最終幕
日常
〝神隠し〟から数か月。僕は、元の生活を取り戻しつつあった。少し変わった事と言えば、純香が転校したことくらいだ。親の仕事の都合だと先生は説明していたが、精神病棟に入って療養中だなんて噂もあるとか。
「おはよう、明信」
目玉焼きとみそ汁、白米という、質素で贅沢な朝食のにおいに導かれるように、僕は席に座る。
「おはよう、母さん」
家族という仮面は、僕にはもはや、付けている感覚が無かった。朝顔のキーホルダーを無くしたのは惜しかったが、またあの温泉に行くことがあったら買おうと思った。
ホノカミに言ったとおり、まだ完全にこの世を楽しんでいるわけではないが、以前と比べると、断然息がしやすい。
「おお、明信、起きてたのか」
「父さん、おはよう。そうだ、次の土日、智に泊まりに来ないかって誘われてるんだけど、行ってもいいかな」
智との関係は、今もなお良好だ。寧ろ、以前より中が深まったように感じる。
「ああ、行ってきなさい。丁度昨日の夜、智君のお父さんに会ったんだ。俺も日曜、智君のお父さんとゴルフの練習に行くことになったよ」
父さんたちは、僕たちに気を遣っているのだろうか。少し申し訳ない気がするが、ありがたく受け取っておくことにした。
「ありがとう、父さん」
母さんは、焼き終わった鮭をテーブルに並べて、やっと席に着いた。食卓に香ばしい匂いが加わる。
「そういえば、晴樹は?」
「ああ、また寝坊ね。明信、悪いけど起こしてきてくれない?」
晴樹は毎日のように寝坊をする。最近、晴樹を起すのが僕の日課になってきていた。できれば自力で起きてほしいところだ。
「晴樹、また寝坊だぞ。いい加減目覚ましで起きられるようになったらどうだ」
最初、呼びかけても返事が無かった。心の奥で何かが騒いだので、慌てて僕は晴樹の布団を引っぺがした。
しかし、僕の心配とは裏腹に、ぐっすり眠っている晴樹がいた。今度は勢いよく叩き、確実に起こす。晴樹は体をびくっとさせて体を起こすが、寝ぼけているようだった。
「あれ、兄ちゃん? どうしたの?」
目が開いていない晴樹を見て、思わず笑ってしまった。これだけ寝てもまだ眠たいなんて、一体どれだけ眠れば気が済むのだろう。
「もう朝ごはんできてる。早く来ないと遅刻だぞ」
朝ごはんに反応して、晴樹は寝起きだと言うのに階段を駆け下りていった。
洗面台をいつも独り占めする晴樹をどけて、寝癖を直し、やっとの思いで家を出る。朝から良い運動だ。
家を出た先には、智が待っていた。夏の試合に向けて特訓をしている智は、最近、より体が大きくなってきたような気がする。
「おう、おはよう」
「おはよう。今日は早いんだね」
智も晴樹と同じく、朝に弱い。
「ああ、朝練があってな」
あくびをしながら言たので、声のトーンが変になっていた。
「あはは、体壊さないようにね。今度の大会はいつだっけ? 晴樹と一緒に応援に行こうと思うんだけど」
「今週の土曜だ。試合の後、俺の家に泊まりに来るって言ってたじゃないか。忘れるなよ」
言葉とは裏腹に、智は楽しげだった。
「そうだったな、ごめんごめん。応援してるからな」
智は親指を立て、笑顔を見せる。
しかし、智は急に神妙な面持ちになって言った。
「テレビ見たか? 純香を連れて行ったあの男、捕まったんだとよ。ついでに篠田の兄も、警察の中で違う派閥だったやつにばれて、とことん叩かれているらしい。いい気味だな」
「そっか……。純香のことは?」
智は押し黙ってしまった。そして一言、「ニュースでは、何も言われていなかった」と小さく言った。
そうこうしているうち、学校に着いた。まっすぐ朝練に向かうという智と別れ、一人教室に向かう。二年になり、教室は三階に移動した。おかげで朝、階段を上がるのが辛いが、智とはまた同じクラスになり、他のクラスメイトとも親しくなることができた。順風満帆な高校生活を実感した。
三階の廊下を歩いていると、グラウンドでサッカー部が朝練をしているのが見えた。窓を開け、肘をついてグラウンドを見る。智は僕に気づいたようで、笑顔で手を振ってきた。僕も手を振り返し、邪魔するといけないと思い、教室に戻る。
クラス替えを機に、純香の机は無くなってしまった。今、どこで何をしているのかは知らないが、ここにいたという証が何も無くなってしまうのは、少し、寂しい気がした。
「純香も、どこかでうまくやれてるといいな……」
数か月前の事でも、まるで何年も前の事ように、懐かしく感じる。特に遊園地は楽しかった。本当は、今度は僕から誘おうと思ったのに……。
思い出すのは笑顔だ。自分が気を病んでいる時、いつも励ましてくれていた純香が、僕は好きだったんだと思う。
智は全部嘘だと言ったが、僕にはどうもそうは思えない。記憶が美化されているだけかもしれないが、人の気持ちなんて、その人自身にしか分からないのが普通だ。寧ろ自分にも分からない時だってある。
あの時の笑顔が嘘でも、本物でも、それが僕を元気づけたのは事実だ。
「ありがとう」
誰にも届かないと知りながら、教室で独り言をつぶやいた。
日常
〝神隠し〟から数か月。僕は、元の生活を取り戻しつつあった。少し変わった事と言えば、純香が転校したことくらいだ。親の仕事の都合だと先生は説明していたが、精神病棟に入って療養中だなんて噂もあるとか。
「おはよう、明信」
目玉焼きとみそ汁、白米という、質素で贅沢な朝食のにおいに導かれるように、僕は席に座る。
「おはよう、母さん」
家族という仮面は、僕にはもはや、付けている感覚が無かった。朝顔のキーホルダーを無くしたのは惜しかったが、またあの温泉に行くことがあったら買おうと思った。
ホノカミに言ったとおり、まだ完全にこの世を楽しんでいるわけではないが、以前と比べると、断然息がしやすい。
「おお、明信、起きてたのか」
「父さん、おはよう。そうだ、次の土日、智に泊まりに来ないかって誘われてるんだけど、行ってもいいかな」
智との関係は、今もなお良好だ。寧ろ、以前より中が深まったように感じる。
「ああ、行ってきなさい。丁度昨日の夜、智君のお父さんに会ったんだ。俺も日曜、智君のお父さんとゴルフの練習に行くことになったよ」
父さんたちは、僕たちに気を遣っているのだろうか。少し申し訳ない気がするが、ありがたく受け取っておくことにした。
「ありがとう、父さん」
母さんは、焼き終わった鮭をテーブルに並べて、やっと席に着いた。食卓に香ばしい匂いが加わる。
「そういえば、晴樹は?」
「ああ、また寝坊ね。明信、悪いけど起こしてきてくれない?」
晴樹は毎日のように寝坊をする。最近、晴樹を起すのが僕の日課になってきていた。できれば自力で起きてほしいところだ。
「晴樹、また寝坊だぞ。いい加減目覚ましで起きられるようになったらどうだ」
最初、呼びかけても返事が無かった。心の奥で何かが騒いだので、慌てて僕は晴樹の布団を引っぺがした。
しかし、僕の心配とは裏腹に、ぐっすり眠っている晴樹がいた。今度は勢いよく叩き、確実に起こす。晴樹は体をびくっとさせて体を起こすが、寝ぼけているようだった。
「あれ、兄ちゃん? どうしたの?」
目が開いていない晴樹を見て、思わず笑ってしまった。これだけ寝てもまだ眠たいなんて、一体どれだけ眠れば気が済むのだろう。
「もう朝ごはんできてる。早く来ないと遅刻だぞ」
朝ごはんに反応して、晴樹は寝起きだと言うのに階段を駆け下りていった。
洗面台をいつも独り占めする晴樹をどけて、寝癖を直し、やっとの思いで家を出る。朝から良い運動だ。
家を出た先には、智が待っていた。夏の試合に向けて特訓をしている智は、最近、より体が大きくなってきたような気がする。
「おう、おはよう」
「おはよう。今日は早いんだね」
智も晴樹と同じく、朝に弱い。
「ああ、朝練があってな」
あくびをしながら言たので、声のトーンが変になっていた。
「あはは、体壊さないようにね。今度の大会はいつだっけ? 晴樹と一緒に応援に行こうと思うんだけど」
「今週の土曜だ。試合の後、俺の家に泊まりに来るって言ってたじゃないか。忘れるなよ」
言葉とは裏腹に、智は楽しげだった。
「そうだったな、ごめんごめん。応援してるからな」
智は親指を立て、笑顔を見せる。
しかし、智は急に神妙な面持ちになって言った。
「テレビ見たか? 純香を連れて行ったあの男、捕まったんだとよ。ついでに篠田の兄も、警察の中で違う派閥だったやつにばれて、とことん叩かれているらしい。いい気味だな」
「そっか……。純香のことは?」
智は押し黙ってしまった。そして一言、「ニュースでは、何も言われていなかった」と小さく言った。
そうこうしているうち、学校に着いた。まっすぐ朝練に向かうという智と別れ、一人教室に向かう。二年になり、教室は三階に移動した。おかげで朝、階段を上がるのが辛いが、智とはまた同じクラスになり、他のクラスメイトとも親しくなることができた。順風満帆な高校生活を実感した。
三階の廊下を歩いていると、グラウンドでサッカー部が朝練をしているのが見えた。窓を開け、肘をついてグラウンドを見る。智は僕に気づいたようで、笑顔で手を振ってきた。僕も手を振り返し、邪魔するといけないと思い、教室に戻る。
クラス替えを機に、純香の机は無くなってしまった。今、どこで何をしているのかは知らないが、ここにいたという証が何も無くなってしまうのは、少し、寂しい気がした。
「純香も、どこかでうまくやれてるといいな……」
数か月前の事でも、まるで何年も前の事ように、懐かしく感じる。特に遊園地は楽しかった。本当は、今度は僕から誘おうと思ったのに……。
思い出すのは笑顔だ。自分が気を病んでいる時、いつも励ましてくれていた純香が、僕は好きだったんだと思う。
智は全部嘘だと言ったが、僕にはどうもそうは思えない。記憶が美化されているだけかもしれないが、人の気持ちなんて、その人自身にしか分からないのが普通だ。寧ろ自分にも分からない時だってある。
あの時の笑顔が嘘でも、本物でも、それが僕を元気づけたのは事実だ。
「ありがとう」
誰にも届かないと知りながら、教室で独り言をつぶやいた。