあると、微塵も疑ってないのだから、その可能性も薄いのだろう。

「占い師なんだから、いつが最適だってことくらい、分かるでしょう? 何月の何日の何時くらいに電話をしたら、いいのか教えてよ」
「えっ?」 

 本気で、電話をするつもりなのか?

(今の流れで、どうして、そうなってしまうのかな?)

 美聖は一言も、復縁可能だなんて言っていない。
 この鑑定結果からして、彼に連絡を取った時点で、迷惑がられて関係が壊滅的に終わるだけだ。
 でも、彼にそう言われたところで、高いプライドを持っている彼女は、信じやしないはずだ。
 ストーカーではないけれど、限りなくそれに近い感じがする。

「電話して良い日は、改めてカードに聞いてみないと分かりませんね」
「だったら、早くして頂戴」

(ぎゃー……。このお客様、もう、私、どうしたらいいんだろう?)

 ――と、そこに。

「美聖ちゃん、お待たせ」

 飄々と、カーテンをくぐって、トウコが現れた。

 ――その姿。
 まるで、救世主のようだった。

 彼の蛍光イェローのポロシャツに、すがりつきたいくらい、美聖はホッとしていた。

「代わるわ」
「あっ、はい。では……」

 このまま変に引き留められないうちにと、そそくさと立ち上がった美聖に耳打ちする形で、トウコが囁いた。

「在季が、とっとと行けって言うからね」

 ウィンクをして、美聖に軽く手を振る。

「貴方がトウコさん?」

 あらかじめ、トウコが大柄の男性であることを聞いていたのだろう。
 表情を緩めた容子は、手にしていた手提げ袋をトウコに渡した。

「知音がバースデープレゼントだって。七月が誕生日だったんでしょう。渡しておくわ」
「あら、嬉しい。ありがとうございます。知音ちゃんによろしく伝えて下さいね」
「ええ、伝えておくわ。それで、今、鑑定時間中だったけど、お金どうしたらいいの?」
「先程の分は、無料にします。あとは私が……」
「そう、ならいいけど……」

 そして、二人が着座するのを待って、美聖はカーテンの外に出た。

(危なかった……。本当に身が縮む思いだったわ……)

 しかし、ああいうお客様とも対等に渡り合っていかなければ、プロの占い師とは言えないのだ。

(本当に、自信なくすわ……)

 降沢がちらちらとこちらを気にしていたので、美聖はぺこりと頭を下げた。
 当初、なかなか近づきがたかった降沢だが、最近では、遠巻きに見守られているような気がして、会話の数も格段に増えていた。降沢は人見知りだと言っていたが、本当にそうだったようだ。今は、結構頼もしく感じている。美聖の窮地にトウコを寄越してくれたことは、素直に嬉しいことだ。

(でもね……)

 美聖は、ずんと肩を落とした。
 落ち込むことは、他にもあった。

(お中元とか、そういうレベルじゃなかったよね……)

 トウコが七月誕生日であることを、聞きそびれていたことは、とんだ失態だった。
◆◆◆

「浩介の誕生日プレゼントなんて、買う価値もないと思うのですけどね」

 トウコの誕生日プレゼントについて、相談に乗ってもらったその日から、降沢は、そればかりを主張している。
 それなのに、自分も美聖について来ると言うのだから、やっぱりとんだ変わり者だ。

 ――『アルカナ』の定休日。

 美聖は、鎌倉の小町通りを訪れていた。
 トウコは、小町通りに新しくオープンした洋菓子店を気にしているというのは、降沢からの情報だ。彼にその洋菓子店の名前と場所を聞いたら、運動不足なので、自分も付き合うと言って何だかついて来ることになった。

(これって…………デート?)

 だが、今日の美聖は、午後からコンビニのアルバイトが入っているので、たった数時間しか鎌倉にいることが出来ない。
  降沢には、事前にそれを知らせているのだが、そのわずかな時間に同行したいというのは、本気で散歩のつもりなのかもしれない。
  少なくとも、デートの格好ではなかった。
  今日も変わらず、白シャツに、ジーンズ。使い古したビーチサンダルと、やる気のなさそうな装いの降沢だ。
  ほんの少しの時間とはいえ、先日買ったばかりの花柄のカットソーを意気揚々と着てきてしまった美聖とは、かなりの温度差がありそうだった。

「降沢さんから聞いた情報をもとに、ネットで調べてみましたが、そのお店、小町通りの奥にあるみたいなんですよ。結構歩くみたいですけど、大丈夫なんですか?」
「ええ。歩くことは苦になりません。僕は、そのつもりで来たんですから」
「本当に?」
「一ノ清さん、僕はひきこもりですけど、人間恐怖症ではありませんよ」

 そんなやりとりを、小町通りの大看板の下、二人ですることになったのは、通りの中の人ごみが半端ないことになっているからだ。
 目的地に到着するまで、倍の時間はかかりそうな程、人で賑わっている。
 あの人口密度状態だ。ここよりもっと暑いことは必至だろう。

「最近、来ていなかったのですが、凄いことになっていますね。メディアの力でしょうか?」
「……でしょうね。そうでないと、平日なのに、ここまで人はいないでしょう」

 観光客と、修学旅行中の中高生がここぞとばかりに小町通りに集中しているようだった。

「若宮大路から、まわって行きましょうか? ちょっと遠回りになりますけど」

 降沢が提案する。
 鶴岡八幡宮の参道でもある若宮大路から、歩行者専用のお店が連なる小町通りは、細い路地を通じてつながっている。そちらのルートから移動した方が手っ取り早いのは、確かなのだが……。

「せっかく来たんですし、私の知らないお店もありそうなんで、行きはこちらから行きたいのですが、降沢さん、辛いですか?」

 美聖の主張に、降沢はにっこり笑って返した。

「いいですよ。僕も小町通りに来たのは、高校生の時以来ですから……」
「えっ? ……それ……本当ですか」

 逆に、本当だったら凄い。
 しかも、降沢はこのうだるような暑さの中で、汗一つかいていないのだ。

(やっぱり、降沢さんって、人間じゃないんじゃ……)

 割と真剣にそんなことを考えてしまった。

「さて、行きますか……」

 独特のテンションで、降沢はゆらゆら歩きだした。

「あっ、待って下さい」

 美聖は慌てて、降沢を追いかける。
 隣に並ぶと、髪の隙間から降沢と目が合った。ここ最近で発見したことだが、意外に彼は感情を表に出してしまうタイプのようだ。今は、何だか嬉しそうだ。

「良かったです」
「何がですか?」
「君、あの女性の鑑定以来、ちょっと元気なかったみたいですから」
「…………お恥ずかしい限りです」

 降沢にまで心配されていたら、世話がない。

「浩介も疲れたって言ってましたけど、あの人、難しいタイプだったんですか?」
「うーんと、それは」

 あまり深く話すと、個人情報に抵触しそうなので、美聖は簡潔に答えることにした。
「つまり、復縁をしたかったみたいなんです」
「そうだったんですか。こんなこと言っては何ですけど、ああいう方は、あまり執着をしないタイプに見えました。特に僕が描きたいと思うものもなかったですし……」
「ああ……。自分でも無自覚なんですよね。だから、かえって厄介なんです」

 あの後、トウコの鑑定でも、復縁は有り得ないと出ていたようだ。
 しかし、ここで美聖とトウコが違うのは、鑑定結果の伝え方だった。
 漏れ聞こえたトウコの声は、揺るぎのない強い意志を持っていた。
 食い下がる容子に対して、きっぱりと『復縁はありえない』と、言い切っていた。
 彼に未練があることを、ぼんやりとだけは認めていた容子だったが、その後はトウコに何とかして欲しいの一点張りだった。

『貴方、霊能者なんでしょ。人の縁を結ぶのが仕事なんじゃない。お金はいくらでも払うから、彼と結婚させて欲しい』

 どうやら、彼と復縁をして結婚もしたかったようだ。
 そんな無茶な依頼、引き受けることなど出来ない。でも、伝え方はある。
 トウコは、あくまでも落ち着いていた。

『人の縁だからこそ、うかつに霊能なんかで立ち入れないんですよ。貴方がこだわっている……前世で彼に縁があったからこそ、今生では縁を切る方向に運命が動いたのではないですか。その縁を第三者が介入して修正するなんて、そら恐ろしいこと、私には出来ません』

 ――一刀両断だった。

 美聖は崇めるように、両手を重ねあわせて、その時のことを降沢に伝えた。

「あの時のトウコさん……ものすごく、格好良かったんですよ」
「えっ、あれの、どこが? あいつの見た目が怖いから、女性も言い返せなかっただけでしょう?」

 降沢は、顔をひきつらせている。

「そんなことありませんよ」

 占い師ではない彼には、トウコの凄さが分からないのだ。

(だって……)

 上手い説得方法だった。有無をも言わさない迫力すらまとっていたのだ。

「トウコさんが、あの占いの後に話してくれました。人の縁って、旧式のテレビのチャンネルみたいだって。ガチャガチャと自動でダイヤルが回り続けていて、ぱっと繋がった人と繋がるけれど、また少しすると、自動的にチャンネルは切り替わるそうです」
「あのオカマ……。分かりやすそうで、分かりにくい説明をしますね」
「えっ、そうですか? 私は腑に落ちましたけど?」

 美聖は笑いながら、肩をすくめた。

「人生のチャンネルって、なんか良い響きじゃないですか。ずっと長く止まったままの場合もあるけれど、回転の速い人もある。また逆戻りして、繋がる人もいるけれど、もう二度と繋がらない人もいる。そう考えると、人の縁って本当に神秘的だなって思います」

 賑わいを見せている小町通りで、楽しそうにお店を巡っている沢山の人達に目を向ける。

(この人たちだって、何処かで奇跡的な確率でつながって、今ここにいるんだろうな……)

 ――だとするのなら、美聖が降沢やトウコに出会ったことも、地球規模で凄いことなのだろう。
 日ごろ、ほとんど考えもしないことだが……。
 降沢も美聖と同じようなことを考えたのか、独り言のように呟いた。

「家族でも、友人でも、恋人でも、みんな自分とは違う、あかの他人ですからね。自分が向ける好意と、相手の好意がまったく同じになるはずがない。それがあまりにも乖離していた場合、人間関係は破綻するのかもしれません」
「……ですね。時間の流れと同じく、人の気持ちも変わっていきますからね。それがトウコさんの言っていた『チャンネル』のことなのかもしれませんね」
「僕はひきこもりで、人間関係を築こうという意志すらなかったんです。執着もないので、去る者追わずと言った感じで……。だから、少し前までは、あの店にそういった内容で鑑定に来る人が理解できなかったんですよね」
「あー…………分かるような気がします」

 降沢があの店で、トウコと美聖以外と話しているところを一度も見たことがない。
 開店してから、五年。
 毎日、あの定位置にいるにも関わらず……だ。

「でもね。最近は何となく、分かるようになってきたんです。その人でないと、駄目なんだって思うその気持ちが……」
「すごいじゃないですか。一歩どころか、かなり人間として、前進していると思います」

 降沢が何となく美聖に話を合わせているのではなく、自分でそれを理解した上で、話しているのなら、それは素晴らしい変化だ。
 人間同士、執着も未練も、恋情も嫉妬も共感できるからこそ、縁を結び直すことが難しいことも理解できるのだ。

『まったくね……。アイツの人として成長は、十五歳くらいで終わっているのよ。変に期待しないこと。それに尽きるわね』

 そんなふうに、愚痴っぽく語っていたトウコに教えてあげたかった。
「…………有難うございます。一ノ清さん」
「えっ? 私ですか。お礼を言われるほど、何もしていませんが?」
「僕は、君のおかげだと思います」
「…………そう……なんですか。何だか、分かりませんが、お役に立てたのなら、嬉しいです」

 一体、どういう意味なのだろう。
 それは、期待しても良いフレーズなのか。

(トウコさんの言う通り、降沢さんって、期待すると落とされるタイプだから、あまり喜ばないでおこう)

 それでも、彼の真意が知りたくて、じっと目を凝らせば、さっと目を逸らされた。
 軽くショックだが、仕方ない。

「何だか、僕が来た頃と、ほとんどお店が変わってしまった気がしますよ。一ノ清さん」
「お店が一段と増えましたね。私は、結構頻繁に鎌倉には来ている方ですけど、それでもたった数カ月で随分と変わった感じがします。飲食店もそうだし、パワーストーンの店も増えましたね。あそこもあそこも、石のお店ですね」

 物珍しさに、美聖はすぐ近くの天然石の店先に走った。
 そこは日陰となっていて、涼しかった。
 色とりどりの石が、すでにブレスレットの状態となって、店先で売られている。

「気持ちいい! 生き返るようです」

 自動扉が開くと、冷房の風がどっと外に流れだす。
 美聖がそれを掬うようにして、自分に向けて扇いでいると、降沢が美聖を店の中に誘った。

「一ノ清さん、ちょっと、ここで涼んでいきましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
「君、興味があるんでしょう。こういうの?」
「……あっ」

 そういうところだけは、変に鋭い。

「はい、好きですね。自分の誕生石は何かなってくらいは、興味があります」
「そういえば、浩介は、時々、茶色の石をしていますね」

 料理担当のトウコは、料理中気になるからと言って、装飾品を一切身に着けないのだが、鑑定の時、たまに持参したブレスレットをはめている時がある。

「トウコさんは、虎目石(タイガーズアイ)と水晶のブレスレットですね」
「分かるんですか?」
「虎目石は、仕事運向上ってよく聞きますから……」
「へえ……」
「ほら、これですよ」

 豊富な種類の石が色別にショーケースの中に飾ってあったので、虎目石の場所もすぐに分かった。

(それにしても、混んでるな……)

 最近オープンしたらしい、天然石の店は、若い女性客でおおいに賑わっていた。
 外観からは狭いイメージがあったが、店内に入ると、奥行きがあってゆったりとしていた。女性が好きそうなヨーロピアンテイストの凝った内装に、天然石のペンダントや、指輪が並んでいる。もちろん、石一つから購入することのできるコーナーも設けられていた。
 こういう可愛らしい場所に、降沢と二人でいるなんて……信じられない。
 もう二度とこんな機会は、ないのかもしれない。

「それで、一ノ清さんの誕生石は何なのですか?」
「ああ、私は五月生まれなので、エメラルドですね」
「えっ、五月?」

 今更なリアクションで降沢が仰け反った。

「……それじゃあ、もう終わってしまってるじゃないですか?」
「ええ。今年もつつがなく……歳を取ってしまいました」
「一ノ清さんの誕生日を、浩介は知っていたんですよね?」
「はい、履歴書を見たせいだと思いますけど、トウコさんには、何でか誕生日プレゼントまでもらってしまって。だから、今回はちゃんとお返しと感謝をこめて贈り物をしたかったんです」 
「ふーん」

 そのあからさまに機嫌の悪そうな物言いに、以前の美聖だったら、それとなく距離を取りたくなっていただろう。
 でも、もう……さすがに慣れてしまっている。
 彼は、単純に自分だけ知らなかったことが気に入らないだけなのだ。

(困った中年よね。まったく……)

 美聖は一つから購入できる天然石のコーナーで立ち止まると、その中で一つ水晶を手に取った。クリスタルの澄みきった怜悧な雰囲気は、降沢の凛とした姿を彷彿とさせる。

(これを買ったら、降沢さんの気持ちも紛れるかしら?)

 かえって、悪くなったら、目も当てられないが、石に罪はないと言い聞かせてみるのも手だ。
 いらないのなら、美聖が返してもらえばいいのだ。
 そんなふうに、安易な気持ちで、美聖はそれをレジに持って行った。
◆◆◆

「何を買ったんですか?」

 レジで会計が終わり、店から出た矢先に、降沢が問いかけて来た。
 美聖は「はい、降沢さん」……と、プレゼント用に包んでもらった水晶を手渡した。

「これを、僕に?」
「ええ。今日の記念です。日ごろのご愛顧、ありがとうございます」
「愛顧って……また、面白い言葉遣いをしますね」

 降沢は歩きながら、ビニールの袋から丁寧に水晶玉を取り出した。

「……水晶?」

 降沢に、面白いくらい簡単に笑顔が戻っている。
 こんなに無防備で大丈夫なのかと問いかけたくなるくらい、満面の笑みだ。

「うわーっ、有難うございます!」
「…………いや、その」

(本気で喜んでいるわ。この人……)

 水晶丸珠の十二ミリ。値段にして、百円ちょっとの……たった一粒を、降沢は大切な宝物をもらったように、覗きこんでいる。

(水晶玉一つで、そんなに……。今まで、どんな人生だったのかしら? 降沢さん)

 ここまで喜んでもらえるのなら、もう少し高いものを買えば良かった。
 あまり値の張るものをしたら、有難迷惑なのではないかと、あえて避けたのだ。

「その……水晶のクリアな感じが降沢さんに通じるような気がして」
「へえ、君から僕はそんなふうに見えているのですね」
「ほら、水晶は魔除けにもなりますし、いわくつきの絵ばかり描いている降沢さんには、いいんじゃないでしょうか?」
「ああ、まさしく、その通りですね。良い魔除けになると思います。大切にしますね」

 降沢は、背中に羽が生えたかのように、ふわふわと歩いていた。
 小町通りの混み具合は、一層ひどくなっているのに、降沢はまったく気にしていない。
 人に接触しても、にやにやしたままだ。

「大丈夫ですか? 降沢さん!?」

 降沢を気遣いつつ、まともな歩行が困難な密集状態を、這うようにして前進していたら……。

「あのー、すいません」

 美聖は突然、中学生の集団に呼び止められてしまった。

「お姉さん……教えてください。大仏には、ここからどう行ったらいいんですか?」
「えっ?」

 ――またか。
 美聖は街に出ると、なぜか決まって道を聞かれるタイプなのだ。

「長谷大仏……。君たち、今から行くの?」
「はい。これから行こうと思うんだけど、ここから離れてるんでしょうか?」
「そうねえ……」

 美聖は、炎天下の徒歩コースを除いたバスと江ノ電のルートを簡潔に教えてあげた。

「すいません、降沢さん。お待たせ……」

 ――ようやく、仕事をやり遂げた。
 そんな得意げな表情で振り返ったところ、先程までそこにいたはずの降沢は忽然と消えてしまっていた。

「あれ? 降沢さん?」

 きょろきょろ周囲を見渡したところで、降沢が沸いて出てくるわけでもない。
 美聖は、いろんな人にぶつかって弾かれるだけだった。

(…………降沢さん、まさかの迷子?)

 どっと疲労感を深めながら、美聖はすぐ横の店の前に引っ込んだ。

「まったく、もう……。あの人は」

 何しろ、降沢の電話番号を美聖は知らないのだ。連絡の取りようがない。

(まあ、ここで動くのは得策じゃないわよね……)

 捜しに行くにしても、体力を消耗するだけだ。
 だったら、ここで大人しく降沢が来るのを待っていた方がいい。
 蒸し風呂状態に長くいるせいか、頭がぼうっとして、余計なことばかりが頭に浮かんだ。

(…………こういうのを、チャンネルが切りかわっちゃった状態っていうのかしら?)

 何かの偶然で繋がった縁も、ある日突然、スパッと切れてしまうことがある。
 こんなふうに、いずれ、降沢との縁も切れる時が来るだろう。
 その時、美聖は容子のような執着をせずに、彼への想いを断ち切ることが出来るのだろうか……。

(……なんて、私の場合、付き合っているわけでもないんだけどさ)

 しょせん、美聖の片思いだ。
 この気持ちを、一生、降沢に告白するつもりなんてない。
 最近、嫉妬という感情について学習したばかりの彼が、親愛の情一つで、美聖の抱える事情を受け止めきれるはずはないのだ。

 ……………………だけど。
 それを一番よく分かっているくせして、降沢の姿を目で捜してしまう美聖に、人のことをとやかく言う資格なんてあるのだろうか……。
 美聖だって充分に、執着しているし、嫉妬深い。
 もしも、本気で降沢を諦めるのなら『アルカナ』を辞めないと、絶対に無理だ。

(恋愛は……引き際と、諦め方が一番難しいんだろうな)

 それが嫌だから、歳を重ねるごとに臆病になっていくのかもしれない。
 そして、去っていった相手に依存してしまう。
 トウコが話していた『復縁』のコツは、『自分の人生を豊かにすること』だそうだ。
 そうして、自分自身でチャンネルを変えていけば、再び過去の人とつながるチャンスもあるだろう……と。
 しかし、そんな労力をはらってまで、恋愛をしないといけないのは、疲れることではないか。
 余程、バイタリティーのある人でないと、意中の相手と両想いになって、それを継続させていく努力なんて、出来やしないのだ。
 その点、容子は方向性を変えれば、可能性はゼロではないかもしれない。
 
(私には、無理だわ……)

 だって、とても疲れている。
 よりにもよって、相手が降沢なんて、普通の人の倍以上の労力がかかること間違いなしではないか……。