4-2 崩壊
休日は、二人でよく外に出掛けた。彼女が写真を撮るのが好きで、それに付き合う形で、色々な場所へ赴く。
水族館、公園、ライトアップの美しい夜の街、古民家カフェ、山。
全て、ファインダーの思い出として、そして彼女と亮の思い出として、それらは美しい記憶として鮮明に、頭の中に残り続ける。
「ねえ、一緒に写ってよ」
セルフポートレートはあまり撮らないと言っていた彼女は、亮と居る時だけ、二人の写真を撮ろうとする。一眼レフを固定して、ピントを合わせ、タイマーをセットして、亮に体をくっつけて笑顔を向ける彼女はとても美しかった。容姿の話ではない。その心と、精神の輝きが、亮を惹きつけていた。
けれど時々、ほんの一瞬。
そんな彼女の表情と輝きが、別の誰かから借りてきた、彼女自身のものではない何かに感じる時があった。
「どうしたの?」
微笑んで問い掛ける彼女に、そんな馬鹿な、と心の中で苦笑して、何でもないよ、と答え、キスをする。
お互いに三十を超えているというのに、それは付き合いたてのカップルの様に、初々しく、そして危うささえも感じさせる純粋な愛が、そこにあった。
*
まずはリュックにノートとペンを詰め、車で街を回る。架空都市としてキッカの夢の中に生まれたこの街の地図を作りたかった。街の東西の距離と南北の距離を走行距離から大まかに割り出し、格子状に区分すると、どうやらノートの見開き三十ページ分に区分けできそうだった。三日間で一区画分の地図を作成することにした。都合三ヶ月掛かって、何とかそれらしい地図が出来上がる。
都市郊外について考察をする必要は無いと思った。あれは、街を作成する上でどうしても生まれてしまう、いわばデータのゴミだろう。そこに、キッカがこの夢を形作る中枢が存在するとは思えない。
そう、中枢だ。真理亜はその言葉を何度も頭の中に刻む。
キッカの本体、または彼女の脳核にあたる何かが、無人の街の夢に存在しているとは考えられない。彼女は、亮と共に夢を共有し、その只中にあるのだ。しかし自由度の全く無い夢の世界とは言え、それを存在させ続ける為には、その夢を形作る中心核が必要になる。
夢の中心。それはつまり、キッカの心の中心、その一部。そしてそれは、間接的に亮の心にもリンクしていることになるのではないか。
キッカの、そして亮の心は、この街の何処かに必ずある。
そう信じて、真理亜はノートの見開き一つ目を開いた。車でその区画の一端まで移動し、降車する。見渡す先には、都心の街並み。大小のビルや店舗、商業施設、公共施設がそびえ立つ。
真理亜は深呼吸を一つ、ゆっくりとした。
ここから自分は、また新しい一日を始めていく。終わるまで、辞めるつもりはない。
それが、例え何十年掛かるとも、百年の内に終わらず、タイムリミットの方が先に来て勝手に現実世界へと戻れる道だったとしても。
自分が決めて歩いた未知であるということに、変わりは無いのだから。
何を見付ければいいのか、何が他と違うのか。そんなことさえも分からない。とても足元の危うい、心許ない旅だった。そもそもそれが見上げるほどの大きなものか、指でつまめてしまうほどの小さなものかさえも分からない。
だが、キッカが作り上げた夢の形を維持すると思われる存在が、ぞんざいであったり、いい加減に放置されているとは考えにくい。亮に対する特別な愛情というものを理解し、それを心に宿す存在となったキッカであれば、『特別な何か』を他と同じ、どうでもいい扱いにはしないはずだ。真理亜はそう信じる。
愛。容易くそんな歯の浮く様な言葉が、自分の頭の中に浮かんでくるとは、昔の自分に予想出来ただろうか。オフィスビルのフロアを一室ずつ、机を一つずつ確認していきながら、真理亜は考える。
私は、亮を愛している。言語化の出来ないその激しい感情を、あの魚も抱いているのか。
同じ人を、好きになる。
それは苦しみであると同時に、共感の喜びでもあった。
この感情は、亮に対しても、他の誰に対しても、抱いたことはない。友情というのも違う、敵対心というのとも違う、感情を強く揺さぶる何かの絆や繋がりの様なものが、あのキッカと自分の間にあると、なんとなくそんな感覚を覚えている。
不思議だ。こんな、最悪の悪夢の中に居るのに。
尽きない疑問を抱えながら真理亜は、一ヶ月を掛けてそのビルを、一年を掛けてその見開き地図の区画の探索を終え、大きなバツ印をノートに書き込み、次の地図を開いた。
この虚無の夢の中に落ちてから数えて、十年近くが経過していた。
*
全ては優しく、温かく、愛しい時間が続いていたはずだった。
お互いの顔にシワが増え、目元の小皺が目立ち、それでもお互いをなお美しいと思い続けていられる時間。
亮の頭の中には、美しい髪をした目の前の彼女の名前しか存在していない。
けれど彼の知らない誰かの声が、自分を呼んでいる気がした。
「亮、どうかした?」
二人で、たまの休みに動物園を散歩していた。小春日和の空の下で、亮達以外の人影はまばらだった。遠くに聞こえるそんな雑踏の声とは別に、亮の頭の中に、何か声が聞こえてくる。
何度耳を澄ませてみても、確かに自分の名前を呼んでいる。
「何でもない」
疲れているのだろう。答えて、彼は彼女の手を握る。笑顔の彼女を見るだけで、彼は頭の中に響く声ならぬ声のことを忘れようとした。
*
街の探索を始めてから、四年が経過しようとしている。街は十五年近く、もう秋の景色を見せたままである。飽きたな、とは随分前から抱いている感想だったが、それを愚痴ったところで仕方がない。
既に真理亜は、上手く口が動かなくなっていた。自然と言葉を発することも少なくなり、あれだけ続けていた毎日の暗唱も次第にしなくなっていた為だ。
生きる目標が定まり、そしてその手段が限定され、気持ちが追い込まれ始めると、最短距離を歩く以外のことをしなくなる。日常を維持しようとする気持ちに起きたことが、それだった。
三枚目の見開きに大きなバツ印を付けて、今日も一日が終わる。減っていないお腹を慰め程度にパンで満たし、眠くない体を横にして無理にでも睡眠を取る。そうして朝目を覚ましたら、ノートの正の字に一画を書き足す。重たい頭を持ち上げて呻くのが、一日の中で唯一、声を出す時間になっている。
街を歩きながら、煙草に火を付ける。煙を肺に満たす。もう、夢の中で何百本を吸ったか覚えていない。きっと吸殻で小さい山が出来るだろうなと、どうでもいいことを考えた。
一年が経つ。
一年が経つ。
一年が経つ。
答えも出口も、見付からず。
いつからか、真理亜の口からはしゃがれた一つの言葉だけが、繰り返し発せられていた。
「亮」
亮、亮、亮、亮。
それだけが私の生きるよすがだとでも言いたげに。
一年が経つ。
一年が経つ。
一年が経つ。
まだ、答えは見付からない。
涙が流れ続けたが、それを止める手段が無かった。
「亮」
また、言葉が溢れ出す。誰も答えてはくれなかった。
それでも、更に五年が経過した時。
世界に初めて、小さな小さな変化が生まれた。
ズン
気のせいだろうか。ハッとして顔を上げた真理亜は、周囲を見回して逡巡する。風が無いのに、木の枝が激しく揺れていた。
間違い無い。夢の世界が、地震でも起きたかの様に揺れたのだ。
亮、と声を出す。また一つ、小さな揺れがあった。
何が起きているんだろう。最初の一時間は動揺しながら過ごしていたが、断続的に不定期な地震の様な揺れが続く以外には何の変化も無い。やがて振動にも慣れてしまった真理亜は、また街の探索を始めた。
*
頭の中を占める声ならぬ声は、気のせいと呼べる程度の領域を大きく逸脱していると思えた。自分の名前を呼ぶ声はひっきりなしに、ほぼ四六時中、亮に呼びかけを続けている。それに答えるべきかどうかを迷い、彼女にも相談出来ず、亮は悩んでいた。
大きな幸福はないが不幸や不自由の無い慎ましやかな生活を送っていた亮達にとって、始めても困難。特に彼女は困惑し、いつも亮を気遣っている。そんな彼女に申し訳なくなるくらいに、亮は悩んでいた。
だが、一つだけ不思議なことがあった。
頭に響く声は悩みの種ではあったが、不思議と、嫌なものではなかったのだ。それが逆に、不安にもなる。
声は大きくなり、頭の中へ直接話し掛けてくる様なその声は、亮をナーバスにさせる。休日だというのに、昼間から布団の上で寝転がっているくらいには酷かった。
声が繰り返される。声は止まらない。
「ねえ、本当に大丈夫?」
気遣う彼女の声は遠い。一番近くに聞こえる、自分の名前を繰り返し呼ぶその声こそが、亮に一番身近な存在だった。
何だろう。遠い昔、これに似た声を、聞いた気がする。
目を瞑る。耳を澄ませる。頭の中に思い浮かぶ情景は、両親と行ったキャンプ場。いつから行かなくなったのだろうか。そうだ、あの夏休みのキャンプを境にしてから。どうして自分は、あんなに好きだったキャンプに魅力を感じなくなったのだろう。
思い出す。遡る。名前を呼ぶ声が、聞こえる。
声はやがて、顔を形作った。
ハッとして目を覚まして、亮は傍に座り、彼の様子を伺い不安そうな顔をする彼女の顔を見た。
「真理亜……」
誰かの名前。けれど、誰だったろう。突然、亮の頭の中にその名前が出てきた。
妻の顔が、強張った。その緊張した顔を見て……思い出す。
泣きながら、煙草を吸いながら、自分を拒絶した彼女。決して揺るがない自分というものを持っていた彼女。彼女を悲しませた、彼女。
「キッカ」
言葉が口を突いて出る。彼女が……キッカが息を呑み、体をのけ反らせる。亮はガバリと体を勢いよく起こし、枕元にキッカの置いた白湯の入った湯飲みを蹴飛ばし、キッチンに走る。
「亮、何をする! 亮!」
真理亜の顔をした、キッカの声。お互いに四十歳を越えたその声は、昔よりも低いけれど、確かに真理亜の声だった。それを、もうこれ以上聞きたくなんかなくて。
亮は、キッチンに仕舞ってあった包丁を一本手に取り、逆手に握る。
これが夢であることに確信があった。だからこそ、勢いよくそれを自分の心臓に突き立てることが出来た。眠ってしまう直前、彼が怒りに身を任せてカッターの刃を滑らせようとしたその瞬間の様に。
*
しばらく続いた揺れは、突然、轟音と共に街を大きく揺さぶるそれへと変わる。半地下のカフェ、そのボックス席のテーブルに突っ伏して眠っていた真理亜は、突然の巨大な揺れに慌てて目を覚まし、覚醒していない頭を必死に動かして店を飛び出した。
断続的な揺れに慣れてしまった真理亜は、まるで大地震みたいなその突然の振動に恐怖した。そうして誰も居ない閑散とした都市に躍り出た。
素足で感じるアスファルトが冷たかった。だが、その痛みと冷たさを瞬時に忘れさせる様な光景が、一キロ先にそびえ立つビル群に起きていた。
元々、数十階建のビルが何棟もそびえ立つ場所だった。そうでない雑居ビルも密集している。そんなビルばかりなものだから、この大地震で倒壊しているのではないかとさえ思っていたのだ。しかし、実際は違う。
ビルが、地面から迫り上がっている。
雑居ビル程度の小さなビルさえも、遠目に見て分かる程度の速度で地面から垂直に、まるでタケノコの様に真っ直ぐ伸びている。伸びているビルは、全部で十か十五くらいだろうか。訳も分からず呆然としていると、やがてビルの伸長は止まる。高いものは、二百メートルかそこらまで伸びている。だが、その伸び方には法則があった。
何かを囲う様にして、その中心に向かう程にビルは高く伸びている。まるでそこに何かがある様に。何かから隠そうとするかの様に。
殆ど一日中続いていた世界の振動も、今はすっかり止まっている。
何かが起きている。キッカに、そして亮に。
亮、とまた真理亜は小さく呟いて、真理亜はビル群の方へと足を動かした。
近付いて初めて分かったことだが、地面から伸び上がったのはビルだけではない。街路樹、街灯、電信柱。地中に埋め込まれた何かであれば例外無く、それは直上へと伸び、巨大化している。そしてやはり、円の中心へ向かうにつれ、その度合いは強くなっていた。
真理亜は、揺れや巨大化により破壊された街を進んだ。時々進めないくらいに何かが密集して巨大化していた場所もあったが、何とか回り道を見付けたり、隙間に潜り込んだりを繰り返す。
進みながら真理亜は考える。この地形変化を起こしたのは、恐らくキッカだ。彼女の言葉を聞く限りでは、亮が真理亜の見ているこの夢を知覚出来るはずがない。彼がこの夢に干渉出来るとしたら、無意識に、何らかの事故が起きたと考えるのが自然だろう。きっとそれは、キッカにとって不都合なものだったに違いない。けれど、その目印を隠し切ることが出来ない。そう悟ったからこそ、場所がバレても、せめてそこまで辿り着けないようにと、堅牢な檻を作ったのだろう。
実際、狭過ぎて通ることが出来ず、迂回路の無い道もあった。では、そんな道はどう突破するか。答えは、至って単純だった。
真理亜はこの夢の中で、自分の体がどれだけ傷つき、バラバラになっても、時間を掛けて再生することを知っていた。どれだけの激痛や失血があっても意識を失わないことを、繰り返してきた自殺の中で経験し、理解していた。だから、隙間を抜ける為に自分の体をバラバラにしたのだ。
ノコギリで腕を、足を、首を切り落とす。激痛や呼吸の止まる苦痛、苦悶、狂気は、真理亜自身の予測を凌駕していた。それでも、その先に希望がある。そう確信していたからこそ、幾らでも『死』を繰り返せた。
自傷、死、再生、探索。それらを繰り返して、二ヶ月が経過して。
真理亜は、ビル群の囲い込んでいたその中心に辿り着く。
(これは……)
そこに存在するものを見てしばし呆然とし、それから苦笑する。
ああ、うん。確かにこれは、そうだ。一人得心し、真理亜はゆっくり、再び歩き出す。
そこは、高校時代に四人で集まった、旧校舎の中庭だった。
ベンチ、古い桜の木、中途半端に手入れされた花壇。遠い記憶の中にあるあの中庭そのままだ。だが一つだけ、違うところがある。
ベンチの上に、あの石があった。
*
包丁を体から引き抜き、冗談みたいに血が溢れ出したと思った次の瞬間には、視界が暗くなっていた。体に痛覚も無い。どうやら自分が目を瞑って、椅子に座っているらしいことに気付いてから、亮はゆっくりと目を開く。
白い空間だった。キューブリックの映画で観た様な、真っ白で何も存在しない部屋。そこに、亮はダイニングチェアに座って、だらり、としていた。
目の前には、ダイニングテーブル。ランチョンマットと、ナイフとフォーク、何も乗っていない白い皿。
テーブル向かいの正面に、真理亜が座っていた。否、真理亜の姿形をした、キッカだった。その姿は、二十歳ぐらい。髪の毛は金色のままだ。しかし目付きだけは遠くを見る達観した様なあの目ではなく、濁り、半ば睨む様にして亮を見つめていた。
「何故だ、亮」
キッカが口を開いた。「何故亮は、キッカの夢の中で思う通りにしてくれない」
亮は背筋を伸ばし、キッカの顔を見つめ返して、答える。
「……お前は、人になれたつもりかも知れない。でも、やっぱり違う。お前は俺が出会った頃と変わらない、何も人のことを知らない一匹のシーラカンスだ」
「十二年間、キッカは人のことを学び続けた。それ以前も、何千年も人を見てきた。亮達現生人類よりも、遥かに長く人を知っている。それでも尚、キッカは人になれないと言うのか」
「うん。なれない。……だってお前は、人を軽んじ過ぎているから」
「軽んじているだと」
「ああ。全て自分の思う通りに人を動かそうとする為に、相手がその道を進むように、お前は全てを誘導し、支配しようとしてる。でも、人間てのはそう単純じゃないんだよ。自分の生き方が誰かの意思に支配されてるって知った途端、今まで満足していたはずのものでも、全てが偽物に思える。そしてその支配下から抜け出そうとする。……俺は眠る直前、お前への不信感が極まっていたから、恐らく根底で、目の前にあるもの何もかもを信じられなかったんだと思うよ」
キッカは目を伏せて、組んだ自分の手を見て呟く。
「キッカには、分からない。他人に作られた道を歩くことの、何がそんなに不快なのか。キッカの用意したそれに、苦痛や苦しみ、孤独は何処にも無いのに」
「まるで、お前がそんな道を歩いてでもいるみたいな言い草だな」
苦笑して言うと、しかしキッカはぽつり、と言った。
「そうだ」
「え?」
「キッカは、自分の道を歩いていない。真の意味で自我を持たない。ただ孤独だけがキッカの心の底にある。けれどそれは、キッカのアイデンティティではない。だから、キッカはキッカなのだ。……済まない、何を言っているか分からないだろう。けれど、キッカはキッカを語ることが出来ないのだ」
一人称と固有名詞が入り乱れた、いつもの彼女の言葉。しかし今はそれが一層、支離滅裂なものに思える。亮は混乱した。
「お前、何を……」
言葉を続けようとしたが、それは突然の異音に遮られる。パキン、という乾いた音と共に、亮の席に置かれた皿が真っ二つに割れたのだ。続いて、ピシ、という音がテーブルから生まれる。
それを皮切りに、白い空間のあらゆる場所から、ピシ、パキ、という音が聞こえ始めた。
ガタン、と目を見開いたキッカが椅子から立ち上がる。その目は虚空を見つめ、亮を見ていない。どうしたのかと尋ねるより前に、キッカが震えた声で独り言を口にした。
「駄目だ。止めろ、真理亜」
*
遠くから、自分を止めようとする、そんな声がした。真理亜が、石を両手で抱き上げたその瞬間からだ。恐らく声の主はキッカだろう。
けれど、彼女の声が直接、真理亜に届くことはない。何かを話してはいるが、まるで厚いフィルター越しに話し掛けられているかの様に、その声は形を持っていなかった。
まるで、出会った時のあの話し方をしている様だ。
コバルトブルーに近い色をした、岩石に包まれた鉱石。美しいその石の中には、誰も居ない。けれどこの中には確かに、世界を狂わせた元凶が居た。
それは雫を眠らせ、亮を眠らせ、人類の全てを永久の眠りに就かせようとしていた、脅威そのもので。
けれど真理亜はその脅威に、憐憫を感じていた。
孤独に生きたシーラカンス。理由も分からず数千万年を生き続けたシーラカンス。誰にも気付かれず孤独の暗闇に生きて、そしてたった十二年の年月を、誰かと過ごすことの出来たシーラカンス。
真理亜と中庭を取り囲む巨大なビル群。その天頂から差し込む僅かな陽光が、砕けた石から覗く鉱石を照らす。
たった十二年しか見られなかった太陽。たった十二年だけの初恋。今まで生きてきた年月に比べて、それはあまりにも一瞬に過ぎる。百十五年という年月だって、彼女にしてみたら驚くぐらい短い時間のはずだ。
でも、人は身勝手な生き物だから。
別れの挨拶も出来なくて、名残惜しいけれど、自分と亮が大切な私だから。
十二年、苦しいことは多かった。それでも思い返してみれば、楽しいことも沢山あった。貴女は気付いてないだろうけれど。
真理亜は、ポロポロと涙を流す。
名残惜しさは、幾らでもある。
でも、私にも大切な人が居るから。
「ごめんね」
久し振りに口に出したその言葉を自分で噛みしめてから、真理亜は、石を支える手から力を抜く。そのまま石は、吸い込まれる様にブロックの地面へと、落ちていく。
*
「ねえ、亮」
呆然と立ち尽くしていたキッカだったが、何かを諦めた様に脱力した風を見せて、そして今度こそ真理亜の様な、落ち着いた静かな目をして、微笑みさえもその顔に浮かべ、亮を見下ろして問う。
「何」
「信じては、くれないだろうけれど」
「うん」
「キッカは……亮を、愛してたよ」
パキパキと響き続ける音は、瞬間、重々しいバキンという音やベキッという音に変わり、白い空間を今にも崩壊させようとしている。食器が、テーブルが、椅子が壊れ始める。
亮は、自分の体から意識が離脱していく不思議な感覚に襲われ、そして徐々に視界が暗くなり始めるのを感じながら、それでもキッカの顔を見つめ続けた。
その言葉に、何と答えてやれば良かったのだろう。
考えている間に、キッカは闇の中へと溶けて消えていく。
……見間違いかも知れない。
けれど確かに、その目に涙を浮かべている様に、亮には見えた。
*
破壊音。
目の前には、秋口の夕暮れ空が広がっている。二階の窓から見下ろすその眼下には、亮の家の庭、コンクリート。窓の外で、秋の虫が鳴いている。
そしてそこに、あの石が粉々に砕けた状態で、転がっていた。
真理亜は自分が、窓から両腕を伸ばし、たった今石を放り投げたその格好で突っ立っているのを自覚する。それが夢ではなく現実のものであると認識するのに、酷く時間が掛かってしまった。
今の音なにー? と、伽耶が玄関を開けて外に出てくる。両手をワナワナと震わせ、両足から力が抜けた真理亜は、その場に尻餅をついた。
今の状況を認識し、そして思い出すのに、かなりの時間が掛かった。そしてあの日……いや、たったついさっき、自分が亮の家へ、彼の見舞いにやってきたことを思い出す。
「亮」
夢の中で何度も何度も呼び続けた名前を、今一度口にする。それ以外の言葉が、なかなか出せなかった。恐る恐る、真理亜は自分の斜め後ろを振り向く。亮はまだ、眠っている。
けれど、ハッキリと目視で分かる程度に、呼吸で胸が上下に動いている。箱庭病患者特有の、冬眠状態に入った動物の様に呼吸数の低下した動きではない。
ああ、彼は、目覚める。きっと、もうすぐに。
確信があった。全てが終わったと信じられた。そう考えた瞬間に、涙がとめどなく溢れ出す。泣き方も忘れてしまった真理亜だったから、それが泣くという行為だったことを思い出すのに、またしばらく時間が掛かってしまったけれど。
真理亜は震える両腕を使って床を四つん這いで歩き、ベッドの傍に寄る。亮の手を握り、何年ぶりかに訪れた大きな安堵の心持ちで、彼女はベッドにもたれかかり、目を瞑った。
今、亮を起こしてもいい。でも、折角眠っている彼だから、もう少し待とう。
待ち遠しくはない。だって、たった数時間の話だ。
夢の中で四十年以上を待った真理亜にとっては、そんなことはとるに足らない時間でしかない。
真理亜は今、ようやく孤独から解放されていた。
伽耶の居ないリビングで、付けっぱなしのテレビからニュースの音声が漏れ出ている。
『速報です。これまで例外的に約二パーセントの箱庭病患者のみが夢から生還していた調査結果がありましたが、先ほど、各病院から、次々に患者が目を覚まし始めているとのことです。繰り返します、箱庭病患者の方々が、次々と目を覚まし始めました。原因は現在調査中とのことで、この現象が国内のみに限定されたものか、世界規模のものか、専門家と各国首脳とが相互に連絡を取り……』
休日は、二人でよく外に出掛けた。彼女が写真を撮るのが好きで、それに付き合う形で、色々な場所へ赴く。
水族館、公園、ライトアップの美しい夜の街、古民家カフェ、山。
全て、ファインダーの思い出として、そして彼女と亮の思い出として、それらは美しい記憶として鮮明に、頭の中に残り続ける。
「ねえ、一緒に写ってよ」
セルフポートレートはあまり撮らないと言っていた彼女は、亮と居る時だけ、二人の写真を撮ろうとする。一眼レフを固定して、ピントを合わせ、タイマーをセットして、亮に体をくっつけて笑顔を向ける彼女はとても美しかった。容姿の話ではない。その心と、精神の輝きが、亮を惹きつけていた。
けれど時々、ほんの一瞬。
そんな彼女の表情と輝きが、別の誰かから借りてきた、彼女自身のものではない何かに感じる時があった。
「どうしたの?」
微笑んで問い掛ける彼女に、そんな馬鹿な、と心の中で苦笑して、何でもないよ、と答え、キスをする。
お互いに三十を超えているというのに、それは付き合いたてのカップルの様に、初々しく、そして危うささえも感じさせる純粋な愛が、そこにあった。
*
まずはリュックにノートとペンを詰め、車で街を回る。架空都市としてキッカの夢の中に生まれたこの街の地図を作りたかった。街の東西の距離と南北の距離を走行距離から大まかに割り出し、格子状に区分すると、どうやらノートの見開き三十ページ分に区分けできそうだった。三日間で一区画分の地図を作成することにした。都合三ヶ月掛かって、何とかそれらしい地図が出来上がる。
都市郊外について考察をする必要は無いと思った。あれは、街を作成する上でどうしても生まれてしまう、いわばデータのゴミだろう。そこに、キッカがこの夢を形作る中枢が存在するとは思えない。
そう、中枢だ。真理亜はその言葉を何度も頭の中に刻む。
キッカの本体、または彼女の脳核にあたる何かが、無人の街の夢に存在しているとは考えられない。彼女は、亮と共に夢を共有し、その只中にあるのだ。しかし自由度の全く無い夢の世界とは言え、それを存在させ続ける為には、その夢を形作る中心核が必要になる。
夢の中心。それはつまり、キッカの心の中心、その一部。そしてそれは、間接的に亮の心にもリンクしていることになるのではないか。
キッカの、そして亮の心は、この街の何処かに必ずある。
そう信じて、真理亜はノートの見開き一つ目を開いた。車でその区画の一端まで移動し、降車する。見渡す先には、都心の街並み。大小のビルや店舗、商業施設、公共施設がそびえ立つ。
真理亜は深呼吸を一つ、ゆっくりとした。
ここから自分は、また新しい一日を始めていく。終わるまで、辞めるつもりはない。
それが、例え何十年掛かるとも、百年の内に終わらず、タイムリミットの方が先に来て勝手に現実世界へと戻れる道だったとしても。
自分が決めて歩いた未知であるということに、変わりは無いのだから。
何を見付ければいいのか、何が他と違うのか。そんなことさえも分からない。とても足元の危うい、心許ない旅だった。そもそもそれが見上げるほどの大きなものか、指でつまめてしまうほどの小さなものかさえも分からない。
だが、キッカが作り上げた夢の形を維持すると思われる存在が、ぞんざいであったり、いい加減に放置されているとは考えにくい。亮に対する特別な愛情というものを理解し、それを心に宿す存在となったキッカであれば、『特別な何か』を他と同じ、どうでもいい扱いにはしないはずだ。真理亜はそう信じる。
愛。容易くそんな歯の浮く様な言葉が、自分の頭の中に浮かんでくるとは、昔の自分に予想出来ただろうか。オフィスビルのフロアを一室ずつ、机を一つずつ確認していきながら、真理亜は考える。
私は、亮を愛している。言語化の出来ないその激しい感情を、あの魚も抱いているのか。
同じ人を、好きになる。
それは苦しみであると同時に、共感の喜びでもあった。
この感情は、亮に対しても、他の誰に対しても、抱いたことはない。友情というのも違う、敵対心というのとも違う、感情を強く揺さぶる何かの絆や繋がりの様なものが、あのキッカと自分の間にあると、なんとなくそんな感覚を覚えている。
不思議だ。こんな、最悪の悪夢の中に居るのに。
尽きない疑問を抱えながら真理亜は、一ヶ月を掛けてそのビルを、一年を掛けてその見開き地図の区画の探索を終え、大きなバツ印をノートに書き込み、次の地図を開いた。
この虚無の夢の中に落ちてから数えて、十年近くが経過していた。
*
全ては優しく、温かく、愛しい時間が続いていたはずだった。
お互いの顔にシワが増え、目元の小皺が目立ち、それでもお互いをなお美しいと思い続けていられる時間。
亮の頭の中には、美しい髪をした目の前の彼女の名前しか存在していない。
けれど彼の知らない誰かの声が、自分を呼んでいる気がした。
「亮、どうかした?」
二人で、たまの休みに動物園を散歩していた。小春日和の空の下で、亮達以外の人影はまばらだった。遠くに聞こえるそんな雑踏の声とは別に、亮の頭の中に、何か声が聞こえてくる。
何度耳を澄ませてみても、確かに自分の名前を呼んでいる。
「何でもない」
疲れているのだろう。答えて、彼は彼女の手を握る。笑顔の彼女を見るだけで、彼は頭の中に響く声ならぬ声のことを忘れようとした。
*
街の探索を始めてから、四年が経過しようとしている。街は十五年近く、もう秋の景色を見せたままである。飽きたな、とは随分前から抱いている感想だったが、それを愚痴ったところで仕方がない。
既に真理亜は、上手く口が動かなくなっていた。自然と言葉を発することも少なくなり、あれだけ続けていた毎日の暗唱も次第にしなくなっていた為だ。
生きる目標が定まり、そしてその手段が限定され、気持ちが追い込まれ始めると、最短距離を歩く以外のことをしなくなる。日常を維持しようとする気持ちに起きたことが、それだった。
三枚目の見開きに大きなバツ印を付けて、今日も一日が終わる。減っていないお腹を慰め程度にパンで満たし、眠くない体を横にして無理にでも睡眠を取る。そうして朝目を覚ましたら、ノートの正の字に一画を書き足す。重たい頭を持ち上げて呻くのが、一日の中で唯一、声を出す時間になっている。
街を歩きながら、煙草に火を付ける。煙を肺に満たす。もう、夢の中で何百本を吸ったか覚えていない。きっと吸殻で小さい山が出来るだろうなと、どうでもいいことを考えた。
一年が経つ。
一年が経つ。
一年が経つ。
答えも出口も、見付からず。
いつからか、真理亜の口からはしゃがれた一つの言葉だけが、繰り返し発せられていた。
「亮」
亮、亮、亮、亮。
それだけが私の生きるよすがだとでも言いたげに。
一年が経つ。
一年が経つ。
一年が経つ。
まだ、答えは見付からない。
涙が流れ続けたが、それを止める手段が無かった。
「亮」
また、言葉が溢れ出す。誰も答えてはくれなかった。
それでも、更に五年が経過した時。
世界に初めて、小さな小さな変化が生まれた。
ズン
気のせいだろうか。ハッとして顔を上げた真理亜は、周囲を見回して逡巡する。風が無いのに、木の枝が激しく揺れていた。
間違い無い。夢の世界が、地震でも起きたかの様に揺れたのだ。
亮、と声を出す。また一つ、小さな揺れがあった。
何が起きているんだろう。最初の一時間は動揺しながら過ごしていたが、断続的に不定期な地震の様な揺れが続く以外には何の変化も無い。やがて振動にも慣れてしまった真理亜は、また街の探索を始めた。
*
頭の中を占める声ならぬ声は、気のせいと呼べる程度の領域を大きく逸脱していると思えた。自分の名前を呼ぶ声はひっきりなしに、ほぼ四六時中、亮に呼びかけを続けている。それに答えるべきかどうかを迷い、彼女にも相談出来ず、亮は悩んでいた。
大きな幸福はないが不幸や不自由の無い慎ましやかな生活を送っていた亮達にとって、始めても困難。特に彼女は困惑し、いつも亮を気遣っている。そんな彼女に申し訳なくなるくらいに、亮は悩んでいた。
だが、一つだけ不思議なことがあった。
頭に響く声は悩みの種ではあったが、不思議と、嫌なものではなかったのだ。それが逆に、不安にもなる。
声は大きくなり、頭の中へ直接話し掛けてくる様なその声は、亮をナーバスにさせる。休日だというのに、昼間から布団の上で寝転がっているくらいには酷かった。
声が繰り返される。声は止まらない。
「ねえ、本当に大丈夫?」
気遣う彼女の声は遠い。一番近くに聞こえる、自分の名前を繰り返し呼ぶその声こそが、亮に一番身近な存在だった。
何だろう。遠い昔、これに似た声を、聞いた気がする。
目を瞑る。耳を澄ませる。頭の中に思い浮かぶ情景は、両親と行ったキャンプ場。いつから行かなくなったのだろうか。そうだ、あの夏休みのキャンプを境にしてから。どうして自分は、あんなに好きだったキャンプに魅力を感じなくなったのだろう。
思い出す。遡る。名前を呼ぶ声が、聞こえる。
声はやがて、顔を形作った。
ハッとして目を覚まして、亮は傍に座り、彼の様子を伺い不安そうな顔をする彼女の顔を見た。
「真理亜……」
誰かの名前。けれど、誰だったろう。突然、亮の頭の中にその名前が出てきた。
妻の顔が、強張った。その緊張した顔を見て……思い出す。
泣きながら、煙草を吸いながら、自分を拒絶した彼女。決して揺るがない自分というものを持っていた彼女。彼女を悲しませた、彼女。
「キッカ」
言葉が口を突いて出る。彼女が……キッカが息を呑み、体をのけ反らせる。亮はガバリと体を勢いよく起こし、枕元にキッカの置いた白湯の入った湯飲みを蹴飛ばし、キッチンに走る。
「亮、何をする! 亮!」
真理亜の顔をした、キッカの声。お互いに四十歳を越えたその声は、昔よりも低いけれど、確かに真理亜の声だった。それを、もうこれ以上聞きたくなんかなくて。
亮は、キッチンに仕舞ってあった包丁を一本手に取り、逆手に握る。
これが夢であることに確信があった。だからこそ、勢いよくそれを自分の心臓に突き立てることが出来た。眠ってしまう直前、彼が怒りに身を任せてカッターの刃を滑らせようとしたその瞬間の様に。
*
しばらく続いた揺れは、突然、轟音と共に街を大きく揺さぶるそれへと変わる。半地下のカフェ、そのボックス席のテーブルに突っ伏して眠っていた真理亜は、突然の巨大な揺れに慌てて目を覚まし、覚醒していない頭を必死に動かして店を飛び出した。
断続的な揺れに慣れてしまった真理亜は、まるで大地震みたいなその突然の振動に恐怖した。そうして誰も居ない閑散とした都市に躍り出た。
素足で感じるアスファルトが冷たかった。だが、その痛みと冷たさを瞬時に忘れさせる様な光景が、一キロ先にそびえ立つビル群に起きていた。
元々、数十階建のビルが何棟もそびえ立つ場所だった。そうでない雑居ビルも密集している。そんなビルばかりなものだから、この大地震で倒壊しているのではないかとさえ思っていたのだ。しかし、実際は違う。
ビルが、地面から迫り上がっている。
雑居ビル程度の小さなビルさえも、遠目に見て分かる程度の速度で地面から垂直に、まるでタケノコの様に真っ直ぐ伸びている。伸びているビルは、全部で十か十五くらいだろうか。訳も分からず呆然としていると、やがてビルの伸長は止まる。高いものは、二百メートルかそこらまで伸びている。だが、その伸び方には法則があった。
何かを囲う様にして、その中心に向かう程にビルは高く伸びている。まるでそこに何かがある様に。何かから隠そうとするかの様に。
殆ど一日中続いていた世界の振動も、今はすっかり止まっている。
何かが起きている。キッカに、そして亮に。
亮、とまた真理亜は小さく呟いて、真理亜はビル群の方へと足を動かした。
近付いて初めて分かったことだが、地面から伸び上がったのはビルだけではない。街路樹、街灯、電信柱。地中に埋め込まれた何かであれば例外無く、それは直上へと伸び、巨大化している。そしてやはり、円の中心へ向かうにつれ、その度合いは強くなっていた。
真理亜は、揺れや巨大化により破壊された街を進んだ。時々進めないくらいに何かが密集して巨大化していた場所もあったが、何とか回り道を見付けたり、隙間に潜り込んだりを繰り返す。
進みながら真理亜は考える。この地形変化を起こしたのは、恐らくキッカだ。彼女の言葉を聞く限りでは、亮が真理亜の見ているこの夢を知覚出来るはずがない。彼がこの夢に干渉出来るとしたら、無意識に、何らかの事故が起きたと考えるのが自然だろう。きっとそれは、キッカにとって不都合なものだったに違いない。けれど、その目印を隠し切ることが出来ない。そう悟ったからこそ、場所がバレても、せめてそこまで辿り着けないようにと、堅牢な檻を作ったのだろう。
実際、狭過ぎて通ることが出来ず、迂回路の無い道もあった。では、そんな道はどう突破するか。答えは、至って単純だった。
真理亜はこの夢の中で、自分の体がどれだけ傷つき、バラバラになっても、時間を掛けて再生することを知っていた。どれだけの激痛や失血があっても意識を失わないことを、繰り返してきた自殺の中で経験し、理解していた。だから、隙間を抜ける為に自分の体をバラバラにしたのだ。
ノコギリで腕を、足を、首を切り落とす。激痛や呼吸の止まる苦痛、苦悶、狂気は、真理亜自身の予測を凌駕していた。それでも、その先に希望がある。そう確信していたからこそ、幾らでも『死』を繰り返せた。
自傷、死、再生、探索。それらを繰り返して、二ヶ月が経過して。
真理亜は、ビル群の囲い込んでいたその中心に辿り着く。
(これは……)
そこに存在するものを見てしばし呆然とし、それから苦笑する。
ああ、うん。確かにこれは、そうだ。一人得心し、真理亜はゆっくり、再び歩き出す。
そこは、高校時代に四人で集まった、旧校舎の中庭だった。
ベンチ、古い桜の木、中途半端に手入れされた花壇。遠い記憶の中にあるあの中庭そのままだ。だが一つだけ、違うところがある。
ベンチの上に、あの石があった。
*
包丁を体から引き抜き、冗談みたいに血が溢れ出したと思った次の瞬間には、視界が暗くなっていた。体に痛覚も無い。どうやら自分が目を瞑って、椅子に座っているらしいことに気付いてから、亮はゆっくりと目を開く。
白い空間だった。キューブリックの映画で観た様な、真っ白で何も存在しない部屋。そこに、亮はダイニングチェアに座って、だらり、としていた。
目の前には、ダイニングテーブル。ランチョンマットと、ナイフとフォーク、何も乗っていない白い皿。
テーブル向かいの正面に、真理亜が座っていた。否、真理亜の姿形をした、キッカだった。その姿は、二十歳ぐらい。髪の毛は金色のままだ。しかし目付きだけは遠くを見る達観した様なあの目ではなく、濁り、半ば睨む様にして亮を見つめていた。
「何故だ、亮」
キッカが口を開いた。「何故亮は、キッカの夢の中で思う通りにしてくれない」
亮は背筋を伸ばし、キッカの顔を見つめ返して、答える。
「……お前は、人になれたつもりかも知れない。でも、やっぱり違う。お前は俺が出会った頃と変わらない、何も人のことを知らない一匹のシーラカンスだ」
「十二年間、キッカは人のことを学び続けた。それ以前も、何千年も人を見てきた。亮達現生人類よりも、遥かに長く人を知っている。それでも尚、キッカは人になれないと言うのか」
「うん。なれない。……だってお前は、人を軽んじ過ぎているから」
「軽んじているだと」
「ああ。全て自分の思う通りに人を動かそうとする為に、相手がその道を進むように、お前は全てを誘導し、支配しようとしてる。でも、人間てのはそう単純じゃないんだよ。自分の生き方が誰かの意思に支配されてるって知った途端、今まで満足していたはずのものでも、全てが偽物に思える。そしてその支配下から抜け出そうとする。……俺は眠る直前、お前への不信感が極まっていたから、恐らく根底で、目の前にあるもの何もかもを信じられなかったんだと思うよ」
キッカは目を伏せて、組んだ自分の手を見て呟く。
「キッカには、分からない。他人に作られた道を歩くことの、何がそんなに不快なのか。キッカの用意したそれに、苦痛や苦しみ、孤独は何処にも無いのに」
「まるで、お前がそんな道を歩いてでもいるみたいな言い草だな」
苦笑して言うと、しかしキッカはぽつり、と言った。
「そうだ」
「え?」
「キッカは、自分の道を歩いていない。真の意味で自我を持たない。ただ孤独だけがキッカの心の底にある。けれどそれは、キッカのアイデンティティではない。だから、キッカはキッカなのだ。……済まない、何を言っているか分からないだろう。けれど、キッカはキッカを語ることが出来ないのだ」
一人称と固有名詞が入り乱れた、いつもの彼女の言葉。しかし今はそれが一層、支離滅裂なものに思える。亮は混乱した。
「お前、何を……」
言葉を続けようとしたが、それは突然の異音に遮られる。パキン、という乾いた音と共に、亮の席に置かれた皿が真っ二つに割れたのだ。続いて、ピシ、という音がテーブルから生まれる。
それを皮切りに、白い空間のあらゆる場所から、ピシ、パキ、という音が聞こえ始めた。
ガタン、と目を見開いたキッカが椅子から立ち上がる。その目は虚空を見つめ、亮を見ていない。どうしたのかと尋ねるより前に、キッカが震えた声で独り言を口にした。
「駄目だ。止めろ、真理亜」
*
遠くから、自分を止めようとする、そんな声がした。真理亜が、石を両手で抱き上げたその瞬間からだ。恐らく声の主はキッカだろう。
けれど、彼女の声が直接、真理亜に届くことはない。何かを話してはいるが、まるで厚いフィルター越しに話し掛けられているかの様に、その声は形を持っていなかった。
まるで、出会った時のあの話し方をしている様だ。
コバルトブルーに近い色をした、岩石に包まれた鉱石。美しいその石の中には、誰も居ない。けれどこの中には確かに、世界を狂わせた元凶が居た。
それは雫を眠らせ、亮を眠らせ、人類の全てを永久の眠りに就かせようとしていた、脅威そのもので。
けれど真理亜はその脅威に、憐憫を感じていた。
孤独に生きたシーラカンス。理由も分からず数千万年を生き続けたシーラカンス。誰にも気付かれず孤独の暗闇に生きて、そしてたった十二年の年月を、誰かと過ごすことの出来たシーラカンス。
真理亜と中庭を取り囲む巨大なビル群。その天頂から差し込む僅かな陽光が、砕けた石から覗く鉱石を照らす。
たった十二年しか見られなかった太陽。たった十二年だけの初恋。今まで生きてきた年月に比べて、それはあまりにも一瞬に過ぎる。百十五年という年月だって、彼女にしてみたら驚くぐらい短い時間のはずだ。
でも、人は身勝手な生き物だから。
別れの挨拶も出来なくて、名残惜しいけれど、自分と亮が大切な私だから。
十二年、苦しいことは多かった。それでも思い返してみれば、楽しいことも沢山あった。貴女は気付いてないだろうけれど。
真理亜は、ポロポロと涙を流す。
名残惜しさは、幾らでもある。
でも、私にも大切な人が居るから。
「ごめんね」
久し振りに口に出したその言葉を自分で噛みしめてから、真理亜は、石を支える手から力を抜く。そのまま石は、吸い込まれる様にブロックの地面へと、落ちていく。
*
「ねえ、亮」
呆然と立ち尽くしていたキッカだったが、何かを諦めた様に脱力した風を見せて、そして今度こそ真理亜の様な、落ち着いた静かな目をして、微笑みさえもその顔に浮かべ、亮を見下ろして問う。
「何」
「信じては、くれないだろうけれど」
「うん」
「キッカは……亮を、愛してたよ」
パキパキと響き続ける音は、瞬間、重々しいバキンという音やベキッという音に変わり、白い空間を今にも崩壊させようとしている。食器が、テーブルが、椅子が壊れ始める。
亮は、自分の体から意識が離脱していく不思議な感覚に襲われ、そして徐々に視界が暗くなり始めるのを感じながら、それでもキッカの顔を見つめ続けた。
その言葉に、何と答えてやれば良かったのだろう。
考えている間に、キッカは闇の中へと溶けて消えていく。
……見間違いかも知れない。
けれど確かに、その目に涙を浮かべている様に、亮には見えた。
*
破壊音。
目の前には、秋口の夕暮れ空が広がっている。二階の窓から見下ろすその眼下には、亮の家の庭、コンクリート。窓の外で、秋の虫が鳴いている。
そしてそこに、あの石が粉々に砕けた状態で、転がっていた。
真理亜は自分が、窓から両腕を伸ばし、たった今石を放り投げたその格好で突っ立っているのを自覚する。それが夢ではなく現実のものであると認識するのに、酷く時間が掛かってしまった。
今の音なにー? と、伽耶が玄関を開けて外に出てくる。両手をワナワナと震わせ、両足から力が抜けた真理亜は、その場に尻餅をついた。
今の状況を認識し、そして思い出すのに、かなりの時間が掛かった。そしてあの日……いや、たったついさっき、自分が亮の家へ、彼の見舞いにやってきたことを思い出す。
「亮」
夢の中で何度も何度も呼び続けた名前を、今一度口にする。それ以外の言葉が、なかなか出せなかった。恐る恐る、真理亜は自分の斜め後ろを振り向く。亮はまだ、眠っている。
けれど、ハッキリと目視で分かる程度に、呼吸で胸が上下に動いている。箱庭病患者特有の、冬眠状態に入った動物の様に呼吸数の低下した動きではない。
ああ、彼は、目覚める。きっと、もうすぐに。
確信があった。全てが終わったと信じられた。そう考えた瞬間に、涙がとめどなく溢れ出す。泣き方も忘れてしまった真理亜だったから、それが泣くという行為だったことを思い出すのに、またしばらく時間が掛かってしまったけれど。
真理亜は震える両腕を使って床を四つん這いで歩き、ベッドの傍に寄る。亮の手を握り、何年ぶりかに訪れた大きな安堵の心持ちで、彼女はベッドにもたれかかり、目を瞑った。
今、亮を起こしてもいい。でも、折角眠っている彼だから、もう少し待とう。
待ち遠しくはない。だって、たった数時間の話だ。
夢の中で四十年以上を待った真理亜にとっては、そんなことはとるに足らない時間でしかない。
真理亜は今、ようやく孤独から解放されていた。
伽耶の居ないリビングで、付けっぱなしのテレビからニュースの音声が漏れ出ている。
『速報です。これまで例外的に約二パーセントの箱庭病患者のみが夢から生還していた調査結果がありましたが、先ほど、各病院から、次々に患者が目を覚まし始めているとのことです。繰り返します、箱庭病患者の方々が、次々と目を覚まし始めました。原因は現在調査中とのことで、この現象が国内のみに限定されたものか、世界規模のものか、専門家と各国首脳とが相互に連絡を取り……』
