Cの世界

       3-1 覚醒


 南アフリカ コモロ諸島沖

 マダガスカル島とアフリカ大陸を結ぶ最短距離直線上よりもやや北東に、島はある。
 天候はいいが、少し波が高かった。モニタを確認していると、それだけで酔ってしまいそうになる。今までテレビや写真資料でよく見る、研究者やカメラマンが調査船の床に座って目線より高い位置に置かれた液晶を、やや苦しそうな姿勢で見る意味が分かった気がした。
「いやあ、しかし豊垣君は、運がいいねぇ。今まで、現地調査と言えばインドネシアだったから」
 元気そうに言う好好爺然とした男、早見坂は声を掛けた。
 播磨はモニタから視線を外し、早見坂を仰ぎ見る。彼は現地に非常に馴染んだ服装に身を包み、ニヤニヤとしている。
「運がいい、って言っていいんですかね」
 溜め息混じりに疑問を投げ掛けた。シーラカンスの研究費など、今の時代に中々下りない。今回、インドネシアではなく、ラティメリア・カルムナエ……人類史上初めて生きたシーラカンスを発見したその原点の地・アフリカで調査をすることが出来たのは、他大学との合同研究の予定が立ち、尚且つ、マダガスカルへの調査チームに同行するツテを確保出来たからだ。つまり、マダガスカルの生物学調査チームのおんぶにだっこして実地研究に漕ぎ着けるという、情けない話である。
「来られた以上、恥も外聞も関係無いねぇ。存分に調査していこうじゃないの」
 明るい早見坂の声に幾らか励まされて、播磨は改めてモニタを確認した。デッキに鎮座している自走式水中ロボットカメラ……Remotely Operated Vehicleの頭文字を取り、ROVと呼ばれるカメラの視野確認を行う。山田、神宮寺、結城の三人が、ROVを直接視認しての動作確認をした。
 問題無しと判断されたROVは現地スタッフの手も借りて、ゆっくりと海中に投下される。後は、播磨達の仕事だ。
「いい成果が出るといいねぇ」
 やはり呑気なことを言う早見坂の物言いや物腰は、昔水族館でその姿を見た時から変わらない。
「と言うより、結果を出さないと無駄になるでしょう、時間も予算も。それだけは避けたいです」
 モニタを見ながらリモコンを操作する山田の補助をし、同様に別画面のモニタを確認しながら播磨は言った。すると山田が口角を上げて微笑む。
「熱心だな。でももう少し楽しめよ」
「でも余裕が……」
「今の時代、何処にも余裕なんてねーよ。下手すりゃ、お前がうちのゼミ最後の院生になるかも知れねえんだし。……院、来るんだよな?」
 言われて、播磨は黙った。
 そうだ。このご時世、箱庭病の解明以上に有用な研究など無いだろう。そんなものと全く無関係なシーラカンスの研究など、誰も興味を持たない。だが播磨は、自分の研究がきっと現状の打開に役立つと、そう信じて疑わなかった。
 その根拠について、ゼミの誰にも言ったことは無かったが。


 キッカが引き起こす、昏睡症状。それはいつしか、箱庭病という俗称を付けられた。昏睡に陥る前に患者が口にした、自分の好きな光景や空間、理想としていた光景や世界が映り出すという、その証言から生まれたものだ。
 自分の好きな世界を、自分の思う通りに作り出せる。そんな明晰夢の様な夢を見る昏睡症状は、人によってはとても幸福な夢なのかも知れない。だから、社会的逃避型睡眠障害及び多機能不全症候群、という正式な病名が名付けられたのも、無理からぬことだった。
 ……結局、雫が箱庭病に罹患して眠りに落ちたあの日から今日までに、世界人口の十分の一が、眠りに落ちてしまった。加えて、日本の発病率は更に高く、世界中央値に比べて一・三倍である。
 今は日本国民の七人に一人が、いつ目覚めるとも知れない眠りに落ちている。
 ものの本で、軍事用語で言われる壊滅とは、部隊の三分の一が戦闘不能になる状態である、と読んだ記憶がある。その時播磨は、思っていたより大したことないものだな、と感じたものだが、実際に三人に一人が自分の周りから消えていく状態となったなら、それはきっと、とても恐ろしいことだ。そして、七分の一の人間が消えたこの日本で、既にその危機性と社会機能の鈍化を実感せざるを得なかった。
 電車やバスの運行が減り、交通渋滞は減少。スーパーに出回る商品や品目も減り、定期的に更新されていた科学技術や知識も停滞を続けている。大企業・中小企業を問わず数百からなる数の法人が経営破綻し、GDPは四パーセント下がった。課税対象や税率は軒並み増えるが、それは国の財政予算が逼迫した為の措置であり、だから社会福祉などの国民への還元が行われるわけでもない。
 だから播磨達の研究も、こうして全く関係の無い調査団との合同研究に複数団体が便乗する、という流れも、最近増えてきた。
 だからせめて、調査四日目となるこの日、そろそろシーラカンスの姿をカメラに収めたいものだと思っていた。調査開始からまだ一度も、その姿を目にしていない。
「観測スポットまでは?」
「潮が高いので、ちょっと時間が掛かります」
 山田は返答しつつ、モニタから目を離さない。観測場所として決めているシーラカンスの巣は、ドロップオフの岸壁沿いにある小さな洞穴だ。だが、潮の流れた波などの問題でROVはいつも思う通りに動かず、目的地までそれを操作するのは困難だった。プログラムされたルートを自動潜航するAUVカメラもあるが、動く目標を追尾し、観測するには向いていない。結局は、高校時代から変わらないアナクロなリモート操作になる。それが正直、播磨にはもどかしかった。
「見ろ」
 カメラ潜航から、四十分が経過した頃、山田が興奮した声で言った。慌てて播磨達がモニタに顔を近付けて、ぎゅう詰め状態でそれを見る。
 シーラカンスだ。黒に近い紺色のコズミン鱗。そこにうっすらと浮かぶピンク色の斑紋。ゆっくりと動き、どんよりとした緑色の目をカメラに向けている。その姿に早見坂を含む一同が興奮して歓喜の声を上げるも、播磨は静かだった。
(あいつと、姿はあまり変わらない……)
 コモロシーラカンスの特徴は、キッカと一致している。皆が、最新ROVのレンズで確認したシーラカンスの画像に感動している一方で、彼はその画質が荒く感じられて仕方が無い。昔、もっと鮮明な本物の生きたシーラカンスを、嫌というほど見てきた所為だ。
 だが、だからだろうか。僅かな違和感を覚えた。遠い記憶の中にある、今や朧げになってしまったキッカの姿を思い出し、必死に思い出そうとする。
 そして、その違和感の正体に思い至った。
「先生。コモロの口、こんなでしたか?」
 モニタに指を差し、播磨は早見坂に尋ねる。早見坂が眼鏡を押し上げてそれを確認し、ああ、と肯定する。
「特徴的だよね。頭頂骨の構造が変わっていて、これは普通の動物や魚類は一つだけど、シーラカンスは目の上あたりで前後に分かれている。このつなぎ目は関節になってるから、餌を食べようとして口を開けた時、下顎が下がるだけじゃなく、上顎も少し上がって開くようになっているんだ。現存する生物の中では、シーラカンスだけに見られる特徴だね。あ、ほら。口をパクパクしてる。可愛いねえ」
 子供の様にはしゃぐ早見坂に構わず、播磨はそのシーラカンスの動きをずっと注視する。
 記憶の中にある、キッカの姿が間違い無ければ……これは……

       *

 買い物に出掛けた伽耶に代わり玄関のドアを開けると、随分と見ていなかった顔があった。その顔は少し緊張している風に見える。最後に見た時と変わらない金色の髪は、しかしその髪になってから見た回数が数える程しかなかったので、まだそれが真理亜本人の顔であると、すぐには頭の中で結びつけられなかった。ガラス玉が入っているらしい右目は、しかし一目見ただけではそうと分からない程度に自然だった。それでも本人は無意識なのか、短い前髪を下ろして隠そうとしているようだ。
「久しぶり」
 笑顔を浮かべて見せる彼女の表情筋は、やはり硬い。亮は数秒間思考を停止させた後、ようやく口を開いた。
「どうして来たんだ」
「別に、深い意味は無いよ。でもホラ、時々あるじゃん? 小学生の頃離れ離れになったあいつどうしてるのかなーって懐かしくなって、ちょっと顔出したくなる日っていうか」
「キッカに会いに来たのか? 取り敢えず入れよ」
 社会人として仕事をしている間に変わったのだろうか、僻んだ様な、遠い場所を見ている様な目つきはややなりを潜め、それに合わせて性格も丸くなった印象がある。そうでなければ、あんな滑らかに、そして周りくどく舌が回るわけがない。
 真理亜は言われて、少し気恥ずかしそうに亮の家に上がった。
 高校で交わされたあの会話は、まだ亮の記憶の中にある。大学は実家から通っているが故にまだその時の衝撃は、育った家と空気の中に染みつき、忘れることが出来ないままだ。勿論、今も。
 二十一になり、しばらく会っていなかった相手との会話ということも手伝い、亮は真理亜を自分の部屋には通さず、リビングのソファに座らせた。
「おばさんは?」
「買い物。何がいい?」
「麦茶」
 それがこの家に常備されていることを、彼女は知っている。苦笑して、亮は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
「今、何処に住んでるんだ」
「遠くはないよ。駅からはちょっと、離れてるけど」
「翔君は?」
「お陰様で、国立行った」
「めでたいな。……それくらいの連絡、してくれよ」
 グラスを運びながら言うが、真理亜は無言だった。
 この四年と二ヶ月、真理亜が自分から連絡して来たことは殆ど無い。亮は、グループメッセージとは別に彼女の個人アカウントに、何度か連絡をしたことはある。播磨は海洋研究の学部へ、自分は哲学科へ入学した。成人式には出る予定だ。職場はどうだ。真理亜の好きな映画の続編やるぞ。何処かでちょっと飲もう……
 既読のチェックはついたが、真理亜からの返事は無かった。彼女が出来た、と嘘の連絡をしてみた時以外は。
『どんな子?』
 単刀直入な質問。戸惑い、すぐに『嘘』と返信した。やはりそれ以来、返信は無かった。
「あの時どうして、嘘ついたの」
 頭の中を読んだ様に、真理亜は質問をする。濡れたグラスを持ち、彼女が要望したにも関わらず、口は一切付けなかった。亮は迷ったが、正直に言う。
「気にしてくれるかと思って」
「ご期待に添えられて光栄だよ」
 幾分緊張が消えたのだろう。反比例する様に、表情から丸みや明るさは消えて、僅かに遠い目をする昔の面影が蘇る。その懐かしさの感傷に浸るよりも先に、麦茶をグイ、と一気に飲み干した真理亜が言う。
「キッカに会わせて。確認したいことがある」
「どうしてもか。俺が確認するんじゃ駄目か」
「直接見たい。もう四年も前だから、曖昧なの。私にまだあいつが見えてればいいけど」
「……見えるよ」
 言い切った。その言葉に、真理亜は首を傾げる。
「どうして分かるの」
「あいつが、そう保証してる」


 キッカが雫を箱庭病にして以来、亮は石を持て余していた。
 何処か遠くへ捨てたとしても、病は今や世界中に広がっている。現状で彼らを目覚めさせる手段が存在しない以上、今後解決策が見付かった時に備え、目の届くところに保管するのが最良だと思えた。しかし視界に入れていて気持ちのいいものではないからと箱や押し入れに閉じ込めようとすると、何故かキッカは外に出せとせがむ。
 イカが居るんだから何処に居ても関係無いだろうと反発してみるが、四六時中頭の中へ話し掛けてくるのでは堪らない。結局、石は亮の机の上に今でも置いてある。
 だから、嫌ではあったが時々、憂さ晴らしや暇潰しに短い会話をしてみることがあった。そんな中で何度か、真理亜の話になったのだ。だが真理亜の話をする時はほぼ決まって、と言って良いほど、キッカは彼女に対するネガティブな話をした。
『今日は仕事をミスして怒られている』
『弟と喧嘩したらしい。彼女が悪いのに』
『狭いアパートで呑気にテレビを見ている。笑っていられる境遇かな』
 それは、十年以上に渡る付き合いをして来た中でも異例な態度だった。彼がそれまで、亮を含む四人に対して個人的とも言える言葉や感情らしきものをぶつけて話す例は、これまでに無かったのだ。
 亮には、何故キッカがそこまで真理亜を嫌うのか何度も訊いたが、しかし彼は『嫌ってなどいない』と否定するばかりだ。
 そこまで嫌うなら、もう自分を認知させないことも出来るのではないか。雫にそうした様に。そう言うと、キッカは言葉に珍しく歯痒さを含めた物言いをした。
『真理亜に対してそれが、出来ればいいのだけれどね』
 その言葉を、亮はまだ覚えている。だから、真理亜が「久しぶりだね」と机の上のキッカに話し掛けたのも、驚かない。寧ろ、雫を箱庭病にした張本人を前にして、酷く冷静でいる様に見えた。
『何故、来た』
 とても無機質なその声音を、随分と久しぶりに耳にした気がする。ほんの僅かな声の揺れ動きの違いが、キッカの言葉に表れていた。真理亜はジーンズに手を突っ込んだまま石を見下ろし、とぼけてみせる。
「人類の敵に、喧嘩でも売ろうかなって」
『キッカはキッカの目的を果たす為に行動をしているに過ぎない。ただ飯を食う以外の目的で働く意味を見出さない君とは違う、真理亜』
「言うようになったねぇ。何様?」
 売り言葉に買い言葉の光景は、最早既知の間柄の仲だった者同士で交わされる言葉ではない。亮は二人(一方は魚だが、最近は人間味を帯びていることもあって彼を人扱いし始めている)が向かい合う様子を、ベッドに座って所在無く眺めていた。
「そんなに気になるなら、私の頭の中でも覗いてみたら」
 真理亜に煽られ、キッカは問う。
『何の用だと、訊いている』
「じゃあシンプルに訊くわ。あんた、何年前から居るの」
 沈黙。亮は頭が混乱した。
「真理亜、何を……?」
 亮に問われた真理亜は腰を屈め、それを無視して石を覗き込む。半ば睨み付ける様にして、彼女は口を開く。
「出会った時、あんたは言葉なんて話せなくて、自分の感情を無理矢理言語化して、何とか亮を引き寄せた。他にもあの声を聞き取れる私達が言葉を教えるようになって急速に知識と知能を向上させたから、気付けなかった。私達はみんな、あんたが生まれたばかりの何かだと思い込んだんだ。……でもそうじゃない。キッカ。あんたは誰にも出会えなかったから、言葉を知らなかっただけなんだ。そういう意味では、赤ん坊と同じ。そういう意味では、私達の考えは間違ってなかった。でもそれなら、おかしなことがある。あんたは亮を、自分の居場所まで導いた。表面を削り出す前の石の中で、石の外の世界の光景を見られた。……あんたは知ってたでしょう。私達を通して知識を得るよりも前に、或る程度のこの国の歴史を、もしくは人類の歴史を」
 キッカは、答えない。ただ、いつもの様に優雅に泳ぎ、石の中を動き回るだけだ。だがお互いが次の言葉を交わすことは無かった。ヒュン、と十枚あるヒレを器用に動かし、素早く方向を変えて、キッカは暗闇の中へ消えてしまった。本物のシーラカンスが、巣である岩の洞の中に隠れる様に。
 一体あれは、と訊こうとしたが、真理亜は体を起こし、振り返った。
「帰る。どうもね」

       *

 頭にアルミホイルを巻けば思考を相手に読まれることはない、という一昔前のオカルトを信じるわけではないが、キッカがいつ、自分達の脳に入り込んでいるかが分からない。癪ではあったが、真理亜は亮の家を離れ、駅から十五分の距離にあるアパートに帰り着いてからも、しばらく何もしなかった。
 アルバイトと学業に勤しむ翔は不在で、母はまだ寝ている。そろそろ、夜の仕事もキツい年だと思うと、余計に働かなければならない、と心が焦る。
 全てが、もどかしい。
 新しく判明した事実をすぐに播磨に連絡出来ないことも、真理亜を苛立たせる。アルミホイルを被ればキッカにバレることはないだろうか、と度々考えるものの、それを試みている自分を客観的に見て、非常に馬鹿らしく滑稽に見えるだろうと考えると、おいそれと実行することは出来なかった。


 ……播磨から連絡が来たのは、一昨日のこと。パソコンからのメールだった。
 話によれば彼は今南アフリカで、実物のシーラカンスを現地で研究しているとのことである。よく播磨からは自分の研究に関する近況連絡を受けていたので、遂に行ったんだ、と感激した。
 だが本題は別にあるらしく、続くメールにはこう記載されていた。

  シーラカンスと一口に言っても、この古代魚には種類がある。細かく枝分かれしてい
 て、学術的な分類は二十以上になるが、現存種はラティメリアと呼ばれる一種類だけだ。
 古代魚と呼ばれる都合上、原生種と変わらない姿をしていると思われることも多いが、
 この一種類が残るまで、今までに発見されたシーラカンス目は進化を続けてきて、見た
 目の形態もかなり異なるシーラカンスの化石は様々確認されてる。つまり、シーラカン
 スにも進化の過程というものがある。
  キッカには実体が無い。それはつまり、餌を必要としないということだ。だがこちら
 でラティメリア・カルムナエの姿をよく観察して、違和感に気付いた。シーラカンス目
 の特徴は、二つに分かれた頭頂骨で、これはどんな科や属にも共通している。だがその
 形態は分類によって様々で、同じシーラカンス目でもまるきり形が違う属のシーラカン
 スも居る。キッカは、現生シーラカンスのこの特徴と違う外見をしていた気がする。
  つまりあいつの体は、現在のラティメリア科に分岐するよりも前の種である可能性が
 ある。食事を取る必要の無いキッカは、頭頂骨が割れる必要性を持たない生態を辿るに
 至る、新種のシーラカンスである可能性が高いんだ。その場合どんなことが言えるか、
 分かるか?
  キッカはあの石の中で、あの石と共に、数千万年、場合によっては数億年の時代を生
 きている可能性がある。
  実物のシーラカンスの鮮明な画像を送るから、一度直接、キッカの外見を確認して欲
 しい。これは亮には頼めない。あいつは、キッカに近過ぎるから、きっと悟られる。こ
 れがキッカの隠したい事実であるなら、あいつは確認前に自分の姿を眩ませるだろう。
 確認した後ならどうでもいいが、とにかく確証が欲しい。

 播磨の言いたいことは、真理亜にも分かった。
 もしもキッカが、現存しているシーラカンスの科に進化するよりも以前に生まれた個体の姿を模した姿を取っている、という確証が得られれば。キッカとその石が、その科の生存していた時代の、いずれかのタイミングで生まれたことになる。進化という過程が存在しない、実態を持たない文字通り幻の魚なのだから。
 だが、だとすれば、何故?
 仮にキッカが数千年を生きた存在であるとすれば、その価値観や価値基準は、人類のそれから大きく逸脱している。壊れる、という概念を持たない生き方をしてきたキッカに、生死の概念は非常に希薄なはずだ。けれど、キッカは自分の住む石が破壊されることを恐れている様に見える。石を壊して自分を殺せば箱庭病の患者は、そして雫は永遠に目を覚まさないと真理亜達を脅してそれを踏み留まらせてはいるが、高校時代までの無機質で機械的なキッカの立ち居振る舞いを見れば、『壊れてみるのがどういうものか、関心がある』程度のことは口にしそうなものなのに。
 モヤモヤする頭と灰皿を抱え、八畳間の畳に腰を下ろし、真理亜は物干し台の窓を開ける。洗濯物は無く、抜ける様な青空が広がっていた。煙草に火を点けて、深く煙を吸い込み、空に向かって吐き出した。
 揺れる煙が時々、亮の横顔を描いている様な錯覚があった。きっと亮に想いを伝えれば、この幻覚も見えなくなるのだろう。けれど、彼が真理亜を受け入れてくれるかどうか。それはまた別の話だ。
 勢いに任せて何かを口走ろうとした四年前のあの日、もしもあの告白が成功して、彼と恋仲になったとして。亮の言葉が本心であるかどうか、いつかもう一度、確かめなければならなかっただろう。それは、自分と亮の心への反旗であり、冒涜に近い。少なくとも真理亜にはそう感じられた。
 心から信頼し合える関係にもう一度戻れば、また違うのだろうか。何度も考えるけれど、答えはまるで見付からない。
 真理亜はもう一度、煙を吐いた。そうして、今夜のバイトを憂鬱に思う。真理亜を目当てに通い詰めている男が居て、最近、禁じられているにも関わらず連絡先を聞こうとしたりボディタッチをしようとしたりと、度を過ぎた言動が目立っている。店長は何度か注意したが、一日経てばその言葉も忘れているらしい。
 物好きもいるものだ、と呆れ、そして全てが自分の望むものほど届かない場所に遠く去ってしまったような気がして、胸が苦しくなった。
 今日と違う明日は、いつからやってくるのだろう。

       *

 欲しいものを、欲しいだけ。望むものを、望むだけ。
 キッカが雫に言った言葉は嘘ではなかった。地球という星の表面が海に覆われてしまったかの様な世界を舞台にした夢の中で、雫は水に濡れない本を開き、今までに何十冊、何百冊という本を読み終えた。あらゆる全ての知識、情報、学問がそこに記されている。それは、キッカが雫達を通して触れて知った世界の全てであり、彼がイカを世界中に拡散させて無秩序に仕入れた、情報の氾濫だった。
 幾ら時間があっても、読み終わることが無い。永久に続く物語を、ずっと読んでいられる。今の雫が望むのは正に、この世界だった。
『おはよう』
 キッカの声で、雫だけが座る図書館に入って来たイカが、話し掛けてくる。数十時間ぶりに、雫は顔を上げた。おはよう、と返事をするが、現実世界の時間が今何時なのかは分からない。『また随分読み進めたね』
「でも、現実世界で読んでた時の速度より、まだちょっと遅い気がする」
 人間とは贅沢なもので、魚になって海の中を自由に動く、というあれだけ素晴らしい体験をして尚、雫は飽きを感じていた。何より、本を読むなどして自分の頭の中の情報をアップデートしないことが、何より気持ち悪いと感じていたのだ。だから人の姿に戻り、王立図書館の様な建物を街の中に一つ作り上げ、そこでキッカの頭の中から供給される知識の全てを、本という形にしてインプットしている。ただ、その読書という単純な作業が、体が以前ほど追いつかないのだ。
「おかしいかな」
 問うと、キッカは否定した。
『いいや、自然だ。君がエイとなって泳いでいた時間は現実世界の時間と同じ時間の中を過ごしていたが、今本を読んでいる君は、加速された時間の中を生きている。雫が本を読み始めてこの世界では十年が経つが、現実世界はまだ君が夢を見始めてから、四年しか経っていない。肉体と精神の時間感覚がズレているから、人間的な動作にラグが生じている。オンラインで動画を視聴していると、途中に読み込みが入った時、シークバーは数秒分ズレた状態で再生を続けるだろう。自分でシークバーを動かせない以上、ブラウザを再読み込みしなければラグは解消されない。この世界で言えば、一度目覚めなければラグは解消されない。だから、君が本を読む速度やそれに掛かる負荷については、もう解消されることは無い。体を休めながら、知識を吸収するといい』
「精神の加速?」
『君は沢山の本を読みたいと言った。キッカの知識に追いついてみたいとも、だがそれでは、現実世界と同じ速度で読んでいては到底追いつかない。だからキッカは雫の脳に干渉し、神経シナプスや自律神経に電気的な操作をし、主観的時間を三倍に加速させている。現実世界の一分は、雫にとっては二十秒に満たない』
 分かったような、分からないような、という話だった。だが時間を掛けて少し頭の整理をし、一つ訊いてみる。
「もっと時間の流れを遅くすることは出来ない?」
『遅くなるのは主観的時間であって現実時間ではないが、そのことを言っているなら無理だ。今雫は、雫という人間一人の夢の中で生きているから、その精神の電気信号の影響を受領出来る領域の総和は人間一人分だ。どれだけ雫の主観時間を加速させようとしても、今以上に精神伝達速度を加速させることは出来ない。例えば、この夢のホストがキッカであり、キッカの夢の中で雫という精神がキッカの夢を共有している状況であれば、二人分の神経シナプスを直列的に配置し、より時間を加速させられるが、生憎ここは君の夢の中だ。入り口を作ったのはキッカだが』
「そうしたら、倍に加速する?」
『否。電気信号によるパルスは、単純な二倍の指数関数を描かない。二人分の加速であれば、現状を更に三百倍の速度に加速させられる。だが、無意味な話だ。雫は雫の夢の中を生きている。誰かがそれに割り込むことは出来ない。キッカ以外は』
「三倍が、一人増えただけで三百倍? どういう計算なの」
『平面図の面積を求める時、一辺の長さが倍になれば面積は四倍になり、立体は八倍になる。これはそういう類の計算をするのだよ』
 つまり、二人分の神経細胞があれば現実の一時間が、夢の中では約一年になるのだ。三人分のニューロンがあったら、どんな世界を見られるだろう。魅力的な様な、空恐ろしい様な、曖昧な感想が雫の頭に浮かぶ。それにしても。
(四年、か)
 雫は、十年をこの夢の中で過ごしている。本を読み、時々魚や鯨、イルカに姿を変え、自在に海とかした空を、町の上空を泳いで楽しんでいる。
 美しく、完璧な世界。誰も、自分が自分のしたいことを邪魔しない。幸福の所在や形について問われたら、雫はまさに自分の体験しているこれがそうだと、ハッキリと答えることが出来たろう。
 けれど、ここには播磨も亮も、真理亜も居ない。
 雫が思い描いた妄想上の彼らを生み出し、共に過ごすことは出来る。けれどそれは、現実の彼らではない。彼らはまだ二十一で、夢の中の雫より六年も過去を生きている。
 雫は、現実世界に戻ることをまだ、諦めてはいない。その時にはちゃんと、現実の彼らと出会いたい。それを強く望み、そして現実への帰還を信じているが故に、雫は今、耐え忍んでいるのだ。恐らくキッカを倒すことが現実世界へ戻る唯一の道ではあるだろうが、もし目覚めてもキッカがまだ生きていた場合に備えて、彼女は備える必要がある。
 だから、もう一つ質問をしてみた。
「ねえキッカ。体感時間を任意で加速させられるなら、自分の精神を加速させて情報を集める方が、効率はいいんじゃない? 私達と話す時はまた、別としてさ」
 すると、それまで流暢に即答していたキッカが黙る。空中をゆっくりと漂うイカの目はギョロギョロと動き、忙しない。雫はその大きな眼球を、じっと見つめる。やがてキッカが答えた。
『キッカも他人も、体感時間を加速させる上では少々不都合が生じる。現実時間と加速時間を共有させ、併走させることは出来ない。それぞれが独立している分には問題無いが』
「時間を共有するってのは、どんな時?」
『情報のやり取りが生じる時。例えば今、雫の肉体は病院のベッドの上にある。時々雫の両親は雫に一方的な言葉を投げ掛けているが、それを雫が夢の中から正確に聞き取る為には、この夢の加速を一旦遅くし、現実世界の時間と速度を等しくしなければならない。三倍速までであれば何とか部分部分を聞き取ることは可能だろうが』
 突然、自分の肉体が置かれている環境、そして取り残された家族の情景を突きつけられ、雫は内心で狼狽した。けれどの様子を気取られまいと、平静を装って「ふーん」と納得した様に声を出してみる。
 それでも、涙ぐみながら横たわった自分に独り言の様に話し掛け、泣いている両親の姿が容易に想像出来てしまう。動揺するまいと、背伸びをしながら立ち上がる。
『何処へ行くのだね』
「気分転換。また、しばらく泳いでくる」
 言って、二十人掛けが出来そうな長机が何十脚もある、利用者の誰も居ない図書館のホールを真っ直ぐ、出口まで歩く。階段を降り、重々しい正面扉を押し開け、夏の太陽が照る空の下に出た。そうして今度こそ、思い切り体を伸ばす。
 そうして、自分の体が変わっていく様子をイメージする。まずは両腕、頭、そして脚。それらは服と共に体に吸着していき、蠢く体表は色と形と組織を瞬時に変えていき、イルカのそれへと変化する。
 尾びれが完全にイルカのものへと変わる直前、雫は強く床を蹴る。飛び上がった瞬間に完全に変化したヒレを強く打ち、雫は空へと向かって泳ぎ出していく。そうして、広大な空の海を泳ぐ無数の海洋生物の中の一匹として、自由に、優雅に空を泳いだ。
 泳ぎながらも、考える。
 キッカの説明は、もっともらしい。だが、妙に引っ掛かることがある。
 データの蓄積は、加速した時間の中でも可能だが、それを理解するとなると時間を要する。それは当然のことだ。だが、その理解をする為の速度に必要なのは、CPUだ。それさえ問題無ければ、情報伝達の速度が何倍速されようと何の妨げにもならないだろう。
 雫達が初めてキッカと出会ってから、言語を習得するまでの速度。歴史、数学、文学、芸能、文化、科学、物理学、芸術。それらの基礎概念を理解したのは、雫達が中学に入って間も無くだ。つまり、出会ってから五年。生まれたての赤ん坊が、五歳で中学生かそれ以上の知能を習得する。人間では有り得ない。そんな高い知能と能力がありながら、加速した世界で知識をインプットし、理解することが出来ない? それこそ、有り得ない話だろう。
 で、あれば。
 キッカが加速した世界で生きることが出来ないのは、現実世界からの干渉が理由ではない。自分が現実世界へ干渉することが出来なくなるからだ。
 他人にテレパシーを送って会話をし、或いは神経系に進入して幻覚を見せ、人を昏睡状態に陥らせること。それが今判明している、キッカが自分の精神の内側から外部に向かって出来ること。だがこれは、果たして必要なことだろうか。
 会話も、強制睡眠も、随時現実世界の時間とリンクしている必要があるわけではない。都合のいい時に時間の流れる速度を戻し、対象に干渉すればいいだけの話だ。
 一時的にも、超能力のアウトプットを中断してはならない状態に、キッカは置かれているというのだろうか?
 そこまで考えて、ハッと思い出す。キッカはこの夢に雫を連れてきた時、言った。明言はしなかったが、否定もしなかった。
 彼もまた、彼が使うイカ同様、誰かの目であると。
 それは丁度、海に浮かぶ観測ブイ。或いは……衛星。
 はた、と雫は動きを止め、空という名の海に漂い、呆然とする。
 彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて読んだ本の、章の見出し。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
 あの本を読み、その本に関連した話をしたあの日から、雫の目は痛み出した。思えばあれが、キッカが自分の視神経に干渉し始めた合図だったのだろう。雫は高速で頭を回転させる。
 キッカは他の誰でもない、雫が最も真実に近い場所に立っていると言った。まさか、海とそこから連想される宇宙についての話が、キッカの正体を知るのに最も近い手掛かりだったと言うのだろうか。
 だとすればもう一つ、雫の頭に浮かぶ言葉がある。
 ガイア仮説。地球と生物が相互に関係し合うことで環境を、そしてこの星を作り上げ、その均衡を保っている。それを或る種の『巨大な生命体』と捉える理論のことを言う。
 よく言われる、世界は常にバランスを保とうとしているという言葉。その言葉の根拠は、この理論を起点に持つ。地球があたかも一つの生命体の様な存在であり、自己調節のシステムを備えていると仮定した場合、そこから人が起こすアクションが環境に与える影響を地球規模で観測し、考えねばならないという動きが加速した。
 天をも内包した総括的な『世界』そのものを象徴するガイアの名を冠したこの理論を、例えば、宇宙規模で見た場合。一つの星の引き起こす影響は、銀河、或いは巡り巡って宇宙に影響を与える可能性がある。
 例えば機械のメンテナンスをするとして、異常が発生した場合、人はどうやってそれを確認するか。監視カメラ、モニタ、計器、温度計。何かしらの道具や手段を使って、異常を観測するだろう。
 ……もしもキッカが、地球という環境システムを管理する、観測衛星だとしたら。
 観測した情報を、絶えず宇宙の何処かへ発信し、連絡をしている電波塔だとしたら。
 地球というシステムに大きく干渉し、影響を及ぼす炭素生命体の築き上げた歴史やその社会組織、文明を観察・解析し、イカがキッカにそうしている様に、宇宙の何処かに居る誰かに向けて、データを送信し続けているとしたら。
 それは、考え過ぎだろうか?
 雫は空の海をたゆたったまま、動けずにいた。

       *