キミの瞳に映る世界

現実を受け入れたくないのか、ショックで記憶が混在しているのかわからないが、どっちにしても母さんの中にあるのは、生きている僕ではなく、この世から去った兄貴の存在だ。

***
 
僕には二つ年上の兄貴がいた。
名前は斗真(とうま)。
兄貴は、一言で言えば、少女漫画の世界に存在しているような男だった。
見た目はカッコ良かったし、性格も非の打ち所がなかったし、成績も運動神経も良かったから、誰からも好かれていて、両親にとって自慢の息子だったし、僕にとっても自慢の兄だった。
粗探しをしても何も出てこない人間って存在するんだなと、今思えば奇跡みたいなものだと思う。
弟の僕に対して兄がマウントをとる事もなくて、本当に仲の良い兄弟だったと思う。
……僕が中学生になるまでは。
中学に入ってから、周りから何かと兄貴と比較される事が多くなった。
成績だったり、運動神経だったり、時には容姿を指摘された事もある。
兄貴は背が高くて細身だったけれど、中学に入りたての頃の僕はぽっちゃりで、兄貴と並んだら本当に兄弟かと疑われたほど。
顔立ちだって似てないし。
最初のうちは比較されたところで、それぐらい自慢の兄貴だからとかスルーできたけれど、朝から晩まで僕の顔を見れば指さして笑うような行為を毎日やられれば、スルースキルが発動できなくなる日がくる。
それがクラスメイトや同級生だけでなく、仲が良かった友達とか先生からもやられれば、自然と心が荒んでいくだろ。
極めつけは、両親だ。
うちは特に成績に関して、口うるさくない方だった。
だから兄貴が成績が良くて、僕が悪くてもそれを咎められる事もなかったし、比較なんてされる事もなかった。
けれど、今まで気が付かなかっただけで、実は兄と僕の間に大きな差はあったんだ。
心が荒んでいなければきっとずっと気が付かなかっただろう。
誰かに話せば、ただの被害妄想だとか、そんな些細な事でって笑われるかもしれない。
父さんも母さんも、兄貴の趣味とか好物は良く知っているんだ。
けれど僕の事には何も知らないどころか、興味すら持ってくれていなかった。
食事に並ぶのは兄貴の好物ばかり。
さっき母さんがクリームシチューを作ったって言ったけれど、それは兄貴の好物であり、僕が好きなのはビーフシチュー。
ココアが好きなのも兄貴だけど、僕はチョコ系は好きじゃないからココアは飲まない。
ルカに言われて不快になったのは、かなりモテた兄貴がバレンタインになると大量にチョコレートをもらい、当たり前だけど一人で食べきれる量ではなかったので、それを家族で食べる羽目になったから。
もちろんの事、僕は女子から義理チョコですらもらった事がない。
別に欲しかったわけでもないけれど、今まで喜んで食べていたチョコレートを体が受け付けなくなったのは、色々な事に気付いてしまったせいだ。
気付かなければ、もしかしたら今もただ平和で穏やかな時間が流れていたかもしれないのに。
そんな中、兄貴は中学を卒業し、県内トップの高校へ進学した。
やっと同じ校内から兄貴がいなくなってくれたから、もう比較されない学校生活が送れると思ってホッとしたというのに、静寂は訪れてくれなかった。

「斗真先輩に会いたいんだけど、協力してくれないかな?」

こんな風に、兄貴と会えなくなった女子に橋渡しして欲しいと頼まれるようになり、受け入れていたらキリがないと判断して全て断ったら、

「風見のくせに生意気」

と、よくわからない理屈で逆ギレされ、女子全員から敵認定されてしまった。
関わらないでいてくれたらその方が楽だったし、最初は平和だと思っていたけれど、僕と少しでも話すとその人まで敵認定されるという噂が回り、少しずつ友人が離れていき、僕は孤立してしまった。
兄貴が同じ空間にいないのに、何で僕がこんな目に遭わなければならないのか、理解ができなかった。
高校に進学してから生活時間が違うために、兄貴との会話はほとんどなくなっていったけれど、兄貴は僕が兄貴のせいで理不尽な学校生活を送っているなんて夢にも思っていなかっただろう。
兄貴にも親にも、僕が窮屈な思いをしている事など打ち明けられるはずがなかった。
打ち明けたところで、誰もいい気分はしないし、僕が惨めになるだけだ。
卒業までの我慢だと自分に言い聞かせて、送って来た中学校生活。
けれど、ある日突然、その生活が一変する。
日曜日、欲しい本があって駅前の大きな本屋に出かけた僕。
無事に本を手にする事ができ、満足気に店を出たところで部活で学校に行っていた兄貴とバッタリ会ってしまった。

「お、悠真。何買ったんだ?」
「僕が読んでるラノベの最新刊」
「マジで? 読んだら貸してよ」

興味ないだろうなと思っていたから、貸してと言われて正直驚いて、二度見したくらい。

「兄貴が読むようなもんじゃないだろ」
「あ、知らなかった? 俺、時々悠真の本棚から借りて読んでたんだけど」

兄貴が美少女メインのラブコメ物を読むとは思わなかった。
昔から読書家だった事は知っていたけれど、ラノベを読んでいるところを一度も見た事はなかったから、意外すぎる。
しかも僕の本棚から借りて行っただなんて。

「意外って顔してる。結構好きだよ、ラブコメ。ちなみに俺は双葉派」
「兄貴はわかってないなー。若葉一択だろ」

双葉と若葉という名前の双子の美少女が主人公のラノベなのだが、どうやら兄貴は本当にガッツリ読んでいたようだった。
でも僕と兄貴の推しが違う事から、やはり合わないんだなって思った。

「……なあ、悠真。学校楽しいか?」
「は?」

並んで歩いていたら、急に兄貴がそんな風に問いかけて来た。
学校が楽しいかって……そんな質問ぶつけてどうすんだよ?

「……別に。普通だけど」
「……普通じゃないだろ。俺と繋げて欲しいって言われて断ったら、無視されたんだろ? 女子だけじゃなくて友達にも」
「そこまで知ってて、何で学校が楽しいのか聞いたんだよ?」

無神経すぎる兄貴の言い方にイラッとして少し怒り口調で聞き返した。
だって、そうだろ?
そんな状況の中、学校生活が楽しいと答える奴がどこにいる?

「ごめん。ただ、悠真が何も話してくれないから、上手く切り出す方法がわからなくて」
「放っておけばいいだろ? 何も関わらないでいてくれたら僕はそれでいいって」
「そんな事できるわけないだろ? 俺のせいで何で悠真が窮屈な中学校生活を送らなきゃならねーんだよ」

俺のせいって……何だよ?
グッと拳を作って、僕は思わず兄貴の胸倉を掴んでしまった。

「関わらないでくれたらいいって言ってるだろ?! それでも放っておけないって言うなら、僕の前から消えてくれよ!」
「悠真……」

さっきまでラノベの話で盛り上がっていたのが嘘みたいだ。
怒りで頭に血がのぼってしまった僕に、冷静な判断はできなかった。

「父さんも母さんも、興味あるのは兄貴の事だけ。兄貴の好物ばかり食卓に並ぶけど、僕の好物なんか並ばないどころか知ろうともしない。僕が気付いたんだから、頭のいい兄貴はもっと早くから気付いてただろ?」
「それは……」
「結局、みんなどうだっていいんだよ、僕の事なんか」

完全に八つ当たりだとわかっていた。
けれど、一度爆発したら止める事なんかできなくて。
それでも吐き出したからって、スッキリとした爽快感なんて一ミリもなく、惨めさだけが降り積もる。
何より、あんなに自慢の存在だった兄貴の顔を悲しみの表情で歪ませてしまった事に胸がチクチクと痛みだした。
僕の前から消えてくれよだなんて、偉そうに何を言ってるんだ。
知り合いが聞いていたら一〇〇人中一〇〇人とも口を揃えて答えるだろう。
『お前が消えろよ』と。
ただ、少し冷静さを取り戻すと、さすがに言い過ぎてしまったという後悔が、ドッと押し寄せてきた。

「……兄貴。その、ごめ……」
「キャアアアアアアッ!」

ごめんと言いかけた僕の言葉を、耳をつんざくような悲鳴がかき消した。
兄貴と僕が同時にそちらを見ると、転がったボールを追いかけて車道に小さな子どもが飛び出していた。
ベビーカーを押していた母親らしき女性が青ざめた表情で手を伸ばしている。
そこには赤ちゃんが乗っていたためか、手を離して助けに行く事ができなかったらしい。
子どもに気が付かず迫りくる乗用車。
兄貴がカバンを投げ捨てて、車道の子どもに向かって飛び出して行った。

「いやあああああっ!」

悲痛な叫び声と、パッパーッ!という、けたたましく鳴り響くクラクションの音。
今でも耳の奥で鳴り続けているこの音は、僕が生きている限り消える事はない。
その時の光景は、全てスローモーションのように見えた。
今でも目を閉じれば、エンドレスにリピートするくらい目に焼き付いてしまうような出来事だった。
ドンッという鈍い音の後、車に跳ね飛ばされ、コンクリートの上に転がる兄貴。

「うわあああああんっ!」

泣き叫ぶ小さな子どもに駆け寄ったのは、通行人の女性。
他にも多くの人が集まってきて、救急車を呼べだの、警察を呼べだのという怒号が飛び交い始めた。
情けない事に、僕はその場から一歩も動けなかった。
目の前で起きた事が信じられなくて、茫然とする事しかできなくて。

「あ、兄貴……」

フラフラとしながら、何とか僕は兄貴に歩み寄るが、途中で足が止まってしまった。
ジワジワと流れ出る真っ赤な血。
血の海の中の兄貴は、薄目を開けているような状態でピクリとも動かなかった。
僕の姿が見えているのかはわからない。

「何でだよ……」

何でこんな事になったんだ?
僕が消えてくれって言ったからか?
だからって、こんな……。
兄貴のこんな悲惨な状態を目の前にして、僕は体を震わせる事しかできなかった。
できる事なら、ラノベの話をしていた時まで、時間を巻き戻したかった。
……いや、何も気づかずに、斗真を自慢の兄貴だと思っていたあの純粋な頃まで戻せたらこんな事にならずに済んだかもしれない。
目の前から消えてくれと言った僕が、兄貴を殺した。
誰からも好かれる人気者の兄貴を、僕が葬り去った……。


頭を強く打った兄貴は脳死だった。
泣き崩れる両親に背を向けた僕は、その後どうしたのか覚えていない。
どのタイミングで兄貴の死を両親が受け入れたのか、その際、どんな事を兄貴に語り掛けたのか、僕は何も知らなかった。
ちなみに兄貴が助けた子どもは転んだ拍子に膝を擦りむいたくらいで、どこにも異常は見られなかった。
近親者のみでひっそりと行なわれた葬式には、母親がその子を連れて参列し、泣きながら両親に感謝の言葉と謝罪の言葉をずっと繰り返していた。
新聞には、『小さな子を救った英雄』という見出しで事故の事が記事になった。
それを知った兄貴の知り合いが毎日のようにうちに来て、誰もが泣きながら遺影に手を合わせていたという。
兄貴がどれだけの人に好かれていたのか、よくわかる光景だった。
僕は自室から出られず、毎日膝を抱えてぼんやりと過ごしていた。
こんなショックな光景を目の当たりにしたけれど不思議な事に、涙がこぼれる事は一度も無くて。
悲しいとか、喪失感という気持ちよりも、兄貴の死を受け入れられなかったというのが大きいのかもしれない。
その日からうちの中から火が消えたように、笑い声は当たり前だけど、会話すらも全くなくなった。
兄貴じゃなく僕の方が死んでいたら違ったのだろうけれど。

仏壇に飾られた、兄貴の遺影や骨壺を見ても、やっぱり全然実感がわかなかった。
悲しみに暮れる両親を見て、日に日に兄貴を死なせた罪悪感で苛まれるようになり、眠れなくなった。
睡眠不足になれば幻覚が見えるし、幻聴が聞こえるし、僕の精神は崩壊寸前だった。
両親は僕が最期に兄貴に向けて放った言葉を知らない。
のうのうと僕だけが生きられるわけがないと、一度だけカッターナイフを自分の首に押し付けた事がある。
申し訳ないという気持ちがあるのに、押し付けただけで切り裂く事はできなかった。
僕は自分で命を絶つ事すらできないのに、偉そうに兄貴に向かって消えてくれと言ったのだ。
やり場のない悲しみを抱え、どうする事も出来ないこの状態はまるで拷問のようだった。
誰からも好かれた兄貴を葬った僕への罰なのかもしれない。
ずっと休んでいた学校も、行けたところで心配される事はなかった。
子どもを救った英雄と、ビビって動けず何もできなかった臆病者。
兄貴じゃなくて僕が死ねば良かったのにと、聞こえるような声で言う奴もいた。
だが不思議と他人に言われても、動揺なんかしなかった。
逆に、その通りだ、もっと言えと、開き直ったかのように心の中で煽り続ける毎日だった。
それが生きる事に無気力になり、他人に何の興味も示さなくなった原因。



「悠真。おかわりたくさんあるから、いっぱい食べてね」
「……うん」

クリームシチューが出るたびに、母さんはそう言って笑顔を見せた。
それは僕にではなく、僕を通り越して、兄貴を見てる。
そんな状態でも、僕は自分で自分の人生に幕をおろす事はできない。