Cの世界

       4-1 崩壊


 泣き叫び続けて、気が付けば寝ていた。真理亜は夜、街の明かりなど一切存在しない、月と星の灯だけが照らす都市の公園で、無防備に眠りこけていた。
 目を覚ましても、人の気配どころか、虫一匹の羽音さえもしない。自分が知っている世界は何処にも無く、夜道をストーカーに襲われる心配も無く、真理亜は泣き腫らした目のまま、街を歩いた。
 一晩中歩いた。あれほど故郷の田舎町を離れて都心に出ることを夢見ていたのに、それが奇妙な形で叶ってしまった今、喜びなど心に一握も生まれない。
 やがて、鳥のさえずり声のしない静かな朝が訪れた。解放されていたビルの屋上に登ってその朝日を眺めていたが、別段何の感動も無い。
 深い絶望の底に落とされて、今、真理亜の心は何を見ても揺れ動かない。そのくせ、孤独という恐怖に対する感情だけは、心の隅で徐々に育ち始めている。
 喉は渇かない。空腹も感じない。
 それはまさしく、恐怖だった。

       *

 休日の家。広くはないが、自分と恋人の私物で溢れ返ったその部屋を一通り眺め、亮は微笑む。
「思ったより、過ごし良さそうだね」
 彼女は金色の髪を耳にかき上げながら、ベランダの外を眺める。
 いや、違う。恋人ではない。妻だ。これから彼女と自分は、一緒に歩いていく。晴渡った青空をバックに、午後の光が差し込む部屋の中で笑う彼女の顔が、眩しい。
 近付いて、そっと後ろから彼女を抱きしめる。亮の息が当たったのがくすぐったかったか、体を捩らせる。が、振り解こうとはしない。彼女はただ、朗らかに、そして少し恥ずかしそうに笑うだけだ。
 ちょっとだけ強引に唇を近付けて、甘い匂いのする彼女の頬にキスをした。多幸感で頭と心が満たされた。
 何も要らない。この時間さえあれば。
 そう考えたとほぼ同時に、彼女は口を開く。
「時間が止まればいいのに」
 いつも彼女はそうだった。亮の考えたことを見抜くようにして、言葉を口にする。行動を起こす。何度かサプライズめいたことをしようとしても、大抵は見抜かれる。それでも、向こうが亮を喜ばせようと、そして驚かせようとあれこれ思いついては実行してくるので、そのお返しに、と何度も亮はサプライズを試みてきた。
 これからも、その姿勢を崩すことはしないだろう。服の下の柔肌の温もりを感じながら、亮は静かにそう確信した。

       *

 バーテンダーのアルバイトは、翔と母だけがしめやかに祝ってくれた二十歳の誕生日を迎えたその翌日から始めた。それからまだ一年も仕事を続けていない真理亜ではあったが、カクテルを作るコツや腕は早い段階で、基本的なことをマスターした。
 だから、店員も客も居ない、ついでに音楽も流れないジャズ・バーのカウンターに入り込み、好き勝手に酒瓶を取り出しては自分だけのカクテルを作り、あおった。普段は飲まない、ウォッカやウイスキーのショットを初めて試してみたりもした。十杯も飲んだところで吐き気がし、バックヤードで戻してしまったけれど。
 酔うことは出来る。けれど喉が渇いているわけではないし、空腹に酒が流し込まれたところで、体調を崩す気配も無い。アルコール分だけ吸収するとは、都合の良い夢だ。そう思いながら、真理亜は飲み終わった瓶を片っ端から壁に投げつけ、割っていく。
 自暴自棄と言われても、仕方ないだろう。そんな自覚はあったが、どうすることも出来ない。飲んでは眠り、吐き、また飲む。そんな生活を四日続けた。カウンターにある酒は、半分以上が無くなった。
 泥酔した足と、正気と平衡感覚を失った真理亜は、フラフラとバーを出る。すっかり日の傾いた夕暮れの街を、真理亜は時間を掛けて歩いていく。途中、狂人の様に街の中で大声を出して叫んだり笑ってみたりしたけれど、それを気にする者も咎める者も居なかった。
 誰一人、真理亜を除く人類は、この世界に居ない。
 この孤独の世界から抜け出すことは出来ない。
 認めたくなかった。これからすることを思えば、酒を飲んで狂った様に振る舞い、そうして自分が本当に狂ってしまったのだと言い聞かせでもしなければ、成し遂げられないような気がした。
 近くの、オフィスビルらしいビルのエレベーターを呼び、屋上まで上がる。屋上の鍵は、守衛室に無防備に保管されていた。到達は簡単だった。金網をよじ登るのは、酩酊した真理亜にとっては少し難儀だったけれど。
 それでも、柵の無いビルの屋上、その縁に立つのは、難しくなかった。
 酔いが、恐怖心を鈍らせ、決断を早めると思った。けれど、冷たいビル風に吹かれて足元が揺れた時、金網を握る自分の指に渾身の力が込められる。身体中からぶわっ、と汗が吹き出し、酔いなんて一気に醒めた。そのままゆっくりと、震えながら腰を下ろし、静かに泣く。それでも、そこを立ち去ることはしなかった。
 空腹も渇きも感じなかった真理亜は、風に吹かれながら何度も十センチ先に広がる高さ八十メートルから見える地面に視線を運んでは目を逸らす。そんなことを続けて、徐々に恐怖感を麻痺させていく。
 いける、いける。一瞬だもの。
 そう自分に言い聞かせて、更にその場から動けないまま、十時間が経過した頃。
 思い出すのは、現実世界にある自分の体のこと。その体が二十年の人生で蓄積してきた、雫や播磨、そして亮との思い出の日々。
 百と十五年も精神的に歩みを進めてしまった自分は、果たしてもう一度、彼らと。
 それならば、それならば。
 ……一握の諦観と、一摘みの絶望。それが、真理亜の体を動かす。
 つい、と体の重心を動かし、屋上の縁の外へと体を押しやって。
 自分の体を持つ重力を奪われた、と思った次の瞬間には、風が体を叩きつけていた。体が落ちているという感覚には、何故かなれない。ただ自分の絶叫が、どれだけ大きな声で叫んでも、耳を切り裂く風の轟音を超えることがないという事実を、真理亜は初めて認識する。
 顔を上げる。地面が、信じられないスピードで近付いていた。
 怖い。そう思った瞬間には、パァン、という水風船が壁に叩き付けられて割れる音がして、同時に真理亜の視界は真っ暗になった。
 それでも、意識は残っていた。
 体の感覚は何も無い。痛みも苦しみも無い。自分の体がどうなっているのか、何も分からなかった。時間の感覚も、永遠の暗闇の中で磨耗していく。
 かなり、長い長い時間が経過した。
 最初に体に戻ってきたのは、激痛だった。身体中のいたる所で爆発が連続して起きている様な、凄惨な痛み、その感覚。失神しそうになる、想像を絶する痛みを感じながらも、叫び声は上げられず、体の部位を動かすことは出来ず、痛みで一睡も出来ない。
 やがて、視界が戻る。だが、左目で初めて見た景色は、自分の顔だった。頭蓋骨と顔の左半分が潰れ、床に叩き付けられて汚く広がったミートソースを思い出す。無表情に横たわり、辛うじて自分の顔が判別出来るその死体が真っ赤に染まっているのを、何時間も眺めていた。今度こそ狂いそうだった。ただ、激痛の感覚だけが真理亜をギリギリで正気の沙汰に留めている。
 やがて、変化に気付いた。砕け、飛散した真理亜の肉と骨と皮と内臓と血が、ゆっくりと自分の体に戻っている。再生するのだ。長い長い時間を掛けて、この激痛を伴いながら。
 キッカは、私を殺さない。否、死なせない。
 そのことに気付いたのは、左目も自分の顔のパーツへと収まっていった頃である。
 〇・八秒を百十五年という年月へと加速させ、それだけの時間を亮と共に過ごす為に、キッカはより多くの神経細胞を必要とした。自分のテレパシーをリンクさせられるだけの細胞を集め、ありったけの加速をさせる為に。だからキッカは夢の中で、真理亜を生かし続ける。石が地面に落ちて砕ける、その〇・八秒後までの間、何度でも。
 真理亜がビルから身を投げてから四十一回、太陽が地平線から昇った。その頃には、真理亜の体は飛び降りる前と変わらない姿に戻っていた。
「ううっ……」
 立ち上がることも出来ず、拳を作り、真理亜はただ泣き続けた。

       *

 生まれたのは双子だった。
 目元は君に似てるとか、鼻筋は亮そっくりだとか、そんな親バカな会話ばかりして毎日を過ごす。赤ん坊の小さいのはほんの僅かの間だけで、気付けば二人の子供は両腕の中でずっしりと重くなっている。
 言葉を話すのはまだ早い。その日が来るのを楽しみにしながらも、もう少しゆっくりと時間が流れて欲しいと願う。そう口にしたら、彼女はぱあっと顔を輝かせて言った。
「そうだよね? 亮もそう思うよね!」
 その顔は、とても嬉しそうだった。何故だかは分からないけれど、もしかしたら亮と結婚することになったあの日や、子供が生まれたあの日よりも嬉しそうな顔で。
「私ね、永遠に時間が止まればいいなって思う時があるの。それでね、二度と孤独の時代になんて戻らないで、亮と二人、世界が壊れるその瞬間まで、ずっと居られるようにって、いつも願ってる」
「そんな壮大な願いは必要か?」
 苦笑して訊くと、微笑みを湛え、しかし真面目な顔で、彼女は答える。
「私には、とても切実な望みなの」
 ねー、と言葉も道理もまだ何も分からない二人の兄弟に、彼女は交互にスプーンでご飯を食べさせる。食い散らかしてテーブルの下に敷いたマットに、ご飯粒がいくつも落ちている。しょうがないな、と苦笑しながら、それまでの彼女との会話など忘れ、亮は息子の柔らかい米粒が頬にくっついているのをつまんで、取ってやる。
 孤独。何故かその言葉が頭の中に、しばし残響として残る。
 何か、忘れているような気がする。
 けれど記憶があまりにも薄れていて、特に大事なものでもないのだろうと考え、亮はそれ以上考えることを止めた。今はただ、目の前の幸せを享受していたい。

       *

 二時間悩み続けて二階から飛び降り、首を吊ろうとした。何度試しても決して千切れなかったロープがすぐに千切れ、折れた首は二十時間後に元に戻った。
 三時間躊躇い続けてようやく喉元に包丁を突き刺した。呼吸出来ずに自分の血で溺れそうになりながらも死ねず、地獄の苦しみの中で十時間掛けて傷が修復した。
 三十分間戸惑って、洗剤を一気飲みした。泡を吹いて体を痙攣させ、脊髄を貫く激痛と呼吸困難に見舞われながらも、五時間で意識は回復した。
 何をやっても、真理亜は死ねない。この終わらない夢の中で、彼女は死ねない体となった。泣きながら、毎日毎日、東の空から太陽が昇る度に、本屋から盗ってきたノートに、ペンで『正』の字を一画ずつ書いていく。もう、その数は十八個になろうとしている。
 三ヶ月。三ヶ月も、自分はこの夢の中で生きている。飢えも渇きも無く、ただ無為に自傷を重ねて、それでも百十五年の中の、たった三ヶ月しか経過していない。季節も、真理亜が夢に落ちてしまった秋のあの時期から、何も変わらない。
 最早、死ぬ道を探すことが日課になり始めていた。
 だが、痛みと苦しみはどうにもならない。十個ほどの死に方を試みて失敗した頃、真理亜は何故か、可笑しくもないのに突然笑いがこみ上げて抑えきれなかったり、ベンチでのんびりしているだけなのにいきなり涙が何十分も流れ続けて止まらない時など、情緒不安定な時間が増えていった。
 そんな真理亜の心の中にはいつも、亮が居る。
 彼は今、何をしているだろう。自分の姿をしたキッカに監禁され、苦しんでいるのだろうか。それとも……
 考えるのを止めたかった。けれど、止められない。
 気を紛らわせる為に、コンビニやスーパーの食材を適当に棚から引っ掴み、食べていく。けれど今や空腹を何も感じない彼女には、やけ食いなどというストレスの発散方法が無い。少し口にしては休み、時間を掛けてそれを食べ終わり、あとは気が向いたらまた何かに手を伸ばす。そんな、無意味な作業となっていた。
 百七十日が経過しても相変わらず、街の風景は秋のままである。
 この頃になると、一日中一言も言葉を発しない日が増えていた。久し振りに声を出そうとした時、舌が回らず、声の出し方も一瞬忘れてしまうほどだった。
 自分が自分でなくなる様な感覚が怖くて、真理亜は一日一度、五分掛けて、自分の名前、亮と播磨と雫の名前、家族の名前、現実世界の自分のこと、今の目標を言葉にし、三回復唱するということを日課にするようになっていた。
 目標、というのは初めてこの復唱行動をした時に咄嗟に思いついた内容であったが、それは少しだけ、真理亜を前向きにさせた。取り敢えず、何かを目標にし、行動する。目的を作る。それだけで、一日はほんの少しだけ、意味のあるものになった。例えそれが、その場しのぎの気休めだとしても。
 お気に入りの服を探す。美味しいデパ地下の惣菜を探す。バイクの練習をする。車の運転の練習をする。些細ではあったが、しかし今の真理亜にとって、一つ一つが愛おしく思えた。
 中でも、車の運転は少しだけ楽しいと思えた。本屋から教習所の教科書の様なものを探し、ひたすら操作を覚える。オートマチックのみではあるが、それでも最初は苦慮した。何度も車体をぶつけ、へこませ、それでも辛うじて動かせるようになって。
 スピードを出し過ぎて電柱にぶつかり、シートベルトをしていなかった所為で体が窓ガラスと車体に叩きつけられて内臓が破裂した時などは、酷かったが。お陰で、臓器が全て再生する一週間、真理亜は車の中から出られず、指一本も動かせなかった。
 安全運転が出来るようになり始めたのは、練習から三週間も過ぎた頃だ。少し遠出をしたいとも思えてきて、それを実行した。この箱庭の街の外を、探索したかった。
 しかしその試みは、開始から一日を待たずに終わってしまう。
 燃料をポリタンクに詰めて後部座席に積んだ後、真理亜は街を出る道を真っ直ぐに進んだ。都市部の外は、荒地だった。舗装されていない、土一色の閑散とした広野が続いている。辛うじて道らしきものが続いているそれを、街から真っ直ぐ遠ざかりながら、時速二百キロ近い速度で飛ばし、ハンドルを切る必要の無いその道を進み続けた。
 後にした街が地平線の向こうに消え、完全に見えなくなった頃、真理亜の向かう先に街が現れた。嫌な予感がした。街に立つビルや広がる街並み、景観が、真理亜が後にしたはずの街とそっくりだったのだ。
 予感は的中した。街に入れば、彼女が目を覚ました公園がある。食料品や衣服を荒らした形跡はそのままで、車をぶつけて破壊した電柱までそのまま残っている。
 どうやら自分の箱庭の夢は、この街が全てらしい。そう考えて、真理亜は車のエンジンを切って項垂れる。
 いや、これは厳密には、自分の夢ですらない。キッカの夢だ。キッカと亮が共有し、妄想の世界に住む為に必要な、並行世界に存在する虚空の街。
 今の私には、ここが全てなんだ。
 それを痛感し、真理亜はノートにまた一本、線を引いた。

       *

 子供は二人とも、小学校の修学旅行に出掛けている。久しぶりの、二人きりの夜だった。
 セックスレスではない。亮にはまだちゃんと性欲がある。期待しないわけではなかったし、彼女も浮かれている様子だった。楽しみじゃないはずがない。
 なのに、仕事から帰ってきてニュースを観ていても、心の何処かに違和感を覚えたままだった。
 水。水だ。水が欲しい。飲む為のものじゃない。けれど水が欲しかった。テレビに視線が釘付けになっていても、意識は水という言葉に支配されている。
 まるで、陸に打ち上げられた魚の様に、本能が水を欲している。
 亮の心が、水の中の生き物であるかの如く、彼は水を求めている。
「どうしたの?」
 昔に比べて少し髪色の落ちた彼女は、風呂上りで上気させた顔を近付けて訊いた。その頭を撫でながらも、亮の意識は遠くにある。
 分からない、と答えて、亮は考える。ただ、何かを思い出そうと繰り返し繰り返し、その言葉に出来ないモヤモヤとした塊の周囲を回り続ける。
「ねえ、いいじゃない。もっとゆっくりしようよ。あの子達も居ないんだし」
 あの子、あの子。自分の子供。何度かそのことを考えて、そしてふと、ゾッとする事実に思い至る。亮は頭を押さえていた手を離し、汗を流した。ニュースキャスターはお構いなしに、交通事故のニュースを伝えている。唇を震わせて、亮はゆっくりと口を開いた。

「……あの子達の名前は、なんだっけ?」

 自分の息子の名前を思い出せない親が居るだろうか? だが事実、亮は自分の記憶の何処を探しても、二人の子供の名前を探せない。その事実に気付いた瞬間、記憶の中にある二人の顔が歪み、それも思い出せなくなった。
 なあ、と妻の名前を呼ぼうとして、再び体が固まった。
 彼女の名前も、思い出せない。
 横を見る。自分に顔を近づかせていたはずの彼女は、姿を消していた。
 プツン、とテレビが消える。ハッとして液晶に目を向けると、暗転した画面に反射して写っているのは、正面のソファに座る自分と、自分の背後で包丁を逆手に持って振り上げ、今にも振り下ろさんと構える妻の姿。
 見上げると同時に、涙を流す彼女は苦悶の表情で、何度も包丁を亮の胸や喉に突き刺した。抵抗する力も無く、何が起きているのか理解出来ずに困惑したまま、亮は激痛の中で徐々に脱力し、やがて呼吸を止める。
 意識が遠のく直前、涙を流し続けて亮を見下ろす彼女が、苦しそうに独り言を零した。
「また、失敗だ。……何故だ、何故戻ろうとする。キッカの夢の中から、何故君は目を覚まそうとするのだ、亮。……彼女が、キッカと亮と同じ精神中枢を経由し、相互にリンクしている所為か。だから本来の君の意思が、彼女と君とを引き合わせようとしているのか。ならば本当にキッカの敗北だ。……しかし彼女の接続を断ってしまえば、二人に残された時間はたった六年に満たない。それは駄目だ。キッカは君ともっと、一秒でも長く共に居たいのだ」
 その呟きの意味は、亮には何も理解出来ない。けれど理解しようとする前に、彼の意識は遠のいた。

       *

 八年が過ぎた。
 自堕落な日々ばかりが過ぎ、自分が発する言葉さえも怪しい。繰り返し自分の名前や目的などを口に出して読み上げる習慣は続けていたが、習慣化された言葉は形式的に羅列されるばかりで、その意味が真理亜には分かりにくくなり始めている。
 無為に生きることが、こんなにも苦しいなんて。
 一日の目標などというものは、もう無くなっていた。思いつくことは全て思いついた気がする。もう消化出来そうな目標や命題などは、自分には残されていない。
 八年の間で成長した自分の体を、袖を通す者の一切を無くした服飾店の姿見で観察する。意外にも、二十歳の頃の自分とそう変わっていない。けれど、肉体の全盛期は既に過ぎ去っている。ブラウスをまくれば、少し油と肉のついた余分なものが目立ち始める。どうやらキッカは、生命維持の損傷を修復する為のエネルギーリソースは確保していても、時間経過を無視して体型を維持する為のそれにまでには手を回していないらしい。嘆息し、真理亜は店を出た。
 そのまま文字通り一日中酒を飲んでも、ボーッと過ごしても、本を読んでも、何も変わらない。昨日と、一昨日と、去年と、一昨年と。そして恐らく、これからも。
 小さな、そして危機感の無い恐怖が漠然とした形を伴い、真理亜の思考を鈍化させている。何をすればいいか、そもそも何をする為にこの夢の中に居るのか、時々考えてしまう瞬間がある。そんな時こそ、習慣化した暗唱をするべきなのかもしれない。
 けれど、言葉に意味を無くしたそれに意味があるのかと、そんなことも同時に思い始めていた。
 亮もキッカの夢の中で、恐怖を抱えているのだろうか。
 それとも……

       *

 休日の家。広くはないが、自分と恋人の私物で溢れ返ったその部屋を一通り眺め、亮は微笑む。
「思ったより、過ごし良さそうだね」
 彼女は金色の髪を耳にかき上げながら、ベランダの外を眺める。
 いや、違う。恋人ではない。妻だ。これから彼女と自分は、一緒に歩いていく。晴渡った青空をバックに、午後の光が差し込む部屋の中で笑う彼女の顔が、眩しい。
 近付いて、そっと後ろから彼女を抱きしめる。亮の息が当たったのがくすぐったかったか、体を捩らせる。が、振り解こうとはしない。彼女はただ、朗らかに、そして少し恥ずかしそうに笑うだけだ。
 ちょっとだけ強引に唇を近付けて、甘い匂いのする彼女の頬にキスをした。多幸感で頭と心が満たされた。
 何も要らない。この時間さえあれば。
 そう考えたとほぼ同時に、彼女は口を開く。
「時間が止まればいいのに」
 いつも彼女はそうだった。亮の考えたことを見抜くようにして、言葉を口にする。行動を起こす。何度かサプライズめいたことをしようとしても、大抵は見抜かれる。それでも、向こうが亮を喜ばせようと、そして驚かせようとあれこれ思いついては実行してくるので、そのお返しに、と何度も亮はサプライズを試みてきた。
 これからも、その姿勢を崩すことはしないだろう。服の下の柔肌の温もりを感じながら、亮は静かにそう確信した。

       *

 真理亜は、日々心の中で増幅していく恐怖や黒い感情に動揺し、時折衝動的に自殺をする生活が再び始まっていた。激痛と苦悶の中で、その痛みに苦しんでいる時だけは、亮のことを忘れていられた。
 けれど、死を繰り返せば繰り返すほど、自身の孤独と孤立は浮き彫りになり、心は苦しくなっていく。
 せめて閉塞感から解放されようと、ディーラーのショーケースに飾られていたオープンカーの鍵を回し、店から車を飛び出させた。割れて四散したガラス片のことなど考えない。傷など、すぐに癒えて治ってしまうのだ。
 次は、どうやって死んでやろうか。考えながら、アクセルを踏み込む。既に慣れ切った運転は堂々としたもので、街を出るまでは優雅に運転をする。
 そうして、道路以外の何もかもが消え去った、街の外の平野へと飛び出した後は、アクセルを限界まで踏む。
 加速。爆音を上げて、エンジンを暴れさせながら走るオープンカーは、最早真理亜の鼓膜を破らんばかりに風を切って進む。日が傾き、やや色の濃くなった太陽の光が、世界を染め始める。
 ……瞬間、既視感を覚える。
 少しずつ速度を落として、遠い昔になってしまった記憶を思い返してみた。確か、こんな寒々しいくらいにつまらない景色を眺めながら、誰かと道を歩いていた気がする。いつのことだったろう。
 徐々に、車の速度は落ちていく。やがて、その速度が自転車のそれと同じくらいまで落ちた時、真理亜は突然思い出す。
 ああ、そうだ。確か亮の自転車に乗って、彼の家まで走っていた。彼の肩を掴んで、風をこの体に受けながら、私は午後の日差しの中を走っていたんだ。
 アクセルを踏んでいない車は、惰性でゆっくりと進み続ける。その間、真理亜は茫然としたまま、涙を流す。
 もう帰らないあの日々。平和だと思っていた貴重な日常。全ては、遠い過去の記憶。
 けれど、その過去を歩いてきた日々の一切合切は、決して夢幻ではない。
 あの頃漠然と未来に不安を抱いていた十七の夏から今の今まで、自分は何も変わっていなかった。もうそんな日々を、終わらせたい。
 今日と違う明日を、いつやって来るのかと待つのでは駄目だ。
 自分から、明日に続く道を作るのだ。
 涙を拭いて歯を食いしばり、真理亜はアクセルを踏む。風が鼓膜を叩き、爆音が頭の中で響き渡った。ループした夢の中で、道は再び、あの街へと戻っている。
 策を、見つけなければならない。

       *

 亮と彼女の間に、子供が生まれることはなかった。
 父親になることへの覚悟が決まっていたかと言われれば、確信を持って頷くことは出来ない。それでも、誰の所為でもないそれについて、亮は彼女を責めることはしなかった。
「二人の時間が増えるから、私はいいよ」
 そういう彼女の顔は寂しそうで、時々泣いている。
 気にするなとも、大丈夫だとも、声を掛けられず、亮はただ彼女を抱き締めることしか出来なかった。
 夫婦として共に暮らし、生きる様になって、予想のしていなかった障害や、知らなかった相手の弱い一面を見ることは多々ある。それに対して愛想を尽かしてしまうパートナーも居ると言うが、亮は違う。彼女が泣くなら、泣かなくていい環境を作ってやりたいと思うし、その為に彼女に尽くす。その覚悟ならばあった。
 手を握り、抱き締め、二人でのんびりと過ごす。
 映画を観ようか。提案すると、楽しいのがいいな、と彼女は呟く。亮はリクエストに応えるべく、配信サービス動画のアプリを立ち上げる。
 今日この一日を、彼女と大切にしようと。

       *

 自分は播磨や亮の様に勉強が出来るわけでも、雫の様に洞察力に優れているわけではない。真理亜はそのことを理解していた。だがそれでも、そんな自分の脳の処理能力の限界を超え、考えなければならなかった。百年を待たずして、一刻も早くこの夢から逃げる方法を。
 ノートに拙いながら、自分の考えをまとめていく。思いついたことは、片っ端から全て。加えて、キッカが自分の夢から去る際に捨てていった言葉をなんとかして思い出し、断片的なそれを拾い集めた。
 加速した夢。精神のリンク。三人分の神経シナプスの直列。
 これまでキッカの為に、興味の無い分野にまで食指を伸ばして無駄と思える知識までもを集めてきた。その知識を総動員して、記憶と記録を振り返る。
 何かが、あるはずだ。見付けなければならない。何年掛かっても。
 一週間考えた。これという確証には至れない。更に一週間が経過して、考えを書き連ねたノートを一冊、使い切った。
 この頃から、真理亜の神経が張り詰め、疲弊が大きくなっていった。出口も先も見えず、ただ答えの分からない問答を続けながら泥沼を泳いでいる、そんな感覚に襲われる。
 何か答えがあるはずだと信じたくても、その信念は揺らいでくる。自分はもう、這い上がれない程の水底にまで落ちてしまっているのではないかと。
 何度も真理亜は泣いた。泣き疲れて眠っては、また起き上がり、ノートを広げる。そしてまた悩み、頭を抱えた。
 ああ、辛い。自分は、これ以上物事を難しく考えることが出来そうにない。キッカの言うことをなんとか時間を掛けて理解出来る程度だ。あの魚のように、機械みたいな高度な計算や知識の引き出しが出来ればいいのに。
 そう考えた時、ふとした考えが頭を過ぎる。
(機械……)
 昔のキッカの特徴である、機械的で無機質な口調。それは確かに、時としてロボットの様な話し方を想起させる。だが最後に出会った時の彼女の口調は、まだ無機質さが残ってはいたものの、昔に比べれば随分と抑揚は付き、感情を含んだ口調になる時が多かった。真理亜に向けていたあの嫉妬に似た感情の塊についてもそうだ。あの口調や話し方は、以前のキッカからは想像出来ない。
 昔と今で、キッカは違う。そしてそれは恐らく、真理亜達と関わることで変化を及ぼしてきた結果だ。通常であればそれを成長と捉えるだろう。
 だが、キッカの場合は?
 その変化を成長と捉えることに問題は無いはずだが、それをただ成長という言葉一言で表すのも何かが違う気がした。その変化は何処か無機質だ。
 そして突然、はたと思いつく。
(人工知能の学習、みたいな)
 技能や知識の獲得に、快感や達成感は無く、まるで作業の達成進捗を管理するだけの、淡々とした作業の中で掴んだ情報と経験値。管理されたデータの業務報告をする様な反応。それは文字通り、機械的な言葉と考え方だった。そこに学習した感情というスパイスが振り掛けられた存在が、今のキッカ。……そんな気がした。
 そう言えばキッカは、真理亜への夢の説明として、コンピュータやネットワークのシステムを例にとって話すことが多かった。今になって考えれば、彼女は現象や夢の仕組みの例えにネットワークを出したのではなく、キッカの思考や存在がネットワーク、もしくはそれに近いシステムに依存して存在するからではないだろうか。
 いや、キッカの存在自体に関しては、今はどうでもいい。播磨が言う様に宇宙から来た存在であったとして、それは今必要な思考ではない。
 重要なのは、この箱庭の夢もまた、システム的な理論やロジックによって構築されているのではないか、ということだ。
 もし、そうなら。いや、きっとそうだ。ならば。
 真理亜は再び、ノートに考えを書き連ねていく。先程までよりも、筆は進んだ。
 絶対に、この夢から目覚めるんだ。

      *