1年前の某日、明照が通う学校の裏口では
血の臭いが漂っていた。
顔に幾つか痣を作っていた明照は、うっすら褐色の皮膚が
特徴の、大柄な男子生徒に介抱されていた。
その横では、同じ皮膚の色と体格の女子生徒が
明照に怪我をさせた破落戸達を血の海に沈めていた。
「くぬやなわらばー。また同じ事してみろ。くるさりんどー!」
夜叉ですら泣きながら逃げ出さんばかりの勢いに
破落戸達は必死で御免なさいを連呼しつつ逃げていった。

後始末を終えた後、男子生徒は明照を担ぎ上げた。
「明照、大丈夫か? 保健室まで運ぶぞ」
「御免。また助けられたね・・・」
弱々しく応える明照は、既に泣く元気も無かった。


放課後、明照が帰り支度をしていると
大きな人影が2つ、足音も立てず迫ってきた。
「あぃ、明照ー、一緒に帰ろう」
「丁度話したい事も有るからさ」
一瞬驚きはしたが、嫌がる気配は微塵も無かった。
「一緒に帰ろうか」
何時も無表情な明照がこの時は極僅かとは言え
喜怒哀楽の内、喜の表情を浮かべた。

根路銘(ねろめ)(たかし)赤嶺(あかみね)美娜(みな)。うっすら褐色の皮膚と
中学2年生とは到底思えない程の巨体を持つこの
カップルは、一見すると明照とは住む世界が違う様に見えた。
しかし、この2人は明照の、学校での数少ない親友の代表格である。
1年の時も同じクラスだった崇と美娜は、高い声問題で傷付いていた
明照に寄り添い、共に怒り、涙したことが有った。しかも
先生に告げ口をしたからと報復として痣が出来る程酷い暴力を振るった輩に対し
夢にまで出る程のトラウマを植え付ける位には強い力と正義感を持つ。


明照は以前、こんな事を口にした。
「2人の結婚式の時、僕が仲人と司会を引き受けようか」
冗談か本気か、自分でもはっきり分かっていなかった。
だが、気立ての良い2人は笑顔でこれを快諾した。
じゅんにな(本当に)? にふぇー・どー(有難う)
「そうなった時はゆたしくねー」
祖父母の住む島の訛りを交えつつ、崇と美娜は太陽の如き笑顔を見せた。


帰り道、明照は案の定先日のコンサートの事で色々聞かれた。
「これ、聞いたことない言葉だな」
「英語じゃないよね?」
予想はしていたので別に驚きも苛立ちもしなかった。
「そうだよ。ロシア語。ここに来なければ、もしかすると
一生触れなかった可能性が高いね」
物珍しさに目を丸くしている崇と美娜に
明照は前から言いたかった事を口にした。
「一緒に歌声喫茶“ひかり”に行こうよ。紹介したい子も居るし」
普段消極的な明照から招待された事自体も驚いたが
それ以上に、紹介したい子の存在が気になった。
「歌声喫茶なんて知らなかったし、行ってみるか」
「学校でもカラオケボックスでもない所で歌うって
緊張するけど、面白そうでもあるね」
「有難う。それじゃ、2人の事は事前に先方に知らせとくから」
崇と美娜があっさり招待を受けてくれたので、明照は胸を撫で下ろした。
「そうだ。僕の大親友について詳しく教えとくね。
会って1日で仲良くなれるから」
明照が杏果について教えると、2人は猛スピードでノートを取るのであった。

当日、遅刻したくないからと早く目的地に着いた3人は
時間潰しにSongTubeの動画を見ていた。
金色の仮面で顔を覆い、鮮血の様に真っ赤なドレスを着た
小学3年位に見える女の子、Chang(チャン) Yuehui(ユエホイ)
“三大規律 八項注意”を歌っていた。
字幕が有るので歌詞の意味は分かるものの、歌曲自体
初めて聴いたので3人には新鮮に映った。
「この子、外国人なのか?」
「如何なんだろうね」
「まぁ、可愛いから良いけどね」
3人があれこれ考えていると、主宰者の孫娘が一足先に姿を見せた。
「初めまして。稲葉杏果だよ。根路銘崇君と赤嶺美娜ちゃんだね?」
厳つい見た目の所為で怖がられた経験が多い崇と美娜にとって
6歳前後の女の子が笑顔で接してくれるのは、魂の洗濯に他ならなかった。
「初めまして。根路銘崇とは俺の事だよ」
「赤嶺美娜です。君が杏果ちゃんなんだね」
視線を合わせた2人の表情は、明照でさえ1度たりとも見たことがなかった。
例えるなら、孫が遊びに来てすっかり機嫌を良くした祖父母だった。
明照から事前に杏果の好きな物を聞いていたので崇と美娜は
杏果への手土産を選ぶのに何の苦労もしなかった。
「あー、すごーい。あたしの好きな物、よく分かったね。
にふぇーでーびる!」
思いがけずウチナーグチの“奇襲”が有り、崇と美娜の
魂は、うっかり天高く昇るところだった。
「おーい、戻って来ーい!」
明照の大声により、2人はギリギリのところで我に返った。
「い、今、ニライカナイが見えなかったか?」
「本当だね。梯梧の花がいっぱい咲いてた」
予期してなかった事態に、明照は苦笑するしかなかった。
そうしている間に主宰者夫妻も到着した。
「初めまして。小野田清美です。2人の事は
明照君から聞いているわよ」
「小野田寛司です。歌声喫茶“ひかり”へようこそ」
2人の姿を見て崇と美娜は丁寧に一礼した。
「初めまして。明照君の紹介で伺いました。根路銘崇です」
「赤嶺美娜です。本日は宜しく御願い致します」
明照に似て行儀が良い2人を見て、寛司は大きく頷いた。
「類は友を呼ぶと言うけど、本当だね」
「そう仰って頂けて嬉しい限りです」
友人を肯定され、明照は自分も褒められた気がした。

開始の時刻が迫り、場内には何時ものメンバーが揃っていた。
明照は祖父母にも崇と美娜を紹介した。
「紹介するね。根路銘崇君と赤嶺美娜さん。2人共
幼馴染で、尚且つおじいちゃんとおばあちゃんが
沖縄の人なんだって」
孫が同年代の友達を紹介しに来た事が均と清美にとっては
喜ばしい事だった。
「初めまして。吉野均です。明照が御世話になっている様だね」
「吉野清美です。仲良くしてくれて有難う・・・あら、名前
何だったかしら」
元々ウチナンチュの名前は独特なので仕方ない事だと
褐色カップルは受け入れていた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり覚えて下さい」
「内地の人が聞いたら吃驚するのも無理ないです」
2人の気配りに、明照は、今後一生足向けて寝られないと考えた。

会が始まり、寛司と英子は壇上に上がった。
例によって、杏果は明照の膝の上に鎮座していた。
「今日は見学の方が2名いらっしゃるので“一週間”を歌います」
「御手元の歌詞カードを御覧下さい」
タイトルだけ聞いても崇と美娜はピンと来なかった。
しかし、実際に聞いてみると情報が繋がった。
「あ、あれロシア民謡だったのか」
「全然分からなかった」
楽曲の正体は分かったものの、2人もロシア語は全然
分からないので練習に苦労した。
「明照はこんな難しいのを歌っているのか」
「誰でも出来る事じゃないよねー」
前にも聞いた覚えの有る言葉に、明照は苦笑した。
「父さんが全く同じ事言ってた」
思わぬ反応に崇と美娜は不覚にも盛大に噴いた。

実際歌い終えた後、崇と美娜は口の周りの筋肉が
痙攣した様な感覚を覚えた。
「下手な早口言葉より余程大変だぞこれ」
「本当。こんなに難しいなんて思わなかった」
頭を抱えていると、杏果は明照の膝の上からピョンと飛び降り
2人に駆け寄った。何事かと思い目線を向けると、年相応の
笑顔を見せ、2人の手を優しく握った。
「たーかーにーにー、みーなーねーねー、ちばりよ(頑張れ)ー」
何で知っているのかは謎だったが、何れにせよ
杏果の言葉は2人にとって、どんな経文より有難かった。
「おい、こんな所に天使が居るぞ」
「今頃天界では、この子が居なくなったと大騒ぎの最中かも?」
流石に今度は魂が抜けそうにはならなかったが
身も心も蕩けるには十分だった。
御蔭で、時間が余ったからと序に歌った“カリンカ”の時は
最初より大分上手く歌えた。

「御疲れ様。初めてでこんなに出来るとは、才能有るね」
「然も孫がよく懐いている上礼儀正しい。あなた達が気に入ったわ」
皆が帰った後、寛司と英子は本日のゲストに挨拶しに来た。
「全ては、明照君が誘ってくれた御蔭です」
「こんなに楽しいとは思いませんでした」
最初に見た時、粗暴な性格だと勝手に思い込んだ事を主宰者夫婦は大いに恥じた。
「崇君、美娜ちゃん、良かったら今日はうちでおやつ
食べようよ。勿論、明照君も一緒。
おじいちゃん、おばあちゃん、良いよね?」
杏果からの思わぬ招待は崇と美娜を天にも昇る心地にさせた。
「みーなー、俺ら天界へ誘われたぞ」
「大丈夫? 現世に帰れなくなりゃしないよね?」
余りにも締まりの無い顔でにやけるので明照は失笑を禁じ得なかった。
「2人共何やってんだよ・・・まぁ、間違った事は言ってないけど」
一方、寛司と英子は来客が3人に増えて機嫌を良くした。
「また賑やかになるな」
「杏果ちゃんの御蔭でね」
楽しみが増えたと思うと、後片付けの手伝いも苦痛ではなかった。

明照・崇・美娜は会場の裏に有る
杏果達の自宅で果物を御馳走になっていた。
褐色カップルは極上の果実に舌鼓を打つ一方
目の前で起きている現象に目線が釘付けになっていた。
「あたしの可愛い明照君、今日は素敵な御友達
連れて来てくれたね。これからも御願いね」
「あ、うん・・・・・・」
膝の上に乗っかり、明照の背中を撫でている杏果は
一般的によく有る、子供が甘える風景とは何かが違っていた。
どちらかと言うと、年上の人が幼子を甘えさせている様にも見えた。
背伸びしたい年頃と言われて仕舞えばそれまでだが、何故か
他にも何か有る様に見えた。
「明照よー、御前、杏果ちゃんとはどんな仲なんだ?」
「何か、よく懐かれているってのと違う気がするんだけど」
多少は慣れたとは言っても、未だドキドキしながら
明照は答えた。
「初めて来た日、何でか凄く気に入られて。会って1秒で
年の離れた大親友だって認定されたんだ」
何とも変わった現象に、褐色カップルは目を丸くした。
「こんな事って有るんだねー」
「御前、そんなにモテるなんて知らなかったぞこの野郎」
2人の反応を聞いて、杏果は明照の膝から降り、顔を上げた。
「その事なんだけど、続きが有ってね。この前うちに
泊まった時、あたしは大親友からガールフレンドに進化したんだよ」
崇と美娜は勿論、明照もこれは初耳だったので危うく
麦茶を吹くところだった。
「ど、どういう事!?」
慌てふためく明照とは対照的に、杏果は平常運転だった。
「裸の付き合いをした上、御互い昔の辛い事打ち明け合ったんだよ。
その上、泣き顔まで見たから、ただの大親友じゃなくなったって訳」
全く予想してなかった内容に、明照はツッコミが思い浮かばなかった。
杏果は、2人が共有している辛過ぎる過去を崇と美娜に話した。
事情を聞き崇と美娜は目を細めた。
「杏果ちゃんにも悲しい過去が有ったんだな」
「嫌じゃなければ仏壇に御線香あげて良い?」
杏果は少し迷った。確かに自分にとって両親と兄は忌々しい存在だ。
だが、この2人には関係の無い事情。そう考えると答えは一つだった。
「案内するからついて来て。明照君も一緒にどうぞ」
杏果に導かれ入った部屋には、杏果の両親・兄・父方の祖父母の
遺影が並んでいた。簡易祭壇は手入れが為されていて、極最近
掃除したばかりである事が一目で分かった。
4人は順番に線香を上げ、手を合わせるのであった。