遠くから心春が美桜を見つけ、手を振る。美桜は敦斗に視線を向けることなく心春たちの方へと向かった。
「もう体調大丈夫?」
「うん、ありがとう」
「次さ、マイナス30℃の世界に行こうって言ってるんだけど美桜ちゃんもどうかな? これなら気持ち悪くならないと思うし」
美桜も一緒に楽しめるように、という心春の気遣いを嬉しく思うと同時に、こういうところを敦斗も好きになったのかなと思うと胸が痛む。けれど、美桜は笑顔を浮かべると「行く!」と微笑んだ。
最初からわかっていたことだ。そもそも償いのためだとそう思っていたはずなのに、こんな気持ちを抱くことが間違っている。
少しでも、敦斗が未練を晴らすことができるように。心春と過ごす時間を作れるように。敦斗に美桜ができるのはそれぐらいなのだから。
遠足は無事終わり、気づけば六月も半ばになっていた。結局、敦斗の未練については何も解消されてはおらず、今も廊下を歩く美桜のそばを漂っている。もはや馴染んでしまった光景だ。
ただ変わったこともあった。それは――。
「美桜ちゃん、おはよ」
「あ、外崎さんだ。おはよー」
「おはよ」
美桜が教室に入ると心春たちが美桜に手を振った。おずおずと振り返すと教卓の近くを通るとき小さな声で「おはよ」と返事をする。
気づけばこんな感じで心春たちが美桜に声をかけるようになっていた。きっかけは敦斗だったりキーホルダーだったり、そして遠足だったりといろいろなことがあるのだと思う。
それでも心春たちが声をかけてくれることに対して美桜は照れくさいような嬉しいような感情がわき上がるのを感じていた。
「ねえ、美桜ちゃん。今日って暇?」
「今日?」
自分の席に座った美桜に心春が話しかけにやってくる。鞄を机の横にかけながら首をかしげると、心春は一つ前の席の椅子を後ろに向けて美桜と向かい合うように座った。そして手に持った雑誌を美桜の机の上に広げた。
「これ、食べに行かない?」
「アイスクリーム?」
「そう! 前にさティラミスクレープ食べてたでしょ? これもティラミスのアイスクリームなんだけど今週限定で販売してるんだって!」
早口で言う心春の勢いに気圧されながらも差し出された雑誌に視線を向けた。そこには東京で大人気のアイスクリーム屋さんの情報が載っていた。そして小さく美桜たちの住む市に期間限定で出店しますと書かれている。
「どう? 一緒に行かない?」
キラキラとした目で美桜を見つめる心春に笑みがこぼれる。前ならきっとこんなふうに言われれば「自分が誘えば断られないって思ってるんでしょ」なんて穿った考え方をしていたと思う。でも今は一緒に行こうと誘ってもらえることが嬉しいと素直にそう思えるう。
「うん、行こうかな」
気づけば、敦斗の意向を確認することもなく美桜は返事をしていた。美桜の言葉に心春は喜び「それじゃあ放課後にね!」と言って自分の席に戻る――途中、もう一度振り返り「約束だよ!」と念押ししていた。そんな姿に笑ってしまう。クラスのリーダー格で大人っぽくて明るくてうるさい。そんな印象だった心春だけれど今では180°印象が変わったように思う。
「ティラミスアイス、いいなぁ」
美桜の頭上で、敦斗が恨みがましい声で言う。そこは心春と出かけるなんていいな、と言うところではないのかと思うけれど、美桜が出かければ必然的に敦斗も一緒に出かけることになるのだから、敦斗は美桜を通じて間接的にデートしているようなものだ。そこを嘆く必要はないということだろう。
「楽しみ?」
「……まあ、ね」
照れくさそうな敦斗に美桜はなんとか口角を上げると笑みを浮かべたような表情を作る。
最近、上手く笑えないのだ。特に敦斗が関わることに対して。敦斗の未練を晴らすことが償いだと思っていたのに、敦斗のためにできる唯一のことだと思っていたのに、いつの間にか大きくなった感情が「嫌だ」と「やめて」と悲鳴を上げる。
そんなこと言う資格は、これっぽっちもないはずなのに。
放課後、心春に連れられるままに美桜はティラミスアイスのお店へと向かった。駅のショッピングモール、ではなくロータリーに止められた移動販売車で売っているようだった。
雑誌に載るほどの人気なお店ということもあり、店の前には行列ができていた。
心春とともに行列の最後尾に並ぶと数えてみる。どうやら美桜たちの前に十六人ほど並んでいるようだ。売り切れはないだろうけれど、かなり待ち時間がある。そんなことを思っていると心春が口を開いた。
「うわー、凄く待ってるね。今数えたら十六人も待ってるよ。ヤバイね」
「ビックリだよね」
けれどこれだけの人が並んでいるということはやはり美味しいのだろう。わくわくしながら待っていると、隣に立つ心春が笑った。
「美桜ちゃん、凄く楽しみなんだね」
「え、あ、うん。そう、だね」
そんなに浮かれた顔をしていただろうか。慌てて緩んだ顔を戻そうとするけれど上手くいかない。
「ふはっ。美桜ちゃん変な顔」
「ひ、酷い」
「あはは、ごめんごめん」
悪びれない様子で心春は笑いながら謝った。「もう!」と怒ったふりをしながら、前の人に続いて進む。まだ当分美桜たちの番は来そうになかった。
それにしても。
美桜は今の状態を不思議に思う。敦斗のことがなければこんなふうに心春と話すことも二人で出かけることもなかっただろう。敦斗の好きな人、と思うとどうしても胸は痛む。けれどそれはそれとして、いつの間にか心春のことを好意的に見ている自分にも気づいていた。誘われるのも声をかけられるのも嫌じゃない。敦斗のことがなければ友達になれたんじゃないだろうか、そんな考えが頭を過る。敦斗のことがなければ、話さなかったかもしれないということを棚上げして。
一歩、また一歩と前に進む。あと二人で美桜たちの順番が来る、というときに心春が口を開いた。
「美桜ちゃんさ、最近明るくなったよね」
「え?」
「自分では気づいてないかもしれないけど、前よりも凄く楽しそう」
「そう、かな」
「そうだよ」
そんなふうに言われると思っていなかった。楽しそう、とか明るくなったと言われてもそんな自覚はこれっぽっちもない。
「うーん、自分ではわかんない。でももし明るくなったって思ってくれるならそれは上羽さんのおかげじゃないかな」
「私の?」
「そう。教室でも声をかけてくれたり、今日だって誘ってくれたりして」
気を遣ってくれるから。そう続けようとして美桜は口ごもった。けれど、心春にはバレバレだったようで「気遣ってくれるから?」と聞き返されてしまう。どうしようか迷ったあげく、美桜は素直に頷いた。そんな美桜に、心春は前に進みながら深いため息を吐いた。
「美桜ちゃんは私のおかげで明るくなったんだって言うのかもしれないけど、私は違うと思うよ」
「え?」
「私だって以前のような美桜ちゃんなら声、かけられなかったと思う。自分以外の人間を全て拒絶して背を向けていた美桜ちゃんなら」
心春の口から語られた美桜は、まさしく一ヶ月ほど前までの、敦斗が死ぬ前の自分の姿だった。
「前も言ったと思うけど、あの頃の美桜ちゃんにも声かけようとしたけど、どうしてもかけられなかった。それに前ならもし私が声かけてたとしてもこんなふうに一緒に来たりはしなかったでしょ?」
心春の問いかけに、美桜は素直に頷く。一ヶ月前に自分であれば、心春から誘われたとしても決してついてくることはなかった。それが例えティラミスアイスだったとしても。
「だからね、私のおかげとかじゃなくて、美桜ちゃん自身が変わったから。だから今の美桜ちゃんが纏う雰囲気が変わったんだと思う」
「私が、変わった?」
「うん、美桜ちゃん変わったよ。凄くいい方向に。あ、順番来たよ」
そう言うと心春は手早く二人分の注文をする。慌てて財布を取り出し代金を支払うとアイスクリームを受け取った。
近くのベンチに二人並んで座ると、さっそく買ってきたばかりのアイスを頬張った。
「んん! 美味しい!」
口いっぱいに広がるほろ苦さとクリームの甘さ。思わず頬張る美桜を心春は楽しそうに見つめている。
そしてポツリと尋ねた。
「ねえ、美桜ちゃん。聞きたいことが、あるんだけど」
「聞きたいこと?」
「うん。……美桜ちゃんってもしかして敦斗のこと、好きだった?」
その言葉にまるで顔面を殴りつけられたかのような衝撃を受けた。手が小刻みに震え、アイスを落としそうになってしまう。慌てて両手でしっかりとコーンを持つと、美桜は震える声で尋ね返した。
「どうして、そう、思ったの?」
「んー、なんとなく。話聞いてたり今までの様子を見てたりして。違った?」
その言葉に、悪意や敵意があるようには感じられなかった。けれど、美桜は心春の言葉を肯定するわけにはいかない。心春だから、ではない。美桜のすぐそばには、敦斗がいるのだ。その敦斗に聞かれるわけにはいかなかった。だから、美桜はできるだけ平静を装うと、口を開いた。
「違う、よ」
「ホントに?」
「……うん。上羽さんの、勘違いだよ」
美桜はぎこちなく笑うと、アイスを一口頬張った。あんなに美味しかったはずのアイスなのに、もう何の味もしない、ただの冷たいだけの何かに成り下がっていた。
そして、何の進展もないまま、敦斗の四十九日まで残すところ一週間となった。今まで色々なことを試してきたけれどどれも敦斗の成仏へは結びつかなかった。このままでは未練を晴らすことができないまま四十九日を迎えてしまう。そうなれば敦斗がいったいどうなってしまうのか、想像するだけで恐ろしく敦斗に尋ねることもできなかった。
美桜は自分の頭上で相変わらず浮いている敦斗を見る。授業を受ける美桜を尻目に、退屈そうにどこかを見つめている。その視線の先にあったのは心春の姿だった。やはり敦斗は今でも心春のことを想っている。その想いを届けなければ敦斗の未練は晴れないのかも知れない。
以前に比べれば心春と仲良くなれたと美桜は思う。今なら「実は敦斗って上羽さんのことが好きだったんだよ」と言っても信じてもらえるのではないだろうか。
敦斗に相談したら、反対されるかもしれない。なぜか敦斗は美桜が直接心春に敦斗の気持ちを伝えることを嫌がる。そんなふうに人伝いに自分の気持ちを伝えられるのが嫌なのかも知れない。でもすこしその気持ちはわかる気がする。自分の気持ちはきちんと自分の口から伝えたい。上手くいこうが行くまいが、それでも自分の想いは自分だけのものなのだ。
とはいえ、今の敦斗では伝えることはできないのだ。代わりに伝えられるのは美桜しかいないのだ。
その日のLHRのあと、いつもなら一番に教室を出て行くのだけれど今日は違った。大半の生徒が帰るのを見送って美桜は教室の自分の席にいた。傍目から見るとグズグズと帰りの準備をしている、としか見えないはずだ。
バレないように教卓の前に視線を向ける。相変わらず心春は帰ることなく宇田たちと喋っていたけれど、スマホを見たと思うと「先に帰るね」と言って教室を出て行った。
美桜は慌ててその後ろを追いかける。心春の家とは反対方向だけれど、何処に行くつもりなのだろう。
美桜は疑問に思いながらもそのあとを追いかける。心春は美桜に気づかないまま学校を出て駅の方へと向かった。
「……なあ」
「なに」
「今って、なにしてる?」
心春の姿を追いかける美桜に対して敦斗は怪訝そうな表情を向ける。美桜はそれに対して「こっちに用があるの」とだけ言ってごまかす。敦斗は相変わらず不可解そうな表情を浮かべてながら美桜に着いてきていた。
しばらく歩くと、どうやら心春は駅の方に向かっているのだとわかる。けれど、駅に遊びに行くのなら宇田や美咲を誘うだろう。美桜を誘ったこともあった。それなのに、今日は一人だ。友達が多いタイプの心春にしては珍しい。
さて、どのタイミングで声をかけようか。「あれ? 奇遇だね」と言っても不思議じゃない場所。例えば服屋や本屋がいい。そんなことを考えていると心春が駅に併設された本屋に入っていくのが見えた。ちょうどいい。ここで声をかけよう。参考書コーナーへと向かった心春を追いかけると、美桜は声をかけようとした。
「うえ――」
けれどその言葉を美桜は必死に飲み込むと、慌てて一つ手前の本棚の影に身を隠した。今、見てはいけないものを見てしまった気がする。
「何やってんだよ」
敦斗が怪訝そうな声で美桜を呼ぶけれどそれどころではない。
「何でもないよ。やっぱり帰ろ」
「心春に何か用があったんじゃないのか? そこにいるだろ?」
そう言うと敦斗は心春が向かった先を覗き込もうとした。
「あっ」
止めることはできなかった。美桜の差しのばした手を敦斗はするりと抜けると、本棚の向こうに姿を消した。美桜はそんな敦斗のあとを恐る恐る追いかける。
「敦斗……」
そこには、心春よりも随分と身長の高い別の学校の制服を着た男子と、男子の腕に自分の腕を絡める心春の姿があった。もしかしたら心春のお兄さんかも知れない。そんな淡い期待は、心春の表情を見て打ち砕かれる。そこにいたのはどこからどう見ても好きな人の隣に立つ、恋する女の子だったから。
そして同時に微動だにしない敦斗が心配になる。今どんなことを思っているのだろう。ショックを受けているのではないか。傷ついて泣きそうになっているのかもしれない。美桜にできることはないだろうか。何か、何かできることは……。
「なぁんだ」
「え?」
必死院考えていた美桜の耳に聞こえたのは、敦斗の間の抜けた声だった。
「切羽詰まった表情してるから何かと思ったら晴斗じゃん」
「晴斗? ……って、え? 晴斗君?」
敦斗の言葉に、美桜はもう一度心春の隣にいる男性を見た。そこにいたのは、確かに敦斗の三つ上の兄、晴斗だった。美桜の兄である敬一と同級生なのもあって何度か会ったことはあるけれど、ここ数年は顔を見ることもなかったので気づかなかった。けれど、晴斗と心春がどうして一緒にいるのか。それに心春の表情の意味は。
美桜はもしかして、と思った。もしかして、敦斗は。
「二人って、付き合ってるの?」
「……ん、そうだよ」
「知ってたんだ……」
動揺することもなく二人のことを見つめる敦斗。いつから知ってたんだろう。知ってて好きになったのだろうか。それとも敦斗が好きになったあとで? どちらにしても自分の好きな人と自分の兄が付き合うなんて、辛すぎる。でも、それでもこうやって死んでも死にきれないぐらいに、好きだったんだ……。想いを伝えずに死んだことを悔やんで、幽霊になってしまうぐらいに……。
敦斗の切ない想いに、美桜の胸は締め付けられるように痛んだ。
死んでもなお、自分以外の人を想う心春を思い続ける敦斗。死んでもなお好きな人を想い続ける敦斗を好きになってしまった美桜。二人は似ているのかもしれない。どちらも報われない想いを胸に抱き続けている。
「帰ろっか」
「心春に何か用があったんじゃないのか?」
「ううん、もういいの」
これ以上、こんな辛いところに敦斗を置いておきたくなかった。そして、美桜もまたそんな切ない表情を浮かべる敦斗を、見ていたくなかった。
美桜は心春達に気づかれないように本屋を出る。
敦斗の想いも、そして美桜の想いも実ることがないのはわかっている。でも、それでも敦斗には笑顔で逝って欲しい。それしか美桜にできることはない。
でも……。
「敦斗?」
ふと気づくと、隣にいたはずの敦斗の姿がなかった。どこに行ってしまったんだろう。まさか、消え――。
「違うっ」
そんなわけない。まだ四十九日には日が残っているし、さっきまで普通にいたのだ。消えるわけがない。美桜は慌てて本屋の周辺に視線を向ける。隣は靴屋、それから服屋に、雑貨屋――。
「いた!」
周りにいた人のどうした? という怪訝そうな視線に気づかないふりをして、美桜は敦斗の元に駆けつける。敦斗は雑貨屋の棚の前で何かをジッと見つめていた。視線の先にあったのは小さな時計のついたキーホルダーだった。
「敦斗?」
「ああ、ごめん」
ごめんと言いながらも敦斗の視線はキーホルダーに向けられたままだ。ピンクゴールドのチェーンの先に時計がついているそれはとても可愛くて――心春によく似合いそうだと思った。もしかすると心春にあげたいと思っているのだろうか。そういえば心春の誕生日がもうすぐだ。美桜は財布の中のお金を思い出す。これを買って敦斗から預かっていたと言って渡せば心春は喜ぶ、だろうか。それとも彼氏以外の男の子からは受け取れないと断られてしまうだろうか。
「敦斗、それ」
「ああ、ごめん。俺が前に買ったのとよく似てたからさ」
「そうなの?」
もうすでに買っていたのか。その言葉に安心してしまう美桜がいる。敦斗のために何かしたいと思っていた。それが償いだと、好きな人にできる唯一のことだと思っていた。なのに、いざ心春へのプレゼントを代わりに渡して欲しいと言われたら、と考えただけで胸が張り裂けそうに痛い。結局、美桜の覚悟なんてこの程度だったのかと自分が自分で嫌になる。
もう敦斗に残された時間はほとんどないというのに。
「そ、それって心春にあげたの?」
「ん? いや……。買ったのは随分前でさ。渡そう渡そうと思いながら、結局渡せずじまい。今も俺の部屋にある勉強机の引き出しの中で眠ってるよ」
「そんな……渡さなくて、よかったの?」
「……勇気が、出なくてさ。かっこ悪いだろ?」
美桜は必死に首を振った。かっこ悪くなんかない。寂しそうな表情の敦斗に美桜は泣きそうになる。自分ならそんな顔、させないのに。敦斗がくれたものならどんなものでも喜ぶし大事にする。心春はズルい。美桜はどれだけ好きになってもその想いが敦斗に届くことはないのに、こんなにも好きでいてもらえて、心春が羨ましくて、妬ましい。
でも、それと同時に今の美桜は心春がどんなにいい子なのかも知っている。だからこそ、余計に悲しくて切ない。みんな精一杯誰かを好きになっただけなのに、どうして……。
「まあだから気にしないでよ」
「うん……」
気にしないで、と敦斗は言うけれど本当にいいのだろうか。それを心春にあげて敦斗の気持ちを伝える。もうそれしかないのではないか。でもきっと、敦斗にそう言ったところで「もう気にしないで」と言われてしまうのは目に見えている。