Cの世界

       2-4 成熟

 翌日土曜日。
 亮は昨日の夜までに何度か真理亜に電話をしたり、明日見舞いに寄るぞ、と真理亜個人のアカウントにメッセージを残したりしたが、いずれも反応は無かった。この数日、真理亜がスマホに手を伸ばした形跡は無いままである。
 昨日の放課後、念の為真理亜の担任に確認を取ってみたが、詳しいことは何も教えてくれなかった。ただ、妙なことは言っていた。
「そろそろ期末だし、楢崎さんには悪いけど、折角他の人に風邪を移さないようにしてるんだから、そっとしておきなさい」
 丁寧でもっともらしい言い方ではあったが、プリントの件と言い、敢えて真理亜に会わせまいとしている風に思えてしまう。邪推だろうか。
 疑問に思いながらカーディガンに袖を通していると、キッカが訊いてきた。
『真理亜のところへ行くのか』
 それは質問と言うよりは確認に近い言い方だったが、亮は答えない。先日の一件以来、極力彼から言葉を発することは控えていた。それでも好奇心を抑えられずにちらり、と石を見る。中では一匹のシーラカンスの他に、イカが一匹だけ泳いでいる。
『彼女は、いい子だ』
 と、返事をしない亮に対し、キッカは唐突に言った。動揺し、「はあ?」と間の抜けた返事をしてしまう。キッカの顔は、真っ直ぐに亮の方を向いていた。キッカは続けた。『彼女の観察眼は鋭い。播磨と雫が脱落し、二人だけになった今でも時々、斬新な視点から見た物事や事例を観察して、キッカに意見を求めてきた。多くは雫の影響によるものだが、そのユニークな着眼点やそこから導き出す推論は興味深い。そして思慮もある。弟を大事に思い、亮達親友のことも大切にしようとしている』
「それも『知った』のか?」
 少し皮肉めいた言葉を、苛立ち混じりに口にする。ともかく、キッカが勝手に誰かの頭の中を盗み見ているのではないかと考える癖がついてしまった。亮は早く家を出たかったが、妙にキッカの言葉が気になった。彼は続けた。
『キッカの目を使うまでもなく、キッカは亮と真理亜を一番沢山見てきた。だから分かる。亮は真理亜の家に行くべきではない』
「……なんだと?」
『きっと亮は失望するから、幻滅するからと、真理亜は亮達と距離を取った。真理亜の気持ちを汲むならば、それを尊重し、亮は勉強でもするべきだ、とキッカは考える。若しくはキッカに、新しい言葉や知識を教えて欲しい。小学生の頃、夢中になってキッカに話しかけてくれた様に。真理亜は今、痛みを抱えているのだよ』
 何を言っていやがる。吐き捨てて、亮は真理亜への手土産が入った小さな紙袋を手に取って、乱暴にドアを開け、部屋を出た。
 今の亮にならば、こう言えば自分の言うことに反発するだろう、と見越したかの様に、それまで亮に向けていた視線をあっという間に外して、キッカは石の中を泳ぎ始める。それを見届けてから、一匹だけ残っていたイカは暗闇に姿を消す。
 その一連の行動を、亮は見なかった。


 亮が前回真理亜の家を訪れてから、もう随分になる。高校に入ってからは家の近くまでしか寄った記憶がないので、もう一年以上になるだろうか。
 古い家だという記憶はあったが、思い出の中のそれよりも、今の楢崎家はもっと古びている様に見える。ひと回り小さく感じられるのは、自分の背が伸びたからだろうか。周囲に民家の無い、荒れた土地が広がっているので、より寂寥感が増していた。玄関口の裏手にある二階の窓が真理亜の部屋だったと記憶しているが、カーテンはしっかりと閉じられており、中の様子は伺えない。
 ジリジリと照り始める太陽の光の下、脱いでしまったカーディガンは自転車のカゴに放り込み、インターホンを鳴らす。ややあって、母親らしい女性の声がした。真理亜の友人であることを告げると、やや沈黙があった後、戸惑いつつも少し待って欲しいとの声が返ってきた。やはり、ちゃんと来訪の予定を告げるべきだっただろうか。突然来られても困るだろう。少し困っていると、母親らしい女性が玄関ドアを開ける。
「濱田と言います。真理亜……さんとは、よく」
「ああ、ええ。よく聞いてます」
 疲れた様に微笑んで、けれどドアを後ろ手に閉めた母親は申し訳なさそうに言った。「でも、本当にごめんね。今は本当に、会うのも難しくて……」
「え、ただの風邪とかではないんですか」
 不安になって尋ねるが、母親は意外そうな顔をして、逆に質問をした。
「ええと……娘からは、聞いてない?」
「いいえ、何も。連絡も付かなくて」
 答えると、益々困った様な顔をした。一体どう答えたらいいものか、と悩むその顔の真意を、亮は計りあぐねる。
 その時、母親の背後のドアが僅かに、かちゃり、と開く。あ、と母親は振り返り、ドアの向こうの光景を亮から隠す様に体を動かして、真理亜の名を呼んだ。
「ええと……」
「いいよ、お母さん。ちゃんと私から話す」
 いつもの、凛とした声に安堵する。具合が悪いわけではないらしい。ならば、何故?
 ……その答えは、すぐに分かった。
 母親が玄関の向こうへ姿を消し、私服姿の真理亜が狭いドアの開いた隙間から出てくる。亮は妙に気恥ずかしくなって、持っていた手土産の紙袋を持ち上げ、彼女の顔を見た。
「あー、これ土産だけどさ、何がいいか分からなかったから、ほら、駅前の評判のいいベーカリーで売ってるプリン……」
 差し出し、亮の顔を真っ直ぐに見つめ返す真理亜の顔を見て、言葉を無くした。
 亮は硬直し、ややあってようやく、声を出す。
「お前、その顔……どうした」

       *

 気を付けていたはずだったが、父親に喫煙がバレた。
 不倫をしているような父親だったから無関心でいるだろうと思っていた。けれど、違った。今まで家族会議やそれに類いすることなど何もやってこなかった父は、真理亜を始めとした家族全員を呼び出し、彼女の喫煙を糾弾したのだ。そしてそんな父を、翔も母も冷めた目で見ていることに、本人は気付いていないのである。滑稽だった。
 何か偉そうに口を開き、自分の仕事ぶりや人徳についてを時々口にする父親の言葉を、家族の誰も信用していなかった。
 母と父が喧嘩した日の夜に、リビングで泣いている母を慰めている時、母がこっそり、ほんの少しだけお酒を飲ませてくれたこともあった。
「こんな家で、ごめんね」
 謝る母を責めることなどしなかった。体裁を取り繕い、本音を押し込んで生活することの苦しさを、こんな家庭環境でバーの接客をする母はよく知っていたのだろう。形に意味は無いのだと教える様に、時々お酒に付き合っていた。
 だから息苦しさで押し潰されそうになるこの家で、真理亜が喫煙に逃げていたところで、母も翔も咎めなかっただろう。けれど実際に何と言われるかは分からず不安だったから、隠れて吸っていただけのことだ。
 そんな真理亜達の心情など知る由も無く、父親はギャンギャンと攻撃的な言葉で、テーブルの正面に座る真理亜を責めた。いつもの冷めた目で父を見ながら、真理亜はぼんやりと、目の前の男の内心を想像してみた。一応、馬鹿な男ではない。家庭内での自分の立場が悪いことには気付いているのだろう。だから何か理由をつけて、『父親としての威厳』とやらを見せつけ、主導権を握ろうとしたのかも知れない。逆効果だということを教えてやる気にもならなかった。
 そんなことを考えている真理亜の頬が緩み、自分でも知らぬ内に、笑みを浮かべていた。それが父親の逆鱗に触れた。
 ガッ、と勢いつけて立ち上がった父は、「何を笑っていやがる!」という怒声と共に、母や翔の制止も間に合わず、真理亜の胸ぐらを掴む。突然のことに驚き身体を硬直させてしまった真理亜は抵抗することも出来ず、椅子から引きずり下ろされた。
 そして、真理亜を掴んだ父親の手は暴力的に振り払われ、その勢いのまま、彼女の顔はテーブルの角に強く激突する。
 父親が金を出し惜しみして安く買い、角のヤスリがけもしなかった古いダイニングテーブルの角は、硬く、鋭かった。角に右目がぶつかったと思った次の瞬間にはもう、真理亜の右目を激痛と熱が襲っていた。
 翔と母が叫び、怒鳴り、二人が真理亜を庇う様に立つのが気配で分かる。けれど、具体的な様子は何も分からなかった。理解しようとする余裕なんて無かった。
 食器が、花瓶が、割れる音が遠くで聞こえる。母の涙混じりの慰めに耳を澄ませるが、言葉がよく分からなかった。けれど、これだけは言える。
 もう、我慢しなくていいんだ、と。


「で、クソ親父は一時的に駅前のホテル暮らし。もしかしたら浮気相手の家に行ってるかもだけど」
 一息に、そして簡素に一週間前のことを話す。「一年と八ヶ月、離婚が早くなったってだけだよ」
 今の自分には、自暴自棄という言葉がよく似合うと思った。もう、何も隠す必要が無かった。或いは亮の前では、隠し事をしたくなかったのかも知れないが、それは真理亜自身にもよく分からない。ともかく、ジャージのポケットから煙草の箱を取り出して、手慣れた手つきで一本、箱を叩いて飛び出させる。口に咥えて、左手の百円ライターで火を点けた。二本の指が動かなくともコツを知っている、滑らかな一連の動作を見ても、亮はそれを諫めることも、止めることもしない。けれどきっと、母や弟がそうしなかった理由と彼の理由は、違うものだ。
 止まってはいけない。
 もう自分を飾る必要は無いけれど。
 一般的に普通と呼ばれる水準の生活を送ることは、自分にはもう難しいのだから。
「んでさ。私、学校も辞めるから」
「……は?」
 険しい顔をしたまま間の抜けた声を出す亮が面白くて、俯いてクツクツと笑う。顔を上げたら、可笑しくて涙が出そうだ。可笑しくて。
「いや、翔の卒業まで我慢しようって話だったんだけど、もう限界来ちゃったからさ。三人で散々話して、翔だけは大学行かせるって話になったんだ。あいつ、私より実は勉強出来るからさ。それに、ガラスの目ん玉入れるってなったらみんな、きっとジロジロ見てくるじゃん? 耐えられそうにないんだよね」
 本人は反対したが、これから三年で稼げる金額は彼が一番低く、将来最もいい収入を得る仕事に就ける可能性が高いのも彼だったので、真理亜と母が押し切った。「でも慰謝料とか養育費とか治療費とか、離婚後もあのクソ親父が払い続けるとは思えないんだよね。多分、一年かそこらで支払いは滞るよ」
「それにしたって、お前……」
「『普通の真面目』で黙り続けるのも、もう嫌になってたんだよ」
 反論しようとする亮を黙らせる。
 そう言えば、亮とこうして喧嘩するのは初めてかも知れないな。そんなことを、ぼんやりと考えた。
「分かる? 目的も無いのに勉強だけして、本当に必要なのかって校則にも逆らわずにハイハイって従って、なりたい職業も見付けてないのに進学先を考えさせられるんだ。なんかそれってさ、凄い疲れるんだよね。……知ることそれ自体が目的のあのシーラカンスと、同じなんだ、私。本当、嫌になるね」
 一息置いてから、少し話を戻す。「この家も、来月には出る。癪だけど、家の名義はクソ親父だから。……翔が居るし、転校や遠くへの引越しもお金掛かるから、街からは出ないけどさ」
 言いながら俯き、副流煙と、自分で吐き出した煙草の煙で、泣きたい気持ちを誤魔化してみる。話を切らず、一方的に押し切って説き伏せてやるつもりだった。けれど、真理亜の言葉はそこで止まってしまう。
 さもなくば、亮は。
「お前の親父さん、何処だ」
 ほら。怒ってる。「お前をそんなにした父親は何処だ」
「……やめてよ。あとはもう、代理人に全部任せれば、何事も無く終わるんだから」
「何事も無いわけねえだろう」
「もう終わるんだからさぁ。……ねえ……忘れてよ、全部」
 顔を上げられない。声が震えるのを抑えきれない。
 全部全部捨てて、忘れてしまえば、終わるんだ。潰れてしまった右目と共に、何処かへ消えていってしまえ。
 こんなクソッタレの自分のことなんか、忘れてしまえばいいんだ。なのに。
「俺は」
 やめろ。「お前が」
「やめろ」
 自分でも驚くほど低い声が出た。亮の声が止まる。真理亜はもう止まらなかった。
「同情だろ、やめろよ。そんな言葉、こんな今に聞きたくねえんだよ。幾らでも友達作れる亮なんだから、さっさと私なんか切れよ」
「馬鹿を……」
「馬鹿はどっちだよ。私のことなんか、見てねえじゃん」
 決壊した堤から溢れる濁流の様に、感情は言葉となって吐き出されていく。「亮はずっと、あのシーラカンスに心を奪われてればいいんだ」
「俺は」
「どうせクソ親父を前にしたら、殴ることなんて出来ねえだろ。しばらくすれば、机の上の石と魚に向かって、今日の話をするんだろ。言葉と知識を集めて、あの腐った魚に嬉しそうにそれを教えるんだろ」
 私よりも、亮はあの魚に心を奪われているんだ。
 九年前の、あの日からずっと。
「帰れよ」
 呟く。「チャットのグループからも抜けるから」
「……駄目だ。それだけはやめてくれ、せめて。アカウントもブロックするな」
「じゃあ、三人だけのグループ作って、好きに話していてよ」
 そうして今のグループチャットは、永久に新規メッセージの更新されない、永久にデジタルの海に残り続ける、生きた化石になればいい。そうすればいつか、亮も自分のメッセージに話し掛けてくるかもね。
 そんな笑えない、くだらない話を思い浮かべて、真理亜は亮には見えないようにやっぱりずっと俯いたまま、ようやく一粒、涙をこぼした。

       *

『知ってたのか?』
 家に帰って自分の家に入るなり、亮は机の上のシーラカンスに話し掛ける。他に話す者は居ないので、キッカに対して声に出しての会話は必要無かった。キッカは訊き返す。
『何の話だね』
『真理亜の家の話だ。わざわざ行かせまいとしたな』
『キッカがそんなことをする理由について、百三十字以内で述べよ』
『教師の頭の中でも覗いたのか、ふざけやがって』
 乱暴に手土産だった紙袋を放り投げるとそれはデスクの上を滑り、カツン、とキッカの石にぶつかった。
『キッカが、亮を真理亜に会わせないことのメリットがあるか。これは善意だよ、亮。彼女は知られたくなかった、だからキッカは亮を引き留めた。長い付き合いの君達がなるべく傷つき合わないように』
 もっともらしい答え。だが、本当にそうだろうか。キッカはもう九年、自分との付き合いがある。亮が、自分がやろうとしていることに反対の意見を出されると余計に完遂したくなる天邪鬼であることを、キッカは理解しているのではないだろうか。
 だとすると、キッカは嘘をついていることになる。自分達に嘘をつける存在であるということになる。
 だとするとキッカは、自分と……。ならば、何故。
『と言うかお前、遂に白状したな』
『何をだ』
『イカの目を使って、お前は離れた他人の脳の中に入れる。視覚を共有するだけじゃなく、様々な感覚器とその記憶を盗むんだ』
 出なければ亮が出掛ける前のあの時、『痛み』という突然の言葉が出るわけがない。
 問題は、あの会話の真意を何故キッカが隠したか、ということだ。
『盗むとは心外な言葉だ。キッカは彼らの情報を共有するに留まっている』
『違う。一つ、お前の隠してる事実が判明した。お前は、人の精神、もしくは感覚や脳そのものに干渉出来るんだろう? テレパシーも千里眼も同じことだ。そんなイカのアバターを使って誤魔化しているが、根本は同質だ。それを使って、お前は俺達の全てを覗き見ることが出来る。違うか?』
 興奮気味に、頭の中で筋道を立て、怒り気味に問う。しばらくの間、キッカは石の中をいつも通り、優雅に泳いでいたが、やがて重ねて質問をする。
『何故分かった』
『真理亜の煙草の吸い方を見た。あの手馴れ方は、昨日今日で身に付いたものじゃない。なのにこの前突然、俺にバレるくらいの甘い誤魔化し方で煙草を吸った。教師にもバレかねない学校でだ。今まで父親にバレなかったことがバレたのも、あいつの注意意識が弱まっていたからだろう』
『それは、彼女の油断が招いたとは考えないのかね』
『父親との不和はずっと前からあった。単純なストレスだけじゃない。そしてお前は、イカを使ってあいつの行動や今置かれている状況を把握していた。お前が何か、真理亜の思考に干渉したんだ。バレるような喫煙をするように』
『ふむ。不用意であったか、亮を今日引き留めてみたのは』
『知識の探究が目的と言ったが、あれも嘘だな? そうでなきゃ、他人への精神的な干渉なんてする必要が無い』
『いいや、それはキッカの最優先の目的だ。それに間違いは無い。ただし、その情報収集を完遂する為の副次的要素として、キッカは他人に僅かな影響を与えることが出来る。最早それを止めることは、亮にも出来ない』
「やってやるさ」
 言って亮は、部屋に戻る前にガレージから持ち出し、ズボンのベルトループに引っ掛けて下げていた金槌を手に取る。一歩、二歩と亮は石に歩み寄る。
『何をする、亮』
「最早お前が何か分からない。この九年間が楽しくなかったと言えば嘘になるが……それももう終わりだ」
『理解出来ないものに対して恐怖を抱くそのシーケンスは理解しよう。だが、理解する努力を止めて破壊と暴力に走る傾向の多いのは、人間の特質故か』
「何とでも言え……!」
 亮は、金槌の柄を強く握り締めた。もう、こんな石とシーラカンスに自分と友達を壊されるのは御免だった。こいつさえ自分が拾い、育てなければ、全ては何の問題も無く、今も四人で楽しく過ごせていたはずなのに。真理亜は、苦しまなくても済んだかも知れないのに。
 金槌を振り上げる。うち下ろせば、キッカは消滅する。それできっと全てが終わる。
 ……本当に?
 一瞬芽生える疑問。腕が、金槌を振り下ろすことを躊躇する。
 そんな亮の動揺と葛藤を認識したのだろうか、キッカは屹然として言った。

『キッカとキッカの石を破壊したならば、もう二度と、三尾雫は目覚めない』

 今度こそ、亮の手は止まった。
「……何だと?」
『雫の精神という意識は、脳というコンピュータ内部にロックした。彼女の脳を守るファイアウォールを突破する為のパスワードは、キッカしか知らない。キッカがその存在をこの世界から消滅させれば、パスワードは無限永久に葬り去られ、雫が眠りから覚めることは永遠に無い』
「違う、そうじゃない! 何故雫の話がここで……目覚めないってのは何だ!」
『彼女は、夢の世界へ堕ちた。キッカが開放しない限り、彼女は永久に眠りから目覚めることは無い。いわばこれは、人質だよ。キッカとしては非常に不本意であるが、君がどうしてもキッカを拒絶しようというのであれば、仕方のないことだ。だから……』
 ポケットの中の電話が鳴る。亮は呆然としたままキッカを見下ろしていて、それをすぐに手には取れない。『これからもどうか、キッカと仲良くして欲しい』
 播磨からの電話を、亮はまだしばらく、取れそうになかった。

       *

 金曜の夕方、混雑する眼科医院で診療を待った結果、特に異常は認められないとのことだった。目薬を処方されたが、市販の頭痛薬を買ってもいいかもね、と医師に言われたことを思い出し、家の棚の奥に残っていた去年買った頭痛薬を一回分飲み、眠ろうとした。
 けれど薬の効果は無く、頭痛は余計に酷くなっていた。母に心配はされたが、だからと言って解決する問題ではない。
 ベッドから体を起こして何度も目を擦っていると、次第に妙なものが見え始めた。
 部屋の中に、魚が泳ぎ始めたのだ。
 まるで立体映像の様に、明らかに幻とは分かるそれだったが、熱帯魚の様な形をした幻覚は、一つ、また一つと数を増やしていく。
 とうとう、妄想が過ぎて行き着くところまで来てしまったのだろうか。頭を抱えたくなる。酷い頭痛が何らかの原因で引き起こして見せている幻覚に違い無い。
 幻覚なんて、人生で初めてだ。そんな間の抜けたことを考えながら、父がコンビニの引き換えチケットでもらってきた栄養剤でも飲んでこようと思い、のっそりとした仕草でベッドから降りる。
 足元がおぼつかない。スマホを片手に、ゆっくりと階段を降りて階下へ向かう。祖母が小豆を煮ている匂いがする。心地よい匂いだったが、まるで風船の上を歩いているかの様にグニャグニャとした足元に足を取られるのが怖くて、意識を足に集中させる。だが、相変わらず視界は僅かに揺らいでいた。
 熱でもあるのか、こんな初夏も過ぎた季節に。夏バテかも知れない。それなら余計に、栄養ドリンクを飲みたい。祖母の小豆でぜんざいもいい。あれは大好きだ。
「雫ちゃん、小豆食べる? 白玉もあるよ」
 祖母の声。うん、と生返事をして瓶の蓋を乱暴に開け、中を一気に飲み干す。
「あとでね」
 瓶を置き、そこで初めて祖母を見た。年老いてもなおシャンとして素敵だった祖母の頭は、今は魚人みたいな顔をしている。魚の頭を掛け合わせた、化物の合いの子の様だった。
 ラヴクラフトのインスマス人とはこんな顔だろうか、と驚くほど冷静な頭で、そんな祖母の生臭そうな顔を見つめていた。
 土曜の昼過ぎ、扇風機を回すリビングで皆がくつろいでいる。両親の頭は、やはり魚である。雫は何故か、そんなものか、と納得した頭で二階に戻った。
 階段を一段上がるごとに、体感温度が上昇していく気がした。フラフラする足取りは最上段まで足を掛けたところで言うことを聞かなくなり始める。堪らず倒れるが痛みは無く、グニャグニャした床は衝撃を和らげてくれていた。
 祖母の、雫を気遣う声が聞こえる。大丈夫、と返事をした気がするが、それが自分のものであるようには思えなかった。目の前を泳ぐ魚の数は、一層増えている。
 這って、自分の部屋のドアノブに手を伸ばし、回す。助けを呼ぶ気にはならなかった。何故かは分からないが、そうする必要など無いと確信しきっていたのだ。
 そうして、大きく揺れる視界に横たわるベッドを見付け、やっとの思いでその上に倒れ込んだ。けれど雫は、自分の体がモゾモゾと、妙に痒くなるのを感じる。しかも体の熱は、先ほどまでよりもずっと熱い。
「チクショウ……」
 緩慢な動作でシャツを脱ぎ、パンツを脱ぎ、それでも逃せない熱さから解放されようと下着まで脱いだ。それでも、熱は消えない。
 目が霞む。うつ伏せになった顔を上げて、自分の腕を見てみる。
 腕は無かった。代わりに平たい、黒光りする肉厚の何かが、自分の肩から伸びている。パタパタと動くそれは、まるで大きなヒレの様で。
 ああ、マンタエイだ、これ。
 気付いた瞬間、ベッドが崩れ始める。まるでガラスの様にヒビが入り、呆気なく雫の体重で崩壊を始める。ヒビは床に、壁に、天井に、そして窓にまで広がって、呆気なく砕け散った。
 けれど、雫は落下しない。マンタの体になった彼女はそのまま、優雅に空を飛び始めた。まるで、地球の陸地全てが海で包まれてしまったかの様な空間で、雫は上昇を続ける。
 雫の町が、土地が、国が、世界が、崩れている。
 海は、彼女の世界だった。
 美しい。ただ、そう思った。
 そんな、マンタと化して回遊をする雫の隣を、一匹のイカが並走する。そのイカから、久し振りに耳にするあの声が聞こえた。
『この眺めはどうだい、雫』
『キッカ? これは……あなたが?』
『キッカだ、勿論のこと。君は海が好きなようだったから』
『どちらかと言えば、それはあなたの所為かな』
 話す内に、頭痛も目眩を失せていることに気付いた。『これは……夢? 幻覚?』
『どちらとも言える。これは君の夢の中だが、君に夢を見せる為、君の視覚野に干渉し、現実から地続きの世界としてこれを作った』
 その言葉で理解した。頭痛の原因は、キッカだったのだ。思えば妥当なことだ。出会った当初から、キッカは雫達とテレパシーで会話していた。シーラカンスの矮小な脳に超能力が本当に宿っているかどうか、という問題は別にしても、その力が他の力として新たに利用出来ないわけはないだろう。
 キッカの声をしたイカは続ける。
『この夢の世界は、どうだ』
『素敵。人の力の限界を超えてこうして泳いでみたかった』
『即答してくれて何よりだ。そして安心するといい。雫はここで、ずっと泳いでいられる』
『どういうこと?』

『これが今、世間を騒がせている昏睡症状の患者が見ている夢の正体だ』

 正確にはその一形態だが、と続けるキッカ。泳ぎながら、言葉の意味を考える。確かに、患者数は都内よりも自分達の住む県の人数の方が多かった。それは単に、昏睡症状を引き起こす原因が近くに居たという理由だけだったのか。だが、何故。
『どうして』
『亮も君も、理由ばかりを知りたがる。キッカは理解出来ない。それに意味はあるのだろうか』
『これも、あなたが知識を求める理由と同じ。そうしなきゃいけないと感じ取っていることがあるの。ねえ、教えて』
 やや沈黙があって、キッカは答える。
『答えを見付けることは、キッカにも難しい。けれど原因は、その根本には、亮という存在がある』
『亮が……?』
『キッカは亮に、キッカと居て欲しい。亮はキッカと居るのが幸福であると知って欲しい。キッカの為に知識を与え、今までと同等かそれ以上になりたい。けれど、亮は沢山のものに触れ、出会い、きっといつかキッカから離れる。そして今まさに、離れようとしている。それが耐えられないから、キッカはキッカの出来ることをしたい。孤独なキッカと同じ様に、孤独な亮がキッカをずっと見てくれるように』
 雫には、キッカが何を言っているのか分からない。けれど、今までキッカの声音や喋り方から得た情報で考えていた、無機質で無感動な存在としか思えなかったシーラカンスのことが、少しだけ身近に感じられた。
『キッカにも、我が儘な感情があるんだね』
『これが我が儘という行動と感情と情念ならば、キッカは確かに我が儘だ。孤独なキッカの孤独を埋め合わせる為に、亮を孤独にさせようとしている』
『私だけ? 真理亜ちゃんや播磨君には、夢を見せないの?』
『いつか、二人にも眠ってもらう。けれどキッカはそれを後回しにしたい』
 その理由については、雫は訊かなかった。
 それよりも重要なことは、一つ。
『……キッカは、亮を独り占めする為に、全人類を眠らせようとしているの?』
『目的の為の手段がそれであり、キッカはそれを躊躇わない』
 迂遠な肯定。そう、と雫は静かに頷いた。
 結果として、そしてかなり時間は掛かるとして。
 いずれ、キッカはこの星の人間の精神を支配し、永遠の眠りに就かせ、文明を滅ぼそうとしている。
 きっとまだ誰も、この事実には気付いていない。
『私にそんなこと、話して良かったの?』
『とても賢く、頭の柔軟な雫のことだから、いつかきっと気付いていただろうからね。そして雫はもう、キッカの許可か消滅以外の選択肢でこの夢から醒めることは出来ない。誰かにこの目論見を、君が伝えられる可能性はゼロだ』
『そう』
『残念そうにも悔しそうにも見えないな』
『播磨君が、何とかすると思うな』
 四人の中で一番勉強が出来て、将来も研究職に進みたいと言っていた。それはきっと、水族館に招かれた大学教授の話を熱心に聞いていた、あの時からの目標で。雫は陰ながらに応援したかった。
『あの現実世界に戻りたいのか、雫は』
『心が何処にあっても、体は生きてるんだもの。戻らなくちゃ』
『君のことを理解していない、見た目だけで判断する同級生で溢れ返るあの世界にか。とても窮屈で、退屈で、腹立たしくはないのか。ここなら、理想とするもの全てを手に入れられるというのに』
『あなたというフィルターを通して、ね。それに播磨君達は、違う』
『残念だが、彼はきっと真理には到達出来ない。打開策も、見付けられない』
『何故そう思うの』
『一番真実への理解や解決に到達が早いのは、四人の中では恐らく、雫。君だ。播磨は既存の科学や常識を基軸にしか物事を測れない。故に恐らく、真実からは最も遠いだろう』
 雫は驚き、ヒレを動かすのを止める。鳥がホバリングする様に、空気の流れに乗ってゆっくりと前進した。
 何故、自分なのだろう。私は一番早くキッカの姿を見ることが出来なくなり、最もキッカという存在やその関心からは遠いところに居たのに。確かに、今のオカルトや超科学に対する興味の大元は、キッカにあるのだけれど。
『どうせ雫はこの夢から醒めないし、いずれ到達していただろうから、教えてあげる。雫はキッカの目的に、一番近い距離に居た。だから、距離を離した。それでも雫は遠回りに、けれどキッカの本質に辿り着けそうな道筋を、遂に見付けた。だから、終わらない夢を見てもらうことにした』
 本質とは、何だろう。自分が、キッカの目的に触れた?
『亮と一緒に居ることが、あなたの目的じゃないの?』
『それは、亮と出会って生まれた目的。いわば副次的なものだ。キッカがキッカとしてこの星に存在している意味と目的は、別に存在する。あらゆる情報と知識を収集し、蓄積し、解析し、考察するのは、また別の目的の為だ。もっとも、これは目的であると言えるし、手段であるとも言える』
 キッカの言葉を聞きながら、雫は思考を巡らせる。最近、自分が新しく集めた情報とはなんだ。素粒子と超能力の関係については、間が開き過ぎている。地球のバランスについての論文? カオス理論について? 哲学的ゾンビ? 昆虫が支配する世界についての仮説? 超ひも理論? 一体……
 と、そこまで考えて一つ、ハッと思い出した。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
 本の見出しを思い出す。そこに様々な切り口から踏み込んで記述された、深海と、その未知性から人々の心の奥底に生まれる、恐怖という深層心理への介入。そこから有史以来の人類が思い描いてきた、あらゆる姿の怪物、超自然的存在、その意思。クトゥルフ的な海への恐怖を抱くと同時に生まれた、宇宙への憧れと畏怖。そして、オーバースペックなイカの目の役割。上位者への情報の転送。体積の一・五パーセントしか存在しない、キッカというシーラカンスの脳、それを覆す程に膨大な知能と知性を持つ、同じくオーバースペックな古代魚。
『まさか』
『やはり、頭の回転がとても早い。きっとキッカが教えずとも、雫は近い内に宇宙の真理の一つへ触れていただろう。それを世の学者達が信じるかどうかは別としても』
 自分の出した突飛すぎる仮説が、しかし間接的にキッカの言葉で証明される。そんなことが有り得るのだろうか。雫は動揺しながら、疑問をそっと言葉にする。

『キッカ……あなたも、誰かの「目」なの?』

 地球上を飛び交う素粒子という海を泳ぐ『イカの目』が、いわばキッカにとっての観測ブイである様に。
 キッカもまた、観測ブイなのか。宇宙という広大な海に浮かぶ、地球を観測する為の。
 答えず、キッカはただ単に雫の現状を述べるに留める。
『雫は、この夢から醒めることはない。故にこの真実を誰にも伝えることは出来ない。万が一、伝えられる状況になったとしたら……それは、キッカが消滅する時だ』
 空の海は、何処までも遠く。
 地平線の彼方まで、魚は、イルカは、シャチは、鯨は、シーラカンスは。
 何処までも、いつまでも泳ぎ続けている。

       *