Cの世界


 播磨は、呼ばなかった。土曜日の夕方、秋の茜色の光が空に溶ける時間に、真理亜は一人で濱田家の門を叩いた。
 前回の訪問では顔を見なかった伽耶が、真理亜を出迎える。お互いの顔を久し振りに見たそれぞれの反応は、大小の差はあれど驚愕によるものだった。伽耶は金色になった真理亜の髪に、真理亜はだいぶ痩せて顔色も悪くなった伽耶の不健康さに。
 少しぎこちない挨拶をして、真理亜は訪問の時間が遅れてしまったことを詫びた。気にしないで、と力無く微笑んだ伽耶は真理亜を招き入れる。
「亮は、自分の部屋で寝かせてるから」
 まだ彼に何の異変も無いかの様な口振りで話すそれは、現実を受け入れたくない気持ちの現れだろうか。真理亜は問わず、会釈をして二階に上がる。
「ねえ、あとで、お話出来るかしら」
 背中に声を掛けられて、階段の上で真理亜は振り返り、答えた。
「すみません。少し……二人だけにして頂けますか。その後で、下でお話しさせてください」
 真理亜の真意を知らない伽耶は、しかしそれ以上は引き留めず、あとで麦茶だけ持っていくわね、と言い残して台所へ姿を消した。
 亮の部屋のドアを開ける。ベッドの上で、亮は寝ていた。本当に寝ているだけで、声を掛けたら今にも目を覚ましそうだった。実際、二回だけ名前を呼んでみる。けれど、反応は無かった。真理亜はベッドのすぐ近くの床に座り、じっと亮の顔を見つめていた。
『亮は、目覚めない』
 キッカが、話し掛けてきた。真理亜は、自分の斜め後ろにある石に目を向けず、頭の中の声に言葉を投げる。
『どうして亮を眠らせたの』
『亮は、キッカを拒絶した。キッカのことを、受け入れられない存在として認知し、それを変えようとしなかった。だから彼はキッカから永遠に逃げようと、自分の首を切ろうとした。止めるにかこれしかなかった。だから、今彼は眠っている。キッカとしても、本意ではない』
『本当に、ただ眠っているだけ?』
『どういう意味かな』
『何故、亮が眠ってからの新たな箱庭病患者の増加が、ゼロのままなの』
 ……三日前に亮が眠り、その翌日。
 夜のニュースで、三年前から毎日確認されていた箱庭病の新規患者数が、突然ゼロになったとテレビで速報が入った。日本国内だけでも、日に最低でも数人、多ければ十数人のペースで、人が眠り続けていたこの四年間、一日たりとも、新規患者数がゼロになることは無かった。それがあの日、突然に変わった。
 日本だけではない。その翌日のニュースでは、世界的に新規感染者がゼロになっていると、世界各地で報告が入ったのだ。政府と世界保健機関は、突然の事態に困惑し、そして喜びを隠し切れていない。恐らくは世界中の人が同じ気持ちだろう。皆が考えている。自分達の努力してきた感染拡大予防の努力が、ようやく報われたのだと。
 けれど、真理亜と播磨だけは違う。亮を眠らせたことで、キッカに何かが起きたのだ。もしくは、キッカがこれ以上人を昏睡させる必要が無くなったか、出来なくなったか。
 そして今、キッカと話して確信する。
 人々を眠らせることにより着実に進めていた計画が、遂に身を結んだのだと。
『おめでとうキッカ。あんたの勝ちだね』
 もう亮は、ここには居ない。そしてキッカはもう決して、亮を手放さないだろう。『でも、教えて。自分だけのものにしたいなら、亮だけを眠らせればよかったじゃない。どうしてそうしなかったの。あと、私を憎んでさえいた貴女が、どうしてあの日私を助けたの』
 言いながら真理亜は立ち上がり、ゆっくりと部屋の窓を開けた。網戸にした窓から外気が流れ込み、少し冷えた風を流し込む。もう秋の虫が鳴き始めていた。
『真理亜を眠らせなかったのは』と、キッカが答えた。『真理亜のことを、知りたかったからだ』
『私を? 何故?』
 友好を深める為とは思えなかった。
『亮は、君を好きだった。けれど、キッカという存在に注意と興味と警戒をしてしまい、その感情を自覚出来なかった。だから三年前のあの日、亮が真理亜に思いを告げようとしたあの日。君がそれを受け入れていれば、邪魔者となった真理亜をすぐにでも眠らせてやろうと思った。それをしなかったのは、実は最初の質問の答えにもなる』
 複雑な言葉の羅列と回答。真理亜は首を傾げ、キッカの居る石を見る。
 どういうこと、と訊こうと口を開こうとして、真理亜の体は硬直した。
 石の砕けた、鉱石の部分が真理亜の方を向いている。そこに、あのシーラカンスの姿は無い。代わりに、ホログラムの様に、或いは深海の中で浮かぶ人魚の様に、『それ』は居た。
 体を丸め、海中に浮く様にして長い髪をゆらゆらとたなびかせ、静かな視線を向ける眠たげな顔をした裸の女が、石の中に居る。ぷかりぷかりと漂う女の顔は、真理亜の顔をしていた。
 そんな彼女は、亮の体を後ろから抱きかかえる様にして、真理亜の方をじっと見ている。
「お前……!」
『亮も、そんな顔をしたよ』
 石の中の真理亜が、否、真理亜の姿をしたキッカが口を動かし、話す。その声はもう、いつもの性別年齢不明の不気味で無機質な声ではない。真理亜の声だった。『そして激昂して、自害しようとした。キッカはもう、彼を眠らせてそれを止めるしか出来なかった。だがそれは同時に、彼をキッカから遠い存在へと変質させてしまうことを意味した。それだけは出来なかった。だから亮を眠らせたが、他の有象無象と同じ夢を見せたわけではない。それとは全く異質の処置を、キッカは亮に施した』
 真理亜は口を押さえて悲鳴を押し殺し、ボロボロと涙を零して、声も無く泣く。そんな真理亜にお構い無しに、キッカは続けた。
『他の箱庭病患者達は、あくまで自分の夢の中で昏睡状態に陥っている。それはキッカのテレパシーではなく、罹患者自身から分泌されるホルモン作用や身体的コンディションにより影響される、紛れも無い本人の夢だ。しかし今の亮は違う。彼も確かに夢を見ているが、それは彼自身の見る夢ではない。キッカが設計し、作り上げた、キッカのキッカによるキッカの為の夢。亮はキッカがテレパシーを用いてキッカの夢を訪れている、いわばゲストだ。……パソコンに置き換えれば分かりやすい。箱庭病患者は、自分の夢を自分で用意したサーバーに保存し、アクセスして夢を見る。しかし亮は、パスワード付きの専用ルームを作成したキッカのサーバーにアクセスし、キッカと共に夢を見ている。彼とキッカが夫婦として生活する、幸せな夢を』
 やめろ、と声に出して叫ぼうとしたが、声が出なかった。代わりに、涙ばかりが流れ続けて止まらない。その場に座り込んで泣く真理亜に、しかしキッカは細い目を更に細め、憐憫と憧憬の入り混じった表情で続ける。
『けれどその意味で、真理亜、これは君の勝利と言ってもいい。何度か彼の記憶を改竄し、彼の理想とする顔立ちの女になって何度も夫婦生活を続けようと試みたが、一ヶ月以上も良好な関係が持続しているのは、真理亜、君の顔の時だ』
 それは、キッカなりの慰めなのだろうか。それとも、それでも真理亜本人が決して亮の下へ辿り着くことが出来ない事実を再認識させた、勝利宣言なのだろうか。真理亜には、分からない。分からないから、泣くしかなかった。
 その時、トントン、と部屋のドアがノックされた。真理亜が返事をするよりも先に、伽耶がドアを開けて入る。それが親としての癖なのだろう。真理亜は慌てて、涙で化粧崩れした顔を手で拭う。そんな彼女を見て、伽耶はハッとして恥じ入る顔をした。
「ごめんなさい、いつもの癖で……亮にも怒られたんだけど」
「い、いえ。私も済みません、他所様の家で、こんな」
「いいんですよ。私は、お茶を持ってきただけなので……」
 言いながら伽耶は気まずそうに、そしてそれを誤魔化すようにして、お盆に乗せた麦茶の入ったグラスを、亮の勉強机の上に置く。
 涙で歪んだ視界の中で、しかし真理亜はその様子が少し気になった。伽耶はグラスを、不自然なまでにキッカの石の近くに置いた。あと数センチも右に手が動いていれば、石にぶつかってしまう。机に向かって左へ二十センチもずらせば、広いスペースがあるというのに。
「石、危ないですよ」
 鼻を啜りながら咄嗟に言った。すると何故か伽耶はギョッとして、え? と訊き返す。訊き返したいのは真理亜の方だった。どうやら伽耶は、自分がどんな場所にグラスを置いたのか、分かっていない様子なのである。すると、石の中のキッカは口を動かす。
『無駄だ。既に随分昔から、この女の視覚はキッカの支配下にある。眼球にある盲点部分を操作し、この部屋に入った時だけ光の受容範囲を制限している。この女に、キッカの石の場所は認知出来ない。加えて言えば、手は掛かったが記憶の一部にもキッカは干渉し、石に関する記憶に蓋をしている。これも、キッカの承認が無ければ解放は……』
 言い掛けたところで、伽耶が予想だにしない言葉を発した。

「楢崎さん。石を壊せ、って何のことか、分かる?」

 時間が止まったような気がした。涙を引っ込め、驚きに目を見開いて、真理亜は聞き直した。「何です?」
「石。一昨日、亮を病院に入院させて、楢崎さんから電話をもらった日なんだけど、あの病院でちょっと騒ぎがあって」
 伽耶は説明する。誰かが暴れたらしく、何事かを騒いでいたと。
 近くで口を開けて驚いていた、廊下のシートベンチに座る老婆に、伽耶は何が起きたのかを尋ねた。仰々しく老婆は、大袈裟な身振り手振りで教えてくれた。
 何でも、突然あの病室から叫び声がして、同じ言葉を繰り返しては暴れたらしい。何かを伝えようとしてるようだが、あまりにも必死過ぎる声で、言葉が全てはっきり聞こえなかったと。声が枯れている様子だったと話したところで、暴れたのが目を覚ました箱庭病患者らしいということに気付き、息子が目を覚ますヒントになるかもしれないという一縷の希望から、伽耶は腰を落として目線の高さを合わせ、女性が何と叫んでいたのか、と尋ねてみた。
 そうしてしばらく経ってから、老婆はこう答える。
 はまがどうとか、石を壊せとか、そんなこと言ってたかねぇ、と。
「浜にある石を壊すってこのなのかなと思ったんですけど、そんなことじゃね。それに、病気と関係あるとも思えなくて、ガッカリして帰ってきたんですけど。……ねえ、楢崎さん。今、石って仰ったけれど、もしご存知なら……」
 はま、という言葉は恐らく、濱田の苗字を示している。しかしまさか我が家のこととは思いもよらないであろう伽耶に、その発想は夢にも出てこないらしかった。
 すがる様な、伽耶の目。その真っ直ぐな目に耐えられず、そして事実を話したとして理解してもらえるとは思えず、寧ろふざけた話をするなと怒られそうで、真理亜は顔を伏せて涙を拭くふりをして、誤魔化す。
「……昔、亮君がそこに石をコレクションしていた気がして、つい……済みません、見間違えだったみたいです。ごめんなさい……」
 そう、そうよね。そう言って意気消沈し、それでも悲しげな微笑みを崩さずに言葉を零した伽耶は、目尻の涙を拭って立ち上がる。
「今夜、ご予定はある? 無ければまた、晩ご飯食べていって欲しいのよ、昔みたいにね。……出来れば、亮の話もしたい」
 ゆっくりしていってね、と伽耶は言って、部屋を後にする。
 残されたのは、真理亜と、そしてキッカ。
 キッカを睨む真理亜を、静かにキッカは見つめ返していた。
 長い長い沈黙の後、キッカがやっと口を開く。
『誤算だ。全くの誤算だ。母親には、記憶と視覚の処理をしておけば捨て置けばいいと、それ以外の管理をしていなかった。あの場に、まさか伽耶が居たとは』
「石のことを叫んだのは、雫ね」
『そうだ。夢の中で、彼女は自分が目覚める方法を、そして眠りから人類を解放する方法を探っていた。全てが終わったら彼女を目覚めさせるつもりだったから、石を壊すなどという間違った答えを伝えようとした。君が今考えている様な妄想を抱かせない為にも、情報は隠蔽する必要があったのだけれど』
「本当に、妄想なの? 雫が間違えていると言うの?」
『ああ、間違いだ。さっきも言ったが、キッカは亮を眠らせるつもりなどなかった。二人だけの世界で、共に生きたかった。けれど事態は急を要し、ただ夢を見せるだけでは駄目だった。事情と事態は変わった。キッカは加速した夢の中でもう一年近く、亮と生活を共にしている。理想となる家庭環境のシミュレーションは終わった。もう人類を眠らせる必要は無くなった。明日にでも、皆の目を覚まさせよう。けれどどうか、キッカと亮だけは、この夢の中で……』
「ふざけんな……!」
 涙を流しながら怒りに顔を歪ませて、真理亜は立ち上がる。怒りに震え、両手は硬く握り拳を作っていた。
 正直な話をすれば、今キッカが話した夢のこと、彼女の動機のことなど、何一つ真理亜には理解出来ない。夢のメカニズム、キッカの石の仕組み、その起源。何も、正確なことは分かっていない。
 それでも。
 播磨の考え抜いたシーラカンスについての答え。亮の下した現行世界の行末の答え。そして雫の導き出した答え。それら全てを、真理亜は決して疑わない。
 真理亜は石を睨みつけたまま、網戸を目一杯開く。秋の虫が鳴く。西の空は毒々しい紫と茜の色に染まっている。右手が、キッカの石に伸びる。
『真理亜、止めろ。キッカが皆を解放すると言っている。キッカを壊せば、人は永久に眠り続ける。亮も戻らない』
 真理亜は石を掴み、目線の高さにそれを持ち上げ、改めて中に居る、亮を抱きしめたままの自分の顔を睨みつけた。
「戻すつもりなんて、無いくせに」
 警戒を解き、心のガードを緩くしたその瞬間、キッカは真理亜の精神に侵入し、夢を見せるだろう。真理亜にはそれが直感で分かった。この魚は、自分が亮と永遠に結ばれる為に手段を選ばない。
『止めろ、真理亜』
 もう、遅い。
 真理亜は、石を構えて振り上げた。窓の外は、濱田家の玄関前の道、コンクリートの舗装道路。叩きつければ、間違い無く石は破壊されるだろう。
『人類を裏切るのか、真理亜』
 キッカの言葉は、届かない。
 真理亜は、自分の決めた選択肢を信じ、二階の窓から石を思い切り、投げつけて。

 ……石が真理亜の手を離れ、地面まで二メートル、というところで、それは止まった。

 空中に、石が止まっている。理解が出来なかった。何が起きているのか、真理亜には何も分からない。けれど、すぐにそれ以上の異変に気付く。
 体が、動かない。窓から体を乗り出し、石を投げて腕を伸ばした姿勢のまま、自分の体は完全に固まっている。風に靡く金色の髪も、服の袖も、一ミリも微動だにしない。虫の音は止み、風も止まり、雲の流れも止まっている。
 時間が、止まっている。
 けれど、自分の意識はハッキリとしている。
 動揺しても、それを表に出せなかった。体はもう、微動だにしない。そんな真理亜の頭の中に、とても落ち着いたキッカの声が響いた。
『おめでとう、真理亜。君はキッカの言葉を信じず、亮を、そして人類を救う正解の道を選ぶことが出来た。現実世界で〇・八秒後、石は砕け、キッカという存在とその概念は完全に消滅する。夢遊病を維持する為のエネルギー供給は絶たれ、やがて眠っていた全人類が目を覚ますだろう。世界を救った気分はどうだね』
『何をしているの。これは、何?』
 体も、顔の筋肉のたった一筋さえも動かなかったが、頭の中で言葉を出すことは出来た。真理亜の困惑する声に、キッカは答える。
『ニューロンの電気信号を操作している。夢を見る時、たった一晩で何日分、或いは何年ぶんもの時間を過ごすことがあるだろう。今、あれを人為的に作動させている。……亮とキッカが共有している夢は、既にその状態だった。少しでも長く、一緒に居られる時間を増やす為に。けれど今、もうそれは叶わない。それだけエネルギーをフルに活動させても、キッカと亮のニューロンを直列させただけでは、一秒にも満たない時間は、夢の中でもせいぜい数百時間程度までにしか増幅出来ない。……だから、三連結することにした。真理亜。今君は、キッカが作ったサーバーの中……キッカの夢の中に、片足を入れた状態だ。この夢の中に君を引きずり込む為に、先程までの下らない説得をして時間を稼いだのだが、ギリギリで間に合ったよ』
 体は動かないまま、視界だけが暗くなっていく。真理亜が恐怖を覚え始めると同時に、視界は完全に暗転し、体の感覚も無くなった。キッカの声は続く。
『キッカ、亮、真理亜。三人の神経シナプスを、キッカのテレパシーを媒介にして直列させる。そこに、残されたエネルギーのありったけを注ぎ込んだ。もうすぐ、君もキッカの夢の中に侵入出来る。あの状況ではもうこうするより手段が無かったから、キッカもこんなことをしたくなかった。キッカと亮の空間に、君を入れるなど。……勿論、サーバーは同じでも、部屋は別に構築させてもらうよ。マッチングオンラインゲームと同じさ』
 体の感覚が戻ると共に、視覚が復活する。ハッとして、真理亜は自分の目を疑った。
 真理亜は、公園に居た。町から滅多に出たことのない彼女がテレビの向こうで何度も目にした、憧れの都心、その大きく綺麗な公園。田舎町では決して見ることの出来ない、美しい都市計画図に則った公共施設。その敷地内のベンチの一つに、真理亜は座っていた。
 呆然とする彼女に、姿を見せないままキッカが頭の中に話し掛ける。
『ここが、君の箱庭だ。好きにするといい……と言いたいところだけれど、もう、残りのエネルギーは全て、キッカと亮の為に使ってしまう予定なのだ。余分な力はあげられない。だから君は、自由なはずのこの箱庭で、何も出来ない。何かを生み出すことも、作ることも、楽しむことも。空腹と喉の渇きは感じないから、死ぬほどの苦しみからは無縁だと思うので、安心して欲しい。死ぬような怪我をしても死なないように、最低限の調整もしてある』
 真理亜は立ち上がって、憎らしい程に晴れ渡った空に向かって叫ぶ。
「ふざけんな、戻せ! 亮を解放しろよ!」
『加速した夢の中で、キッカと亮は、長い長い〇・八秒を過ごすつもりだ。終わりの来てしまう〇・八秒。永遠に続かない〇・八秒。だからその〇・八秒を、キッカはなるべく長く過ごそうと思う。精神をリンクさせることになった真理亜にも、同じだけの時間を過ごしてもらうことになる。ひゃkが終わったら、元の世界に戻れるから安心して欲しい。その時はもう、キッカは世界のどこにも存在しない』
「勝手に決めんな! ねえ、私はどれだけの時間、ここに居ればいいの!」
『現実世界で、〇・八秒。夢の世界で、ざっと百十五年』
 呼吸が出来なくなった。体が震える。
 なんて言った? 百十五年?
 この、人影一つ無い世界で、百十五年を一人で過ごせと?
       3-5 覚醒

 キッカの声に、淀みは無い。嘘をついているとは思えない。膝をついて倒れる真理亜に、キッカは最後の言葉を投げた。
『信じてくれとは言わないが、真理亜。キッカは、四人のことが皆好きだった。今ならこの感覚が、好意というものだと自覚出来る。君達四人は、特に亮は、この世界で特別になって欲しかった。けれど、人の心は上手く動いてくれないものなのだとよく分かった。だからキッカは、亮を騙してキッカの世界に閉じ込めるしかない。真理亜にも、幸せな夢の中に居て欲しかった。でも、それをしたくないと思える程度には、キッカは君が好きだった。……さようなら』
 その言葉を最後に、キッカの言葉は聞こえなくなった。二度と、その声が頭の中で響くことは無かった。
 真理亜は慟哭した。喚き、叫び、何度も何度も自分の拳をレンガブロックに叩き付ける。どれだけ痛みを感じても、どれだけ骨が砕け、皮膚が裂け、血が流れても、それは瞬く間に治っていく。
 声が枯れ、血の痰しか出なくなっても、真理亜は泣き叫び続けた。