3-4 覚醒
箱庭病が確認されてから四年が経過する中で、人々はその特性と対処療法について、広く知るようになった。もっとも、後者が療法と呼べるものであるかどうかは、別の話だが。だから伽耶も、もしも自分か家族がそれに罹った場合の覚悟は決めて、何をするべきか、何をしなければならないか、準備は疎かにしていないつもりだった。
けれど、実際に肉親が、しかも息子が眠っているとなると、胸中は穏やかではない。夫と二人、医師の前で並んで彼の話を聞くが、彼女の耳にその言葉は入ってこなかった。
箱庭病に罹ると昏睡状態に陥り、同時に新陳代謝が異常なまでに低下する。丁度冬眠に入る熊の様に。体はやや硬化し、昏睡前から体内で消化されていた分が排出されれば、一切の排泄行為も無くなる。しかしそれは外部からの刺激を一切受け付けなくなる状態に移行する事を示し、罹患者の肉体を隔て、外界と精神は完全に分断される。
夢から回復した例は、今のところ非常に少ない。
そう、夢からの帰還者がゼロではないのだ。けれどそれは、心地よい夢の世界を自ら断ち切り、諦め、この現実に帰ってくるという事。夢から帰ってきた人達は皆口を揃えて、暗い声で言うのだ。
自分は、偶々帰る理由が出来ただけです、と。
亮は、この現実に帰るだけの理由を見付けられるだろうか。
「息子さんには二日、共同部屋に入院して頂きます。体内に残された排泄物の排便が済みましたら、救護車でご自宅へお送り致します。後は市より供給される点滴と専用機材をお使いください。栄養価は高いので、二日に一度打てば、生命維持に支障はありません」
穏やかだが、医師の説明は淡々としていた。夫もまた、伽耶同様に口を閉ざして静かに話を聞いている。しかし一通り医師の話が終わった後、彼はぽつり、と呟いた。
「まるで、機械のメンテナンス作業の説明みたいですね」
それが皮肉を込めたものか、ただの感想なのか、魂の抜けた様な夫の横顔から真意を汲み取ることは難しい。医師は「勿論、違います」と断言する。
「しかし、医療従事者としては時にそうした感覚でいないと、今のご時世では……しかし酷なことを承知で申し上げますが、親御さんがそうした感情を持ってしまうと、最悪の事態を引き起こしてしまいかねません。その点はくれぐれも……」
「ええ、分かっています。すみません」
夫はやはり、力無く頷いた。
病院に、用は無い。もう亮の回復には、基本的に望みは無い。ならば仕方が無いじゃないか、と自分に言い聞かせる一方で、伽耶はそれでも病院に足を運ばずにはいられない。亮の眠る病室には、他に二人の箱庭病患者が居た。見舞いの者は皆、沈んだ顔をしている。この人達も、自分と同じなのだ。そう思うことで少しでも、気持ちの整理を付け、心のバランスを取りたかったのかも知れない。自分だけじゃないと。
ゆっくりと上下する息子の胸をじっと見つめていると、昼過ぎに電話が一本、掛かってきた。伽耶のスマートフォンではなく、枕元に置いた亮のものだ。まだ充電は残っているらしい。出てもいいものだろうか、と悩んだが、そう言えばまだ大学にも連絡を入れていないと思い、友達からならば、と電話を手に取る。液晶には、『真理亜』の文字があった。少し考え、亮の同級生の顔を思い出す。確か、二年の夏に突然校内で暴力沙汰を起こし、退学処分になった女子生徒だ。
昔はいい子だったと思っていたが、実際にそんな暴力的な子だったとは、とPTAで話を聞いて、驚愕したものだ。まだ、息子と繋がっていたなんて。
そうは思いつつも、しかし伽耶の中に居る真理亜の姿は、物静かで利発そうな、大人びた少女のイメージのままだ。少し抵抗を覚えつつも電話に出て、戸惑う彼女に、躊躇いつつも今の亮の現状を伝えた。
動揺し、真理亜は電話の向こうで突如泣き始めた。錯乱している様子で、嗚咽の途中で「私の所為だ」「関わらなければよかった」という言葉が、時折聞こえる。パニックになっているらしい彼女のその声音を聞いていると、伽耶も胸を締め付けられる。
静かな秋の病室で、伽耶は真理亜が泣き止むのをただ静かに待った。
『すみません、突然、こんな……おばさんも辛いのに』
「いいえ、大丈夫。……ではないけれど、今、楢崎さんが亮の為に泣いてくれたんだって思うと、ちょっと、助けられた気分」
『そんな』
事態は何も変わっていない。それでも、伽耶はそれまで乱れていた心が少し、穏やかになるのを感じている。
亮が、こんなにも自分の為に泣いてくれる友達を持てていた。そして真理亜の声や言葉は、昔家に遊びにきてくれていた時と、変わらない優しさを持っている。それを確認できただけでも、今伽耶は嬉しかった。
『あの……お見舞いに行ってもいいですか』
「ええ、是非。でも病院もなんだし、明後日以降でうちに来てください。自宅療養に切り替わるんです」
『ああ、やっぱりそうなんですね。てっきり入院かと』
僅かながらにも生還者が居るという事実は、現実世界に残された家族を藁にもすがる思いにさせる。治療法が見付かった場合にいつでも最優先の処置を、すぐにでも受けられるようにと、患者を入院させたままにする家族も少数だが存在する。伽耶も、その手段を考えてはみた。しかし結局、息子の看病が出来るのであれば自分達の家でしたいと、夫と話して決めていた。
それじゃあ、と断って、伽耶は電話を切る。夫が仕事から帰ってきたら、亮の休学手続きを進めよう。大学側も、事情は理解してくれるはずだ。少しでも前向きに考えよう。伽耶は自分に、繰り返しそう言い聞かせた。
そうして陽が傾き始めるまで長居して、伽耶は帰宅を決める。途中、スーパーで夕飯の買い物をしなければならないだろう。考えながらエレベーターのボタンを押し、昇降機の到着を待っている時だった。
エレベーターホールを挟んで伽耶の来た方とは反対の入院棟から、ガタンと大きな音がした。それから、何人かの人の騒ぎ声、呼び声、そして誰か一人、とても大きな声を出して何かを叫んでいる人が居る。女子入院患者の棟だった。
ドタン、ガシャン、とあまりにもけたたましい音がするので、好奇心と不安に駆られ、戸惑いながらも伽耶はホールを離れ、廊下を進む。入院患者が病室や休憩スペースから騒音の先の廊下を覗き込み、看護師達が走って現場へ向かっていく。
伽耶の不安が膨らむ中で、彼女が現場に到着する前に、騒ぎは治まった。それも、唐突に。
十字の廊下を左に曲がり、病室前に出来ている人だかりを遠巻きに見る。廊下に、病院の寝巻きを着た女性が一人、倒れている。看護師の影にすぐに隠れてしまい一瞬しか見えなかったが、切ったばかりらしい腕から血が流れているのが見えた。恐らく、彼女が暴れたのだろう。
騒然とする現場を、口を開けて観察する老婆と共に、伽耶は遠巻きに、ぼんやりと見ているだけだった。
一体、何が起きたんだろう。
*
キッカは、相手の感覚を奪い、盗撮・盗聴が可能である。それは雫達が昔掴んでいた情報であり、今も恐らく、その事実に変わりはない。
だから雫はその日の準備を、図書館のいつもの場所で進めた。片手で小説のページをめくりながら、机の下で用意すべきものを用意する。夢の中のことだから、ちょっと想像するだけで問題無かった。その性能を本物と同等にする為、あらゆる専門書を精読し、上手く想像しなければならなかったが、今の雫にそれは大きな問題とはならない。
雫が唯一、そして最も懸念しなければならないのは、タイミングだけだった。しかし、自分の現実の肉体が病院のベッドで横になり続けているという事実以外、彼女に、現実世界の自分の状況について得られる情報は無い。理想は、自分の近くに両親や真理亜達が居ることだ。だが、現実世界の情報源は残念ながら、キッカだけだ。彼を経由しなければ、雫は盲目であった。
しかも、雫の知りたい情報を尋ねて、キッカがそれを正直に教えてくれるとは思えない。泣き落としの演技をしようにも、今まで何の不満も無くこの夢の世界で勉強と知識の獲得に終始してきた雫がそれをしたところで、不審に思われるのが関の山だろう。
ならば、いつやっても同じことだ。
だから雫は、準備をした。魚になって空を泳ぐことをせず、ただじっと、キッカに最後に出会ってからの五日間を静かに過ごし、確実にキッカの訪れるタイミングを調整した。キッカは、自分が夢のコントロールの主導権を握っていると信じているし、それを疑う方がおかしい。けれどその燃料補給のタイミングだけは、雫が陰で調整出来た。
だからその日、図書館にいつものように、イカが一匹、宙を泳ぎながら目の前に現れた時、雫の緊張は最も高まった。失敗は、許されない。
「おはよ」
『おはよう。小説は読み尽くしていたかと思ったが、まだ読んでいないものがあったのか』
「ミステリーものが、まだあったんだよ。ねえ、それでさ、試してみたいことがあるんだけど、いいかな」
訊くと、キッカは嘆息混じりに言う。
『またトリックの実証実験か。二十年前の本にあった時刻表トリックの再現実験だけは止めて欲しいものだ。本の発売当時のダイヤ、環境、人口密度など、夢の中とは言え情報を集めて再現するのは骨が折れたのだから』
本当に嫌そうに言うキッカを笑い、雫は本を伏せ、気さくに言った。リラックスした風を装ってはいるが、その心臓はドクドクと、高速で鳴り続けている。雫は、自分の座る席のすぐ目の前の机を指し示す。
「ちょっとここに来て」
言われて、イカのキッカは雫の目の前、五十センチと離れていない目の前の空中にやってきて、静止する。ギョロリとした目玉が、雫を見つめた。
『何をすればいいのだ』
「何も」
言うと同時に、雫は想像する。瞬時に、テーブルがキッカの真下で変化を始める。かと思えば次の瞬間には、鉄製の格子がテーブルから直上に勢いよく伸び、キッカの四方を囲んだ。同時に、キッカの上下を挟み込む様にして、鉄板が何も無い空間から生まれる。
一瞬にしてキッカは、少しもその体をどの方向にも移動出来ない、宙に浮く小さな檻の中に封じ込められた。
雫は人当たりの良いその表情を冷たいそれへと変じ、間髪を入れず、机の下に準備していた大口径の回転式拳銃を取り出し、構える。
スミス・アンド・ウェッソンのM500、四インチモデル。熊の様な大男が構えて射撃をしても反動でよろめくとされる五十口径の拳銃は、至近距離で確実にイカを破壊する為にどうしても必要な、怪物級の武器だった。夢の中でも銃を扱ったことはあまり無かった雫だったが、それでもこの距離なら、絶対に外さない自信があった。
迷っている時間は無い。
『雫、何をし』
キッカが言い切る前に引き金を引く。図書館に、耳をつんざく程の轟音が響き渡った。発砲の衝撃で、テーブルに積んでいた本が何冊か落ちる。雫の体は反動に押され、椅子ごと背中から転倒した。だが倒れるその寸前、銃弾が確かに、檻に閉じ込められたキッカの体を打ち抜き、破壊するのを視認する。
後頭部を強く打ち、視界がチカチカした。右肩にも鈍痛がある。脱臼したらしい。自分の胸の上に落ちたM500に左手を伸ばし、震える手でそれを取る。
急いで撃鉄を再び起こし、その銃口を、今度は自分の顎に当てる。狙いは、自分の頭。即死出来る発射角度を意識した。
呼吸が乱れる。吐き気がする。自殺など正気の沙汰ではないという理性が、一秒の間に何度も繰り返し働き掛けた。
けれど、ここから抜け出さなければならないという強い意志が、その理性を破壊する。目を痛くなる程に瞑り、歯を食いしばり、雫は引き金を引いた。
気付けば、雫は病院のベッドの上だった。乱れた浅い呼吸を繰り返し、滝の様な汗を掻いている体が自分のものだと理解するのに、時間を要する。雫の体は三年間の長きに渡って運動をしなかった上、新陳代謝と体温の低下という箱庭病の特性上、起きてすぐに体を動かすことが非常に難しかったのだ。
けれど雫はそれでも、必死に点滴の穴だらけになった腕を持ち上げ、体を横向きにする。病室には何人かの患者が寝ているが、両親も友人も居ない。
最悪だった。唯一の懸念が、最悪の結果に繋がってしまった。誰にも、伝えられない。
それでも雫は歯を食いしばり、ベッドの手すりを掴んで体を起こし、叫ぼうとする。だが、乾き切った口から中々声が出なかった。
苦肉の策として、ベッドサイドに立てられた自分の点滴スタンドに手を伸ばし、思い切りそれを倒す。派手な音がして、病室の外がちょっとだけ騒がしくなる。
雫は、叫ぼうとした。
「い、石、を……壊せ……! 石を……壊せぇっ……!」
ベッドから落ちる。現実に襲ってくる肉体的な痛みが、懐かしい。だが、ここで倒れたままでは駄目だ。暴れた勢いで割れてしまったガラス瓶で腕を切っても、雫はベッドに掴まり、痛みに悲鳴を上げる体を無理矢理に立たせる。
「亮の家のっ……石を……濱田亮の家の石をっ……!」
叫び続け、喉から血が出た。それを吐き出して、人の集まり始めた病室の外に向かって、それでもあらん限りの力で叫び続けた。
石を壊せ。亮の家の石を壊せ、と。
暴れ、病室の備品を幾つか壊しながら廊下に出ようかというところで、雫の視界は突如暗転した。
『やってくれたね、雫』
目を開けると、雫は再び、図書館に居た。夢の中の図書館だった。先程自分の使った拳銃は消えている。ただ、乱雑に散らかった本が何冊か、そしてバラバラに砕けた鉄製の檻が、これが自分の見た夢の続きであることを示している。
雫の目の前には、イカではない、シーラカンスの姿のキッカが居た。その様子を見て雫は、不敵に微笑んでみせた。
「本人がやってきたということは、私は間違ってはいなかったわけだ」
『今までも君は、何度か夢の中で自殺を試み、しかし目覚めなかった事実に落胆し、今の生活を続けていたはずだ。何故、目覚めることが出来た』
この質問は意外だった。キッカは、自分の能力のそのところを、上手く理解出来ていなかったらしい。雫は、自分の為に特別にしつらえてくれたこの三倍速の夢を維持するのに、定期的なエネルギーの補充が必要になるという自分の推理をキッカに伝える。
「……車のガソリンを入れる時に問題が起きないのは、エンジンを切って、火気厳禁で、皆が慎重に道具を扱うから。給油中にトラブルを起こせば、爆発の大惨事が起こる可能性はグッと上がるでしょう? アナタの用意したこの夢にとっての『最悪』は、眠っている本人が目覚めてしまうことじゃない? だから、やってみた」
『石を壊したら、君は目覚めない。何故、あんなことを叫んだ』
「それ、嘘でしょう? 石が壊れたら、もう夢を見ている人に、それを維持する燃料の供給は出来なくなる。そうしたら、夢は覚める。人はまた、現実で孤独じゃなくなる」
キッカは答えない。それが答えであるということはもう、分かっていた。雫は続ける。
「ねえ。私、本当にキッカには感謝してるんだよ。恨んでなんかない。他の三人はどうだか知らないけれど、私はアナタに出会えて、関わりを持てて、本当によかったって思ってる。……でも、もうお終いにしよう」
『何故、この心地よい夢から逃げようとする。君以外も、一部の者は自分の意思で夢から覚め、二度と戻ろうとしないことを選んだ。目を覚ました現実世界には、あまりにも多くの困難と苦しみと孤独があるというのに』
無機質な、いつもの変わらぬキッカの声。雫は苦笑した。
「人は自分で選んだ道を歩きたがるものなんだよ。その時はそうでなくても、いつか必ず」
『それが苦難の道でもか』
「……キッカ。アナタ、私に誘われなきゃ遊びとかしないでしょ」
『何を言っている』
『そりゃあ、仕事や勉強は無駄を省いて、効率的にやるのが正しいことだと思うよ。いち早く結果を出したいと強く願うのも大事だし、それを実現させるのも大事。……でも、それ以外の時間を同じように過ごすのは、違うんだよ。理由なんて無くたって人は何かをしたいと思うし、面倒臭いことを楽しんだりする。無駄にする時間を作るのが、人を人たらしめるんだって、そう信じてる。そうでなきゃ、人は効率と結果だけを求めて生きる、それこそ機械そのものの生き方をしなきゃならなくなる。それをしない為に、人は無駄なことをしたり、傍目から見たら不可解な行動を取ったりするの。……私のこれも、そう』
キッカは、それ以上の質問をしなかった。ただゆらり、と体を揺らして振り返り、図書館の外へ出て行こうとする。そうして去り際に、キッカは雫に告げる。
『この夢の世界は、もう加速させない。燃費が悪いからね。もう君は、キッカに会うことはない。現実に存在する肉体と共に時間経過を共有し、変化しないこの世界で永遠に眠るしかない。キッカは雫に、目を掛け過ぎた』
言い終わると同時に、机に積んでいた本が、まるで煙の様に溶けて消える。ハッとして見回すと、図書館中のあらゆる本が、次々と静かに、音も無く掻き消えていく。
「キッカ、待って」
『三尾雫。君はもう、この夢の中で何も出来ない。知識を得ることも、新しく何かを生み出すことも、魚に返信することも、食べ物を口にすることも出来ない。キッカがそれを許可しない。肉体が死滅するまで、永遠に虚無の夢の中で生き続けるといい。徒労に終わった君の過失の、それが罰だ』
言うと、キッカは素早く体をうねらせ、図書館の外へ姿を消した。
がらんどうになった図書館の中で、雫は項垂れたまま、ただ椅子に座り、虚空を見つめていた。
*
箱庭病が確認されてから四年が経過する中で、人々はその特性と対処療法について、広く知るようになった。もっとも、後者が療法と呼べるものであるかどうかは、別の話だが。だから伽耶も、もしも自分か家族がそれに罹った場合の覚悟は決めて、何をするべきか、何をしなければならないか、準備は疎かにしていないつもりだった。
けれど、実際に肉親が、しかも息子が眠っているとなると、胸中は穏やかではない。夫と二人、医師の前で並んで彼の話を聞くが、彼女の耳にその言葉は入ってこなかった。
箱庭病に罹ると昏睡状態に陥り、同時に新陳代謝が異常なまでに低下する。丁度冬眠に入る熊の様に。体はやや硬化し、昏睡前から体内で消化されていた分が排出されれば、一切の排泄行為も無くなる。しかしそれは外部からの刺激を一切受け付けなくなる状態に移行する事を示し、罹患者の肉体を隔て、外界と精神は完全に分断される。
夢から回復した例は、今のところ非常に少ない。
そう、夢からの帰還者がゼロではないのだ。けれどそれは、心地よい夢の世界を自ら断ち切り、諦め、この現実に帰ってくるという事。夢から帰ってきた人達は皆口を揃えて、暗い声で言うのだ。
自分は、偶々帰る理由が出来ただけです、と。
亮は、この現実に帰るだけの理由を見付けられるだろうか。
「息子さんには二日、共同部屋に入院して頂きます。体内に残された排泄物の排便が済みましたら、救護車でご自宅へお送り致します。後は市より供給される点滴と専用機材をお使いください。栄養価は高いので、二日に一度打てば、生命維持に支障はありません」
穏やかだが、医師の説明は淡々としていた。夫もまた、伽耶同様に口を閉ざして静かに話を聞いている。しかし一通り医師の話が終わった後、彼はぽつり、と呟いた。
「まるで、機械のメンテナンス作業の説明みたいですね」
それが皮肉を込めたものか、ただの感想なのか、魂の抜けた様な夫の横顔から真意を汲み取ることは難しい。医師は「勿論、違います」と断言する。
「しかし、医療従事者としては時にそうした感覚でいないと、今のご時世では……しかし酷なことを承知で申し上げますが、親御さんがそうした感情を持ってしまうと、最悪の事態を引き起こしてしまいかねません。その点はくれぐれも……」
「ええ、分かっています。すみません」
夫はやはり、力無く頷いた。
病院に、用は無い。もう亮の回復には、基本的に望みは無い。ならば仕方が無いじゃないか、と自分に言い聞かせる一方で、伽耶はそれでも病院に足を運ばずにはいられない。亮の眠る病室には、他に二人の箱庭病患者が居た。見舞いの者は皆、沈んだ顔をしている。この人達も、自分と同じなのだ。そう思うことで少しでも、気持ちの整理を付け、心のバランスを取りたかったのかも知れない。自分だけじゃないと。
ゆっくりと上下する息子の胸をじっと見つめていると、昼過ぎに電話が一本、掛かってきた。伽耶のスマートフォンではなく、枕元に置いた亮のものだ。まだ充電は残っているらしい。出てもいいものだろうか、と悩んだが、そう言えばまだ大学にも連絡を入れていないと思い、友達からならば、と電話を手に取る。液晶には、『真理亜』の文字があった。少し考え、亮の同級生の顔を思い出す。確か、二年の夏に突然校内で暴力沙汰を起こし、退学処分になった女子生徒だ。
昔はいい子だったと思っていたが、実際にそんな暴力的な子だったとは、とPTAで話を聞いて、驚愕したものだ。まだ、息子と繋がっていたなんて。
そうは思いつつも、しかし伽耶の中に居る真理亜の姿は、物静かで利発そうな、大人びた少女のイメージのままだ。少し抵抗を覚えつつも電話に出て、戸惑う彼女に、躊躇いつつも今の亮の現状を伝えた。
動揺し、真理亜は電話の向こうで突如泣き始めた。錯乱している様子で、嗚咽の途中で「私の所為だ」「関わらなければよかった」という言葉が、時折聞こえる。パニックになっているらしい彼女のその声音を聞いていると、伽耶も胸を締め付けられる。
静かな秋の病室で、伽耶は真理亜が泣き止むのをただ静かに待った。
『すみません、突然、こんな……おばさんも辛いのに』
「いいえ、大丈夫。……ではないけれど、今、楢崎さんが亮の為に泣いてくれたんだって思うと、ちょっと、助けられた気分」
『そんな』
事態は何も変わっていない。それでも、伽耶はそれまで乱れていた心が少し、穏やかになるのを感じている。
亮が、こんなにも自分の為に泣いてくれる友達を持てていた。そして真理亜の声や言葉は、昔家に遊びにきてくれていた時と、変わらない優しさを持っている。それを確認できただけでも、今伽耶は嬉しかった。
『あの……お見舞いに行ってもいいですか』
「ええ、是非。でも病院もなんだし、明後日以降でうちに来てください。自宅療養に切り替わるんです」
『ああ、やっぱりそうなんですね。てっきり入院かと』
僅かながらにも生還者が居るという事実は、現実世界に残された家族を藁にもすがる思いにさせる。治療法が見付かった場合にいつでも最優先の処置を、すぐにでも受けられるようにと、患者を入院させたままにする家族も少数だが存在する。伽耶も、その手段を考えてはみた。しかし結局、息子の看病が出来るのであれば自分達の家でしたいと、夫と話して決めていた。
それじゃあ、と断って、伽耶は電話を切る。夫が仕事から帰ってきたら、亮の休学手続きを進めよう。大学側も、事情は理解してくれるはずだ。少しでも前向きに考えよう。伽耶は自分に、繰り返しそう言い聞かせた。
そうして陽が傾き始めるまで長居して、伽耶は帰宅を決める。途中、スーパーで夕飯の買い物をしなければならないだろう。考えながらエレベーターのボタンを押し、昇降機の到着を待っている時だった。
エレベーターホールを挟んで伽耶の来た方とは反対の入院棟から、ガタンと大きな音がした。それから、何人かの人の騒ぎ声、呼び声、そして誰か一人、とても大きな声を出して何かを叫んでいる人が居る。女子入院患者の棟だった。
ドタン、ガシャン、とあまりにもけたたましい音がするので、好奇心と不安に駆られ、戸惑いながらも伽耶はホールを離れ、廊下を進む。入院患者が病室や休憩スペースから騒音の先の廊下を覗き込み、看護師達が走って現場へ向かっていく。
伽耶の不安が膨らむ中で、彼女が現場に到着する前に、騒ぎは治まった。それも、唐突に。
十字の廊下を左に曲がり、病室前に出来ている人だかりを遠巻きに見る。廊下に、病院の寝巻きを着た女性が一人、倒れている。看護師の影にすぐに隠れてしまい一瞬しか見えなかったが、切ったばかりらしい腕から血が流れているのが見えた。恐らく、彼女が暴れたのだろう。
騒然とする現場を、口を開けて観察する老婆と共に、伽耶は遠巻きに、ぼんやりと見ているだけだった。
一体、何が起きたんだろう。
*
キッカは、相手の感覚を奪い、盗撮・盗聴が可能である。それは雫達が昔掴んでいた情報であり、今も恐らく、その事実に変わりはない。
だから雫はその日の準備を、図書館のいつもの場所で進めた。片手で小説のページをめくりながら、机の下で用意すべきものを用意する。夢の中のことだから、ちょっと想像するだけで問題無かった。その性能を本物と同等にする為、あらゆる専門書を精読し、上手く想像しなければならなかったが、今の雫にそれは大きな問題とはならない。
雫が唯一、そして最も懸念しなければならないのは、タイミングだけだった。しかし、自分の現実の肉体が病院のベッドで横になり続けているという事実以外、彼女に、現実世界の自分の状況について得られる情報は無い。理想は、自分の近くに両親や真理亜達が居ることだ。だが、現実世界の情報源は残念ながら、キッカだけだ。彼を経由しなければ、雫は盲目であった。
しかも、雫の知りたい情報を尋ねて、キッカがそれを正直に教えてくれるとは思えない。泣き落としの演技をしようにも、今まで何の不満も無くこの夢の世界で勉強と知識の獲得に終始してきた雫がそれをしたところで、不審に思われるのが関の山だろう。
ならば、いつやっても同じことだ。
だから雫は、準備をした。魚になって空を泳ぐことをせず、ただじっと、キッカに最後に出会ってからの五日間を静かに過ごし、確実にキッカの訪れるタイミングを調整した。キッカは、自分が夢のコントロールの主導権を握っていると信じているし、それを疑う方がおかしい。けれどその燃料補給のタイミングだけは、雫が陰で調整出来た。
だからその日、図書館にいつものように、イカが一匹、宙を泳ぎながら目の前に現れた時、雫の緊張は最も高まった。失敗は、許されない。
「おはよ」
『おはよう。小説は読み尽くしていたかと思ったが、まだ読んでいないものがあったのか』
「ミステリーものが、まだあったんだよ。ねえ、それでさ、試してみたいことがあるんだけど、いいかな」
訊くと、キッカは嘆息混じりに言う。
『またトリックの実証実験か。二十年前の本にあった時刻表トリックの再現実験だけは止めて欲しいものだ。本の発売当時のダイヤ、環境、人口密度など、夢の中とは言え情報を集めて再現するのは骨が折れたのだから』
本当に嫌そうに言うキッカを笑い、雫は本を伏せ、気さくに言った。リラックスした風を装ってはいるが、その心臓はドクドクと、高速で鳴り続けている。雫は、自分の座る席のすぐ目の前の机を指し示す。
「ちょっとここに来て」
言われて、イカのキッカは雫の目の前、五十センチと離れていない目の前の空中にやってきて、静止する。ギョロリとした目玉が、雫を見つめた。
『何をすればいいのだ』
「何も」
言うと同時に、雫は想像する。瞬時に、テーブルがキッカの真下で変化を始める。かと思えば次の瞬間には、鉄製の格子がテーブルから直上に勢いよく伸び、キッカの四方を囲んだ。同時に、キッカの上下を挟み込む様にして、鉄板が何も無い空間から生まれる。
一瞬にしてキッカは、少しもその体をどの方向にも移動出来ない、宙に浮く小さな檻の中に封じ込められた。
雫は人当たりの良いその表情を冷たいそれへと変じ、間髪を入れず、机の下に準備していた大口径の回転式拳銃を取り出し、構える。
スミス・アンド・ウェッソンのM500、四インチモデル。熊の様な大男が構えて射撃をしても反動でよろめくとされる五十口径の拳銃は、至近距離で確実にイカを破壊する為にどうしても必要な、怪物級の武器だった。夢の中でも銃を扱ったことはあまり無かった雫だったが、それでもこの距離なら、絶対に外さない自信があった。
迷っている時間は無い。
『雫、何をし』
キッカが言い切る前に引き金を引く。図書館に、耳をつんざく程の轟音が響き渡った。発砲の衝撃で、テーブルに積んでいた本が何冊か落ちる。雫の体は反動に押され、椅子ごと背中から転倒した。だが倒れるその寸前、銃弾が確かに、檻に閉じ込められたキッカの体を打ち抜き、破壊するのを視認する。
後頭部を強く打ち、視界がチカチカした。右肩にも鈍痛がある。脱臼したらしい。自分の胸の上に落ちたM500に左手を伸ばし、震える手でそれを取る。
急いで撃鉄を再び起こし、その銃口を、今度は自分の顎に当てる。狙いは、自分の頭。即死出来る発射角度を意識した。
呼吸が乱れる。吐き気がする。自殺など正気の沙汰ではないという理性が、一秒の間に何度も繰り返し働き掛けた。
けれど、ここから抜け出さなければならないという強い意志が、その理性を破壊する。目を痛くなる程に瞑り、歯を食いしばり、雫は引き金を引いた。
気付けば、雫は病院のベッドの上だった。乱れた浅い呼吸を繰り返し、滝の様な汗を掻いている体が自分のものだと理解するのに、時間を要する。雫の体は三年間の長きに渡って運動をしなかった上、新陳代謝と体温の低下という箱庭病の特性上、起きてすぐに体を動かすことが非常に難しかったのだ。
けれど雫はそれでも、必死に点滴の穴だらけになった腕を持ち上げ、体を横向きにする。病室には何人かの患者が寝ているが、両親も友人も居ない。
最悪だった。唯一の懸念が、最悪の結果に繋がってしまった。誰にも、伝えられない。
それでも雫は歯を食いしばり、ベッドの手すりを掴んで体を起こし、叫ぼうとする。だが、乾き切った口から中々声が出なかった。
苦肉の策として、ベッドサイドに立てられた自分の点滴スタンドに手を伸ばし、思い切りそれを倒す。派手な音がして、病室の外がちょっとだけ騒がしくなる。
雫は、叫ぼうとした。
「い、石、を……壊せ……! 石を……壊せぇっ……!」
ベッドから落ちる。現実に襲ってくる肉体的な痛みが、懐かしい。だが、ここで倒れたままでは駄目だ。暴れた勢いで割れてしまったガラス瓶で腕を切っても、雫はベッドに掴まり、痛みに悲鳴を上げる体を無理矢理に立たせる。
「亮の家のっ……石を……濱田亮の家の石をっ……!」
叫び続け、喉から血が出た。それを吐き出して、人の集まり始めた病室の外に向かって、それでもあらん限りの力で叫び続けた。
石を壊せ。亮の家の石を壊せ、と。
暴れ、病室の備品を幾つか壊しながら廊下に出ようかというところで、雫の視界は突如暗転した。
『やってくれたね、雫』
目を開けると、雫は再び、図書館に居た。夢の中の図書館だった。先程自分の使った拳銃は消えている。ただ、乱雑に散らかった本が何冊か、そしてバラバラに砕けた鉄製の檻が、これが自分の見た夢の続きであることを示している。
雫の目の前には、イカではない、シーラカンスの姿のキッカが居た。その様子を見て雫は、不敵に微笑んでみせた。
「本人がやってきたということは、私は間違ってはいなかったわけだ」
『今までも君は、何度か夢の中で自殺を試み、しかし目覚めなかった事実に落胆し、今の生活を続けていたはずだ。何故、目覚めることが出来た』
この質問は意外だった。キッカは、自分の能力のそのところを、上手く理解出来ていなかったらしい。雫は、自分の為に特別にしつらえてくれたこの三倍速の夢を維持するのに、定期的なエネルギーの補充が必要になるという自分の推理をキッカに伝える。
「……車のガソリンを入れる時に問題が起きないのは、エンジンを切って、火気厳禁で、皆が慎重に道具を扱うから。給油中にトラブルを起こせば、爆発の大惨事が起こる可能性はグッと上がるでしょう? アナタの用意したこの夢にとっての『最悪』は、眠っている本人が目覚めてしまうことじゃない? だから、やってみた」
『石を壊したら、君は目覚めない。何故、あんなことを叫んだ』
「それ、嘘でしょう? 石が壊れたら、もう夢を見ている人に、それを維持する燃料の供給は出来なくなる。そうしたら、夢は覚める。人はまた、現実で孤独じゃなくなる」
キッカは答えない。それが答えであるということはもう、分かっていた。雫は続ける。
「ねえ。私、本当にキッカには感謝してるんだよ。恨んでなんかない。他の三人はどうだか知らないけれど、私はアナタに出会えて、関わりを持てて、本当によかったって思ってる。……でも、もうお終いにしよう」
『何故、この心地よい夢から逃げようとする。君以外も、一部の者は自分の意思で夢から覚め、二度と戻ろうとしないことを選んだ。目を覚ました現実世界には、あまりにも多くの困難と苦しみと孤独があるというのに』
無機質な、いつもの変わらぬキッカの声。雫は苦笑した。
「人は自分で選んだ道を歩きたがるものなんだよ。その時はそうでなくても、いつか必ず」
『それが苦難の道でもか』
「……キッカ。アナタ、私に誘われなきゃ遊びとかしないでしょ」
『何を言っている』
『そりゃあ、仕事や勉強は無駄を省いて、効率的にやるのが正しいことだと思うよ。いち早く結果を出したいと強く願うのも大事だし、それを実現させるのも大事。……でも、それ以外の時間を同じように過ごすのは、違うんだよ。理由なんて無くたって人は何かをしたいと思うし、面倒臭いことを楽しんだりする。無駄にする時間を作るのが、人を人たらしめるんだって、そう信じてる。そうでなきゃ、人は効率と結果だけを求めて生きる、それこそ機械そのものの生き方をしなきゃならなくなる。それをしない為に、人は無駄なことをしたり、傍目から見たら不可解な行動を取ったりするの。……私のこれも、そう』
キッカは、それ以上の質問をしなかった。ただゆらり、と体を揺らして振り返り、図書館の外へ出て行こうとする。そうして去り際に、キッカは雫に告げる。
『この夢の世界は、もう加速させない。燃費が悪いからね。もう君は、キッカに会うことはない。現実に存在する肉体と共に時間経過を共有し、変化しないこの世界で永遠に眠るしかない。キッカは雫に、目を掛け過ぎた』
言い終わると同時に、机に積んでいた本が、まるで煙の様に溶けて消える。ハッとして見回すと、図書館中のあらゆる本が、次々と静かに、音も無く掻き消えていく。
「キッカ、待って」
『三尾雫。君はもう、この夢の中で何も出来ない。知識を得ることも、新しく何かを生み出すことも、魚に返信することも、食べ物を口にすることも出来ない。キッカがそれを許可しない。肉体が死滅するまで、永遠に虚無の夢の中で生き続けるといい。徒労に終わった君の過失の、それが罰だ』
言うと、キッカは素早く体をうねらせ、図書館の外へ姿を消した。
がらんどうになった図書館の中で、雫は項垂れたまま、ただ椅子に座り、虚空を見つめていた。
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