「右! 右だ! 走れ~!」
「シュート!」
二学期に入り九月になったものの、気温が高い日が続いている。風を入れるために開けられた窓から、体育の授業でサッカーをする男子の声が聞こえてくる。
私は『枕草子』を読み上げている馬場先生の声をぼんやりと聞きながら、窓の外を眺めていた。
グラウンドを駆け回っているのは、隣のクラス、一年二組の男子だ。チーム分けをして試合中なのか、盛り上がっているようだ。歓声を上げて応援をする女子の中に、姫野美雪の姿が見えた。
姫野さんはモデルのように背が高く、美人なので、遠目にも目立つ。
「斎木君、頑張れ~!」
「シュートして~!」
二組の女子たちの黄色い声援が聞こえてくる。
見ると、学校一かっこいいと言われている斎木礼央が、鮮やかなドリブルで、追い駆けてくる相手チームのメンバーを振り切り、シュートを打つところだった。
斎木君に蹴られたサッカーボールは、キーパーの腕をすり抜けて、吸い込まれるようにゴールに入っていった。
キャーという女子の歓声が上がる。
(斎木君、やっぱり人気あるなぁ……)
少し垂れた目元が甘く、整った顔立ちをしている彼を想い、私は、はぁと息を吐いた。
(私も二組に入りたかったな……)
二組の女子を羨ましく思いながら、私は机の中からノートを取り出した。教科書で隠すように広げると、斎木君の活躍を書き記し始める。
『彼はグラウンドを風のように駆けて行くと、長い足でサッカーボールを絡め取り、ゴールに向かって蹴った。それを見ていた私は歓声を上げた』
「蒼井さん……蒼井華乃さん!」
突然、名前を呼ばれて、私はひゃあっと背筋を伸ばした。思わず、ノートを床の上に落としてしまう。
教壇に目を向けると、馬場先生が厳しい顔でこちらを向いていた。
「次の段落から読んでちょうだい」
馬場先生は、よそ見をしていた私に気付いていたのかもしれない。
「は、はいっ」
私は慌てて立ち上がると、教科書を手に取った。
「ええと、次の段落……?」
授業を聞いていなかったので、どこか分からない。すると、後ろの席から小声で、
「『うへに侍ふ御猫は』」
と聞こえた。思わぬ助け船に感謝しながら、教科書に視線を走らせ、教えてもらった箇所を急いで探し出し、
「『うへに侍ふ御猫は、かうぶりにて命婦のおとどとて』……」
と音読を始める。
たどたどしく読み上げると、馬場先生はキリのいいところで、「はい、そこまで」と、私の音読を止めた。なんとか乗り切ったと思い、ほっとして椅子に座る。私は少し振り返って、後ろの席の男子に「ありがとう」とお礼を言った。
後ろに座っているのは、梶拓篤という男子で、いつも静かに本を読んでいる大人しい人だ。話したことはあまりない。
しばらくして、授業終了のチャイムが鳴り、馬場先生が教室を出て行くと、私は、
「梶君、さっきはありが……」
もう一度お礼を言いかけて、途中で「きゃあっ」と悲鳴を上げた。
「か、返して!」
梶君が読んでいたノートをひったくり、胸の中に抱え込む。
音読をあてられて動揺し、ノートを落としていたことを、すっかり忘れていた。
「蒼井さんって、小説書いてるの?」
ぼそぼそとした声で、梶君が私に問いかけた。梶君は長めの前髪をしていて、メガネをかけているので、表情がよく分からない。それが更に彼を大人しく見せていて、とっつきにくさも醸し出している。
(中、見られた~!)
私は、泣きたいような気持ちで、ぶんぶんと首を横に振った。
そう、私は小説を書いている。誰に見せるつもりもない、ただの自己満足小説。だから、私が小説を書いていることは、誰にも秘密にしている。それなのに、梶君にノートを拾われて、中を見られてしまうなんて。
(絶対、笑われる! 馬鹿にされる!)
穴があったら入りたい気持ちで泣きそうになっていたら、
「いや、違うって顔されても、どう見ても小説だったけど……」
梶君はそう言うと、
「結構面白かったよ」
と真っすぐに私を見た。
「えっ……」
まさか、面白かったなんて言われるとは思っていなかったので、私は、面食らってぽかんと口を開けた。
「登場人物にリアリティがあった。もしかして、作中の男子のモデルって、隣のクラスの斎木?」
図星を指されて真っ赤になる。
「あ、やっぱりそうなんだ」
梶君はニヤリと笑った。
「だ、誰にも言わないで。小説のこと」
私は両手を合わせると、梶君に頼み込んだ。
クラスメイトに、私が斎木君をモデルに小説を書いているなんてバレたら、恥ずかしくて学校に来られなくなってしまう。
「どうしようかな……」
梶君はニヤニヤ笑いのまま、私を見つめた。黒ぶちメガネの向こう側の瞳が、面白そうな光を湛えている。
(梶君って、こんな人だったっけ?)
大人しくて真面目。クラスの中では目立たない。そんな男子だと思っていたのに、今の梶君はとても意地悪に見える。
「それなら、秘密にする代わりに、俺のいうことを一つ聞いてよ」
「いうことって?」
嫌な予感を抱きながら問い返すと、梶君は、
「文芸部に入って欲しい」
真面目な声で、そう言った。
「文芸部?」
「うん。俺は文芸部に所属してるんだけど、今、活動をしているのは実質俺一人なんだ。先輩に三人、幽霊部員がいる。一学期までは一年にもう一人幽霊部員がいたんだけど、転校で辞めてしまったんだ。部活動って、五人以上部員がいないと、部として認められないんだよ。だから、蒼井さんに入ってもらいたい」
「で、でも、私、小説を書いていること、誰にも秘密にしておきたいから……」
慌てて断ると、梶君は、
「小説を書いていることをバラされたくなければ、入ってよ。名前を貸してくれるだけでいい。小説を書かなくても、部活中に本を読んでいるだけでもいいから」
さらっと脅迫まがいのことを言った。思わず「うっ」と呻いてしまう。
「蒼井さんが書いていたのって、恋愛小説だよね。斎木をモデルにした男子高校生と、地味で奥手な女子高生の純愛。ヒロインの女子高生って、もしかして……」
「わーっ、わーっ!」
私は思わず、梶君の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、
「……分かった。じゃあ、入る」
と、了承する。梶君は私の手をどけると、
「ありがとう」
嬉しそうに笑った。
「シュート!」
二学期に入り九月になったものの、気温が高い日が続いている。風を入れるために開けられた窓から、体育の授業でサッカーをする男子の声が聞こえてくる。
私は『枕草子』を読み上げている馬場先生の声をぼんやりと聞きながら、窓の外を眺めていた。
グラウンドを駆け回っているのは、隣のクラス、一年二組の男子だ。チーム分けをして試合中なのか、盛り上がっているようだ。歓声を上げて応援をする女子の中に、姫野美雪の姿が見えた。
姫野さんはモデルのように背が高く、美人なので、遠目にも目立つ。
「斎木君、頑張れ~!」
「シュートして~!」
二組の女子たちの黄色い声援が聞こえてくる。
見ると、学校一かっこいいと言われている斎木礼央が、鮮やかなドリブルで、追い駆けてくる相手チームのメンバーを振り切り、シュートを打つところだった。
斎木君に蹴られたサッカーボールは、キーパーの腕をすり抜けて、吸い込まれるようにゴールに入っていった。
キャーという女子の歓声が上がる。
(斎木君、やっぱり人気あるなぁ……)
少し垂れた目元が甘く、整った顔立ちをしている彼を想い、私は、はぁと息を吐いた。
(私も二組に入りたかったな……)
二組の女子を羨ましく思いながら、私は机の中からノートを取り出した。教科書で隠すように広げると、斎木君の活躍を書き記し始める。
『彼はグラウンドを風のように駆けて行くと、長い足でサッカーボールを絡め取り、ゴールに向かって蹴った。それを見ていた私は歓声を上げた』
「蒼井さん……蒼井華乃さん!」
突然、名前を呼ばれて、私はひゃあっと背筋を伸ばした。思わず、ノートを床の上に落としてしまう。
教壇に目を向けると、馬場先生が厳しい顔でこちらを向いていた。
「次の段落から読んでちょうだい」
馬場先生は、よそ見をしていた私に気付いていたのかもしれない。
「は、はいっ」
私は慌てて立ち上がると、教科書を手に取った。
「ええと、次の段落……?」
授業を聞いていなかったので、どこか分からない。すると、後ろの席から小声で、
「『うへに侍ふ御猫は』」
と聞こえた。思わぬ助け船に感謝しながら、教科書に視線を走らせ、教えてもらった箇所を急いで探し出し、
「『うへに侍ふ御猫は、かうぶりにて命婦のおとどとて』……」
と音読を始める。
たどたどしく読み上げると、馬場先生はキリのいいところで、「はい、そこまで」と、私の音読を止めた。なんとか乗り切ったと思い、ほっとして椅子に座る。私は少し振り返って、後ろの席の男子に「ありがとう」とお礼を言った。
後ろに座っているのは、梶拓篤という男子で、いつも静かに本を読んでいる大人しい人だ。話したことはあまりない。
しばらくして、授業終了のチャイムが鳴り、馬場先生が教室を出て行くと、私は、
「梶君、さっきはありが……」
もう一度お礼を言いかけて、途中で「きゃあっ」と悲鳴を上げた。
「か、返して!」
梶君が読んでいたノートをひったくり、胸の中に抱え込む。
音読をあてられて動揺し、ノートを落としていたことを、すっかり忘れていた。
「蒼井さんって、小説書いてるの?」
ぼそぼそとした声で、梶君が私に問いかけた。梶君は長めの前髪をしていて、メガネをかけているので、表情がよく分からない。それが更に彼を大人しく見せていて、とっつきにくさも醸し出している。
(中、見られた~!)
私は、泣きたいような気持ちで、ぶんぶんと首を横に振った。
そう、私は小説を書いている。誰に見せるつもりもない、ただの自己満足小説。だから、私が小説を書いていることは、誰にも秘密にしている。それなのに、梶君にノートを拾われて、中を見られてしまうなんて。
(絶対、笑われる! 馬鹿にされる!)
穴があったら入りたい気持ちで泣きそうになっていたら、
「いや、違うって顔されても、どう見ても小説だったけど……」
梶君はそう言うと、
「結構面白かったよ」
と真っすぐに私を見た。
「えっ……」
まさか、面白かったなんて言われるとは思っていなかったので、私は、面食らってぽかんと口を開けた。
「登場人物にリアリティがあった。もしかして、作中の男子のモデルって、隣のクラスの斎木?」
図星を指されて真っ赤になる。
「あ、やっぱりそうなんだ」
梶君はニヤリと笑った。
「だ、誰にも言わないで。小説のこと」
私は両手を合わせると、梶君に頼み込んだ。
クラスメイトに、私が斎木君をモデルに小説を書いているなんてバレたら、恥ずかしくて学校に来られなくなってしまう。
「どうしようかな……」
梶君はニヤニヤ笑いのまま、私を見つめた。黒ぶちメガネの向こう側の瞳が、面白そうな光を湛えている。
(梶君って、こんな人だったっけ?)
大人しくて真面目。クラスの中では目立たない。そんな男子だと思っていたのに、今の梶君はとても意地悪に見える。
「それなら、秘密にする代わりに、俺のいうことを一つ聞いてよ」
「いうことって?」
嫌な予感を抱きながら問い返すと、梶君は、
「文芸部に入って欲しい」
真面目な声で、そう言った。
「文芸部?」
「うん。俺は文芸部に所属してるんだけど、今、活動をしているのは実質俺一人なんだ。先輩に三人、幽霊部員がいる。一学期までは一年にもう一人幽霊部員がいたんだけど、転校で辞めてしまったんだ。部活動って、五人以上部員がいないと、部として認められないんだよ。だから、蒼井さんに入ってもらいたい」
「で、でも、私、小説を書いていること、誰にも秘密にしておきたいから……」
慌てて断ると、梶君は、
「小説を書いていることをバラされたくなければ、入ってよ。名前を貸してくれるだけでいい。小説を書かなくても、部活中に本を読んでいるだけでもいいから」
さらっと脅迫まがいのことを言った。思わず「うっ」と呻いてしまう。
「蒼井さんが書いていたのって、恋愛小説だよね。斎木をモデルにした男子高校生と、地味で奥手な女子高生の純愛。ヒロインの女子高生って、もしかして……」
「わーっ、わーっ!」
私は思わず、梶君の口を押さえた。眉間に皺を寄せて、
「……分かった。じゃあ、入る」
と、了承する。梶君は私の手をどけると、
「ありがとう」
嬉しそうに笑った。