第二幕
始動
明信の入院する個室からの帰り道、二人の高校生が、静寂に包まれた病棟を歩いていた、
「ああ、本当に良かった。まさか薬の大量服薬で死にかけるなんて、明信はやっぱりどうかしてる」
「ふふ、そうね、無事でよかった」
二人の顔には、同じような笑みが浮かんでいる。
「――さて、これからどうする?」
「これからって?」
「まさか、俺らの〝計画〟がこんなところで頓挫する訳にはいかないだろう?」
智がそう言うと、純香は上がっていた口角をさらに上げて、ニタっと笑う。
「当たり前じゃない。前にも言ったと思うけど、私と同じような趣味を持つ人なんて今まで会ったこと無かった。会うことなんてないと思ってた。それなのに、まさか高校のクラスメイトにいたとはね。私は、このチャンスを逃したくない」
「はは、大袈裟さ。俺だって、ずっと機会を伺っていたんだ。簡単なことじゃあないからな」
二人は顔を見合わせ、不気味に笑う。
「堕ちていく人間が見たい。……私は明信の信頼を思ったより簡単に得られて、本当に良かったと思う。もし失敗したら、それこそこの〝計画〟は頓挫してしまうもの」
「ああ、そうだな。俺は、今まで信じていたものが全て打ち壊され、そして、絶望に打ちひしがれる人間が虚無になって死んでゆく! そんなドラマチックなことが間近で見られる好機があるのなら、どんな事でもするさ!」
智は興奮した様子で、早口に言った。
「相変わらず、イイ趣味してるわね」
「はは、何言ってるんだ。お互い様、だろ?」
そう言って、二人は笑う。しかし、目は笑わず、ギラギラと光っていた。それはまるで、獲物を捉えた猟師のように。
「決行はいつだ?」
「そうね……明信が退院してから一週間後、なんてどう?」
「うん、良い頃合いだと思う」
それから二人に、少し気まずい沈黙が流れる。
「……前に確認したけど、あなた、本当に愛着はないのね?」
「言っただろう、俺はずっとこの為だけに、昔から付き合ってきたようなもんだ。今更そんなもの、あるわけないだろ」
その言葉に、純香は何も返さない。それを不信がってか、智も純香に問いかける。
「お前の方はどうなんだ。いつか終わるままごとだとはいえ、恋人として今まで付き合ってきたんだろ。……本当にいいのか?」
「当たり前でしょう? 私もあなたと同じ、目的のためならなんでもするわ」
二人は今度こそ互いに、確固とした信頼の目を向けた。
「じゃあ、また明日も、二人で見舞いに来よう」
「ええ。決してこの〝計画〟を悟られないように。あともう少しの辛抱よ」
自分自身にも言い聞かせるように、純香は呟いた。
白い廊下に、静かに、狂気の足音が響き渡る。
翌日、二人は病院の前に、午後六時に待ち合わせていた。
純香は今まで練りに練った〝計画〟の実行を想像し、思わず笑みが漏れた。ここ数年で最高の日になりそうだ。
「ごめん、純香。待った?」
「いや、私も今来たところ」
純香は相方の顔を見て、体の底から高揚感が溢れてくるのを感じた。
「やっぱり放課後は時間が無いな。部活も行けてないし、早く終わらせたいよ」
「何言ってるの。慌ててやっても、失敗するだけよ。ゆっくり、確実にいきましょう」
「……そうだな」
智が一瞬、目を泳がせたのを、純香は気づかなかった。口では慌てずに、などと言っているが、やはり心は急いているようだ。
病院に足を踏み入れた瞬間、二人は〝友達思いの同級生〟という仮面をつける。そして、堂々と白い廊下を歩き、獲物のもとへと足を急がせる。
個室の扉を開き、明信のベッドへと赴く。
「二人とも、また来てくれたんだ。学校があって忙しいだろうに、ありがとう」
以前とは違い、屈託のない笑みを浮かべる明信を見て、純香はより期待が増した。
――ああ、この笑顔を壊したい。絶望に突き落としたい!
けれども純香は、この汚穢にまみれた感情を巧みに包み隠して、明信に励ましの言葉を並べる。
「私、明信が帰ってくるの、待ってるからね。早く退院してね」
この言葉は、決して虚言という訳では無い。真意が伝わることは無いと思うが。
「俺も、早く戻ってきてほしい。またあの婆さんがやってる駄菓子屋行こうぜ」
智は、少しばかり悲しそうに、けれども笑顔で明信に言う。
「うん、ありがとう。早く退院できるように頑張るよ」
それから、今日の学校の事など、昨日のように他愛のない話をして、二人は病院をあとにした。もう外はすっかり暗くなっていた。西の方では、雷が落ちているようだった。
「ここももうすぐしたら降るかもな」
「早いうちに帰ろ」
病院を出た途端に本性をあらわにした純香は、この空模様に似合わぬ笑みを浮かべ、今にも飛び跳ねそうな様子で帰っていった。
病院からの帰り、純香は、自分の自信に満ちた〝計画〟が思い通りに成功するのを想像し、心踊らせていた。
――今までにこんな素晴らしい気持ちがあっただろうか! これが幸福というものだろう。
純香は、大げさな言い回しでこの高ぶる気持ちを表してみた。自分でもなかなか良い表現だと感じた。
さて、こんなことをしながらも、足は止まらず家へと急ぎ、とうとう見えるところまで来ていた。
家の前の階段を駆け上がり、勢いよくドアを開ける――
「いい加減にしやがれ、なんだ、その目は! 俺の何が不満だ!」
突然の罵声に純香はたじろぐ。声の主は男だ。
「何も不満になんて思ってないわ。あなた、やめて!」
母の悲鳴と男の罵声が飛び交っている。途端に足がすくんで動けなくなった。居間の惨状を想像すると、居間への扉はとてもじゃないが開けられなかった。
男は玄関のドアが閉まる音に気づいていたようで、半ば衝突したように、ガン、と音を立てて居間と暗い廊下を繋ぐ扉を開けた。
「ただいまくらい言え、馬鹿野郎!」
唾を飛び散らかしながら、放心状態の純香に怒鳴りつける。純香は腕を力いっぱい引っ張られ、はっと我に返り、「やめて!」と叫ぶ。助けなんて来ないのに――
気がつくと、純香は家の玄関の前に立っていた。白昼夢だと分かりほっとしたが、やはり恐怖は心の底深くから離れない。
――もう父はいないのに、これで何度目だ……。
先刻とは打って変わり、最悪の気分で家のドアを開ける。
「ただいま」
二人が〝計画〟の確認をするうち、ついに明信は退院した。
「待ってたよ、明信。無事退院できて良かった」
三人は、登校時間が重なり、歩きながら話していた。
「ああ。……そうだ、明信、退院祝いとして、来週の金曜日、純香と宴会を企画してるんだが、予定は大丈夫か?」
智の提案に、明信は目を輝かせる。
「僕の為に、わざわざ企画してくれたんだ。ありがとう、もちろん大丈夫だよ」
そう言う明信の鞄には、見慣れぬキーホルダーが付いていた。
「明信、それ何?」
純香に尋ねられた明信は、自分の鞄を見回す。
「ああ、これ? これはね、このあいだ家族で温泉旅行に行った時に買ったんだ。みて、この模様。朝顔の模様、とても綺麗でしょう」
「きれいだね。明信に似合うよ」
純香は適当なお世辞を言って機嫌を取る。今までの集大成の為に、少しでも自分への信頼を厚くしておきたいのだ。
「ああ、本当に綺麗だ」
智は、明信のキーホルダーに見惚れた様子でそうこぼした。
二人が待ちに待った時がやってきた。この日、三人は純香の家で、ゲームをしたり、明信がいなかった間の勉強を、明信に教えたりしていた。
「うーん、やっぱり数学は難しいなあ。授業聞いてれば良かった……」
「しょうがないでしょう? これから頑張って追いつこうよ」
「そうだぞ明信。まあ、俺の方から明信に勉強を教えるなんて、なかなか無い事だから、ちょっと楽しいが」
そう言って、智は笑う。純香はそんな智を見て、少し不安になった。今更中止だなんて言いだしはしないか、と。
しかし、もう後に引き返せないことは、二人とも承知済みである。智は、わざわざミヨサカへ必要な道具を手に入れに行ったのだ。純香には、もう智を信じるしか道はない。
二人はアイコンタクトを取り、〝計画〟を実行に移す。
「……私、ちょっとお手洗い行ってきます。勉強して疲れたでしょう? 居間に色々なお菓子とか、飲み物用意してるから、先に行って待っていてね」
そう残して、純香はお手洗い――ではなく、車庫へ急ぐ。
車庫には、予備のタイヤや工具はもちろん、車につけるドライブレコーダーなどのカメラもあった。その中から純香は、小型のデジタルカメラを手に取る。首に掛けるひももついていて扱いやすいのが特徴だ。
ここで十分ほど待機してから、純香も居間へと向かう。きっと、智が明信を睡眠薬で眠らせているはずだ。
――この緊張感が、たまらなく心地よい。
しかし、十分後、純香はついに、智と落ち合うことは無かった。
血相を変えて、家中二人を探し回る。見つけることはかなわなかった。
――家から、逃げた?
*
智は、明信にジュースを差し出す。
「ありがとう、智。でもいいのか? 純香の事待たなくて」
「いいんだよ。俺も喉乾いてたんだ。ジュースくらい大丈夫だろ」
智はそう言いながら、まだジュースに口は付けない。明信が飲むのを待っていた。
明信がジュースに口を付ける――――。
「ああ、美味しい!」
「だよな! やっぱり勉強の後の糖分は最高だ」
智は何の抵抗も無く、グレープソーダに口を付ける。炭酸のシュワシュワという音が心地よい。
「智は横でゲームしてただけじゃあないか。もう少し勉強もしようよ」
明信が少し呆れた様子で智に言う。
けれども智は、いつもなら笑顔で何かいい訳を言うところなのに、今は真剣な表情で視線を下に落としていた。明信も、ここで智の様子が変だと気づいた。
「どうした、智?」
智は一向に口を開く気配が無い。
「何かあるのか。体の調子でも悪いのか?」
緊張感の走る中、ゆっくりと智が口を開いた。そして、一言だけ明信に告げた。
「――急いでこの家から出るぞ」
*
空は既に、橙色に染まっていた。カラスが帰れとささやく。
「どこよ……。どこに行ったの!」
純香は、鬼のように智と明信を探していた。家の周り、学校の周り、裏山……。どこにも見当たらないのだ。
今まで時間をかけて作り上げた、芸術ともいえる〝計画〟が、全て水の泡になってしまう。それだけはどうしても許せなかった。
しばらく空を見上げた後、再び目を吊り上げて歩き始める。
――裏切り者め。絶対に許さない!
思わず智に呪いの言葉を吐きかける。
――愛着なんて無いって言ったのは、嘘だったのね。
何としても二人を見つけ出そうと躍起になっていると、ついに手がかりが一つ転がってきた。
――これは……明信のキーホルダー?
あの朝顔のとんぼ玉が、学校の近くに落ちていた。純香はニタっと笑い、近くの、人が隠れていそうな場所をくまなく探す。
しかし、いくら探しても人の気配はない。純香はとんぼ玉を靴で踏み、割ってしまった。朝顔は枯れてしまった。
――あと探していないのは……裏山。
確信があった。最後に純香が目を付けたのは、智と明信が二人でアイスを食べた、あの神社だった。
*
――はあ、はあ……。
智と明信は、神社の古堂に身を潜めていた。外は暗くなり、古びた障子に冷たい風が吹き付けていたが、二人の体からは汗が噴き出していた。
「ここまでくれば、明日の朝まではとりあえず安全だな」
「智……ちゃんと説明してくれ。なんで純香から逃げてるんだ?」
二人は、明信のキーホルダーが純香に拾われているとは思いもせず、古堂の中で一息ついていた。
息を整え、智は、これまでの純香との〝計画〟を全部明信に打ち明かした。純香の演技から、ミヨサカに行った理由まで、全て。
智が話し終えた後、汗冷えと相まって、明信の顔は青ざめていた。当然の反応だろう。まさか親しい人達が共謀して自分の命を狙っていたなんて、常人にはよほどのことが無い限り思いつくまい。
「……とりあえず、今の僕の状況は大体わかった。でも、それならどうして智は僕を助けたんだ?」
「そんなの当たり前だろ。元々純香は、一人でも実行するつもりだったらしい。もちろん、ターゲットはお前でな。それを俺は早い段階で分かったから、純香に近づいて、協力すると言って〝計画〟を聞き出したんだ。俺がお前を手に掛ける訳ないだろ?」
「そうか……。今までありがとう、智」
緊迫した状況下でも、やはり友人がいるのは頼もしいものだと、少し温かい気持ちになった。
しかしその安心感も、長くは続かなかった。何やら外から不穏な感じが漂ってきたのだ。
「おい、外から何か聞こえないか?」
「……たしかに。風の音で聞こえづらいけど、これは、歌?」
二人に不穏な考えがよぎった。
風の音に加え、かすかに聞こえたのは、人の声。楽しそうな声で、まるで歌のように聞こえた。
「ふふっ。どーこかなー。でてきてよー。パーティーの続きしよー……」
ゆっくりと歩いて近づいてくるその声は、どこか感情の無い、不気味な声色であった。そして、声の主は考えなくとも分かる。
――純香、もうここまで来ていたのか。
先刻、智は朝までは安全だと言っていたが、もうそんなお気楽な事も言っていられなくなった。狂気の足音が、背後まで迫ってきている。
二人は顔を見合わせ、動けなくなっていた。
「そこにいるんでしょう? 出てきなよー」
純香はついに古堂の目の前まで来た。
「もーいーかい」
純香は古堂の戸を開ける――――。
「……いない」
純香が戸を開けた先には、人の影一つありはしなかった。
「……どこよ……どこに隠れてるのよ! 近くにいるんでしょう? 出てきなさいよ。私から逃げられるなんて思ってるの!」
純香は、まるで何かに憑かれたように、気を狂わせ、目をぎらつかせて、叫び散らす。古堂の物を手あたり次第に壊してしまった。
確かに、純香が入った時、古堂に人影は無かった。しかし、純香は冷静さを失っていたために気づかなかったが、古堂の中の真ん中あたりには、かすかに人の体温が残っていた。
*
明信は、目を覚ますと、自分が温かい春の陽気に包まれた小さなお堂の中にいるのに気が付いた。隣には智がまだ寝ている。
「智、起きろ。今何時だ?」
明信の声で、智がゆっくりと体を起こす。やがて異変に気付いたのか、慌てて外の様子を見て、自分の携帯で時間を確認する。目をこすり、何度も画面を見直した後、呟いた。
「今は深夜一時だ」
二人はとりあえず外へ出て、場所を確認した。しかし、二人とも何も言うことができなかった。そこに広がっていた光景は――広がっていた、というのは語弊があるようにも感じるが――一面の空白であった。
二人が寝ていたのは、まぎれもなく、あの古堂だった。ただ、こちらはどこもかしこも真新しく、木のにおいが新鮮だった。そして、中から見るとあまり不自然さは感じられなかったが、外は途中で空間そのものが無くなっていた。まるで、何者かの断片的な記憶のように、お堂の周りだけがここに存在していた。
辺りを必死に駆け回り、お堂から半径十メートルほどの空間しか存在いしない事をようやく認めると、急に二人はぐったりしてしまって、またお堂の中で日向ぼっこでもしようかという気持ちになってしまった。人間は、常識では〝有り得ない〟と思っていることが起きると慌てるものだと思っていたが、逆に、妙に落ち着いてしまうこともあるのだと、二人は身をもって知った。
「智、携帯で時計見てみろよ」
明信は天井の木目を見ながら話しかける。
「ああ、動いてなかったさ。やっぱり、ここは俺らが知ってる〝この世〟じゃあないらしい。でも、お迎えも無いとなると、ここは〝あの世〟でもないらしいな」
二人とも、ここが変だということは十分に理解した。夢か現実かもわからないが、それでも二人は落ち着き払った様子でこの空間に溶け込んでいた。どちらでも構わなくなるほどに、この空間は、心地よかったのだ。この春のような陽気、木のかおり、そして床の木の冷たさまで、何から何までもが、二人をもてなすための贈答品のように思われた。
この心地よさに従い、二人は今度こそ深い眠りに落ちた――――。
始動
明信の入院する個室からの帰り道、二人の高校生が、静寂に包まれた病棟を歩いていた、
「ああ、本当に良かった。まさか薬の大量服薬で死にかけるなんて、明信はやっぱりどうかしてる」
「ふふ、そうね、無事でよかった」
二人の顔には、同じような笑みが浮かんでいる。
「――さて、これからどうする?」
「これからって?」
「まさか、俺らの〝計画〟がこんなところで頓挫する訳にはいかないだろう?」
智がそう言うと、純香は上がっていた口角をさらに上げて、ニタっと笑う。
「当たり前じゃない。前にも言ったと思うけど、私と同じような趣味を持つ人なんて今まで会ったこと無かった。会うことなんてないと思ってた。それなのに、まさか高校のクラスメイトにいたとはね。私は、このチャンスを逃したくない」
「はは、大袈裟さ。俺だって、ずっと機会を伺っていたんだ。簡単なことじゃあないからな」
二人は顔を見合わせ、不気味に笑う。
「堕ちていく人間が見たい。……私は明信の信頼を思ったより簡単に得られて、本当に良かったと思う。もし失敗したら、それこそこの〝計画〟は頓挫してしまうもの」
「ああ、そうだな。俺は、今まで信じていたものが全て打ち壊され、そして、絶望に打ちひしがれる人間が虚無になって死んでゆく! そんなドラマチックなことが間近で見られる好機があるのなら、どんな事でもするさ!」
智は興奮した様子で、早口に言った。
「相変わらず、イイ趣味してるわね」
「はは、何言ってるんだ。お互い様、だろ?」
そう言って、二人は笑う。しかし、目は笑わず、ギラギラと光っていた。それはまるで、獲物を捉えた猟師のように。
「決行はいつだ?」
「そうね……明信が退院してから一週間後、なんてどう?」
「うん、良い頃合いだと思う」
それから二人に、少し気まずい沈黙が流れる。
「……前に確認したけど、あなた、本当に愛着はないのね?」
「言っただろう、俺はずっとこの為だけに、昔から付き合ってきたようなもんだ。今更そんなもの、あるわけないだろ」
その言葉に、純香は何も返さない。それを不信がってか、智も純香に問いかける。
「お前の方はどうなんだ。いつか終わるままごとだとはいえ、恋人として今まで付き合ってきたんだろ。……本当にいいのか?」
「当たり前でしょう? 私もあなたと同じ、目的のためならなんでもするわ」
二人は今度こそ互いに、確固とした信頼の目を向けた。
「じゃあ、また明日も、二人で見舞いに来よう」
「ええ。決してこの〝計画〟を悟られないように。あともう少しの辛抱よ」
自分自身にも言い聞かせるように、純香は呟いた。
白い廊下に、静かに、狂気の足音が響き渡る。
翌日、二人は病院の前に、午後六時に待ち合わせていた。
純香は今まで練りに練った〝計画〟の実行を想像し、思わず笑みが漏れた。ここ数年で最高の日になりそうだ。
「ごめん、純香。待った?」
「いや、私も今来たところ」
純香は相方の顔を見て、体の底から高揚感が溢れてくるのを感じた。
「やっぱり放課後は時間が無いな。部活も行けてないし、早く終わらせたいよ」
「何言ってるの。慌ててやっても、失敗するだけよ。ゆっくり、確実にいきましょう」
「……そうだな」
智が一瞬、目を泳がせたのを、純香は気づかなかった。口では慌てずに、などと言っているが、やはり心は急いているようだ。
病院に足を踏み入れた瞬間、二人は〝友達思いの同級生〟という仮面をつける。そして、堂々と白い廊下を歩き、獲物のもとへと足を急がせる。
個室の扉を開き、明信のベッドへと赴く。
「二人とも、また来てくれたんだ。学校があって忙しいだろうに、ありがとう」
以前とは違い、屈託のない笑みを浮かべる明信を見て、純香はより期待が増した。
――ああ、この笑顔を壊したい。絶望に突き落としたい!
けれども純香は、この汚穢にまみれた感情を巧みに包み隠して、明信に励ましの言葉を並べる。
「私、明信が帰ってくるの、待ってるからね。早く退院してね」
この言葉は、決して虚言という訳では無い。真意が伝わることは無いと思うが。
「俺も、早く戻ってきてほしい。またあの婆さんがやってる駄菓子屋行こうぜ」
智は、少しばかり悲しそうに、けれども笑顔で明信に言う。
「うん、ありがとう。早く退院できるように頑張るよ」
それから、今日の学校の事など、昨日のように他愛のない話をして、二人は病院をあとにした。もう外はすっかり暗くなっていた。西の方では、雷が落ちているようだった。
「ここももうすぐしたら降るかもな」
「早いうちに帰ろ」
病院を出た途端に本性をあらわにした純香は、この空模様に似合わぬ笑みを浮かべ、今にも飛び跳ねそうな様子で帰っていった。
病院からの帰り、純香は、自分の自信に満ちた〝計画〟が思い通りに成功するのを想像し、心踊らせていた。
――今までにこんな素晴らしい気持ちがあっただろうか! これが幸福というものだろう。
純香は、大げさな言い回しでこの高ぶる気持ちを表してみた。自分でもなかなか良い表現だと感じた。
さて、こんなことをしながらも、足は止まらず家へと急ぎ、とうとう見えるところまで来ていた。
家の前の階段を駆け上がり、勢いよくドアを開ける――
「いい加減にしやがれ、なんだ、その目は! 俺の何が不満だ!」
突然の罵声に純香はたじろぐ。声の主は男だ。
「何も不満になんて思ってないわ。あなた、やめて!」
母の悲鳴と男の罵声が飛び交っている。途端に足がすくんで動けなくなった。居間の惨状を想像すると、居間への扉はとてもじゃないが開けられなかった。
男は玄関のドアが閉まる音に気づいていたようで、半ば衝突したように、ガン、と音を立てて居間と暗い廊下を繋ぐ扉を開けた。
「ただいまくらい言え、馬鹿野郎!」
唾を飛び散らかしながら、放心状態の純香に怒鳴りつける。純香は腕を力いっぱい引っ張られ、はっと我に返り、「やめて!」と叫ぶ。助けなんて来ないのに――
気がつくと、純香は家の玄関の前に立っていた。白昼夢だと分かりほっとしたが、やはり恐怖は心の底深くから離れない。
――もう父はいないのに、これで何度目だ……。
先刻とは打って変わり、最悪の気分で家のドアを開ける。
「ただいま」
二人が〝計画〟の確認をするうち、ついに明信は退院した。
「待ってたよ、明信。無事退院できて良かった」
三人は、登校時間が重なり、歩きながら話していた。
「ああ。……そうだ、明信、退院祝いとして、来週の金曜日、純香と宴会を企画してるんだが、予定は大丈夫か?」
智の提案に、明信は目を輝かせる。
「僕の為に、わざわざ企画してくれたんだ。ありがとう、もちろん大丈夫だよ」
そう言う明信の鞄には、見慣れぬキーホルダーが付いていた。
「明信、それ何?」
純香に尋ねられた明信は、自分の鞄を見回す。
「ああ、これ? これはね、このあいだ家族で温泉旅行に行った時に買ったんだ。みて、この模様。朝顔の模様、とても綺麗でしょう」
「きれいだね。明信に似合うよ」
純香は適当なお世辞を言って機嫌を取る。今までの集大成の為に、少しでも自分への信頼を厚くしておきたいのだ。
「ああ、本当に綺麗だ」
智は、明信のキーホルダーに見惚れた様子でそうこぼした。
二人が待ちに待った時がやってきた。この日、三人は純香の家で、ゲームをしたり、明信がいなかった間の勉強を、明信に教えたりしていた。
「うーん、やっぱり数学は難しいなあ。授業聞いてれば良かった……」
「しょうがないでしょう? これから頑張って追いつこうよ」
「そうだぞ明信。まあ、俺の方から明信に勉強を教えるなんて、なかなか無い事だから、ちょっと楽しいが」
そう言って、智は笑う。純香はそんな智を見て、少し不安になった。今更中止だなんて言いだしはしないか、と。
しかし、もう後に引き返せないことは、二人とも承知済みである。智は、わざわざミヨサカへ必要な道具を手に入れに行ったのだ。純香には、もう智を信じるしか道はない。
二人はアイコンタクトを取り、〝計画〟を実行に移す。
「……私、ちょっとお手洗い行ってきます。勉強して疲れたでしょう? 居間に色々なお菓子とか、飲み物用意してるから、先に行って待っていてね」
そう残して、純香はお手洗い――ではなく、車庫へ急ぐ。
車庫には、予備のタイヤや工具はもちろん、車につけるドライブレコーダーなどのカメラもあった。その中から純香は、小型のデジタルカメラを手に取る。首に掛けるひももついていて扱いやすいのが特徴だ。
ここで十分ほど待機してから、純香も居間へと向かう。きっと、智が明信を睡眠薬で眠らせているはずだ。
――この緊張感が、たまらなく心地よい。
しかし、十分後、純香はついに、智と落ち合うことは無かった。
血相を変えて、家中二人を探し回る。見つけることはかなわなかった。
――家から、逃げた?
*
智は、明信にジュースを差し出す。
「ありがとう、智。でもいいのか? 純香の事待たなくて」
「いいんだよ。俺も喉乾いてたんだ。ジュースくらい大丈夫だろ」
智はそう言いながら、まだジュースに口は付けない。明信が飲むのを待っていた。
明信がジュースに口を付ける――――。
「ああ、美味しい!」
「だよな! やっぱり勉強の後の糖分は最高だ」
智は何の抵抗も無く、グレープソーダに口を付ける。炭酸のシュワシュワという音が心地よい。
「智は横でゲームしてただけじゃあないか。もう少し勉強もしようよ」
明信が少し呆れた様子で智に言う。
けれども智は、いつもなら笑顔で何かいい訳を言うところなのに、今は真剣な表情で視線を下に落としていた。明信も、ここで智の様子が変だと気づいた。
「どうした、智?」
智は一向に口を開く気配が無い。
「何かあるのか。体の調子でも悪いのか?」
緊張感の走る中、ゆっくりと智が口を開いた。そして、一言だけ明信に告げた。
「――急いでこの家から出るぞ」
*
空は既に、橙色に染まっていた。カラスが帰れとささやく。
「どこよ……。どこに行ったの!」
純香は、鬼のように智と明信を探していた。家の周り、学校の周り、裏山……。どこにも見当たらないのだ。
今まで時間をかけて作り上げた、芸術ともいえる〝計画〟が、全て水の泡になってしまう。それだけはどうしても許せなかった。
しばらく空を見上げた後、再び目を吊り上げて歩き始める。
――裏切り者め。絶対に許さない!
思わず智に呪いの言葉を吐きかける。
――愛着なんて無いって言ったのは、嘘だったのね。
何としても二人を見つけ出そうと躍起になっていると、ついに手がかりが一つ転がってきた。
――これは……明信のキーホルダー?
あの朝顔のとんぼ玉が、学校の近くに落ちていた。純香はニタっと笑い、近くの、人が隠れていそうな場所をくまなく探す。
しかし、いくら探しても人の気配はない。純香はとんぼ玉を靴で踏み、割ってしまった。朝顔は枯れてしまった。
――あと探していないのは……裏山。
確信があった。最後に純香が目を付けたのは、智と明信が二人でアイスを食べた、あの神社だった。
*
――はあ、はあ……。
智と明信は、神社の古堂に身を潜めていた。外は暗くなり、古びた障子に冷たい風が吹き付けていたが、二人の体からは汗が噴き出していた。
「ここまでくれば、明日の朝まではとりあえず安全だな」
「智……ちゃんと説明してくれ。なんで純香から逃げてるんだ?」
二人は、明信のキーホルダーが純香に拾われているとは思いもせず、古堂の中で一息ついていた。
息を整え、智は、これまでの純香との〝計画〟を全部明信に打ち明かした。純香の演技から、ミヨサカに行った理由まで、全て。
智が話し終えた後、汗冷えと相まって、明信の顔は青ざめていた。当然の反応だろう。まさか親しい人達が共謀して自分の命を狙っていたなんて、常人にはよほどのことが無い限り思いつくまい。
「……とりあえず、今の僕の状況は大体わかった。でも、それならどうして智は僕を助けたんだ?」
「そんなの当たり前だろ。元々純香は、一人でも実行するつもりだったらしい。もちろん、ターゲットはお前でな。それを俺は早い段階で分かったから、純香に近づいて、協力すると言って〝計画〟を聞き出したんだ。俺がお前を手に掛ける訳ないだろ?」
「そうか……。今までありがとう、智」
緊迫した状況下でも、やはり友人がいるのは頼もしいものだと、少し温かい気持ちになった。
しかしその安心感も、長くは続かなかった。何やら外から不穏な感じが漂ってきたのだ。
「おい、外から何か聞こえないか?」
「……たしかに。風の音で聞こえづらいけど、これは、歌?」
二人に不穏な考えがよぎった。
風の音に加え、かすかに聞こえたのは、人の声。楽しそうな声で、まるで歌のように聞こえた。
「ふふっ。どーこかなー。でてきてよー。パーティーの続きしよー……」
ゆっくりと歩いて近づいてくるその声は、どこか感情の無い、不気味な声色であった。そして、声の主は考えなくとも分かる。
――純香、もうここまで来ていたのか。
先刻、智は朝までは安全だと言っていたが、もうそんなお気楽な事も言っていられなくなった。狂気の足音が、背後まで迫ってきている。
二人は顔を見合わせ、動けなくなっていた。
「そこにいるんでしょう? 出てきなよー」
純香はついに古堂の目の前まで来た。
「もーいーかい」
純香は古堂の戸を開ける――――。
「……いない」
純香が戸を開けた先には、人の影一つありはしなかった。
「……どこよ……どこに隠れてるのよ! 近くにいるんでしょう? 出てきなさいよ。私から逃げられるなんて思ってるの!」
純香は、まるで何かに憑かれたように、気を狂わせ、目をぎらつかせて、叫び散らす。古堂の物を手あたり次第に壊してしまった。
確かに、純香が入った時、古堂に人影は無かった。しかし、純香は冷静さを失っていたために気づかなかったが、古堂の中の真ん中あたりには、かすかに人の体温が残っていた。
*
明信は、目を覚ますと、自分が温かい春の陽気に包まれた小さなお堂の中にいるのに気が付いた。隣には智がまだ寝ている。
「智、起きろ。今何時だ?」
明信の声で、智がゆっくりと体を起こす。やがて異変に気付いたのか、慌てて外の様子を見て、自分の携帯で時間を確認する。目をこすり、何度も画面を見直した後、呟いた。
「今は深夜一時だ」
二人はとりあえず外へ出て、場所を確認した。しかし、二人とも何も言うことができなかった。そこに広がっていた光景は――広がっていた、というのは語弊があるようにも感じるが――一面の空白であった。
二人が寝ていたのは、まぎれもなく、あの古堂だった。ただ、こちらはどこもかしこも真新しく、木のにおいが新鮮だった。そして、中から見るとあまり不自然さは感じられなかったが、外は途中で空間そのものが無くなっていた。まるで、何者かの断片的な記憶のように、お堂の周りだけがここに存在していた。
辺りを必死に駆け回り、お堂から半径十メートルほどの空間しか存在いしない事をようやく認めると、急に二人はぐったりしてしまって、またお堂の中で日向ぼっこでもしようかという気持ちになってしまった。人間は、常識では〝有り得ない〟と思っていることが起きると慌てるものだと思っていたが、逆に、妙に落ち着いてしまうこともあるのだと、二人は身をもって知った。
「智、携帯で時計見てみろよ」
明信は天井の木目を見ながら話しかける。
「ああ、動いてなかったさ。やっぱり、ここは俺らが知ってる〝この世〟じゃあないらしい。でも、お迎えも無いとなると、ここは〝あの世〟でもないらしいな」
二人とも、ここが変だということは十分に理解した。夢か現実かもわからないが、それでも二人は落ち着き払った様子でこの空間に溶け込んでいた。どちらでも構わなくなるほどに、この空間は、心地よかったのだ。この春のような陽気、木のかおり、そして床の木の冷たさまで、何から何までもが、二人をもてなすための贈答品のように思われた。
この心地よさに従い、二人は今度こそ深い眠りに落ちた――――。