3-2 覚醒
真理亜にメールを送ってから、返事が来たのは二日後だった。結論から言えば、播磨の予想通り、キッカの口は、コモロ・シーラカンスのそれとは明らかに異なる形状をしていたと言う。
更に真理亜は、改めて観察したキッカの体型を、大まかにスケッチしてくれていた。記憶から掘り起こしたものだが著しい違いは無いはずだ、との但書もある。それだけで、播磨にとってかなり助かる。
添付されたスケッチ画像を画像編集ソフトで調整し、見やすくする。そのスケッチ画像と、昔日本で研究者がシーラカンスを解剖した際撮影した、CTスキャンの画像記録を開く。ウィンドウを並べ、播磨は両者を見比べた。
(比較すると、ラティメリアとは違う部分も多いな)
播磨がROVで観察した画像やCTスキャンの画像に比べ、スケッチ画像のシーラカンスは僅かに小柄だ。頭頂部から口先に掛けての輪郭線は滑らかなはずなのだが、スケッチでは目の上部辺りに隆起が目立つ。また、第三背ビレと第二尻ビレに挟まれる尾ビレは、元々小さいものだが、キッカのそれは違いが目立つ程度には大きく、独立している。胸ビレはほぼ同じ物に見えるが、キッカは胸ビレも全体的なフォルムも、スマートである様に見える。
じっくりと見比べてみて、初めて明確な違いを意識する。一瞬見た限りの姿はそう大きな違いは無いが、細部で幾つもの違いがあった。
ホテルのロビーでうんうんと唸って首を傾げていると、いつの間にやら早見坂が背後に立ち、播磨のラップトップを覗き込んでいた。スケッチかい、と気さくに質問をしてくる。慌てて振り返り、ええ、と言葉を濁した。「そんなものです」
「でもこれ、君が描いたんじゃないよねぇ? 上手いもの」
大きなお世話だ、と思ったが勿論口には出さない。代わりに、適当に誤魔化した。
「従姉妹が漫画家志望なんですけど、シーラカンスを題材にした話を描きたいそうで。俺に間違ってないかって、確認取りによくこうやって送ってくるんですよ」
「ああ、成る程。素敵な従姉妹さんだねぇ」
相変わらずの好々爺な顔を浮かべ、破顔する。しかし彼は播磨と架空の従姉妹の関係性を褒めたのではなく、従姉妹もシーラカンスに興味を持っているという、その一点にのみ興味を注いでいることは、簡単に知れた。
見せてくれるかな、と言われ、少し躊躇ったが、播磨はラップトップを早見坂に渡す。ソファに座って眼鏡を押し上げる早見坂は、スケッチ画像をしばらく見ていた。そうして、唸る。
「これ、従姉妹さんは本当にシーラカンスの資料を見て描いたのかね?」
「どうでしょう。手癖は入ってるかも知れませんが」
答えたが、播磨は、真理亜が実物からそう解離した絵を描いているとは思わない。あの観察眼と、正確に頭の中のものを描き出す特技については、亮も播磨もよく知っているつもりだ。だが確かに、それをラティメリア・カルムナエと同じ種であると言われて見せられても、首を傾げるだろう。早見坂であれば尚更だと思えた。
やがて早見坂は、言葉を選びながらモニタを指差し、口を開く。
「確かに、シーラカンスの特徴は捉えているけれど……色々調べた上で、目も属もごちゃ混ぜになってしまったんじゃないかな、これは。豊垣君は、ラティメリア属以外のシーラカンスについて、資料を目にしたことは?」
「済みません、まだ殆ど」
「院に来るつもりなら、知っておくといい。この画の顔の形と扁平な胴体の輪郭線は、現生している唯一の種であるラティメリア属よりは、同じラティメリア科でも、マクロポマという属に似た特徴だ。現生のものに極めて近縁の種だね。体長は半分程度だが、身体的特徴には共通点が他の種よりもとても多い」
ハッとして、播磨は身を乗り出し、早見坂に尋ねた。
「それは、一体生息期の時代は……」
「白亜紀後期だから、大体七千万年前かな。化石はイングランドと、旧チェコスロバキアで発見されたよ」
白亜紀後期。まだ恐竜が絶滅する前の時代。船の揺れに当てられたわけでもないのに、播磨は目眩がした。そんな彼にお構いなく、早見坂は画像に注視し、独り言を続ける。
「いやしかし、全体的なフォルム自体はホロファグスに似ているな……それほどには流線型ではないが。うーん、だがもしかしてこれは……いやまさかな」
歯切れの悪い言葉が気になり、こめかみを押さえながら播磨は訊いた。
「何ですか?」
「いやね、現生のシーラカンスに似ていないようで似ているこの特徴が、どうにも……ユーポロステウスにも見える様な気がするんだ」
「ユーポ……?」
「正式には、ユーポロステウス・ユンナンエンシスと言ってね。中国の地層で見付かったシーラカンス目の一種なんだ。現生のものと共通の特徴が多くて、もしかしたらあまり変わらない姿を持っていたんじゃないか、とも言われてるんだけど。何せ化石標本を私もこの目で見たことが無くてね。確か最新のイメージイラストは公開されていたと思うけど、あくまでイメージだからねぇ」
「……その種は、どの地層から見付かったんですか」
うーん、と顎をさすり、早見坂は記憶を掘り起こした。そうして少し考えて、答える。
「シルル紀だったかデボン紀だったか……確か、四億年前の地層だったと思うよ」
古生代の、最古のシーラカンス。その言葉を耳にして、今度こそ目が回る。
キッカ。お前は一体、何者なんだ。
可能性の話として、お前は四億年前の記憶を、その石と共に過ごして生きてきたというのか。四億年の歳月を、孤独な暗闇で過ごし、そして亮に出会ったというのか。
*
可能性としての話。播磨はメールの結びを、そんな様な言葉で締め括っていた。
(四億年の歳月による摩擦を耐える石に、キッカは耐えていたというの? 馬鹿らしい)
真理亜は、播磨のその仮説をすぐに鵜呑みにはしなかった。彼は今、混乱している。必ずしも冷静な判断や思考が出来る状態ではないだろう。少なくとも今は、そう考える他にない。
真理亜は眠い左目を擦りながら、繁華街にあるナイトバーからの帰り道を一人、歩く。午前三時に店を閉め、片付けをし、店長が帰る前に先に失礼した帰り道だ。秋口の夜は、八月よりもハッキリと冷たくなっている。
冷たい夜風が、熱のこもった控え室でのぼせていた彼女の頭を、幾分かスッキリさせる。煙草を吸って更に頭をはっきりさせようとして、切らせていたことを思い出して舌打ちをした。誰も通らない暗い路地に、やけにそれは響いた。
こんな自分の姿を、何かの目を、或いは自分の目を通して見ているのだろうか。あのシーラカンスは。そんなことを考えると、あの緑色の目が憎らしい。きっと、苛立っている自分の姿を見て嘲笑しているに違いないと。
……だが、同時に。
あれは、本当に悪意というものを持って自分に接しているのだろうか。最近はそう思うようになってきた。
亮の家に上がり込んで正面から彼女を観察した時、キッカは確かに真理亜を正面から見据え、怒りという感情をぶつけてきた。あの感情のぶつけ方。老若男女を特定出来ない不可思議な声音から滲み出る感情の色。怒りとはまた違う質のそれを、真理亜は何度も見たことがある気がした。
夜風が、記憶を浮き彫りにする。風が砂を吹き飛ばして地層から徐々に顔を覗かせる、真理亜の過去の記憶にある、感情の爆発。やがて彼女は、それに気付いた。中学の時、自分の右手を突き刺した友達の見せた、あの表情から爆発して生まれた感情に、酷く似ているのだ。
嫉妬。
嫉妬の怒りが、確かに真理亜の体に打ち付けられていた。キッカのそれは静かに燃える炎であったが、鋭いそんな炎の槍は、確かに真理亜を貫いていた。
だが、と真理亜は夜道を歩きながら熟慮する。キッカは何故、自分に対する嫉妬心を抱いているのか。
嫉妬とはつまり、自分に無いものを相手が持っている時に生まれる感情だ。それは人の心の中に、あらゆる場面で湧いて生まれる。それは物であり、者であり、時に形の無い何かである。しかし、キッカにあって真理亜に無いものであれば想像は容易いが、逆は難しい。今やキッカは、その道を極めた専門家と同等の知識を、あらゆる分野に対して備えている。情報が力となるこの現代で、それに勝る優位性を自分が持っているだろうか。
か細い街灯が照らす人通りの少ない夜道を歩き、考える。自分のこと、そしてキッカのこと。
(まるで、恋煩いみたいだ)
私が亮にしているように。
馬鹿らしい、青臭い話だと思う。この年になって、幾つもバイトを巡ってパワハラやセクハラ、その他社会の諸々面倒で嫌な部分を見て、以前より一層スレた自分になっているはずなのに、今更のそれを気恥ずかしく思ってしまって、仕方がない。
モヤモヤする。そんな感情を抱えたままだから、いつの間にか路地の影から出てきていた男に気付かなかった。ハッとして顔を上げ、真理亜は青ざめた。
店に来ている、あのしつこい客だ。シャッターは閉まり、人ひとり、車一台も通らない明け方近いその夜の街の中で、引きつった、そして何処か追い詰められた風な不気味な笑みを浮かべる男が、真理亜の前に立っている。
髪を金色に染めて強がっていても、教師を一人バットで殴り倒しても。
自分に対して明確に敵意や悪意が向けられていることが分かると、恐怖で足が動かなくなった。冴えない見た目の長身痩躯の男は、それでも暴力を振るわれれば自分が簡単にそれに屈してしまうであろうことを思い知らされる。加えて真理亜は右目が見えない。暴力沙汰になったら、きっと自分より小柄な相手にも負けてしまう。
「……お客さん? あの……ご注文は、その……また今夜、お店で……」
胸の前で手を握り締め、自分を守る様に体を丸めたくなる。およそ、怯えて震えるネズミの様な滑稽な姿をしていることだろうと、真理亜は酷く混乱する頭の片隅で考える。そんな真理亜を見て、男は引きつった笑みを更に引きつらせ、口角を一層上げた。
「あ、あのですね、やっぱり直接気持ちって、あはは、伝えないとって思って……ここを通るって昨日ようやく知れたんで、待ってた甲斐が本当にあって。あはは、う、運命ですかねこれ……」
自分の理想となる、都合のいい甘い予想しか立てられない性格の人間とは、一定数居る。概して彼らは周囲の評判や評価を無視し、根拠の無い自己肯定感を増長させていき、そして失敗をする。今まで真理亜はそんな大人を見下しながらも、全ては対岸の火事の出来事として捉えていた。けれど、その被害が自分の身に及んで初めて、そうした子供じみた思考の危うさを知る。
きっと目の前の男には、理屈という説得は通じない。
動けずに固まってしまった真理亜の目の前に、男は立った。秋口の夜風に吹かれていたはずの男は、しかしダラダラと緊張の汗を流していて、気持ちが悪い。
ねえ、と尚も近付き、真理亜の体に伸ばそうとするその手を、何とか振り払う。一瞬でも手の触れたそこが、気持ち悪くて仕方がなかった。
男は一瞬、その動作の意味を考える様に硬直した後、真理亜の顔を殴った。瞬間、脳裏に暴力を振るう父の顔が浮かぶ。あとはもう、恐怖しかなかった。ずるずると体をビルの壁に這わせ、後じさりしようとする真理亜の服と体を掴み、男は無理矢理彼女を路地裏へと……本当に誰も来ないような暗がりへ連れて行こうとする。嫌だ、嫌だと声を絞り出し、ようやく悲鳴を上げられそうな声を絞り上げようとした時、恐怖と怒り、焦燥を滲ませた顔を向けた男が、再び拳を振り上げた。
あの拳が当たれば自分は、もう逆らえない。父に何度も、そう体に躾けられてしまった。嫌というほど。
私はもう、壊れてしまう。
泣き出しそうな恐怖に襲われ、背筋が凍ったその時。
突然男は全身から力が抜けた様に、グニャリ、と体を拗らせ、その場に倒れ込んでしまった。
今度は突然のことに、真理亜は体を動かせない。涙で崩れてしまった彼女のマスカラが、着ているパーカーに落ちる。そんなことも気にする余裕は無く、真理亜はそっと、震える手で男の体に触れた。
眠っていた。真理亜を殴ろうとする興奮状態にあった男が、突然に。
まさかナルコレプシー持ちなわけではないだろう。だがだとすれば、原因は何だ。
恐怖と混乱でグシャグシャになった頭で、しかし真理亜は、確信に近いたった一つの推測と結論を導き出す。
「……キッカ?」
自分の目を通して、今の状況を見ていたのだろうか。それとも、この男の視界を盗んでいたのだろうか。何の役に立ちそうにもない情報しか持たない、二人の人間の目を通して。
冷たいコンクリートの壁に手を付いて体を起こし、ゆっくりと路地を抜ける。後ろの男は立ち上がる気配を見せない。歩きながら、真理亜は考えた。
分からなかった。キッカが真理亜に抱いている感情は、嫉妬。敵対心。その真理亜に向けられた感情は決して好意的なものや中立的立場の反応に転じるはずがない。けれどキッカは確かに今、自分を助けた。それとも、箱庭病に陥る患者が夢に落ちる前に見る幻覚を見せる様に、男に何かしたのだろうか。いや、それならば今の状況で、自分を助ける理由が無い。
敵意を持ちながらにして、助けようとする。
それはどんな理由があっても、相反する感情と動作であり、作用と反作用だ。けれど、そんな感情と矛盾する行動を取れる存在を、真理亜は知っている。
人間。
どんなに敵対感情を持っていても、苦しむ相手を見ていても、良心が強く育っている人間は、相手を救ってしまう。或いは苦しみを存分に味わう前に救いの手を差し伸べる。余程の恨みや憎悪がない限りは。そして恨みや憎悪は、必ずしも嫉妬とイコールではない。
だが同時に、キッカは人間ではない。
どれだけ人間のことを知り、理解し、知識を蓄積しようとも、キッカはシーラカンスの形を取った人間以外の『何か』でしかないのだ。
キッカの心の中で、何かが起きている。
生まれついて背負った使命とは別の何かが、せめぎ合い、葛藤している。真理亜を傷つけようとする感情と、救おうとする感情との葛藤が。
(まるで、人間みたいだ……)
有り得ない。馬鹿らしい。
思いながら、しかしその考えを払拭出来ず、真理亜は路地裏を抜けて先程の通りへと出た。東の空、商店街のずっと向こうの空が、僅かに白み始めた。
ああ、夜が明ける。
キッカも何処かで、この朝焼けの空を見ているのだろうか。
*
私立の大学・高校が全国で合計二十一校、来年度の閉鎖を決定した。そんなニュースが流れてきても、亮は驚かない。それは今年が初めての話ではないし、いつか起こることではあると予期されていたからだ。
教育機関を支える職員の数も、その収入源である生徒の数も減少している今となっては、来年以降も廃校に追い込まれる教育機関は少なからず出るだろう。大学の経営破綻も例外ではない。最早亮達の様な私立大学の学生は、無事に修士課程を追えられるかどうかという心配からしなければならない。
これと同じ様な経緯を辿り、一体世の中の幾つの企業が経営破綻したことだろう。残された大企業の就職倍率は異様な競争率を叩き出すようになり、学生はより高給な仕事を目指して勉強するようになった。
そんな中で亮はまだ、モラトリアムの中に居る。
哲学科なぞに進学することを決めた自分を、両親は不安そうに見ていた。自分の進みたい進路を告げた、高校三年生のあの夜を思い出す。哲学という学問の先に、どのような就職先があるのだろうかという不安や心配があったことだろう。
けれど亮は、哲学科出身者は教職や金融業界、そして学芸員の道が広くあることを知っていた。彼は、学芸員の資格を取りたかった。特に、博物館などで働けるようになれれば、それが一番いい。
『他のシーラカンスの化石を一日中眺めるつもりかね』
口調もだいぶ、無機質なそれから癖のあるそれへと変わり始めたキッカの言葉に、亮は顔を上げて答える。
『古生物でもいいけど……化石でもいいから、何か動植物に関する知識が欲しいな』
気分のいい今日は、気さくに答えられた。
時間とは恐ろしいもので、目の前の魚が雫を昏睡状態にした張本人であることは忘れていないし、それを嫌悪していることも自覚がある。だが、四年の月日はそれを完全ではないにしろ、風化させる。時々こうして、亮が個人的に機嫌のいい時には、会話がそれなりに続くことがあった。憎たらしくとも、机の上に五十センチと離れていない距離にそれがあることは、奇妙な関係を生み出すらしい。ストックホルム症候群という奴だろうか、と漠然と亮は思った。
キッカは少し黙ってゆらゆらと体を揺らしていたが、やがて口を開く。
『キッカだけでは、足りないか』
『足りないって、何がだ』
その問いにも答えない。相変わらず、向こうから自分の話をすることの少ない相手であったが、それにももう慣れてしまった。嘆息して、すぐに亮はノートパソコンで課題レポートの作成に戻る。その途端、キッカは口を開いた。まるで自分に注意を払って欲しがる、始末におえない飼い猫の様に。
『人は、不足しているとは思わないか。あらゆる面で』
『目的語をもっと正確にしろ。らしくない』
『文字通りの意味だ。人を夢の中に閉じ込めた世界を作ったのは確かにキッカの仕業であるが、人がそれを箱庭病と呼ぶことになったその意味を考えたことはあるか』
『自分の望む通りの夢の世界を作って、そこで何でも出来るからだ』
それはニュースでも報道されて周知のことだし、何より以前にキッカ自身がそう告げた。
『そうだ。では、彼らが作り上げた夢の中身について、亮はどれだけのことを知っている』
『中身?』
『現実そのままの夢世界を作り上げて暮らしている箱庭病患者は、キッカが観測している限りでは皆無だ。これは、一つの例外も無い。現実的に有り得ない要素を大なり小なり、彼らは夢の中で作り上げ、自分の定めたそのルールを以ってして充足感を得ている。人気者になる夢、森の中で暮らす夢、宇宙を旅する夢、美食に明け暮れる夢、ゲームの様な世界を体感する夢。けれど亮も知っての通り、人は時間が経過すればするほど、感覚を麻痺させる。夢はより、刺激的な方へと加速していくのだ』
その言葉にギクリとして、亮はキーボードのタイピングする手を止め、キッカを見る。その無機質な表情からは、何も読み取れない。
『そんな夢に落ちた連中が今何をしているか、教えてあげよう。人気者になる夢を見ていた男は性奴隷を侍らせ肉欲に明け暮れ、森の中で白雪姫の様に暮らしていた女は、飼育ゲームをするかの様にシステマティックに動物を飼い、食肉工場の責任者の様に動物を管理している。宇宙の神秘を探る旅に出たはずの者は今、異星に降り立っては原住民を撃ち殺す狩人になり、飽食した美食家は人肉食に手を出している。……彼らに共通するのは、人を人と認識しなくなっていることだ。自分が何の裁きを受ける環境にもないことを認識した彼らは、自分という個以外を認識しなくなっている。あらゆる生命は、動植物や人を問わず、記号にしか見えていないのだ。何故か分かるかね』
子供でも大人でも老人でも、男でも女でもない無機質な……或いはその全ての要素を内包する声ならぬ声は問い掛ける。亮は答えられなかった。『孤独だよ、亮。人は生来、孤独なのだ。それが種として不完全であり、自然環境で無力そのものの象徴であることを本能的に理解しているが故に、人は共同体を作り、それを組織化し、システム化されたそれは人自身ではなく環境を変え、環境を自分達に適合するよう変換する。孤独から生まれる無力を極度に恐れるが故に』
『……それは動物も同じだ。コミュニティはどの種にも存在する』
ようやく、反抗らしい言葉を絞り出せた。だが、キッカは引かない。
『だが、他の種は環境に適合して生きる為の進化をした。それが証拠に、人は三万年前のホモ・サピエンス・サピエンスの頃から進化していない。他の生物はあんなにも多様な道を歩み続けているというのに』
『お前こそ、数千万年前の遺物に過ぎないだろうが』
或いは、異物。その言葉は、言い得て妙に思える。だがキッカは言う。
『そう。だから人は、キッカに似ている』
『何だと?』
『孤独を恐れ、しかし根本的に人は孤独であるが故に、共同体を形成する。だがキッカが人類に見せた「夢」は、その孤独から来る恐怖を希薄にし、曖昧にし、そして打ち破ることが出来る。人がその誕生以来宿敵としていた孤独という名の敵から、キッカが救うことが出来る』
「これが救済だってのか!」
思わず声に出して怒鳴り、亮は椅子から立ち上がる。「ふざけるな!」
『キッカは孤独であり続けるが、人間は違う。現実に溢れる孤独から逃げる、解決策をキッカは与えているに過ぎない。箱庭病の人間達は、人を必要としない。自分が幸福になる為の記号だけを必要としている。それもまた孤独の別の形に過ぎないが、少なくとも恐怖からは解放される。けれど亮は、そんな夢を見たくないと言う』
「……当たり前だ」
答えると、何故だろう、キッカは笑った……ような気がした。
魚の顔が笑顔を作るなど有り得ない。ただの錯覚に過ぎない。そう自分に言い聞かせ、亮は午後からの講義の準備をし、それ以上話し掛けようとするキッカを無視し、足音も荒く部屋を出た。
必修の講義に出た後、引き続き同じ選択必修に出る友人と雑談をしながら、三号棟に向かう。また今日も、キャンパスの中に居る学生の数が減った気がした。選択科目の講義をする教室に入るとその印象は顕著になり、講義開始二分前にも関わらず、前期当初から続くこの講義の出席率は三分の二程度になっているようだった。
教室の中ほどに、先に来ていた女子学生友達二人と並んで座る。
減ったねー、と挨拶がわりのように、出席者数の話題を振られ、同意する。それでも試験は来るんだよ、ととぼけて言って、授業前の談笑。
講義が始まってからも時々、女子二人と亮ら男子二人、お互いが小声で雑談をして過ごす。そんな他愛の無い時間を過ごし、時々ノートに重要らしいことを書き留めていた。一切板書をしない講師なので、聞き取りと、必要な用語や解説のメモは必須だった。
そんな時間が一時間を過ぎた頃、前に人が座っているのを幸いに、女子の一人が机に突っ伏して居眠りをする。その隙に、亮の隣の友人が耳打ちした。
「その子、お前に気があるぞ」
「うーん」
「贅沢な奴だな、可愛いだろ。OKしちまえよ」
「可愛いけど、それだけで好きになるわけじゃ」
「難しいこと考える奴だな。初めてなら教えてもらえよ」
「黙れ」
下らない会話だと思ったので、そう言って強引に打ち切った。講師の話を聞きながら考えるのは……真理亜のことだった。
四年前のあの日、亮は真理亜に告白をしようとした。けれど彼女は、同情から来る告白など御免だとそれを拒絶した。当然だと、亮も改めて思う。
当時僅かに、少しずつ、真理亜の体や言葉から染み出す自分への想いには気付いていた。けれどその答えを先延ばし、答えることをしなかったのは、亮の怠慢だった。幼馴染みで、すぐそばに居て相談も出来て、あの三人の中で一番気安く話し掛けられる間柄。そんな関係性を発展させ、変化させるのが怖かった。もし、自分の自惚れであったら。もし、深くお互いを知っていく中で幻滅する瞬間を見てしまったら。その程度で感情が揺らがないと断言するには、亮の真理亜に対する感情はあまりにも不安定で、不確かだった。
そして真理亜に指摘された、自分の、キッカへの執着。
不気味なものであると理解していながらそれを結局手放さず、すぐ手元に置くばかりの自分に、きっと真理亜は幻滅していたのだろう。
だからこそ、先日の出来事を思い出す。久し振りに亮の家を訪れた真理亜の、あの匂いと目付き。
変わらない。彼女には変わらないものがある。彼女はそれを持っている。決して揺るがないものを。それが何か、亮にはよく分からない。けれど、自分の中に確かに信じられる大きな強い柱を持っているということは、とても魅力的な部分に思える。
隣の子から、それを感じることは出来なかった。
講義が終わる。友人は伸びをし、亮はノートをリュックに仕舞った。女友達の一人は手鏡で髪を直していたが、もう一人はまだ突っ伏して寝たままだ。
「ほら山崎さん、終わったよ」
苦笑して肩を軽く叩くが、反応が無い。「おーい」
強めに揺らすが、それでも彼女の体は自分の意思でピクリとも動こうとしなかった。女友達も揺すってみるが、それでも彼女は、目を開かない。
嫌な予感。おい、とかなり強く肩を揺する。反応は無い。友達二人はざわつき始め、混乱した。まさか、という疑念は強くなり、女友達は口を押さえて顔を青くさせる。
「嘘……夢なんて全然見ないって、今朝だって話して……」
「医務室は、四番館?」
友人と二人、亮は眠り続ける生徒の肩を担ぎ、遠巻きに様子を眺めてざわめく学生達の衆目の中を歩く。
何故、こんなことに。何故だ、キッカ。
声に出さず、悪態をつく。すると、キッカの声が頭の中に響いた。
『亮。もう全ては、そうなっていくんだ』
家から離れた場所で彼の声を聞くのは初めてだった。額に汗を浮かべて友達を運びながら、亮は問い返した。
『どうして、俺を苦しめるんだ!』
『苦しめてなどいない。キッカは、救い続けている。孤独から』
『お前が人を孤独だと言うのは分かった。だがやっていることは、また別の孤独に人を放り込むことだけだろう!』
『見方によっては、結局そうなるかも知れない。けれどキッカにとってそれは二次的なことに過ぎず、全ては孤独からの解放を目的としている』
『だからそれは……』
『孤独からの解放とは、人類の、という意味ではない。キッカと亮の孤独の、という意味において、それは作用する』
俺の?
亮は意味が分からず、言葉を返せない。キッカは続けた。
『人は孤独だ。つまりは、亮。君も孤独だ。キッカの様に。だからキッカと二人、世界の孤独に抗おう。キッカと共に……』
ね? 亮。
最後に、無機質な言葉の中に僅かに、感情らしき何かが混ざり込んだ気がした。それが何か、亮には分かりかねる。
しかしその、自分の名前を呼ぶ声を聞いた瞬間。彼は、今までキッカに対して当然のものとして抱いていた『彼』という声に、初めて女性的な何かを感じた。
*
真理亜にメールを送ってから、返事が来たのは二日後だった。結論から言えば、播磨の予想通り、キッカの口は、コモロ・シーラカンスのそれとは明らかに異なる形状をしていたと言う。
更に真理亜は、改めて観察したキッカの体型を、大まかにスケッチしてくれていた。記憶から掘り起こしたものだが著しい違いは無いはずだ、との但書もある。それだけで、播磨にとってかなり助かる。
添付されたスケッチ画像を画像編集ソフトで調整し、見やすくする。そのスケッチ画像と、昔日本で研究者がシーラカンスを解剖した際撮影した、CTスキャンの画像記録を開く。ウィンドウを並べ、播磨は両者を見比べた。
(比較すると、ラティメリアとは違う部分も多いな)
播磨がROVで観察した画像やCTスキャンの画像に比べ、スケッチ画像のシーラカンスは僅かに小柄だ。頭頂部から口先に掛けての輪郭線は滑らかなはずなのだが、スケッチでは目の上部辺りに隆起が目立つ。また、第三背ビレと第二尻ビレに挟まれる尾ビレは、元々小さいものだが、キッカのそれは違いが目立つ程度には大きく、独立している。胸ビレはほぼ同じ物に見えるが、キッカは胸ビレも全体的なフォルムも、スマートである様に見える。
じっくりと見比べてみて、初めて明確な違いを意識する。一瞬見た限りの姿はそう大きな違いは無いが、細部で幾つもの違いがあった。
ホテルのロビーでうんうんと唸って首を傾げていると、いつの間にやら早見坂が背後に立ち、播磨のラップトップを覗き込んでいた。スケッチかい、と気さくに質問をしてくる。慌てて振り返り、ええ、と言葉を濁した。「そんなものです」
「でもこれ、君が描いたんじゃないよねぇ? 上手いもの」
大きなお世話だ、と思ったが勿論口には出さない。代わりに、適当に誤魔化した。
「従姉妹が漫画家志望なんですけど、シーラカンスを題材にした話を描きたいそうで。俺に間違ってないかって、確認取りによくこうやって送ってくるんですよ」
「ああ、成る程。素敵な従姉妹さんだねぇ」
相変わらずの好々爺な顔を浮かべ、破顔する。しかし彼は播磨と架空の従姉妹の関係性を褒めたのではなく、従姉妹もシーラカンスに興味を持っているという、その一点にのみ興味を注いでいることは、簡単に知れた。
見せてくれるかな、と言われ、少し躊躇ったが、播磨はラップトップを早見坂に渡す。ソファに座って眼鏡を押し上げる早見坂は、スケッチ画像をしばらく見ていた。そうして、唸る。
「これ、従姉妹さんは本当にシーラカンスの資料を見て描いたのかね?」
「どうでしょう。手癖は入ってるかも知れませんが」
答えたが、播磨は、真理亜が実物からそう解離した絵を描いているとは思わない。あの観察眼と、正確に頭の中のものを描き出す特技については、亮も播磨もよく知っているつもりだ。だが確かに、それをラティメリア・カルムナエと同じ種であると言われて見せられても、首を傾げるだろう。早見坂であれば尚更だと思えた。
やがて早見坂は、言葉を選びながらモニタを指差し、口を開く。
「確かに、シーラカンスの特徴は捉えているけれど……色々調べた上で、目も属もごちゃ混ぜになってしまったんじゃないかな、これは。豊垣君は、ラティメリア属以外のシーラカンスについて、資料を目にしたことは?」
「済みません、まだ殆ど」
「院に来るつもりなら、知っておくといい。この画の顔の形と扁平な胴体の輪郭線は、現生している唯一の種であるラティメリア属よりは、同じラティメリア科でも、マクロポマという属に似た特徴だ。現生のものに極めて近縁の種だね。体長は半分程度だが、身体的特徴には共通点が他の種よりもとても多い」
ハッとして、播磨は身を乗り出し、早見坂に尋ねた。
「それは、一体生息期の時代は……」
「白亜紀後期だから、大体七千万年前かな。化石はイングランドと、旧チェコスロバキアで発見されたよ」
白亜紀後期。まだ恐竜が絶滅する前の時代。船の揺れに当てられたわけでもないのに、播磨は目眩がした。そんな彼にお構いなく、早見坂は画像に注視し、独り言を続ける。
「いやしかし、全体的なフォルム自体はホロファグスに似ているな……それほどには流線型ではないが。うーん、だがもしかしてこれは……いやまさかな」
歯切れの悪い言葉が気になり、こめかみを押さえながら播磨は訊いた。
「何ですか?」
「いやね、現生のシーラカンスに似ていないようで似ているこの特徴が、どうにも……ユーポロステウスにも見える様な気がするんだ」
「ユーポ……?」
「正式には、ユーポロステウス・ユンナンエンシスと言ってね。中国の地層で見付かったシーラカンス目の一種なんだ。現生のものと共通の特徴が多くて、もしかしたらあまり変わらない姿を持っていたんじゃないか、とも言われてるんだけど。何せ化石標本を私もこの目で見たことが無くてね。確か最新のイメージイラストは公開されていたと思うけど、あくまでイメージだからねぇ」
「……その種は、どの地層から見付かったんですか」
うーん、と顎をさすり、早見坂は記憶を掘り起こした。そうして少し考えて、答える。
「シルル紀だったかデボン紀だったか……確か、四億年前の地層だったと思うよ」
古生代の、最古のシーラカンス。その言葉を耳にして、今度こそ目が回る。
キッカ。お前は一体、何者なんだ。
可能性の話として、お前は四億年前の記憶を、その石と共に過ごして生きてきたというのか。四億年の歳月を、孤独な暗闇で過ごし、そして亮に出会ったというのか。
*
可能性としての話。播磨はメールの結びを、そんな様な言葉で締め括っていた。
(四億年の歳月による摩擦を耐える石に、キッカは耐えていたというの? 馬鹿らしい)
真理亜は、播磨のその仮説をすぐに鵜呑みにはしなかった。彼は今、混乱している。必ずしも冷静な判断や思考が出来る状態ではないだろう。少なくとも今は、そう考える他にない。
真理亜は眠い左目を擦りながら、繁華街にあるナイトバーからの帰り道を一人、歩く。午前三時に店を閉め、片付けをし、店長が帰る前に先に失礼した帰り道だ。秋口の夜は、八月よりもハッキリと冷たくなっている。
冷たい夜風が、熱のこもった控え室でのぼせていた彼女の頭を、幾分かスッキリさせる。煙草を吸って更に頭をはっきりさせようとして、切らせていたことを思い出して舌打ちをした。誰も通らない暗い路地に、やけにそれは響いた。
こんな自分の姿を、何かの目を、或いは自分の目を通して見ているのだろうか。あのシーラカンスは。そんなことを考えると、あの緑色の目が憎らしい。きっと、苛立っている自分の姿を見て嘲笑しているに違いないと。
……だが、同時に。
あれは、本当に悪意というものを持って自分に接しているのだろうか。最近はそう思うようになってきた。
亮の家に上がり込んで正面から彼女を観察した時、キッカは確かに真理亜を正面から見据え、怒りという感情をぶつけてきた。あの感情のぶつけ方。老若男女を特定出来ない不可思議な声音から滲み出る感情の色。怒りとはまた違う質のそれを、真理亜は何度も見たことがある気がした。
夜風が、記憶を浮き彫りにする。風が砂を吹き飛ばして地層から徐々に顔を覗かせる、真理亜の過去の記憶にある、感情の爆発。やがて彼女は、それに気付いた。中学の時、自分の右手を突き刺した友達の見せた、あの表情から爆発して生まれた感情に、酷く似ているのだ。
嫉妬。
嫉妬の怒りが、確かに真理亜の体に打ち付けられていた。キッカのそれは静かに燃える炎であったが、鋭いそんな炎の槍は、確かに真理亜を貫いていた。
だが、と真理亜は夜道を歩きながら熟慮する。キッカは何故、自分に対する嫉妬心を抱いているのか。
嫉妬とはつまり、自分に無いものを相手が持っている時に生まれる感情だ。それは人の心の中に、あらゆる場面で湧いて生まれる。それは物であり、者であり、時に形の無い何かである。しかし、キッカにあって真理亜に無いものであれば想像は容易いが、逆は難しい。今やキッカは、その道を極めた専門家と同等の知識を、あらゆる分野に対して備えている。情報が力となるこの現代で、それに勝る優位性を自分が持っているだろうか。
か細い街灯が照らす人通りの少ない夜道を歩き、考える。自分のこと、そしてキッカのこと。
(まるで、恋煩いみたいだ)
私が亮にしているように。
馬鹿らしい、青臭い話だと思う。この年になって、幾つもバイトを巡ってパワハラやセクハラ、その他社会の諸々面倒で嫌な部分を見て、以前より一層スレた自分になっているはずなのに、今更のそれを気恥ずかしく思ってしまって、仕方がない。
モヤモヤする。そんな感情を抱えたままだから、いつの間にか路地の影から出てきていた男に気付かなかった。ハッとして顔を上げ、真理亜は青ざめた。
店に来ている、あのしつこい客だ。シャッターは閉まり、人ひとり、車一台も通らない明け方近いその夜の街の中で、引きつった、そして何処か追い詰められた風な不気味な笑みを浮かべる男が、真理亜の前に立っている。
髪を金色に染めて強がっていても、教師を一人バットで殴り倒しても。
自分に対して明確に敵意や悪意が向けられていることが分かると、恐怖で足が動かなくなった。冴えない見た目の長身痩躯の男は、それでも暴力を振るわれれば自分が簡単にそれに屈してしまうであろうことを思い知らされる。加えて真理亜は右目が見えない。暴力沙汰になったら、きっと自分より小柄な相手にも負けてしまう。
「……お客さん? あの……ご注文は、その……また今夜、お店で……」
胸の前で手を握り締め、自分を守る様に体を丸めたくなる。およそ、怯えて震えるネズミの様な滑稽な姿をしていることだろうと、真理亜は酷く混乱する頭の片隅で考える。そんな真理亜を見て、男は引きつった笑みを更に引きつらせ、口角を一層上げた。
「あ、あのですね、やっぱり直接気持ちって、あはは、伝えないとって思って……ここを通るって昨日ようやく知れたんで、待ってた甲斐が本当にあって。あはは、う、運命ですかねこれ……」
自分の理想となる、都合のいい甘い予想しか立てられない性格の人間とは、一定数居る。概して彼らは周囲の評判や評価を無視し、根拠の無い自己肯定感を増長させていき、そして失敗をする。今まで真理亜はそんな大人を見下しながらも、全ては対岸の火事の出来事として捉えていた。けれど、その被害が自分の身に及んで初めて、そうした子供じみた思考の危うさを知る。
きっと目の前の男には、理屈という説得は通じない。
動けずに固まってしまった真理亜の目の前に、男は立った。秋口の夜風に吹かれていたはずの男は、しかしダラダラと緊張の汗を流していて、気持ちが悪い。
ねえ、と尚も近付き、真理亜の体に伸ばそうとするその手を、何とか振り払う。一瞬でも手の触れたそこが、気持ち悪くて仕方がなかった。
男は一瞬、その動作の意味を考える様に硬直した後、真理亜の顔を殴った。瞬間、脳裏に暴力を振るう父の顔が浮かぶ。あとはもう、恐怖しかなかった。ずるずると体をビルの壁に這わせ、後じさりしようとする真理亜の服と体を掴み、男は無理矢理彼女を路地裏へと……本当に誰も来ないような暗がりへ連れて行こうとする。嫌だ、嫌だと声を絞り出し、ようやく悲鳴を上げられそうな声を絞り上げようとした時、恐怖と怒り、焦燥を滲ませた顔を向けた男が、再び拳を振り上げた。
あの拳が当たれば自分は、もう逆らえない。父に何度も、そう体に躾けられてしまった。嫌というほど。
私はもう、壊れてしまう。
泣き出しそうな恐怖に襲われ、背筋が凍ったその時。
突然男は全身から力が抜けた様に、グニャリ、と体を拗らせ、その場に倒れ込んでしまった。
今度は突然のことに、真理亜は体を動かせない。涙で崩れてしまった彼女のマスカラが、着ているパーカーに落ちる。そんなことも気にする余裕は無く、真理亜はそっと、震える手で男の体に触れた。
眠っていた。真理亜を殴ろうとする興奮状態にあった男が、突然に。
まさかナルコレプシー持ちなわけではないだろう。だがだとすれば、原因は何だ。
恐怖と混乱でグシャグシャになった頭で、しかし真理亜は、確信に近いたった一つの推測と結論を導き出す。
「……キッカ?」
自分の目を通して、今の状況を見ていたのだろうか。それとも、この男の視界を盗んでいたのだろうか。何の役に立ちそうにもない情報しか持たない、二人の人間の目を通して。
冷たいコンクリートの壁に手を付いて体を起こし、ゆっくりと路地を抜ける。後ろの男は立ち上がる気配を見せない。歩きながら、真理亜は考えた。
分からなかった。キッカが真理亜に抱いている感情は、嫉妬。敵対心。その真理亜に向けられた感情は決して好意的なものや中立的立場の反応に転じるはずがない。けれどキッカは確かに今、自分を助けた。それとも、箱庭病に陥る患者が夢に落ちる前に見る幻覚を見せる様に、男に何かしたのだろうか。いや、それならば今の状況で、自分を助ける理由が無い。
敵意を持ちながらにして、助けようとする。
それはどんな理由があっても、相反する感情と動作であり、作用と反作用だ。けれど、そんな感情と矛盾する行動を取れる存在を、真理亜は知っている。
人間。
どんなに敵対感情を持っていても、苦しむ相手を見ていても、良心が強く育っている人間は、相手を救ってしまう。或いは苦しみを存分に味わう前に救いの手を差し伸べる。余程の恨みや憎悪がない限りは。そして恨みや憎悪は、必ずしも嫉妬とイコールではない。
だが同時に、キッカは人間ではない。
どれだけ人間のことを知り、理解し、知識を蓄積しようとも、キッカはシーラカンスの形を取った人間以外の『何か』でしかないのだ。
キッカの心の中で、何かが起きている。
生まれついて背負った使命とは別の何かが、せめぎ合い、葛藤している。真理亜を傷つけようとする感情と、救おうとする感情との葛藤が。
(まるで、人間みたいだ……)
有り得ない。馬鹿らしい。
思いながら、しかしその考えを払拭出来ず、真理亜は路地裏を抜けて先程の通りへと出た。東の空、商店街のずっと向こうの空が、僅かに白み始めた。
ああ、夜が明ける。
キッカも何処かで、この朝焼けの空を見ているのだろうか。
*
私立の大学・高校が全国で合計二十一校、来年度の閉鎖を決定した。そんなニュースが流れてきても、亮は驚かない。それは今年が初めての話ではないし、いつか起こることではあると予期されていたからだ。
教育機関を支える職員の数も、その収入源である生徒の数も減少している今となっては、来年以降も廃校に追い込まれる教育機関は少なからず出るだろう。大学の経営破綻も例外ではない。最早亮達の様な私立大学の学生は、無事に修士課程を追えられるかどうかという心配からしなければならない。
これと同じ様な経緯を辿り、一体世の中の幾つの企業が経営破綻したことだろう。残された大企業の就職倍率は異様な競争率を叩き出すようになり、学生はより高給な仕事を目指して勉強するようになった。
そんな中で亮はまだ、モラトリアムの中に居る。
哲学科なぞに進学することを決めた自分を、両親は不安そうに見ていた。自分の進みたい進路を告げた、高校三年生のあの夜を思い出す。哲学という学問の先に、どのような就職先があるのだろうかという不安や心配があったことだろう。
けれど亮は、哲学科出身者は教職や金融業界、そして学芸員の道が広くあることを知っていた。彼は、学芸員の資格を取りたかった。特に、博物館などで働けるようになれれば、それが一番いい。
『他のシーラカンスの化石を一日中眺めるつもりかね』
口調もだいぶ、無機質なそれから癖のあるそれへと変わり始めたキッカの言葉に、亮は顔を上げて答える。
『古生物でもいいけど……化石でもいいから、何か動植物に関する知識が欲しいな』
気分のいい今日は、気さくに答えられた。
時間とは恐ろしいもので、目の前の魚が雫を昏睡状態にした張本人であることは忘れていないし、それを嫌悪していることも自覚がある。だが、四年の月日はそれを完全ではないにしろ、風化させる。時々こうして、亮が個人的に機嫌のいい時には、会話がそれなりに続くことがあった。憎たらしくとも、机の上に五十センチと離れていない距離にそれがあることは、奇妙な関係を生み出すらしい。ストックホルム症候群という奴だろうか、と漠然と亮は思った。
キッカは少し黙ってゆらゆらと体を揺らしていたが、やがて口を開く。
『キッカだけでは、足りないか』
『足りないって、何がだ』
その問いにも答えない。相変わらず、向こうから自分の話をすることの少ない相手であったが、それにももう慣れてしまった。嘆息して、すぐに亮はノートパソコンで課題レポートの作成に戻る。その途端、キッカは口を開いた。まるで自分に注意を払って欲しがる、始末におえない飼い猫の様に。
『人は、不足しているとは思わないか。あらゆる面で』
『目的語をもっと正確にしろ。らしくない』
『文字通りの意味だ。人を夢の中に閉じ込めた世界を作ったのは確かにキッカの仕業であるが、人がそれを箱庭病と呼ぶことになったその意味を考えたことはあるか』
『自分の望む通りの夢の世界を作って、そこで何でも出来るからだ』
それはニュースでも報道されて周知のことだし、何より以前にキッカ自身がそう告げた。
『そうだ。では、彼らが作り上げた夢の中身について、亮はどれだけのことを知っている』
『中身?』
『現実そのままの夢世界を作り上げて暮らしている箱庭病患者は、キッカが観測している限りでは皆無だ。これは、一つの例外も無い。現実的に有り得ない要素を大なり小なり、彼らは夢の中で作り上げ、自分の定めたそのルールを以ってして充足感を得ている。人気者になる夢、森の中で暮らす夢、宇宙を旅する夢、美食に明け暮れる夢、ゲームの様な世界を体感する夢。けれど亮も知っての通り、人は時間が経過すればするほど、感覚を麻痺させる。夢はより、刺激的な方へと加速していくのだ』
その言葉にギクリとして、亮はキーボードのタイピングする手を止め、キッカを見る。その無機質な表情からは、何も読み取れない。
『そんな夢に落ちた連中が今何をしているか、教えてあげよう。人気者になる夢を見ていた男は性奴隷を侍らせ肉欲に明け暮れ、森の中で白雪姫の様に暮らしていた女は、飼育ゲームをするかの様にシステマティックに動物を飼い、食肉工場の責任者の様に動物を管理している。宇宙の神秘を探る旅に出たはずの者は今、異星に降り立っては原住民を撃ち殺す狩人になり、飽食した美食家は人肉食に手を出している。……彼らに共通するのは、人を人と認識しなくなっていることだ。自分が何の裁きを受ける環境にもないことを認識した彼らは、自分という個以外を認識しなくなっている。あらゆる生命は、動植物や人を問わず、記号にしか見えていないのだ。何故か分かるかね』
子供でも大人でも老人でも、男でも女でもない無機質な……或いはその全ての要素を内包する声ならぬ声は問い掛ける。亮は答えられなかった。『孤独だよ、亮。人は生来、孤独なのだ。それが種として不完全であり、自然環境で無力そのものの象徴であることを本能的に理解しているが故に、人は共同体を作り、それを組織化し、システム化されたそれは人自身ではなく環境を変え、環境を自分達に適合するよう変換する。孤独から生まれる無力を極度に恐れるが故に』
『……それは動物も同じだ。コミュニティはどの種にも存在する』
ようやく、反抗らしい言葉を絞り出せた。だが、キッカは引かない。
『だが、他の種は環境に適合して生きる為の進化をした。それが証拠に、人は三万年前のホモ・サピエンス・サピエンスの頃から進化していない。他の生物はあんなにも多様な道を歩み続けているというのに』
『お前こそ、数千万年前の遺物に過ぎないだろうが』
或いは、異物。その言葉は、言い得て妙に思える。だがキッカは言う。
『そう。だから人は、キッカに似ている』
『何だと?』
『孤独を恐れ、しかし根本的に人は孤独であるが故に、共同体を形成する。だがキッカが人類に見せた「夢」は、その孤独から来る恐怖を希薄にし、曖昧にし、そして打ち破ることが出来る。人がその誕生以来宿敵としていた孤独という名の敵から、キッカが救うことが出来る』
「これが救済だってのか!」
思わず声に出して怒鳴り、亮は椅子から立ち上がる。「ふざけるな!」
『キッカは孤独であり続けるが、人間は違う。現実に溢れる孤独から逃げる、解決策をキッカは与えているに過ぎない。箱庭病の人間達は、人を必要としない。自分が幸福になる為の記号だけを必要としている。それもまた孤独の別の形に過ぎないが、少なくとも恐怖からは解放される。けれど亮は、そんな夢を見たくないと言う』
「……当たり前だ」
答えると、何故だろう、キッカは笑った……ような気がした。
魚の顔が笑顔を作るなど有り得ない。ただの錯覚に過ぎない。そう自分に言い聞かせ、亮は午後からの講義の準備をし、それ以上話し掛けようとするキッカを無視し、足音も荒く部屋を出た。
必修の講義に出た後、引き続き同じ選択必修に出る友人と雑談をしながら、三号棟に向かう。また今日も、キャンパスの中に居る学生の数が減った気がした。選択科目の講義をする教室に入るとその印象は顕著になり、講義開始二分前にも関わらず、前期当初から続くこの講義の出席率は三分の二程度になっているようだった。
教室の中ほどに、先に来ていた女子学生友達二人と並んで座る。
減ったねー、と挨拶がわりのように、出席者数の話題を振られ、同意する。それでも試験は来るんだよ、ととぼけて言って、授業前の談笑。
講義が始まってからも時々、女子二人と亮ら男子二人、お互いが小声で雑談をして過ごす。そんな他愛の無い時間を過ごし、時々ノートに重要らしいことを書き留めていた。一切板書をしない講師なので、聞き取りと、必要な用語や解説のメモは必須だった。
そんな時間が一時間を過ぎた頃、前に人が座っているのを幸いに、女子の一人が机に突っ伏して居眠りをする。その隙に、亮の隣の友人が耳打ちした。
「その子、お前に気があるぞ」
「うーん」
「贅沢な奴だな、可愛いだろ。OKしちまえよ」
「可愛いけど、それだけで好きになるわけじゃ」
「難しいこと考える奴だな。初めてなら教えてもらえよ」
「黙れ」
下らない会話だと思ったので、そう言って強引に打ち切った。講師の話を聞きながら考えるのは……真理亜のことだった。
四年前のあの日、亮は真理亜に告白をしようとした。けれど彼女は、同情から来る告白など御免だとそれを拒絶した。当然だと、亮も改めて思う。
当時僅かに、少しずつ、真理亜の体や言葉から染み出す自分への想いには気付いていた。けれどその答えを先延ばし、答えることをしなかったのは、亮の怠慢だった。幼馴染みで、すぐそばに居て相談も出来て、あの三人の中で一番気安く話し掛けられる間柄。そんな関係性を発展させ、変化させるのが怖かった。もし、自分の自惚れであったら。もし、深くお互いを知っていく中で幻滅する瞬間を見てしまったら。その程度で感情が揺らがないと断言するには、亮の真理亜に対する感情はあまりにも不安定で、不確かだった。
そして真理亜に指摘された、自分の、キッカへの執着。
不気味なものであると理解していながらそれを結局手放さず、すぐ手元に置くばかりの自分に、きっと真理亜は幻滅していたのだろう。
だからこそ、先日の出来事を思い出す。久し振りに亮の家を訪れた真理亜の、あの匂いと目付き。
変わらない。彼女には変わらないものがある。彼女はそれを持っている。決して揺るがないものを。それが何か、亮にはよく分からない。けれど、自分の中に確かに信じられる大きな強い柱を持っているということは、とても魅力的な部分に思える。
隣の子から、それを感じることは出来なかった。
講義が終わる。友人は伸びをし、亮はノートをリュックに仕舞った。女友達の一人は手鏡で髪を直していたが、もう一人はまだ突っ伏して寝たままだ。
「ほら山崎さん、終わったよ」
苦笑して肩を軽く叩くが、反応が無い。「おーい」
強めに揺らすが、それでも彼女の体は自分の意思でピクリとも動こうとしなかった。女友達も揺すってみるが、それでも彼女は、目を開かない。
嫌な予感。おい、とかなり強く肩を揺する。反応は無い。友達二人はざわつき始め、混乱した。まさか、という疑念は強くなり、女友達は口を押さえて顔を青くさせる。
「嘘……夢なんて全然見ないって、今朝だって話して……」
「医務室は、四番館?」
友人と二人、亮は眠り続ける生徒の肩を担ぎ、遠巻きに様子を眺めてざわめく学生達の衆目の中を歩く。
何故、こんなことに。何故だ、キッカ。
声に出さず、悪態をつく。すると、キッカの声が頭の中に響いた。
『亮。もう全ては、そうなっていくんだ』
家から離れた場所で彼の声を聞くのは初めてだった。額に汗を浮かべて友達を運びながら、亮は問い返した。
『どうして、俺を苦しめるんだ!』
『苦しめてなどいない。キッカは、救い続けている。孤独から』
『お前が人を孤独だと言うのは分かった。だがやっていることは、また別の孤独に人を放り込むことだけだろう!』
『見方によっては、結局そうなるかも知れない。けれどキッカにとってそれは二次的なことに過ぎず、全ては孤独からの解放を目的としている』
『だからそれは……』
『孤独からの解放とは、人類の、という意味ではない。キッカと亮の孤独の、という意味において、それは作用する』
俺の?
亮は意味が分からず、言葉を返せない。キッカは続けた。
『人は孤独だ。つまりは、亮。君も孤独だ。キッカの様に。だからキッカと二人、世界の孤独に抗おう。キッカと共に……』
ね? 亮。
最後に、無機質な言葉の中に僅かに、感情らしき何かが混ざり込んだ気がした。それが何か、亮には分かりかねる。
しかしその、自分の名前を呼ぶ声を聞いた瞬間。彼は、今までキッカに対して当然のものとして抱いていた『彼』という声に、初めて女性的な何かを感じた。
*
