2-3 成熟
次の実力考査の範囲が分かる。亮からそう言われ、当然の様に始めは信じなかった雫と播磨だったが、それがキッカの『予期』したものであるというその事実が一つ明らかになっただけで、半信半疑ながらもそれを受け入れてみることにした。
そして、二週間後。
実力考査の出題範囲は、キッカが『予言』したその通りのものとなった。
「ねえ、いいじゃん」
また自分との関係を勘違いした男子生徒が、声を掛けてきた。しかも三年生だった。クラスメイトの男子と趣味が共通していたので仲良くしていたら、いつの間にか距離が近付いていた男子だ。
「すみません、興味無いんです」
あっさりと言って、尚も食い下がろうとする彼を一蹴した。それでも声を掛けようとした上級生は、しかし全く関心も無く振り返らずに去っていく雫に対し、口汚い捨て台詞を吐いて去っていく。
口説こうとした相手が気に入らない人間だと判断した瞬間、その口に乗せていた甘い言葉もゲロの様に吐き出され、後から出てくるのは憎悪だけ。そんなことは今まで何十回と経験したが、慣れることは無い。
移り気な自分の態度に問題があるのか? 違う、自分勝手な思い込みで自惚れる男が悪いのだ。いい気なものだ、自分の思い通りに、女が惚れるといつも考えている。
その点、魚はいいものだ。
雫の脳裏には、今はもう見ることの叶わない、しかし決して忘れることの出来ない存在が、大きなものとして焼きついている。
キッカは何故か、自分には見えなくなっている。
けれど、自分をいつも興奮させてくれる。今回だって、そうだ。
呼ばれた雫達四人は、中庭に集まった。
亮と向かい合うもう一つのベンチに雫と真理亜が、離れたブロックの上に播磨が腰を下ろし、顔を揃えている。その表情は、何処か暗い。
無理もないのかな、と雫はぼんやりと考える。今まで十年近く、身近な隣人として何となくその存在を肯定的に受け入れてきたミステリアスな古代魚が、突如として得体の知れない、そして人知を超越した『何か』であるように思えてきたのだ。
が、一つあのシーラカンスに関する新しい事実が判明したのだから、寧ろ事態は大きな前進と言えるのではないか。長年の疑問が解明されるかも知れないのだ。
だが、亮の声は重かった。
「『あれ』が何なのか、分からなくなってきた」
ベンチの背もたれに体を預け、組んだ指を所在なく組み替え、いじっている。「今まで、意思疎通を図ればお互いのことが分かると思ってたんだよ。キッカのことを知りたいと考えているのは純粋な好奇心からだったし、分かったところで何をするってわけじゃないけど……面白いことがあると思ってた。でも今回のことで、それが分からなくなった」
「そもそも、理解しても大丈夫な存在なのかどうか、ってところがな」
播磨が嘆息混じりに言う。「今まで、俺達が知っていることを教えているだけで、具体的にキッカの方からアクションを起こすことなんて滅多に無かった」
「テレパシー以外に超能力めいたことするなんて、今回が初めてじゃ?」
真理亜も青い顔で口を開く。テストの前から顔色は悪かったが、今は一層酷い。雫の様に簡単な化粧さえしないから、放課後の太陽の光に当てられて、気分も悪そうだ。一方で、雫は楽天的に言った。
「みんなさ、もっと簡単に考えない? 私達これで、いつでもカンニングし放題なんだしさ。寧ろラッキーじゃん?」
「そこまで単純じゃねえよ」
呆れながら亮が言った。「俺達は、キッカは石の中から外へは何も干渉出来ないと決め付けていた。でも実際にはあいつは、ずっと前から石の外に対して、誰かに干渉する手段を持っていたんだ」
「それが?」
「悪意を持っていないと、保証出来るのか?」
苛立った口調で言われたが、カチンときた雫も言い返す。
「悪意も敵意も無いでしょ。だってさ、私らがあいつの為に、本とかネットから色々な知識とか情報を与えていく中で、私らだって知恵も付けてきたんだよ? 自分のその力を見せびらかして、今亮が言ったみたいな邪推とか推測が出来ない奴だと思う? 警戒心芽生えさせるだけじゃん。もう私ら、構いたくなくなるよ」
すると、その反論の言葉は真理亜が継いだ。ベンチの肘掛に肘をつき、悩ましげに頭を押さえている。
「知能を持たない猛獣なら、隙を見て襲い掛かるでしょうけど、相手は私達か、それ以上に知能と知恵を身に付けた存在なんだよ。しかも、目的も不明」
「もう今以上の知識を探求するには私らじゃ力不足って言ってたんでしょう? 要するに」
簡単に要約して言ってみる。真理亜は「そうなんだよね」と小さく溢し、黙る。
その言葉を聞いてようやく、雫にも理解出来た。ああ、とベンチの背もたれに腕を回し、体を放り出す様に座って天を仰ぎ見る。
「もう、用済みに近くなってるわけだ、私達は」
自分と播磨は随分前からだけど、とも思ったが、それは声に出さずにいた。
亮が口を開く。
「何をしたいのか、その目的を全く話してこなかったあいつが、その目的を話した。でもそれは知識の探究そのものが目的であって、それを集めてどうしようってことは、あいつは考えてなかったんだよ。だから今まで、知識を集めてどうしようというんだ、っていう俺達の質問に、あいつは答えなかった」
「じゃあそう答えればよかったじゃん」
文句を言うと、播磨がうーん、と唸りながら言う。
「そこなんだよな。恣意的に動いている様で、とても計画的に行動している風にも見えるんだよ。あの無機質な声音がどうしても、真意や本音を掴みづらくしてる。正直に答えなかったのはキッカの気まぐれのようにも、何か他に存在する目的から目を逸らそうとしているようにも考えられる」
ああもう、と雫は再び天を仰ぎ、落胆する。
「じゃあ私ら、何の為に集まったんだよ。分からないってことを愚痴る為? 建設的じゃないね」
「雫から、建設的なんて言葉が出るとは」
亮が大仰に驚いた風な仕草をするので、雫は益々腹が立つ。
雫は興味の対象が移り気で、その点で言えば亮の癖とは対極に位置する。彼もまた興味の対象は様々な方面に膨らんでいる様に見える。が、その実、一つのものに入れ込むとその為に手段を惜しまなくなる、『突っ走る』という意味では一番危ないタイプの人間だった。
つまり、幾ら知識を集めても、一つのことにしか使おうとしない。得てして何がしかの天部の才を持っている人間の特徴だが、それが実生活の大半で役に立たないものであることを、雫は知っていた。
キッカと出会うまでは、自分もそんな人間だったのだ。
キッカの姿と声を捉えられなくなるにつれ、不可思議の魅力という中核であったキッカが興味の対象から外れたことにより、雫の興味や好意の特定対象は常に不在となり、あっちへこっちへと意識は移っていく。
だがこの変化は、自分にとっていいものだったと、雫は思っていた。一つのものに固執し過ぎる生き方は、大きな博打と変わらない。それが運命的な出会いであればいいが、そうでなければ抜け出せない沼へ嵌まり込み、二度と抜け出せなくなる。本質は変わらないが、生まれる結果の差異はあまりにも大きい。
ちらり、と横目で真理亜を見る。頭を押さえて悩みながらも、その指でちょい、と度々前髪をいじる。視線は、いつも亮に向いていることを知っていた。
(難儀だなあ)
呆れながら、雫はその問題児である親友を見つめ返し、言った。
「褒め言葉をくれるついでに、こうして集まったなら、知りたい目的くらいは決めて、その答えを出してから帰ろうよ」
「なら、大きくてシンプルな目的がいい」
播磨が口を挟んだ。「キッカは何がしたいか」
「それはもう決まったろ」
亮が言う。「より深い知識の探究だ」
「本当にそれだけだと思うか? もっと目的があるかも」
「今どう考えたってその答えは出ねえよ。次」
「じゃあ、イカについて」
真理亜が手から頭を離す。「キッカが自分の『目』だって言った、あのイカがどういう意図や意味で、石の中に姿を現したのか」
「イカ?」
「うん。さっきは、何処かの誰かの脳の中を覗いて遠くのことを知ったらしい、って説明したけど、実際は、イカを何匹かキッカが従えて、それを使いっ走りみたいにして情報を集めている様に見えた。スパイカメラみたいに」
「イカが石の中から飛び出すのか? アホか」
「あくまでイカは、キッカにとってもイメージっぽいよ。生物でも物体でもないイメージ映像みたいなもんじゃないの?」
スパイカメラ、テレパシー、目、イカ、シーラカンス、海、石。
その単語が一体どう結びつくのか、雫達はしばらく考えた。
「テレパシーが使えるなら、わざわざその力を『イカ』って形にして『目』を作ったことになる」
亮が呟き、播磨が唸る。
「無駄な動きな気がする。わざわざ、無駄な動きをする存在に外部委託するか?」
「テレパシーを外部委託って表現するのは斬新な発想だね」
真理亜が茶化すが、その顔は真剣だ。「そもそもその理屈だと、キッカが物理的に存在しない幻みたいな存在だって、認めてるようなもんだと思うけど」
「いや、魚は石の中に住まないだろ。そこまで考え始めたら止まらんから、一旦無視だ」
「それもそうか。じゃあ、キッカと、キッカが生存出来る擬似的海としての石の二つが存在していて、更にキッカと同質の『イカ』が現れた、と」
「そのイカは、何処からやってきたんだろ」
雫は疑問を口にする。「何も無い空間から生まれる訳はないから、何処かから生まれたか、外部からやってきた可能性はあるね。この場合の『何処かから生まれた場合』ってのは勿論、キッカから生まれた、ってことだけど。テレパシー能力の素になる素粒子の集合体があのシーラカンスだとして、石はその素粒子を閉じ込める材質や性質を持つ何かで、イカはキッカの体から分裂した素粒子がまた別の形を取った、陰陽道で言う依代、みたいな奴かもね」
突然のオカルト的民族学の話をしたが、興味や知識が四方八方に常に散っている雫のそんな思考を、誰も訝しがることはない。ただ、真理亜はもう一つの可能性について疑問の声をあげた。
「外部って?」
「他の石の中の海とか、宇宙とか、或いは本物の海から」
「もっと有り得ないだろ」
播磨は呆れた。「透過性が高い粒子だってある」
「でも、ニュートリノはスーパーカミオカンデで観測出来たわけじゃない? もし深海や宇宙の果てから来た未知の物質だったら、そんな性質の石があってもいいでしょ」
持ち前の知識を生かし、もっともらしい、しかしかなり適当なことを口にする。存在を肯定し続ければ、きっと自分の望む結果が得られる様な気がしたのだ。
「取り敢えず雫の立てた仮説を前提として、この場合の問題は、二つかな」
亮が言い切った。「一つは、何故キッカの『目』はイカの形を取ったのか。もう一つは、このイカに何が出来るのか」
情報を収集する為だけが目的ならばイカでなくともいいし、そもそも自分の分身(ということにしておこう)を生み出す必要性が疑問だった。キッカは雫達に、テレパシーが使える。もしこの超能力的技術の応用として千里眼を使えるのであれば、スパイカメラとしてのイカを作り出し、それを使役し、それが持ち帰った情報を受け取り認識する、などという周りくどいことをするメリットが無い。その点については先程も含め、幾ら話し合っても結論が変わらなかった。
だが。
話や考察も堂々巡りになり始め、移り気の癖が出始めた雫は、皆の話をやや上の空で聞きながらスマートフォンをいじる。話題になった化粧品のチェックをしていき、そしてスクロールしていくブラウザの下方に表示されたものを見て、唐突に閃く。
「広告だ……」
「何だって?」
播磨が気の抜けた声を出した。雫は、手元の画像を皆に見せる。
「ネットの広告プログラムだよ。自分が閲覧したウェブページの閲覧履歴から逆算して、紐付いた関連商品の広告ページを表示させるじゃない? キッカのイカって、これに近いんじゃないかな」
「何を……」
「普通は調べ物をするのってさ、能動的に動かないと駄目なわけじゃん。しかも調べる対象や目的が定まってて、それをピンポイントで探し当てる為の行動でしょ? でもキッカはそうじゃない。ただ取り敢えず、知識を集めようとしてる。その先に本当の目的がある無しに関わらずに、さ。でもそれって能動的なようで能動的じゃない。でしょ?」
同意を促すが、亮達は雫の言葉の意味を噛み砕いている途中なのか、首を傾げるばかりだった。雫は続ける。「だから自分の興味の無い、或いは自分でも考え付かなかった調査の対象に関する情報を集めるなら、予めアルゴリズムを組んだプログラムソフトがあればいいんだよ。自分が調査対象を決めていなくても、知らなかった知識も、自分の興味がある知識からの関連付けや、逆に知らなかった知識の収集をするのも役に立つ。その為にはどうしても自分の意識だけじゃなくて、第二の視点を持つ観測者が必要になる」
「それがイカって? でもどうして」
真理亜が疑問を呈した。それなんだけど、と雫は、先日購入した本の話をする。
深海に関するテーマに沿って、様々なオカルティックな情報がまとめられ、編纂された本。都市伝説や突拍子も無い眉唾の話も多い中で、その話だけは参考文献や引用元が明記されており、色が違った。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
あの章は海と、その神秘性や未知性から印象付けられる宇宙という存在についてのトピックが多くまとめられていた。その中に、イカに関する話があった。
「イカって、脳の構造に比べて目の構造がハイスペックすぎるらしいんだよ。無脊椎動物にも関わらずヒトと同じ単眼を持ってて、カメラ眼とか呼ばれてるらしいし、人間と違って構造上、イカの目には盲点が存在しないんだって。色は分からないけど、濃淡を高い精度で認識してるとか言ってた。でもさ」
「でも?」
「この高性能の目からインプットする情報を処理し切れる程、脳にスペックが無いらしいよ」
豚に真珠ならぬ、イカに単眼、とでも言うべきだろうか。くだらないことを考えて、雫は胸の内でこっそり笑った。
「じゃあ、キッカはなんでそんなイカを自分の『目』の象徴として使ってるの」
真理亜がもっともな疑問を口にする。雫には、それに対する答えもあった。
「ここからはちょっと……いや、かなり眉唾物なんだけど、それに関しては科学的じゃない、オカルトに近いことが言われてる」
「どんな?」
「カメラみたいなイカの目は本当にカメラの役割しかなくて、その取得した情報を別の何処かに転送しているんじゃないか、って説。人が踏破してない深海の奥底に巨大なイカの本体が居てそれが情報を収集してるとか、もっと別の場所へ情報を送ってるとか」
「アホくさ」
亮が言う。「雫だって、信じてるわけじゃないだろ」
「言ったじゃん、科学的じゃないって。……でも、頭から信じてないわけじゃない」
どうして、と播磨が訊いた。
「科学的じゃないんだろ?」
「情報の並列化や共有は珍しいことじゃないの。例えばミツバチは、働きバチが蜜を集められる花畑を見付けた場合、巣に戻って、いわゆるミツバチのダンスを踊る。それで蜜や花粉、新しい巣の予定地などを仲間に伝え、集団で行動出来るようになる。インプットした情報を仲間やボスに伝達する手段は、ミツバチのダンス以外にもあるんじゃないかな。ましてや、今回のはあのキッカが引き連れたイカってわけだし」
「つまり、イカがキッカの『目』になってあらゆる場所から様々な情報を集める、って事実は、理にかなってる……と?」
播磨が慎重に言葉を選び、恐る恐る、という風に言葉を口にした。
そうなる、と雫は考える。だが結局、だから何だ、という感想が出てしまう。これだけではやはり、キッカが知識の探究を求める研究者のような存在に落ち着いている。
雫達の予想と限界の先を超え、管理という支配下から独立し、一人で動き始めている。そんな、制御不能の圧倒的存在が自分達のすぐ近くにある、という事実だけを見れば確かに恐怖はあるかも知れない。だが実際、そんな恐怖を抱くような環境ではないと、雫は最初の印象から変えることは出来なかった。
やはり、何かをしようとしているのでは。
疑念は消えない。
ただ色を濃くする不安を残したまま、その日は解散となった。
記憶を引っ張り出したり考えたりし過ぎたのか、雫はその日、目の奥が痛くなった。視界もチカチカする。
今日は早く寝ようと、歯を磨きながら考える。
*
朝。両親が朝食を作り、食べている食卓に顔を出す。
日曜日は暇で、播磨は昼近くまで惰眠を貪り、今ようやく布団から出たところだった。おはよ、と気の抜けた挨拶をすると、父も適当な生返事をする。目線は、テレビに向かっていた。
正午過ぎのニュースで、アナウンサーが読み上げをしていた。
数日前から、昏睡状態に陥っている患者が全国的に発見されていることが分かったらしい。特にそれまで脳に傷害を受けたり、事故に遭って体に変調が訪れたということも無いのに。現在確認出来る最も古い者では半年以上前から、同様の症例が全国で既に数百件、各地の病院から報告が寄せられていることが、医師会からの発表で明らかになったと。
同じ症状と思われる患者が報告されている都道府県の分布が、簡素な日本地図の表示と共に放送された。
(この県にも居るんだ。……いや、待て)
アナウンサーは続いて患者数の多い都道府県の発表をしたが、一位は人口最多の都心ではなく、播磨達の住む県だ。しかも他の県と比べて随分と多い。
「何かあるのかなぁ」
父は呑気に言った。そんなこと、一般人が知る由も無い。
どうだろうね、と適当に相槌を打って、播磨は朝食兼昼食を済ませると、バックパックを背負い、自転車でバイト先へと向かった。
播磨のバイト先はファミレスで、町で一番の実行密集地にある。昼時は人も多く、店員はてんやわんやと多忙だった。
そのピークタイムの勤務が嫌で、どうしても外せない用事があるので、と店長に断って十三時からのシフトにしているのだが、それでも客足が遠のいて落ち着ける環境には程遠い。
忙しくなり、店内も混雑していると、客の方も注意は散漫になる。加えて周囲の騒音もあり、客は彼らが思うよりも、自分達の言葉が他人に聞こえていることに注意を払わない。
だから、偶然店に入ってきた学校の教員二人が私服で店に入ってきた時、播磨は何となく聞き耳を立てていた。と言っても、ホールでサーブをしている時にだけだが。
それでも、彼らがビールを注文してまあまあ酔いが回り始めたであろう頃、播磨の耳に届いた話の内容は、彼の関心を引いた。
「川上先生、大丈夫かね」
川上とは、音楽の教員だ。彼の突然の休みは、一ヶ月を経て尚も明けない。生徒の間でも、流石におかしいんじゃないかと噂が立っていた。
(亮とバッティングセンターで話した頃からだから……もう一ヶ月以上?)
季節がら、そして常に乾燥や健康には気を付けていると自負していた川上のことだから、風邪とは考えにくかった。それに播磨は、欠勤の理由が当初、質問した教諭によってバラバラであったことを忘れていない。
テーブル席の二人は、播磨の姿には気付いていないのだろう、会話を続けた。
「来月にはもう期末だろう? テストは作れるのか?」
「それは代理の小林先生の方がやってくれるので問題無いですが……心配ですよね」
「眠ったままって、な」
「詳しく聞かされてないんですが、何か……」
「いや、それがさ。無いんだって。原因らしい原因」
「本当に、どうして……」
「それでさ、今朝のニュースで……」
お待たせしました、とプレートを別席のテーブルに置いて会釈をし、播磨は厨房へ戻る。普段通りの仕事なのに、心臓はドキドキとうるさいくらいに鳴っていた。
休憩中、スマートフォンで亮達のグループメッセージに、先程耳に入れた情報を書き込む。三分もしない内に、全員からコメントがあった。
『マジか』
『死ぬん? トンちゃん死んでしまうん?』
『その口調止めろ』
『縁起でもねえ』
『てか、そんなニュースやってた?』
『昼のニュースが初出かな』
『まだネットニュースには出てない』
くだらない会話を交え、各々が好き勝手に話す。何か新しい情報が得られるかもと期待した播磨だったが、特段そんなことも無い。色々な話題やニュースにアンテナを伸ばしているはずの雫も、全国に広がっている昏睡症状の件については初耳だったようだ。
と、メッセージスレッドのコメントに、既読した人数が『2』から変わっていないことに気付く。そして一人、会話に参加していない者が居ることにも。
『真理亜ちゃんは?』
『あれ』
『寝てるのかな』
『もう四時だぞ』
どうしたのか、と疑問に思っている内に、休憩時間も終わりが近付く。亮と雫に断ってトークから抜け、播磨は仕事に戻った。
……雫からのメッセージが送られてきたのは、午後六時頃。それを播磨が見たのは、バイトが終わった二十時過ぎのことだった。
『ごめん、明日休む』
流れを切る、唐突な謝罪。訳が分からないまま、詮索はせずに亮と雫は『了解ー』と返事をしていたので、播磨も『分かった』と軽く返事をした。
宣言通り、真理亜は月曜日、学校を休んだ。
次の日も、その次の日も、彼女は来なかった。
グループメッセージに返事をしても電話をしても、真理亜は出なかった。真理亜のクラスの生徒に訊いても、誰も理由を知らない。皆、困惑していた。
「そろそろプリントとかも溜まってるから、私が持っていきますって言ったんだけど」
女子の一人が当惑した表情で播磨に言った。「先生が、私が持っていくからいい、って」
「私達、どうせ真理亜ちゃんの家は知らないんだけど」
相変わらず連絡の取れない……いや、連絡を拒絶されている状態が続き、播磨達も不安を募らせるばかりだった。
何の詳しい事情説明も無しに真理亜が休むだろうか。無遅刻無欠席で、いつも凛とした佇まいで学校に居る彼女が、教員からの評価が下がることをするだろうかと。
今日辺り、家に行ってみようか。亮が言う。雫が答えた。
「真理亜ちゃんの家、よく顔出すの?」
「いや、そう言えば、昔遊びに迎えに行くことはあったけど、中に入ったことは無いな」
雫よりも親しい間柄(だと播磨は考えているのだがどうだろう)の亮でもそうなのだから、雫も播磨も、無論真理亜の家に上がったことはない。それどころか、家の場所さえも記憶が曖昧だ。
思えば、真理亜は自分の家に誰かを呼ぶことがない。いつも静かに誰かの後ろをついていく。強い自己主張をしない、良くも悪くも他人との間に波風を立てない性格。それが彼女だった。
けれど播磨は何となく、そんな自分自身に対して息苦しそうにしている真理亜に気付いていた。彼だけではなく、亮も何となくそれに気付いていると思う。
クラスの女子と集まって昼を食べている雫抜きで、播磨と亮は、旧校舎を繋ぐ渡り廊下が見える木陰のベンチに座り、二人で弁当を食べる。食べながら、何となく真理亜の話になった。
「なんか、疲れることでもあったんかね」
「かもね」
亮は上の空で返事をする。「言えないこと、溜めてるんじゃないかな」
「そうは見えないが」
言ってみるが、自分で自分の言葉を信じられなかった。いつも流している冷めた風な真理亜の目線は、物事を観察している鋭い目付きではあったが、同時に鬱屈さを感じさせる表情でもあった。
だが亮は、播磨の想像とは違う答えを口にする。
「この前、久しぶりにあいつを自転車の後ろに乗せてな」
「おー、青春」
白々しく言ってみる。からかったつもりだが、亮の顔は真面目だった。
「あいつから、父親が吸ってる煙草の匂いが少しした」
「え」
「多分、隠れて吸ってる」
意外……と言うよりも、想像自体が出来なかった。吸わなきゃやってられないことでもあるのだろうか。自分達の知らないところで。
ああ、だから自分達は、真理亜の家のことを知らないのだ。
だから誰にも、家のことを知らせないのだ。
亮以外には。
「……やっぱりお前、一人で楢崎の家、行ってくれ」
言うと亮は、はあ? と間の抜けた声を返す。
「見舞いの資金出すから」
「まだ風邪とか決まったわけじゃ……」
「それでも見舞いの品くらいあった方がいいだろ。三尾には言っておくから。あ、折角明日土曜日だから、明日じっくり土産を選んでから寄っていけ」
「何でわざわざ」
その後もああだこうだと軽く言い合いをしたが、結局は腑に落ちない表情のまま、亮が折れた。
きっと、これでいいんだと思う。お節介かも知れないが、今はこれがいいような気がした。何か後日、真理亜に文句を言われたら、その時謝ろう。
播磨は、結局頑なに拒否されて受け取ってもらえなかった千円札を財布にしまいながら考えた。
先に弁当箱を仕舞って教室に戻りながら、雫に簡単に事情を要約したメッセージを送る。何となく彼女も思うところがあるのだろう、簡素な返事があった。
ついでに、と思いつつ、播磨は続けてディスプレイのキーをタップする。
『時間が出来て暇だし、二人でどっか行かね?』
やや間があって、返事。
『ごめーん。昨日から目が痛くてさ。金曜だし、今日の放課後病院行っちゃうわー』
『そっかー』
『ごめーん』
気付かれてるのか、そうでないのか。躱されてるのか、天然なのか。
全く、あいつのことは分からないな。思いながら播磨は嘆息し、のんびりと教室へ戻ることにした。
*
次の実力考査の範囲が分かる。亮からそう言われ、当然の様に始めは信じなかった雫と播磨だったが、それがキッカの『予期』したものであるというその事実が一つ明らかになっただけで、半信半疑ながらもそれを受け入れてみることにした。
そして、二週間後。
実力考査の出題範囲は、キッカが『予言』したその通りのものとなった。
「ねえ、いいじゃん」
また自分との関係を勘違いした男子生徒が、声を掛けてきた。しかも三年生だった。クラスメイトの男子と趣味が共通していたので仲良くしていたら、いつの間にか距離が近付いていた男子だ。
「すみません、興味無いんです」
あっさりと言って、尚も食い下がろうとする彼を一蹴した。それでも声を掛けようとした上級生は、しかし全く関心も無く振り返らずに去っていく雫に対し、口汚い捨て台詞を吐いて去っていく。
口説こうとした相手が気に入らない人間だと判断した瞬間、その口に乗せていた甘い言葉もゲロの様に吐き出され、後から出てくるのは憎悪だけ。そんなことは今まで何十回と経験したが、慣れることは無い。
移り気な自分の態度に問題があるのか? 違う、自分勝手な思い込みで自惚れる男が悪いのだ。いい気なものだ、自分の思い通りに、女が惚れるといつも考えている。
その点、魚はいいものだ。
雫の脳裏には、今はもう見ることの叶わない、しかし決して忘れることの出来ない存在が、大きなものとして焼きついている。
キッカは何故か、自分には見えなくなっている。
けれど、自分をいつも興奮させてくれる。今回だって、そうだ。
呼ばれた雫達四人は、中庭に集まった。
亮と向かい合うもう一つのベンチに雫と真理亜が、離れたブロックの上に播磨が腰を下ろし、顔を揃えている。その表情は、何処か暗い。
無理もないのかな、と雫はぼんやりと考える。今まで十年近く、身近な隣人として何となくその存在を肯定的に受け入れてきたミステリアスな古代魚が、突如として得体の知れない、そして人知を超越した『何か』であるように思えてきたのだ。
が、一つあのシーラカンスに関する新しい事実が判明したのだから、寧ろ事態は大きな前進と言えるのではないか。長年の疑問が解明されるかも知れないのだ。
だが、亮の声は重かった。
「『あれ』が何なのか、分からなくなってきた」
ベンチの背もたれに体を預け、組んだ指を所在なく組み替え、いじっている。「今まで、意思疎通を図ればお互いのことが分かると思ってたんだよ。キッカのことを知りたいと考えているのは純粋な好奇心からだったし、分かったところで何をするってわけじゃないけど……面白いことがあると思ってた。でも今回のことで、それが分からなくなった」
「そもそも、理解しても大丈夫な存在なのかどうか、ってところがな」
播磨が嘆息混じりに言う。「今まで、俺達が知っていることを教えているだけで、具体的にキッカの方からアクションを起こすことなんて滅多に無かった」
「テレパシー以外に超能力めいたことするなんて、今回が初めてじゃ?」
真理亜も青い顔で口を開く。テストの前から顔色は悪かったが、今は一層酷い。雫の様に簡単な化粧さえしないから、放課後の太陽の光に当てられて、気分も悪そうだ。一方で、雫は楽天的に言った。
「みんなさ、もっと簡単に考えない? 私達これで、いつでもカンニングし放題なんだしさ。寧ろラッキーじゃん?」
「そこまで単純じゃねえよ」
呆れながら亮が言った。「俺達は、キッカは石の中から外へは何も干渉出来ないと決め付けていた。でも実際にはあいつは、ずっと前から石の外に対して、誰かに干渉する手段を持っていたんだ」
「それが?」
「悪意を持っていないと、保証出来るのか?」
苛立った口調で言われたが、カチンときた雫も言い返す。
「悪意も敵意も無いでしょ。だってさ、私らがあいつの為に、本とかネットから色々な知識とか情報を与えていく中で、私らだって知恵も付けてきたんだよ? 自分のその力を見せびらかして、今亮が言ったみたいな邪推とか推測が出来ない奴だと思う? 警戒心芽生えさせるだけじゃん。もう私ら、構いたくなくなるよ」
すると、その反論の言葉は真理亜が継いだ。ベンチの肘掛に肘をつき、悩ましげに頭を押さえている。
「知能を持たない猛獣なら、隙を見て襲い掛かるでしょうけど、相手は私達か、それ以上に知能と知恵を身に付けた存在なんだよ。しかも、目的も不明」
「もう今以上の知識を探求するには私らじゃ力不足って言ってたんでしょう? 要するに」
簡単に要約して言ってみる。真理亜は「そうなんだよね」と小さく溢し、黙る。
その言葉を聞いてようやく、雫にも理解出来た。ああ、とベンチの背もたれに腕を回し、体を放り出す様に座って天を仰ぎ見る。
「もう、用済みに近くなってるわけだ、私達は」
自分と播磨は随分前からだけど、とも思ったが、それは声に出さずにいた。
亮が口を開く。
「何をしたいのか、その目的を全く話してこなかったあいつが、その目的を話した。でもそれは知識の探究そのものが目的であって、それを集めてどうしようってことは、あいつは考えてなかったんだよ。だから今まで、知識を集めてどうしようというんだ、っていう俺達の質問に、あいつは答えなかった」
「じゃあそう答えればよかったじゃん」
文句を言うと、播磨がうーん、と唸りながら言う。
「そこなんだよな。恣意的に動いている様で、とても計画的に行動している風にも見えるんだよ。あの無機質な声音がどうしても、真意や本音を掴みづらくしてる。正直に答えなかったのはキッカの気まぐれのようにも、何か他に存在する目的から目を逸らそうとしているようにも考えられる」
ああもう、と雫は再び天を仰ぎ、落胆する。
「じゃあ私ら、何の為に集まったんだよ。分からないってことを愚痴る為? 建設的じゃないね」
「雫から、建設的なんて言葉が出るとは」
亮が大仰に驚いた風な仕草をするので、雫は益々腹が立つ。
雫は興味の対象が移り気で、その点で言えば亮の癖とは対極に位置する。彼もまた興味の対象は様々な方面に膨らんでいる様に見える。が、その実、一つのものに入れ込むとその為に手段を惜しまなくなる、『突っ走る』という意味では一番危ないタイプの人間だった。
つまり、幾ら知識を集めても、一つのことにしか使おうとしない。得てして何がしかの天部の才を持っている人間の特徴だが、それが実生活の大半で役に立たないものであることを、雫は知っていた。
キッカと出会うまでは、自分もそんな人間だったのだ。
キッカの姿と声を捉えられなくなるにつれ、不可思議の魅力という中核であったキッカが興味の対象から外れたことにより、雫の興味や好意の特定対象は常に不在となり、あっちへこっちへと意識は移っていく。
だがこの変化は、自分にとっていいものだったと、雫は思っていた。一つのものに固執し過ぎる生き方は、大きな博打と変わらない。それが運命的な出会いであればいいが、そうでなければ抜け出せない沼へ嵌まり込み、二度と抜け出せなくなる。本質は変わらないが、生まれる結果の差異はあまりにも大きい。
ちらり、と横目で真理亜を見る。頭を押さえて悩みながらも、その指でちょい、と度々前髪をいじる。視線は、いつも亮に向いていることを知っていた。
(難儀だなあ)
呆れながら、雫はその問題児である親友を見つめ返し、言った。
「褒め言葉をくれるついでに、こうして集まったなら、知りたい目的くらいは決めて、その答えを出してから帰ろうよ」
「なら、大きくてシンプルな目的がいい」
播磨が口を挟んだ。「キッカは何がしたいか」
「それはもう決まったろ」
亮が言う。「より深い知識の探究だ」
「本当にそれだけだと思うか? もっと目的があるかも」
「今どう考えたってその答えは出ねえよ。次」
「じゃあ、イカについて」
真理亜が手から頭を離す。「キッカが自分の『目』だって言った、あのイカがどういう意図や意味で、石の中に姿を現したのか」
「イカ?」
「うん。さっきは、何処かの誰かの脳の中を覗いて遠くのことを知ったらしい、って説明したけど、実際は、イカを何匹かキッカが従えて、それを使いっ走りみたいにして情報を集めている様に見えた。スパイカメラみたいに」
「イカが石の中から飛び出すのか? アホか」
「あくまでイカは、キッカにとってもイメージっぽいよ。生物でも物体でもないイメージ映像みたいなもんじゃないの?」
スパイカメラ、テレパシー、目、イカ、シーラカンス、海、石。
その単語が一体どう結びつくのか、雫達はしばらく考えた。
「テレパシーが使えるなら、わざわざその力を『イカ』って形にして『目』を作ったことになる」
亮が呟き、播磨が唸る。
「無駄な動きな気がする。わざわざ、無駄な動きをする存在に外部委託するか?」
「テレパシーを外部委託って表現するのは斬新な発想だね」
真理亜が茶化すが、その顔は真剣だ。「そもそもその理屈だと、キッカが物理的に存在しない幻みたいな存在だって、認めてるようなもんだと思うけど」
「いや、魚は石の中に住まないだろ。そこまで考え始めたら止まらんから、一旦無視だ」
「それもそうか。じゃあ、キッカと、キッカが生存出来る擬似的海としての石の二つが存在していて、更にキッカと同質の『イカ』が現れた、と」
「そのイカは、何処からやってきたんだろ」
雫は疑問を口にする。「何も無い空間から生まれる訳はないから、何処かから生まれたか、外部からやってきた可能性はあるね。この場合の『何処かから生まれた場合』ってのは勿論、キッカから生まれた、ってことだけど。テレパシー能力の素になる素粒子の集合体があのシーラカンスだとして、石はその素粒子を閉じ込める材質や性質を持つ何かで、イカはキッカの体から分裂した素粒子がまた別の形を取った、陰陽道で言う依代、みたいな奴かもね」
突然のオカルト的民族学の話をしたが、興味や知識が四方八方に常に散っている雫のそんな思考を、誰も訝しがることはない。ただ、真理亜はもう一つの可能性について疑問の声をあげた。
「外部って?」
「他の石の中の海とか、宇宙とか、或いは本物の海から」
「もっと有り得ないだろ」
播磨は呆れた。「透過性が高い粒子だってある」
「でも、ニュートリノはスーパーカミオカンデで観測出来たわけじゃない? もし深海や宇宙の果てから来た未知の物質だったら、そんな性質の石があってもいいでしょ」
持ち前の知識を生かし、もっともらしい、しかしかなり適当なことを口にする。存在を肯定し続ければ、きっと自分の望む結果が得られる様な気がしたのだ。
「取り敢えず雫の立てた仮説を前提として、この場合の問題は、二つかな」
亮が言い切った。「一つは、何故キッカの『目』はイカの形を取ったのか。もう一つは、このイカに何が出来るのか」
情報を収集する為だけが目的ならばイカでなくともいいし、そもそも自分の分身(ということにしておこう)を生み出す必要性が疑問だった。キッカは雫達に、テレパシーが使える。もしこの超能力的技術の応用として千里眼を使えるのであれば、スパイカメラとしてのイカを作り出し、それを使役し、それが持ち帰った情報を受け取り認識する、などという周りくどいことをするメリットが無い。その点については先程も含め、幾ら話し合っても結論が変わらなかった。
だが。
話や考察も堂々巡りになり始め、移り気の癖が出始めた雫は、皆の話をやや上の空で聞きながらスマートフォンをいじる。話題になった化粧品のチェックをしていき、そしてスクロールしていくブラウザの下方に表示されたものを見て、唐突に閃く。
「広告だ……」
「何だって?」
播磨が気の抜けた声を出した。雫は、手元の画像を皆に見せる。
「ネットの広告プログラムだよ。自分が閲覧したウェブページの閲覧履歴から逆算して、紐付いた関連商品の広告ページを表示させるじゃない? キッカのイカって、これに近いんじゃないかな」
「何を……」
「普通は調べ物をするのってさ、能動的に動かないと駄目なわけじゃん。しかも調べる対象や目的が定まってて、それをピンポイントで探し当てる為の行動でしょ? でもキッカはそうじゃない。ただ取り敢えず、知識を集めようとしてる。その先に本当の目的がある無しに関わらずに、さ。でもそれって能動的なようで能動的じゃない。でしょ?」
同意を促すが、亮達は雫の言葉の意味を噛み砕いている途中なのか、首を傾げるばかりだった。雫は続ける。「だから自分の興味の無い、或いは自分でも考え付かなかった調査の対象に関する情報を集めるなら、予めアルゴリズムを組んだプログラムソフトがあればいいんだよ。自分が調査対象を決めていなくても、知らなかった知識も、自分の興味がある知識からの関連付けや、逆に知らなかった知識の収集をするのも役に立つ。その為にはどうしても自分の意識だけじゃなくて、第二の視点を持つ観測者が必要になる」
「それがイカって? でもどうして」
真理亜が疑問を呈した。それなんだけど、と雫は、先日購入した本の話をする。
深海に関するテーマに沿って、様々なオカルティックな情報がまとめられ、編纂された本。都市伝説や突拍子も無い眉唾の話も多い中で、その話だけは参考文献や引用元が明記されており、色が違った。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
あの章は海と、その神秘性や未知性から印象付けられる宇宙という存在についてのトピックが多くまとめられていた。その中に、イカに関する話があった。
「イカって、脳の構造に比べて目の構造がハイスペックすぎるらしいんだよ。無脊椎動物にも関わらずヒトと同じ単眼を持ってて、カメラ眼とか呼ばれてるらしいし、人間と違って構造上、イカの目には盲点が存在しないんだって。色は分からないけど、濃淡を高い精度で認識してるとか言ってた。でもさ」
「でも?」
「この高性能の目からインプットする情報を処理し切れる程、脳にスペックが無いらしいよ」
豚に真珠ならぬ、イカに単眼、とでも言うべきだろうか。くだらないことを考えて、雫は胸の内でこっそり笑った。
「じゃあ、キッカはなんでそんなイカを自分の『目』の象徴として使ってるの」
真理亜がもっともな疑問を口にする。雫には、それに対する答えもあった。
「ここからはちょっと……いや、かなり眉唾物なんだけど、それに関しては科学的じゃない、オカルトに近いことが言われてる」
「どんな?」
「カメラみたいなイカの目は本当にカメラの役割しかなくて、その取得した情報を別の何処かに転送しているんじゃないか、って説。人が踏破してない深海の奥底に巨大なイカの本体が居てそれが情報を収集してるとか、もっと別の場所へ情報を送ってるとか」
「アホくさ」
亮が言う。「雫だって、信じてるわけじゃないだろ」
「言ったじゃん、科学的じゃないって。……でも、頭から信じてないわけじゃない」
どうして、と播磨が訊いた。
「科学的じゃないんだろ?」
「情報の並列化や共有は珍しいことじゃないの。例えばミツバチは、働きバチが蜜を集められる花畑を見付けた場合、巣に戻って、いわゆるミツバチのダンスを踊る。それで蜜や花粉、新しい巣の予定地などを仲間に伝え、集団で行動出来るようになる。インプットした情報を仲間やボスに伝達する手段は、ミツバチのダンス以外にもあるんじゃないかな。ましてや、今回のはあのキッカが引き連れたイカってわけだし」
「つまり、イカがキッカの『目』になってあらゆる場所から様々な情報を集める、って事実は、理にかなってる……と?」
播磨が慎重に言葉を選び、恐る恐る、という風に言葉を口にした。
そうなる、と雫は考える。だが結局、だから何だ、という感想が出てしまう。これだけではやはり、キッカが知識の探究を求める研究者のような存在に落ち着いている。
雫達の予想と限界の先を超え、管理という支配下から独立し、一人で動き始めている。そんな、制御不能の圧倒的存在が自分達のすぐ近くにある、という事実だけを見れば確かに恐怖はあるかも知れない。だが実際、そんな恐怖を抱くような環境ではないと、雫は最初の印象から変えることは出来なかった。
やはり、何かをしようとしているのでは。
疑念は消えない。
ただ色を濃くする不安を残したまま、その日は解散となった。
記憶を引っ張り出したり考えたりし過ぎたのか、雫はその日、目の奥が痛くなった。視界もチカチカする。
今日は早く寝ようと、歯を磨きながら考える。
*
朝。両親が朝食を作り、食べている食卓に顔を出す。
日曜日は暇で、播磨は昼近くまで惰眠を貪り、今ようやく布団から出たところだった。おはよ、と気の抜けた挨拶をすると、父も適当な生返事をする。目線は、テレビに向かっていた。
正午過ぎのニュースで、アナウンサーが読み上げをしていた。
数日前から、昏睡状態に陥っている患者が全国的に発見されていることが分かったらしい。特にそれまで脳に傷害を受けたり、事故に遭って体に変調が訪れたということも無いのに。現在確認出来る最も古い者では半年以上前から、同様の症例が全国で既に数百件、各地の病院から報告が寄せられていることが、医師会からの発表で明らかになったと。
同じ症状と思われる患者が報告されている都道府県の分布が、簡素な日本地図の表示と共に放送された。
(この県にも居るんだ。……いや、待て)
アナウンサーは続いて患者数の多い都道府県の発表をしたが、一位は人口最多の都心ではなく、播磨達の住む県だ。しかも他の県と比べて随分と多い。
「何かあるのかなぁ」
父は呑気に言った。そんなこと、一般人が知る由も無い。
どうだろうね、と適当に相槌を打って、播磨は朝食兼昼食を済ませると、バックパックを背負い、自転車でバイト先へと向かった。
播磨のバイト先はファミレスで、町で一番の実行密集地にある。昼時は人も多く、店員はてんやわんやと多忙だった。
そのピークタイムの勤務が嫌で、どうしても外せない用事があるので、と店長に断って十三時からのシフトにしているのだが、それでも客足が遠のいて落ち着ける環境には程遠い。
忙しくなり、店内も混雑していると、客の方も注意は散漫になる。加えて周囲の騒音もあり、客は彼らが思うよりも、自分達の言葉が他人に聞こえていることに注意を払わない。
だから、偶然店に入ってきた学校の教員二人が私服で店に入ってきた時、播磨は何となく聞き耳を立てていた。と言っても、ホールでサーブをしている時にだけだが。
それでも、彼らがビールを注文してまあまあ酔いが回り始めたであろう頃、播磨の耳に届いた話の内容は、彼の関心を引いた。
「川上先生、大丈夫かね」
川上とは、音楽の教員だ。彼の突然の休みは、一ヶ月を経て尚も明けない。生徒の間でも、流石におかしいんじゃないかと噂が立っていた。
(亮とバッティングセンターで話した頃からだから……もう一ヶ月以上?)
季節がら、そして常に乾燥や健康には気を付けていると自負していた川上のことだから、風邪とは考えにくかった。それに播磨は、欠勤の理由が当初、質問した教諭によってバラバラであったことを忘れていない。
テーブル席の二人は、播磨の姿には気付いていないのだろう、会話を続けた。
「来月にはもう期末だろう? テストは作れるのか?」
「それは代理の小林先生の方がやってくれるので問題無いですが……心配ですよね」
「眠ったままって、な」
「詳しく聞かされてないんですが、何か……」
「いや、それがさ。無いんだって。原因らしい原因」
「本当に、どうして……」
「それでさ、今朝のニュースで……」
お待たせしました、とプレートを別席のテーブルに置いて会釈をし、播磨は厨房へ戻る。普段通りの仕事なのに、心臓はドキドキとうるさいくらいに鳴っていた。
休憩中、スマートフォンで亮達のグループメッセージに、先程耳に入れた情報を書き込む。三分もしない内に、全員からコメントがあった。
『マジか』
『死ぬん? トンちゃん死んでしまうん?』
『その口調止めろ』
『縁起でもねえ』
『てか、そんなニュースやってた?』
『昼のニュースが初出かな』
『まだネットニュースには出てない』
くだらない会話を交え、各々が好き勝手に話す。何か新しい情報が得られるかもと期待した播磨だったが、特段そんなことも無い。色々な話題やニュースにアンテナを伸ばしているはずの雫も、全国に広がっている昏睡症状の件については初耳だったようだ。
と、メッセージスレッドのコメントに、既読した人数が『2』から変わっていないことに気付く。そして一人、会話に参加していない者が居ることにも。
『真理亜ちゃんは?』
『あれ』
『寝てるのかな』
『もう四時だぞ』
どうしたのか、と疑問に思っている内に、休憩時間も終わりが近付く。亮と雫に断ってトークから抜け、播磨は仕事に戻った。
……雫からのメッセージが送られてきたのは、午後六時頃。それを播磨が見たのは、バイトが終わった二十時過ぎのことだった。
『ごめん、明日休む』
流れを切る、唐突な謝罪。訳が分からないまま、詮索はせずに亮と雫は『了解ー』と返事をしていたので、播磨も『分かった』と軽く返事をした。
宣言通り、真理亜は月曜日、学校を休んだ。
次の日も、その次の日も、彼女は来なかった。
グループメッセージに返事をしても電話をしても、真理亜は出なかった。真理亜のクラスの生徒に訊いても、誰も理由を知らない。皆、困惑していた。
「そろそろプリントとかも溜まってるから、私が持っていきますって言ったんだけど」
女子の一人が当惑した表情で播磨に言った。「先生が、私が持っていくからいい、って」
「私達、どうせ真理亜ちゃんの家は知らないんだけど」
相変わらず連絡の取れない……いや、連絡を拒絶されている状態が続き、播磨達も不安を募らせるばかりだった。
何の詳しい事情説明も無しに真理亜が休むだろうか。無遅刻無欠席で、いつも凛とした佇まいで学校に居る彼女が、教員からの評価が下がることをするだろうかと。
今日辺り、家に行ってみようか。亮が言う。雫が答えた。
「真理亜ちゃんの家、よく顔出すの?」
「いや、そう言えば、昔遊びに迎えに行くことはあったけど、中に入ったことは無いな」
雫よりも親しい間柄(だと播磨は考えているのだがどうだろう)の亮でもそうなのだから、雫も播磨も、無論真理亜の家に上がったことはない。それどころか、家の場所さえも記憶が曖昧だ。
思えば、真理亜は自分の家に誰かを呼ぶことがない。いつも静かに誰かの後ろをついていく。強い自己主張をしない、良くも悪くも他人との間に波風を立てない性格。それが彼女だった。
けれど播磨は何となく、そんな自分自身に対して息苦しそうにしている真理亜に気付いていた。彼だけではなく、亮も何となくそれに気付いていると思う。
クラスの女子と集まって昼を食べている雫抜きで、播磨と亮は、旧校舎を繋ぐ渡り廊下が見える木陰のベンチに座り、二人で弁当を食べる。食べながら、何となく真理亜の話になった。
「なんか、疲れることでもあったんかね」
「かもね」
亮は上の空で返事をする。「言えないこと、溜めてるんじゃないかな」
「そうは見えないが」
言ってみるが、自分で自分の言葉を信じられなかった。いつも流している冷めた風な真理亜の目線は、物事を観察している鋭い目付きではあったが、同時に鬱屈さを感じさせる表情でもあった。
だが亮は、播磨の想像とは違う答えを口にする。
「この前、久しぶりにあいつを自転車の後ろに乗せてな」
「おー、青春」
白々しく言ってみる。からかったつもりだが、亮の顔は真面目だった。
「あいつから、父親が吸ってる煙草の匂いが少しした」
「え」
「多分、隠れて吸ってる」
意外……と言うよりも、想像自体が出来なかった。吸わなきゃやってられないことでもあるのだろうか。自分達の知らないところで。
ああ、だから自分達は、真理亜の家のことを知らないのだ。
だから誰にも、家のことを知らせないのだ。
亮以外には。
「……やっぱりお前、一人で楢崎の家、行ってくれ」
言うと亮は、はあ? と間の抜けた声を返す。
「見舞いの資金出すから」
「まだ風邪とか決まったわけじゃ……」
「それでも見舞いの品くらいあった方がいいだろ。三尾には言っておくから。あ、折角明日土曜日だから、明日じっくり土産を選んでから寄っていけ」
「何でわざわざ」
その後もああだこうだと軽く言い合いをしたが、結局は腑に落ちない表情のまま、亮が折れた。
きっと、これでいいんだと思う。お節介かも知れないが、今はこれがいいような気がした。何か後日、真理亜に文句を言われたら、その時謝ろう。
播磨は、結局頑なに拒否されて受け取ってもらえなかった千円札を財布にしまいながら考えた。
先に弁当箱を仕舞って教室に戻りながら、雫に簡単に事情を要約したメッセージを送る。何となく彼女も思うところがあるのだろう、簡素な返事があった。
ついでに、と思いつつ、播磨は続けてディスプレイのキーをタップする。
『時間が出来て暇だし、二人でどっか行かね?』
やや間があって、返事。
『ごめーん。昨日から目が痛くてさ。金曜だし、今日の放課後病院行っちゃうわー』
『そっかー』
『ごめーん』
気付かれてるのか、そうでないのか。躱されてるのか、天然なのか。
全く、あいつのことは分からないな。思いながら播磨は嘆息し、のんびりと教室へ戻ることにした。
*
