Cの世界

       2-5 成熟

 医学会はWHOを通じ、患者が突然意識混濁の後に昏睡状態に陥る、この奇妙な疾病に関する情報の開示を世界へ求めたが、同様の症例は確認されなかった。しかし少なくとも、この日本国内に於いてこの奇病は、急速にその罹患地域範囲を拡大させている。
 全国四千九百三人の患者を確認しても、その発症条件に明確な基準が無く、感染症の様に不特定多数に蔓延する病気である、との見方を示しているとは研究者の意見だが、その感染経路がまるで分からない。空気感染か飛沫感染か、はたまた接触によるものなのか。それすらも分かっていない。
 昏睡症状が一致していることから、脳、もしくは神経系への寄生虫や毒などの可能性を考慮してみたが、患者はただ眠るだけで、死ぬわけではない。故に臨床解剖が遅れ、内臓機関との関連性を精査することも、手続き上困難を極めた。
 研究は遅々として進まず、しかし感染は勢いよく加速している。しかも罹患者は死ぬことなく治療を必要とするので、病院のベッドはすぐに一杯になり始めた。
 自宅療養の方法についてを政府や医療関係者が急ぎ取りまとめ、公表の準備をする中、音楽の川上教諭の他、播磨達の通う学校では正規・非常勤を含む複数の教師や講師が、この病に罹患していた。近隣から臨時で教師を呼ぶ他に学期内でカリキュラムを終える手段が無く、一部科目においては夏休みの夏季講習の延長として、授業が組み込まれることとなった。
 来年の受験どうなるんだろうな?
 そんな会話を亮とぼんやりしていたが、金属バットを無心で振り続ける彼はそれに答えない。ただ、二十球を打ち終わったら、またピッチングマシンにコインを入れる。彼と播磨の次に並ぶ利用者は居ない。それも当然で、今はまだ平日で、昼を少し回った時間である。
 教員は今日起きた突然の問題を取り敢えず片付ける為、生徒を家に帰し、自宅学習にさせた。播磨達はその指示を無視し、時間と金を浪費しに来ている。
 人気の無いバッティングセンターで、二人は黙々と、現実から目を背けるようにバットを振っていた。


 二限の終わった休憩時間、その十分程の短い間に、突然真理亜は自分の教室にやってきたらしい。徐々にざわめきが亮と播磨の居る教室まで近付き、やがて彼女が教室に顔を出した。
 顔の腫れはまだ残り、右目を隠した包帯も痛々しく巻かれている。しかしそれよりも、播磨達はそのファッションにギョッとした。
 黒かったショートは、見事に金色に染まっている。もう学校に来る必要など無いと言わんばかりに私服のシャツとパンツ、外履きのスニーカーといういでたちだった。完全に、外見は不審者である。いつも静かに遠いところを見ている様な凛としたあの目付きは変わっていないのに、彼女の今の格好では、目付きの悪い不良にしか見えない。
 驚いて思わず立ち上がった播磨だったが、亮の方が先だった。慌てて教室のドアへ走り真理亜に近付くと、尋ねる。
「お前……ど、どうした?」
「学校に退学のこと言ったら、援助するとか言い始めてさ。嫌だって言ったのに、押し付けがましく色々言ってくるから、ムカついてる」
「答えになってねえだろ! て言うか、援助してくれるってんなら受けろよ!」
「嫌だよ。また、普通に戻れって言うことでしょう? それより、安西、何処」
 生活指導の教師の名を口にする真理亜。何か思い当たる節があるのか、亮は目を白黒させて答えられない。
 と、騒ぎを聞きつけたらしい当の安西が、廊下の向こうからやってきた。「おい、そこのお前!」と、強面の顔を更に厳つくさせた怒りの表情で、鼻息荒くやってくる。それを見た真理亜は、普段の彼女からは想像出来ない大声を張り上げた。
「おいクズ教師!」
「何だとこいつ……!」
 近付いてくる安西。真理亜までのその距離があと数歩まで近付いた時彼女は、自分が持ってきて教室の壁に立て掛け、皆の死角に置いてあった物を手に取った。ウェイトリングを付けた、安物のプラスチックバットだ。
 播磨や亮が、そして安西が気付くよりも早く、真理亜は思い切りバットを振り回し、安西の横面を殴りつけた。
 バゴン、と鈍い大きな音がして安西の顔がグルンと回り、重心を崩す。何が起きたか、理解出来なかったに違い無い。突然のことで体を硬直させてしまった播磨達に構わず、真理亜は滅茶苦茶に、何度もバットを振り回し、安西を殴った。
「死ね! 変態! ロリコン!」
 叫ぶ真理亜は、安西が廊下に倒れてうずくまってもなお、バットで彼を殴り続ける。我に返った亮が、急いで彼女を羽交い締めにして止める。両腕を塞がれても、真理亜は安西を足蹴にし続けた。大騒ぎになった廊下で、生徒達が人垣を作る。遠くから、大人のやってくる音が聞こえる。
「止めろ、真理亜!」
 亮の叫び声。生徒のざわめき。そして、真理亜のくぐもった泣き声。
 播磨は、その光景を茫然と見ていた。
 それが、たった数時間前の光景だった。
「あいつは……」
 戻ってこないのかな、と分かりきったことを言おうとして、播磨は止める。亮はやはり何も言わなかった。ジイジイというセミの喧しい鳴き声ばかりが、耳をつんざいている。
 しばらくして、二人が丁度同じタイミングでワンセットを打ち終わり、流石に息を荒くしていた亮もバットを置いた。
「この後、どうする」
 これも、答えの分かりきった質問をする。案の定亮は、帰るという選択肢を口にはしなかった。
「雫んとこだ」


 雫の家族が、彼女の異変に気付いたのは土曜日の午後だったと言う。蒸し暑い自室でエアコンはおろか扇風機も動かさず、ベッドに突っ伏したまま動かない素っ裸の彼女を、最初は熱中症かと慌てて起こそうとした。だが一切の反応は返ってこず、重篤な状態だと判断した両親は、雫を緊急外来へ連れて行った。
 体を冷やされ、呼吸と心拍数が平常であることを確認されてもなお、雫は目覚めなかった。
 その日の夜に、キッカの人質宣言を聞かされた亮と播磨は雫の家を訪れ、彼女の置かれている状況を知る。そして、それが全国で多発している昏睡症状と同じものであることを理解した瞬間、もう一つ別のことを知った。
 雫と、そして全国で発生している昏睡症状患者は、同じ一つの原因により引き起こされていると。
 キッカが手を下さなければ、一体どうして、彼の口からあんな台詞が飛び出してくるものか。亮は吐き捨て、頭を抱えた。
 亮と播磨は、相部屋で眠る雫のベッド、その傍でパイプ椅子に腰を下ろし、脱力していた。
 部屋にはもう、雫以外に二人の昏睡症状患者が居る。目隠しのカーテンが引かれているが、播磨達にはそれが分かった。
 文字通り頭を抱える亮を脇目に、播磨は穏やかな表情で眠る雫の顔を見る。変わったところは何処にも無い。彼女の寝る姿を見るのは初めてのことだが、それでも、何だか長いことそれを知っているような気がする。
 或いは、違う形でこの寝顔を見ることを、妄想し続けていたのだろうか。
 昏睡状態になった人間は、目覚めない。
 キッカに対して二人がいくら詰め寄っても、あのシーラカンスはそう答えるばかりだった。何度、目の前の石を叩き割ってやりたいと強く願ったことだろうか。しかしそうすれば、昏睡患者を覚醒させる手段は永久に闇に葬られてしまうという。そうなれば人類は、雫は、二度と目を覚まさないのだ。キッカのその言葉が嘘であったとしても、一パーセントでも本当である可能性がある限り、播磨達は何も出来ない。
 俯いたままの亮を横目で見る。項垂れながらも、スマホをいじっている。盗み見ると、チャットの相手は真理亜だった。『お前も見舞いに来いよ』という、つっけんどんな文言。真理亜からの返事は無い。期末試験も近い今、問題を起こしたくないであろう学校は、警察は呼ばないだろう。だが、もう真理亜の退学処分は免れそうにない。
 偶然出くわすことはあっても、もう皆で集まることは、無いんだ。
 そう思うだけで、どうにもやるせなさを感じてしまう。
 どうにかしたいという、強い思いはあった。けれど、自分に何が出来るだろうか?
「なあ」
 スマホをだらりと力無く持ち、うなだれたまま亮は口を開いた。「俺達でこれから、どうにか出来ると思うか」
 出来る。そう言い切りたかった。しかしそう断言するにはあまりにも、キッカの力は未知数であり、大きく、そして……
「……勝ち負けってもんがあるとして、俺はあれに勝てるとは……思えない」
 打ちひしがれて、播磨は口に出してしまう。「現生人類が、超能力に対して科学的かつ論理的に立ち向かえるかと言えば、まだ無理だ。そしてそれに打ち勝つ為に何を学べばいいのか……俺には分からん」
「そうか」
「……でもな」
 と、播磨は続けた。眠り姫の横顔をじっと見ながら。「知り続けることを愚直に貫き続けるあれの姿勢だけは、見習おうと思う」
 雫が多方面にアンテナを広げ知識の幅を広げていたその姿。キッカが多方面の情報と知識を収集し、自らの糧としていたその姿。いずれも、損得の区分を超えて生きるその姿勢は、研究職を目指している播磨こそ見習うべき姿であった。
(俺は、何をしたかったんだろう)
 自問する。シーラカンスに興味を持っていたのは確かだし、今最も強い関心を持つ研究対象が何かと訊かれれば、そう答えられる。けれど、その先の目標までは考えていなかった。キッカの謎を解き明かせば、何か大きな真実か真理に触れることが出来る予感がした。けれど今は、それに触れるのが怖い。
 目的も無く学ぶことに、意味はあるのだろうか。
「俺も、考えるよ」
 亮は言った。「どうすれば正解に辿り着けるのかは、分からない。でも、いつか……また、四人で遊ぼう」
 曖昧な目標。漠然とした理想。
 そんな言葉をお題目にして道を進む人間が成功しないことを、播磨は知っている。聞こえのいい言葉ばかりを並べ立てて根拠を口にしない大人の殆どが、そんな道を歩いていることを知っている。
 自分達は、そんな大人になろうとしている。
「そうだな」
 けれど播磨は、単に亮に同意するに留めた。
 亮は、四人の中で一番ガキっぽい。播磨はそう判断している。一番ロマンチストで、一番感情的で、一番ストレートだ。それが、興味のあることに一途で一直線で、夢中になったものから目を離せなくなる由縁だ。だから彼の目にはいつも、あのシーラカンスが映り込んでいる。
 今も、きっと。
 と、播磨のスマホにメッセージの着信があった。病室ではあるが、昏睡している患者に高度な医療機器など全く必要無いらしく、周囲に電波を警戒しなければいけない機械は存在しないので、相部屋の中で堂々と画面を見る。真理亜からの個人メッセージだった。
『亮はどう』
『直接訊けよ』
『どうせ、キッカのことしか考えない』
『或る意味、間違ってない』
『じゃあ質問するけど、播磨はこれからどうするの』
 返信に逡巡したが、正直に答えることにした。
『大学で、シーラカンスに関する研究をしたい』
『じゃあ仮説でも何でもいいから、生物学者としての視点から、キッカについて教えて欲しい。私は、雫の知識を引き継いで調べてみたい』
『何で?』
『一番早くキッカから離れていたはずの雫が、私達四人の中で一番初めに襲われた。雫の知識に、何か手掛かりがあったんだと思う。だから私はもう、キッカには近付かない。イカの目を使われて無駄になったとしても、直接出会うよりはいいと思う』
『本当かよ』
『でなきゃ、この県が昏睡症状患者最多の県にならない。あいつの力は、距離に関係してるはず』
 もっともらしい仮説だった。けれど、それはつまり。
『亮には会わないのか』
 返信は無い。『俺も雫も分かってんだぞ』
 返信は、無い。その代わり、真理亜からの電話が掛かってきた。播磨は、項垂れたままの亮を置いて病室を出る。扉を閉め、少し離れた人気の無いエレベーターホールまで来てから、電話に出た。
 電話の向こうでは、真理亜の泣きじゃくる声が聞こえていた。
『もう……戻れないんだよ、私……もう、好きってだけで亮と居るだけの時間が続く関係なんて、嫌なのにさあ……でもさあ、これ以上何かしたら、もう全部本当にぶっ壊れそうでさぁ……嫌だよもう、こんな関係……!』
 悲痛な声。いつもみたいに、アホかお前、と言ってからかえば、少しは空気も変わるのかも知れない。けれど、それが何の解決ももたらさないことを、播磨は知っている。
 だから、やっぱりここでも、正直な本音を言うだけだ。
「また、四人で気軽に集まろう」
 それが、さっき亮が口にした絵空事と同じ希望的観測の言葉であることに、口に出してから気付く。けれどその動揺は隠して、ただ泣きじゃくる電話口に真理亜を宥めた。
 電話を切った後、ナースステーションのテレビから流れる、音量を絞ったニュースの音声が明瞭に聞こえるようになる。

『……本日日本時間午後三時頃、フランスにて、日本で確認されている原因不明の昏睡症状が、同国でも約百五十の症例として確認されたことが発表されました。それに合わせて、韓国、中国、インドネシアなどのアジア諸国や一部中東地域でも同様の昏睡症状が確認されたことを、WHO、世界保健機関が公表しました。ですが同機関では、これを新型感染症ウイルスが引き起こすエピデミック及びパンデミックにはあたらないとして、警戒レベルの引き上げや注意喚起などは行わない方針としています。しかし一方で、昏睡病患者の発生した国の周辺国では、早くも他国からの入国制限措置を取るなどの対策方針を打ち出す国も出ています。フランスでの発症はヨーロッパ地域で初めての症例であり、今後この影響がEUにどのような影響を及ぼすのか、また、この症例がアメリカで確認された場合の対策や動きについて、専門家は……』