予定よりも大分早い時間に着いた明照は、暇潰しに
“カチューシャ”を聴いていた、それも中国語の歌詞を。
明照のお気に入りのソングチューバーChang(チャン) Yuehui(ユエホイ)
“前例が無いのは絶好の機会”と普段からSNSでも公言していて
今回カチューシャを中国語で歌ったのもその一環だった。

「素顔こそ金色の仮面に覆われているけどChang Yuehuiさん
声と動作が可愛いし、色々な言語の歌を知ってて、凄いなぁ」
何気無く発した独り言を聞いていた人物が居た。横丁の中華料理屋の
店主、王 欣怡は何時の間にか、くノ一の如く忍び寄っていた。
「本当。この子、中国語は勿論、ロシア語・朝鮮語の歌も
知っていて凄い。然も言語により再生リスト有るから親切」
(ワン) 欣怡(シンイー)が至近距離に居る事に全く気付かなかった明照は危うく
飛び上がるところだった。
「わっ・・・! い、何時の間に!?」
気がつくと至近距離に居たのは1人ではなかった。
「大分前からだよ」
あっと思った時には稲葉杏果は明照の膝の上に座っていた。
「いや近い近い。僕の膝の上は何時から杏果ちゃんの席になったのかな」
「そんなどうでも良い事、気にすることないよ。あたしと明照君の仲なんだから」
何処までも自由過ぎる杏果に、明照は適切なツッコミが思い浮かばなかった。
然し、子供に慕われるのは素敵な事とも分かっていた。


「今日は“ワルシャワ労働歌”を歌います。革命の場面を思い浮かべると
歌い易くなりますよ」
進行役の英子の言葉が終わるのを待って、寛司は音楽を再生した。
元々ポーランドで作られた後、インターナショナルと同様、諸外国に伝わった
この歌をポーランド語→日本語→ドイツ語→ロシア語の順に歌った。当然
日本語以外はさっぱりだったが、明照にとっては然程
大きな問題ではなかった。ポーランド語・ドイツ語・ロシア語が分からない問題は
人に聞けば済むから未だ良かった。然し、歌う度に気道が狭くなる様な
感覚は本当に死活問題だった。
「如何しよう、本当に二進も三進もいかない・・・」
人前で歌うと恥ずかしくなる問題に加え、明照はもう1つ悩みを抱えていた。
結論から言うと、耳コピが壊滅的に下手なのである。祖父母から最初に
重要性を教わったものの、如何しても上手く出来ずにいた。

今日も懲りずに気道が狭くなった様な感覚を覚えた明照は
他のメンバー達が帰った後1人で頭を抱えていた。
自分の視界が霞んでいる事に気付くのに然程長くは掛からなかった。
「こんなの有りかよ。何でこんな調子なんだよ。
僕は人前で歌うという立派な事が出来る人間ではないのか・・・・・・!」
明照は最早、自分でも感情の津波を如何にも出来なくなっていた。
そんな明照の視界に、不意にハンカチが入ってきた。
「如何したの? 話、聞くよ」
「あ、有難う御座います・・・って、杏果ちゃん!?」
ハンカチを受け取り涙を拭いた数秒後、持ち主が誰か分かり
明照は一時的にフリーズした。
「誰にも言わないから、話してみて」
何時もの様に対面座位になると、杏果は明照の顔を覗き込んだ。
「そうやってバイカル湖の様に澄んだ瞳で見られると
何故か嫌だとは言えなくなっちゃうんだよな」
観念した明照は一つ、二つと思い浮かべながら本音を吐き出した。
「僕は耳コピが下手で頭を抱えていたんだ。外国語が分からない
事などこれに比べれば大した問題じゃない。だけど、歌声喫茶で
耳コピが下手って致命的だろう? だから、僕は人前で歌える程
立派な人間じゃないって思えて・・・・・・」
一度も目線を逸らさず聞いていた杏果は前にした内容に近い質問を投げかけた。
「耳コピが下手だから立派な人間じゃないって、誰から言われたの?」
「いや、誰って事は無いけど・・・」
言葉遣いと表情はあくまでも優しいものの、逃げ道は完全に
塞がれていた。いい加減な答えを返しても納得などしないだろう。
「まぁ、覚えてなくても仕方ないね。じゃあ別の質問。
明照君にとって“立派な人”ってどんな人?」
「う、うぅ・・・・・・」
杏果本人には自覚など無いが、明照にとってはこの“尋問”は
考え方次第では、人前で歌う事以上の苦痛だった。
嘘を吐いたら十中八九怒るか呆れる。そんな未来が見えるから尚更
困り果てた。
そんな明照に助け舟を出したのは、予想外の人物だった。
「明照君、音楽は皆に平等に開かれたものなのよ。漢字を見て御覧なさい。
“『音』を『楽』しむ”と書くでしょう? 漢字は表意文字なんだから分かるわよね?」
とっくの昔に帰ったとばかり思い込んでいた英子は
2人の目線位の高さに屈んでいた。
「え、英子さん・・・」
何と返事すれば良いか分からなくなったが、少なくとも、事態は確実に
好転しつつある。それだけは間違い無かった。
「“立派な人間ではないから決して音楽に触れてはならない”なんて、
そんな馬鹿げた話が一体何処の世界で通用するというんだい?」
足音が聞こえなかったので気付かなかったが、寛司も近くに居た。
3人から問われ、明照は漸く悟った。
「現実には、世界中何処を探しても居る訳ない、幻の何者かが僕の悪口
言っていると信じ込んでいました。何でかは分かりませんが、兎も角も
真実に気付かせて下さって、有難う御座います」
杏果が膝の上に鎮座しているので深く一礼することは出来ないものの
それでも根が律儀な明照は、どうにかして目礼した。
「何だ、明照は立派な人間じゃないか」
「本当。人に感謝するって簡単そうで難しいんだからね」
未だ帰ってこない孫を探しに戻ってきた均と清美は、何時からか
一連の様子を見ていた。
予期せぬ出現はこれで4度目である上、足掛け14年も見てきた顔なので
明照は今度は驚かなかった。
「親切にして貰ったら御礼を言うのは当たり前の事だよね?」
「理論上はそうだけど、現実にはこれを出来る人が中々居なくてね」
「全く嘆かわしい。こんな事言うと老害呼ばわりされるかも知れないが
わしらが明照位の年の頃は、人に感謝出来ない奴は逆賊呼ばわりされたんだぞ」
この類の話は、ともすれば説教臭くなる傾向が有る。然し、何故か
均と清美の話は説得力が強かった。
「・・・改めて、有難う。こんなにも素敵な所へ連れて来てくれて。
それから、御免なさい。ウジウジしてたら2人の顔に泥を塗ることになるよね。
ポジティブになれば歌も上手くなるかな?」
最初の頃より大分表情が明るくなった明照を見て、祖父母は勿論
主宰者夫婦及び孫娘も表情を緩めた。