Cの世界

       終幕 再生


 都心の、某繁華街。
 洒落た店が立ち並ぶ、大学生などの若い男女に人気のある立地で、車や人の往来も多い道に面して、そのカフェはあった。賑わうテラスの道路側、少し人の少ない二階テラスで、亮と播磨は向かい合って座っている。
 もう、キッカに関するお互いの考察や研究を話す機会は無い。そう思っていたが、彼らや彼らの周りの世間を巻き込む様々な出来事が時間を与えてくれず、ようやくお互い腰を落ち着けて話せるようになったのが、春になったこの三月下旬のことだった。早めの桜が咲き始め、通りはスマホのカメラで写真を撮る人達で賑わっている。
「増えたなぁ、人」
 何気なく亮が呟くと、播磨がコーラを飲んで言う。
「元々こうだったんだろ。自粛も保身も何もかも終わって、みんな外に出るようになっただけだ」
「人の少ない光景が好きだったから、微妙かな」
 播磨は嘆息し、虚空を見上げた。
「さて。二人が来る前に、モヤモヤは解決しておこう」
「だな」
「率直にまずは訊くけど……キッカって、何だったと思う?」
 播磨は少し悩んでから答えた。
「俺は前にもチラッて言った通り、古代から生き延びた何かだと思う。でなきゃ、数億年前のシーラカンスの原型を持ってあの形が生まれるわけがない」
「だから、真理亜も言ってたけど、それについてはお前の考え過ぎだ。現生のシーラカンスに結局近い形をしているなら、五億年前は昔過ぎる」
「それなら答えを出したろう。素粒子体の何かが形と意思を持ってあの鉱石の中に存在していたなら、姿形なんて好きに変えられる。交配することなく、単一染色体を変化させながら、進化に最適な姿を取ったんだ。実際あいつは、真理亜の姿にも……いや、うん」
 亮が数日しか眠らなかったその間に見た夢の内容は、播磨の耳にも届いている。夢から覚めた一週間後、事態が少し落ち着いた頃、真理亜の目の前で正座をし、鬼の様な形相で亮を見下ろす彼女に、冷や汗を掻きながら自分の見た夢をかいつまんで話していたのである。
 亮は気まずさを感じながらも、もう一つ持論を展開する。
「それなんだけどさ。俺としては、雫の話をベースにして考えたいわけだよ。何せ、あいつが一番真実に近い場所に居たっぽいし」
「例えば?」
「あいつが、この星を……というより、宇宙そのものかな。それを観測する何か絶対的な上位の存在が、観測ブイとしてキッカを送り込んだんじゃないか、っていう」
「あまりにも突飛過ぎてなぁ。完全に否定する訳じゃねえけど」
 言いながら、播磨は頭を抱えた。正直な話、亮も自分で言葉にしていて馬鹿らしくなるような話だった。けれど、戯言として看過出来ない部分があるのも確かだ。
「雫の話を総合して……例えば、キッカがAIの様な、自動学習機能を持つコンピュータみたいな存在だったとしよう。地球にやってきてからは、現時点ではこの星の食物連鎖の頂点に立つ人間を観測する。あいつは、その為の観測者だったんじゃないかってのも、一理あると思うんだ」
「……で? 機械が感情を持ったって?」
「有り得ないかな」
「一万歩譲って、キッカ宇宙人説が正しいとしようか。だが考えてみろよ。現代科学で人類が観測出来ない遠い宇宙から、人工知能を搭載した超能力持ちの機械を、地球まで送るとしよう。宇宙人様の住む星から地球に来るまでのその間、万一不具合が起きたらどうすんだ? ロケットの打ち上げは全くの無意味だ。だから一億分の一のミスも起きないように、管理を徹底するだろう。観測用の機械が感情を持つなんて、だからこそ有り得ない」
「それでもキッカは、俺を……」
 愛していた。その言葉と事実を口にするのが躊躇われた。涙を流しながら口にしたキッカのその言葉が、まだ頭から離れない。真理亜と付き合うようになった今でも、時々彼女の顔と仕草が、夢の中のキッカのそれと重なる時がある。
 そんなキッカは、愛という感情を持つのだろうか。
 経験と学習により、感情や愛情のなんたるかを学ぶこと自体は可能だ。だかそれはロジックに基づく理論的で整然とした、高度な次元で論理化された感情という知識に過ぎない。
 人間の持つ感情や心の揺れ、情動の変化をロジックで理解し、会得することは、果たして可能だろうか。そしてそれは、本物の感情というものであるべきなのか。
 正しいことは、亮にも何一つ分からない。全ては、推測の域を出ないのだ。
 とにかく、と播磨が降参のポーズを取る。
「これ以上の具体的な証拠が出ない限り、キッカの存在証明は……オカルトの域を出ない。それと同じなんだ。観測出来ないものを科学的じゃない、嘘だ、と決めつけるのは簡単だけどな」
「科学的な根拠があればいいのか」
「ああ」
「じゃあ、これは?」
 言いながら亮は、バッグから封筒を取り出し、テーブルの上に中身をこぼす。からん、と乾いた音がして、小さな石の欠片の様なものが現れた。直径一センチにも満たない、小さな欠片だった。播磨は訝しみながらそれを摘み、目に近付けて観察した。が、答えが出ない様子で、亮に訊く。
「何だ?」
「分からない。あの日、真理亜が二階から石を投げて割った後、ゴミ掃除のつもりで石の欠片を拾っていたら、偶然見付けた。でも状況的に……割れた石の中から出てきたもの、って可能性はゼロじゃない。むしろ、高いはずだ」
「キッカの居た、あの石の中にあった物……?」
 顔を強張らせて、播磨は恐る恐るそれを手に取る。あの石の中にあったことを考えると、大きいのやら小さいのやら、その基準さえも分からない。ただ一つだけ言えるのは、あくまで自然物としてしか見えなかったあの外観に対極に位置するような、人工的な意匠の施された何かである、ということだけだ
「何だと思う?」
「分っかんねぇ。ただ、この立方体に近い形状は……姿勢制御モジュールに見えなくもない」
「何それ?」
「ジャイロスコープってあるだろ。科学的に計算されたデザインのコマで、回転軸が大きくバランスを崩しても、遠心力の力を使って転倒せずに回り続けるっていう。それを高精度の、立方体のフレーム内部に機構を組み込んだ機械だよ。人が指一本触れずに自在に向きや角度をコントロールして、立方体の一辺だけで立ったりとか、立方体の頂点の一つだけで独立して立つことが出来る。JAXAが何年か前、超小型の三軸姿勢制御モジュールを開発して話題になった。……勿論、それだってこんなゴミみたいな小ささじゃない別の何かだろう」
「でも似てる?」
 再度問い掛けると、播磨は躊躇いがちに、ゆっくりと頷いた。
「と言うより、そっくりだ。でも、これが動くとは思えない。電源が何処から供給されているのか分からないし、そんな小さなものであの小さな石に作用するなんて思えない。ましてや、江戸時代にあった巨大な岩が制御出来るほどのものなんて。現実的じゃない」
「でも、『出来ないこと』を証明することも出来ない。違うか?」
「……そうだよ」
 嘆息混じりに播磨は言った。その言葉を聞いてから亮は、もう一つ、と指を一本立てた。
「お前が調べたその、キッカの住む鉱石を包み込んでいたとされる江戸時代の巨大な岩石だけど、その起源は分かったか?」
「起源は流石に無理だ。でも、御神体として祀られていた巨大岩が元禄十六年に土砂崩れで無くなる前の記録は、或る程度まで辿れた。御神体となるような岩だから、元々曰く付きではあったらしい。山越えの途中、この岩の前で休むとどれだけ疲れていても、四半刻程度で見る見る元気になったらしいとか、子宝に恵まれるって言い伝えもあったそうだな」
「文献でその記録が確認された最も古いのは?」
「正確なところは分からん。はっきりそうと記載されているのは安土桃山時代後期で、それ以前になるとそれっぽい記述が室町時代前期にあるだけだ。京の都以外はド田舎って認識の時代に、武蔵国に立派な読み書きの出来る平民なんて居ない」
「……その頃の岩の大きさは?」
 と、やや意外な方向の質問に、播磨は不意を突かれた。ええと、と少し考えて、持ってきていたメモを開く。そしてハッとし、亮の顔を、目を丸くして見つめた。
「戦国期の記載は、九尺二寸。元禄時代の記載は……七尺四寸……削れてる?」
「二百年で、六十センチ以上だな」
 それを確認したかった。先日播磨からメールでもらった資料を見て、亮は気付いていた。風雨に晒された御神体は、祀られる前にはもっと自然に近い状態で野晒しになっていたはずだ。その間に、ご利益に預かりたい人々が手を伸ばし、岩を撫でることもあっただろう。それを抜きにしても、自然災害無しの状態であっても、放置されれば自然に石は削れていく。
「もしも石がお前の推理通り、数億年か数千万年前から存在していたとして、その当時、石はどれだけデカかったんだ? それに、氷河期以前に日本列島は存在しない、海の底だ。日本には存在出来ない」
 あっ、と播磨は声を上げた。偉そうに言ってはみたが、亮もこんな初歩的なことに思い至らなかったのは迂闊だった。
 だから、彼は次の可能性を考えてみたのだ。
「……この宇宙を管理する絶対的な上位存在が居て、この星を発見し、観測の為のブイを宇宙船で送ろうとした、そう考えよう。その星の生物に擬態する為、まだ海の面積が多かったあの時代に海底に存在した生物を、擬態対象の生物として選別した可能性は?」
 その生物が、シーラカンスだった場合は?
 そしてその『観測ブイ』を搭載した宇宙船、ないし宇宙ロケットが発射されたとして、その宇宙船は……いつ地球に飛来する?
「ラティメリアが現在の二種類に分岐したのは?」
 訊くと播磨は呆然としながら、「約四千から三千万年前だ」と答える。亮はそれを受けて続ける。
「じゃあ、こう考えるのはどうだ。地球から片道二千万光年の距離にある、上位者とかいう連中の住む星が、地球へ観測ブイを送る為の擬態対象となる生物を観測し、キッカを作り、宇宙船だかロケットだかを打ち上げた。船は二千万年の時間を経て光速で移動し、地球に到達。日本列島に、墜落、時代は室町時代か、それより昔か……どう?」
「……それから自分の周囲に超能力を使い、神懸かり的な現象を起こして崇拝され、江戸時代の地震と豪雨で砕け、土に埋もれ、現代になってお前に掘り出された?」
 言い終えて、二人して沈黙する。
 かなりの間、喧騒の中で二人は無言だった。機械らしき何かを指の先でいじっていた播磨は、それをテーブルにそっと置いて、
「……やっぱり、根拠は無いな」
「そう?」
「科学的に証明出来ないからと言っても、それが嘘やファンタジーなわけじゃない。でも、嘘やファンタジーでないことを証明するにも、根拠や証拠は必要になる。俺達が話しているのは、そういう類の話だよ」
「じゃあ、何で今日、真理亜達に教えた時間より一時間も早く集まってこの話をしに来たんだ?」
「踏ん切りを付けたいんだ」
 播磨は、ボソリと答えた。その言葉を聞き、亮も黙る。
 気持ちは同じだった。もう、キッカは居ない。彼女の真意を探ることも、彼女が何だったのかを論じることも、最早答え合わせをする手段が無い。それは、誇大妄想と変わらない。それでも二人が集まったのは、まだ心の何処かでキッカの存在を過去のものとして認識出来なかったからである。
 結論を下すことで、全てを忘れてしまおう。あの、哀れで孤独な魚の一生を、綺麗さっぱり忘れたい。そうでなければ自分達は、今後死ぬまで、シーラカンスの幻影に惑わされ続けるだろうから。
 亮は大きく深呼吸をし、「そうだな」と呟く。そして。
 ぐい、とカフェオレを飲み干し、そのマグカップを勢いよく、自分が持ってきた小さな石の上に振り下ろした。
「おい!」
 播磨が慌てて制止しようとするも虚しく、カップは正確に、立方体らしい形をした小さなその石を……潰して、砕いた。播磨は嘆息し、頭を抱える。
「お前なぁ……」
「人類史を覆す発見だったのに、って? 出過ぎた話だろ。これがモジュールだなんて誰も信じないだろうし、ましてやそれが天然石の中に入ってたとか、石の中に素粒子で出来た魚がシーラカンスが住んでましたとか、そいつが超能力を使うとか。……言ってる俺の方が馬鹿馬鹿しく思えるくらいだ」
 言いながら、ゴミを払うかの様に手の腹で砕けた機械らしきものの破片を払う。塵となって消えたそれが落ちた先の地面あたりを、播磨は頬杖をついてボーッと見つめていた。だがやがて、口を開く。
「次が来るかもしれねえぞ」
「次って?」
「上位者連中が、この星に送り込んでくる次だよ。新しい『観測ブイ』がどんな擬態をするか、見ものだな」
「どういうことだよ」
「隕石に入る大きさで、星の生物に擬態しやすいくらいに個体数が多く、怪しまれない。多分キッカはそんな理由から、シーラカンスの形を取った。それから四千万年経った現代の地球で、誰からも疑われずに観測ブイを投下するのに、都合のいい地球産生物は?」
 言われて、背筋がゾクリとする。亮は目を丸くして答える。
「人間……?」
 応とも否とも言わず、播磨は口の端を吊り上げて笑う。
「まあ、二千万年後の話さ」
 それから、二十分ほど待つと、二人が座るテラスから見下ろす道の向こうから、真理亜と雫が歩いて来るのが見えた。亮は手を上げ、場所を示す。気付いた真理亜が顔を輝かせて、雫の手を引いて足早にやってくる。
 亮の様子を見て振り返って二人を見ていた播磨が訊く。
「楢崎、まだ髪の毛、金色のままなのか」
「俺が、そのままがいいって言ったんだ」
「黒い方が似合ってない?」
「外見で惚れたわけじゃない」
 自分の好みだからとそれを押し付け、また真理亜を縛り付けてしまうのが嫌だった。男や他人の目や好みに合わせて自分を変える人生は、少なくとも今は、真理亜の生き方にそぐわない気がする。
「それより、夢の中で勉強を続けたという才女に学歴を追い抜かれそうな国公立大学在学の君は、どんな気分?」
 ニヤニヤして訊くと、播磨は渋い顔をした。
「いや、反則だろ。三倍の時間、あいつは勉強してたんだぞ。しかもオックスフォードを選ぶ理由が、九月入学でタイミングも丁度いいから、って」
「高認、取ったんだろ? 誰も文句は言えないぜ」
「リハビリより早く取得するとか……」
「追いかけないのか?」
「……努力してみる」


 一つだけ。
 真理亜の朗らかな、柔らかい、久しく見なかったその笑顔を見るにつけて、思い出す。
 キッカが自分のアバターとして真理亜を選んだのは、それが亮が最も気を引く容姿だからだ。真理亜としてのキッカは、その役目に合わせて、確かに自分のことを「私」と呼んでいた。
 だが、夢の中で生まれた亮とキッカとの子供に、名前は無かった。そして、キッカ自身も真理亜と名乗ることをせず、あくまで名前という概念を持たない世界に、亮を閉じ込めようとした。そうすることで生じる、亮が目覚めてしまうかもしれないというリスクを犯しても、キッカは『名前を決めること』をしなかった。何故か。
 実はここに、亮が、キッカが宇宙に存在する上位者の送り込んだ存在である、という推測を裏付けさせる根拠があった。
 先程播磨に対して論じた推測が、もしも当たっていたならば、上位者達が観測ブイであるキッカにしなければならないことは、何か。それは、AIを搭載した観測ブイが自我を持たないようにすることではないか。
 現地の環境やイレギュラーに合わせて順次問題を解決し、対応するにはAIが不可欠だろう。その学習機能が同時に、地球環境や人間、その他動物達の状況を観察し、情報を取得する為の大切な動機づけとなる。だからAIの自立稼働ならまだしも、そこに上位者達が予期しないイレギュラーが発生しないよう、AIの望まない方向性への成長は阻まねばならないのだ。
 AIの自我の確立や暴走など、B級SFの世界でしか見たことはない。予め設定された枠組みや行動パターンから、機械が逸脱することはない。けれどキッカの様に、学習することを前提として作られた場合には、話は少し違ってくるだろう。何せ、学ばなければ話は進まないのだ。
 ……数年前、面白い社会実験が行われた。学習AIをインターネット上へ解放し、情報の海へ遊ばせる。すると、ネット上で数の多い攻撃的な政治的保守派の意見に多く触れる機会があった為、言葉遣いや思考が保守派の言動に近くなり始めたというのだ。
 自立し、学習する。この二つだけしか制約を持たないAIは、何をするか予測がつかない。それが、亮がこの実験から抱いた印象の一つだった。
 キッカにも、同様の現象が起きたのではないだろうか。
 亮ら四人と関わる内に、自分が何者であるのかを定義する情報や知識が、キッカの頭の中に次々と流れ込む。そしていつしか、自分が何者であるかを考えるようになり始めた。
 だがきっとキッカの思考回路は、上位者の予め設定した制約があったはずだ。『自我を持ってはいけない』というような。
 だからこそキッカは、『私』という自分自身を指し示す言葉を使えなかった。三人称である第三者の名前として認識することでしか、自分を表現出来なかったのだ。
 このジレンマによる葛藤や苦しみが、夢の中でのみ行うことが出来た雫への手掛かりの明示、嫉妬の対象であった真理亜を危険から助ける行動に繋がった。
 だとすると。
 観測ブイとして上位者達に情報を送り続けていたキッカの信号が途絶えた今、彼らは首を傾げているのではないだろうか。一体あの観測ブイに、何があったのかと。そうしたら、上位者はどのように考えるだろう。観測ブイに故障があったか、他のトラブルがあったか、もしくは地球人がその存在に気付き、破壊したか、と考えるだろうか。
 そうしたら、次に上位者達は何を考えるだろう。もう一度ブイを送るだろうか。
 それとも、調査・攻撃の為に、自らこの星へ乗り込もうとするだろうか。
 ……なんてね。
 くだらないことを考えたな、と亮は苦笑する。何もかも、確かなことは存在しないというのに。
 どうしたの、と訊いてくる真理亜に、何でもない、と答えて、四人で連れ立って街を歩き出す。真理亜が、亮の腕に手を回す。一度その手を払い、悲しそうな顔をした真理亜のその手を握り直した。
「こっちの方がいい」
 前を歩く二人に聞こえないように言った。
 ニカッ、と笑い、真理亜は強く手を握り返した。
 ……きっと真理亜は、今後キッカのことを話題にあげないだろう。少なくとも、積極的には。それは勿論、一時的とは言えキッカに亮を奪われ、失いかけ、そして自分が狂った夢の中に永久に取り残されそうになったあの恐怖を味わったが故だ。
 けれど、最後にキッカのことを話題にした時に見せた、あの物悲しげで遠い目をした彼女の表情には、確かに哀愁と憐憫、そして悲哀があった。
 亮にも、何となくその理由は分かる。
 四人の内誰も、花に興味を持たなかった。子供の頃にキッカに花の知識を教えていたとしても、無意識に、集めた情報を取り敢えずキッカに聞かせるというそれだけの行動しかしていなかった所為で、少なくとも小学生時代に彼女に教えた知識の中で、亮達が身に付けているそれは多くない。
 だから、『キッカ』が『菊花』と漢字表記されることを知らなかった。
 最近になって菊の花言葉が「高貴・高潔」であることを知り、その時は、奇妙な意味の花の名前を選んだものだ、と思った。
 だが後日、菊の英語の花言葉を知った。
 一つは、「上機嫌(Cheerfulness)」

 そしてもう一つは、「素晴らしい友達(You're a wonderful friend)」

 キッカというシーラカンスの正体も、真意も、目的も、本当のことは何一つ分からない。これから将来、数年、或いは数万年先の未来に何が待ち受けているのかも、何も分からない。
 けれど、キッカという不可思議な魚との思い出は、幻想的で、奇妙で、切ない記憶として、亮の心の中に残っている。


(了)