3-3 覚醒
以前キッカは、あなたも誰かの『目』なのか、と問うた時、否定も肯定もしなかった。それがどういう意味なのか。
雫は、街から離れた山の中に作り上げた妄想の別荘にあるバスルームで、湯船に浸かりながら考える。もとより雫以外の人間という概念が一切存在しない世界ではあったが、魚になって空を飛ぶ習慣が体に染み付いてしまった今となっては、人の姿をしている時は他人の生活臭のしない空間に身を置きたいと、そう考える様になっていた。その為の準備は簡単で、人の立ち入らない山、鬱蒼と茂る森、そしてその中にポツリと佇む寂しげな木製のロッジを思い浮かべれば、全てはその通りに生まれる。しかし間取りや内装も自分の持ち前の想像力で補わなければならず、自分が落ち着ける空間を作り上げるまでは少し苦労した。そうは言っても、現実で家を一つ建てることに比べれば、余程楽だ。その代わり、想像の至らない家の細部はどうにもあやふやで、そこだけ霞んだ景色になっているのだが。
底の深い、脚付きの古風なバスタブ。お湯の上に浮かぶ泡を時々手で掬い、ふうっ、と一吹きすると、泡は飛び立ち、次々弾けて小さな魚となり、広い浴室を静かに泳ぎ始める。そんな光景を見ながら、雫はあのシーラカンスを想像した。
キッカは誰かの『目』であるかどうか。その質問に答えなかった理由は、可能性として二つある。一つは、それが図星であり、それ以上の情報の開示を好ましく思っていなかった場合だ。だがこれは、少し考えにくい。何故ならその結論に至るまでの判断材料を提示したのはキッカ本人であり、いずれ雫なら辿り着くだろうから、という推量によるキッカの判断が下したものだ。それを、これ以上は都合が悪いから、と口を閉ざすのは不自然に思えた。
もう一つの可能性は、キッカ自身は全ての真実を答えることが出来る。しかしその権限を持っていないという場合。
……昔から、キッカはそうだった。テレパシーのことも、イカの『目』のことも、昏睡症状のことも、全てに対して沈黙を守っていればよかった。雫達を騙し、キッカはキッカであり、他の何ものでもなく、他のあらゆる世界の事象と自分は関係が無いと、初めから主張していればいい。そうすれば、自分達四人はまだキッカのことを不思議な友達だとでも考えていたことだろう。
けれどキッカは、それをしなかった。事あるごとに、自分のこと、世界のこと、自分の目的と使命について話したり、ヒントを与えたりした。しかし、明確に全ての真実を伝えることはせず、全ては断片的だ。けれど明らかに、そんな断片的なものでも雫達に提示して、自分のことを遠回しに伝えようとする。
自分のことを知って欲しいが、何かに圧力を掛けられ、自分から真実を語ることが許されない。そんな立場に居るように見えるのだ。
現場の中間管理職みたいだな、と曇った窓ガラスをぼんやり見ながらそんなことを考える。だが、そうだとすると一つ分からないことがあった。真実に最も近く居た、という雫を、何故箱庭の夢の中へ閉じ込めたのだろう。答えを知って欲しいなら、答えに近付いた自分をそのままにしておいた方がいいだろうに。
それとも自分は、キッカの望まない、違う真実に対して手を伸ばそうとしていたのだろうか。
キッカの言う、『そのままならいずれ雫が辿り着いた真実』とは、キッカが第三者にとっての観測者であり、この地上世界の人類を観測する『目』であるということだ。だとすれば、地球人類を観測する、いわば上位者という存在は、人間に存在を知られてはならない未知の存在のままでいなければならないはずだ。それを知ろうとした雫をキッカが夢に閉じ込めなくてはならなくなった、ということであれば、理屈は通じる。きっと、キッカの箱庭病を発病させる能力というものは、そうした危険人物を無力化させる為に存在しているのだ。
けれどそこでまた、雫の中で疑問が生まれる。
何故キッカは、そうでない人間達まで眠らせるのか?
これにもまた、キッカが答えた。曰く、世界から亮と自分を孤立させ、二人だけの世界を生きるのだと。
しかしこれは、先に推理した上位者の観測ブイ兼門番、という認識から外れている。キッカの存在意義は、個人への執着ではない。しかしこの矛盾は、現に発生している。これが、何を意味するか?
つまりは、公私混同。俗に言ってしまえば、恐らくそうなる。キッカがこの星に居るにあたって任命された使命と、キッカ本人の意思が混濁を始め、彼はその間で混乱しているのだ。
……そうでなければ、冷徹に人を眠らせている現実世界のキッカと、雫の夢の中で彼女が望む殆ど全てを提供してくれるキッカとが、雫の中で結びつかなかった。
(二律背反のルールの中で生きる。それも、人生という中で見れば一つの歩き方には違い無いだろうけれど)
雫は、すっかり伸びた髪を湯船に浸し、後頭部を湯船の縁に乗せて休める。安っぽい天井で、ゆっくりと扇風機の羽が回っている。泡で出来た魚は、それに当たって次々と消えていった。
消えていくキッカを思う。雫が今の自分を形成しているのは、多くはキッカという希有希少な存在故だ。彼が居なければ、雫は知識を求めなかったし、学ぶ為に歩くことをしなかっただろう。無機質で透明で、感情の無かった一匹の魚が、途中からその姿を認識できなくなったとは言え、独立する意思を持ち始めるその過程を亮達から聞くのは、楽しかった。
それは、ロボットの様な魂を持たない存在が、まるで人間の姿を真似ていく内に魂を内包し始める過程を見る、そんな様子に似ていた。
キッカは、本人が望むと望まざるとに関わらず、人に近付いている。人になろうとしている。雫は、その結果に行き着くその先を、見たかった。生きて外の世界にそれを伝えることは不可能だろうけれど。
(……あれ?)
ふと、違和感に思い至る。
伝える。誰かから誰かへ伝える。伝達。電気信号。脊髄反射。夢。自分から他人へ、他人から自分へ。情報の正確な伝達や送信をする為には、精神の加速が出来ないことをキッカから聞いた。
だが、キッカが雫を眠らせ、夢を見せている今、雫の精神は加速したままだ。他の昏睡病患者の時間感覚は加速していないにも関わらず、雫だけが加速した世界に居る。キッカが見せる、キッカの能力として発せられる、同種の夢の中に居るにも関わらず。
ガバリ、と雫はバスタブから裸のまま飛び出し、広い風呂場の中に黒板を出現させた。ドカン、と大きな音を立てて台車付きのそれが空中から突然現れて落ちてきて、驚いた泡の魚は一斉に姿を消す。雫は気にせず、続けて自分の手の中に、リビングテーブルに置いてあった手帳を呼び出す。雫は昏睡に陥った翌日から、毎日細かなことまで記録を付けていた。変わり映えのしない世界で、自分を見失わない為に。そこには、イカの姿かシーラカンスの姿かに関わらず、キッカと出会った日の記録も付けていた。
濡れた体と髪を拭くことも忘れ、雫は黒板に日付を書き連ねる。そうして、日数の間隔を数え始めた。夢の中で雫が、キッカと出会った日付の間隔を。
そうして二十分も手を動かし、気付く。キッカは雫に、どれだけ長くとも五日以内には会いに来ていた。最短では中一日だ。一日置きから五日置きまで間隔にバラつきがあるのは何故だろう。考え、更にメモしていた別の要素を次々とチョークで書き連ねていく。
やがて、一つの決定的な事項が判明した。
(私が体力を使った時間に反比例して、キッカが会いに来る感覚は短くなっている)
最短で一日しか開いていない時は、雫がその日、一日中魚や鯨になって空を泳ぎ、遊んでいた時だ。キッカが去ってから、恐らく通算で十時間も泳いだ頃になって、キッカは再び会いに来ていた。最長の五日間の間がある時、雫はその百二十時間を、殆ど図書館で過ごしている。だから、雫は気付いた。
この夢は、車だ。素粒子を基礎としたエネルギーで発病者に自由な夢を見させ、エネルギーが無くなれば、キッカはそれを補充しにくる。恐らく、時間を加速させていない雫以外の発病者は、彼女よりずっと長い間、キッカによる燃料の補充無しで夢を見られるのだろう。だが少なくとも、体感時間を加速させている雫の場合、どれだけ燃料を節約していたとしても、五日でその燃料は切れるのだ。だからキッカは、頃合いを見て補充する為に、雫の夢の中に現れる。そしてその時、その僅かな間だけ、雫の時間は従来の三倍速から、現実と同じ時間の流れに乗っているはずだ。そうでなければキッカと自分とのコミュニケーションは成立しないし、円滑なエネルギーの充填も出来ない。キッカ自身が教えた通り。
……車がガソリンを入れる際に問題無く事を運べるのは、それが給油に理想的な環境にあり、トラブルが発生しにくいからだ。逆を言えば、一つでもイレギュラーや失敗があれば、給油作業は途端に危険なものとなる。例えば、エンジンを掛けたままガソリンタンクに燃料を入れる様な。火の点いた煙草が放置されている様な。
つまり。
キッカが自分の夢の中に現れている時に、何か大きなトラブルが発生すれば、車は支配者であるはずのキッカの支配を離れるかも知れない。……自分の意識は、現実に戻るかも知れない。
そこまで考え、駄目だ、と落胆する。目を覚ましたところでキッカはすぐ異常に気付く。その瞬間、キッカは再び自分に幻術を掛けるだろう。そうしてまたこの夢の牢獄に閉じ込められ、今度は決して抜け出せないまま、全てが終わる。
……それでも。
それでももし、ほんの数秒だけでも、抗う時間が残されているのであれば。
外の世界で自分は、何を伝えればいいだろう。
すっかり冷えた体を持て余しながら、雫はじっと黒板を睨み付けていた。
けれど答えを見付けるまでに、そう時間は必要無かった。
*
「突飛過ぎる」
キッカが四億年前からの記憶を持っているという説を亮に説いて聞かせてみたが、案の定、彼はそれを一蹴した。かく言う播磨も、改めて他人に対して真面目ったらしくその自説を口にしてみると、確かに随分荒唐無稽な話に聞こえてきた。それを他人に言って、信じろという方が難しいだろう。
帰国した播磨は、都内の自校キャンパスにわざわざ亮を呼び出し、テラスでキッカや箱庭病についての情報交換をしていた。二人が別の大学に入り、それぞれが進んだ学問の中で知識を身に付けた頃から様々な仮説や話し合いをすることは、二人の恒例行事になっている。それも、既に最近ではおざなりになり始めていた。
本来昼休みのカフェテラスはまあまあ混んでいるはずだが、箱庭病に罹患する学生も増えつつある今では空席が目立つ。それでも多い人影とざわめきに紛れ、異質とも言える二人の会話は誰にも気にされていない。だから亮も、気兼ねなくキッカの話を口に出来た。
「第一、地球に陸地が生まれてから今まで、ずっと無事に存在し続ける石なんてあるものか。化石になるのだって条件が要るんだぞ」
「でも、現に数億年前の地層から見付かった化石は存在する。何かの条件が整えば、石だって……」
「少なくとも俺があの日、キッカの石を拾ったあの地層はそんなものじゃなかった。単なる土砂崩れだ」
「小学生の目で何が分かるんだよ。しかも、十二年前の記憶なんて」
反論してみると、亮は少し考え、苦虫を噛み潰した様な顔をして黙る。他にも何か言いたそうではあったが、言葉は続かない。
「……まあ、いいや。数億年前から存在していた石だとして、それでも何故、他の石と変わらない姿形で残っていたんだ。化石じゃなく」
今度は播磨が黙る番だった。亮の疑問に、彼を納得させられそうな答えを思い付けない。そうしてちょっと考え込んでいると、亮が嘆息して椅子の背もたれに体を預け、天を仰いだ。そうして、ぽつりと呟く。
「なあ、もう止めねえか」
播磨は驚き、そしてややあって怒りを膨らませながら、静かに詰問する。
「何でだよ。まだ、雫は起きてねえだろうが」
「うん、起きない。寝ても覚めても、俺達は箱庭病とその患者のことばかり考えている。医者でもないのに。医者でさえ解決出来ない問題が、これ以上俺達に扱えるのかって」
「医者はキッカのことも、超常的能力のことも知らない。英語のテストやってるのに、その文章に書かれた数学の問題を解いてるようなもんだ。正解なんて、連中には絶対見付けられねえ。俺達が雫を……」
「もう、関わりたくないんだ」
その言葉に、播磨の熱くなっていた頭が破裂した。座ったまま円テーブルの斜向かいに座っていた亮の胸倉を思い切り掴み、引き寄せる。何人かの学生が二人を見て、剣呑な雰囲気を怖気ながら遠巻きに見る。気にせず、播磨は低い声で威圧した。
「お前、十年以上も付き合ってきた友達に、どうして……」
胸倉を掴まれても尚動揺しない亮は、静かに播磨を見つめ返し、何も言わないままだった。彼の様子がおかしいと気付いたのは、その時だ。静かに遠くを見る様な目はここでない何処かを見ている、遠くに自分の感情を落としてきてしまったかの如く、気力の落ちた目をしていたのだ。数日前に真理亜と会った時も、彼女は彼と同じ目をしていた。
「……キッカが、分からなくなった」
「今に始まったことじゃない」
「そうじゃない。今まで俺はあいつを、不気味に思いながらもはっきり定義していたつもりだった。正体は不明だが、人類の衰退と崩壊を引き起こすことを目的にしてる奴だ、って。それでも、何処か隣人とか、気の置けない友達とか……そんな印象を少しでも持って、そういう意味で信頼関係があったと……思ってた」
亮の目は、播磨を見ない。僅かに声が震えていた。播磨はそんな彼の様子を見て、徐々に服を握る手から力を抜く。「でも、違った。あいつは何か……別の目的を持ってる。箱庭病は、その為の手段に過ぎないんじゃないかって。考えると急に、今まで理解出来ていたと思ってたはずのあいつのことが、分からなくなって……不気味で……」
「……何があった?」
尋ねる。しばらく亮は黙っていたが、やがて答えた。約一週間前、キッカが亮の目の前で女子学生を一人、突然眠らせたと。その時テレパシーで彼に語り掛けてきたキッカの言葉が非常に気持ち悪く、不気味で、ずっと亮が確信を持っていたはずの、キッカに対する信頼が崩れてしまったと言う。今更になって、キッカのことを一から理解するというのは難しかったそうだ。
「何を感じ取ったんだ」
「……女」
予想していなかった言葉に、播磨の脳が混乱した。亮の表情はしかし、至って真面目だった。
「キッカは、老若男女を特定出来ない、何と言うか……個性的だけど無個性な声だろ。だから自然と俺はあいつを、男と考えて接してきたんだ。それが……あれに、女性らしさを感じた」
「どういうことだ」
「多分……考えられることは……嫉妬」
まさか。女友達と話していたというだけで? 播磨は背筋が凍るのを覚える。
考えすぎじゃないのか、と諭してみたが、亮はその考えからもう抜け出せなくなっているらしく、何を言っても、キッカの影に怯えている様子だった。
それでもキッカに対するネガティブな言葉をそれ以上口に出そうとしていなかったのは恐らく、キッカが自分達の目と耳を盗み、見聞きしている可能性を考慮してのことだろう。既に秘密を知られるところとなった、亮のキッカに対する不信と恐怖。知られてでも、現状を播磨に話そうと今日はここに来たのだ。
だから亮は、雫のことも、他の人達を救うことも諦めようと言ったのだ。自分の所為でキッカによる被害者が増えてしまうことを恐れて。
「女心は、俺には分からん。一瞬で流れて消えてしまう彗星とか、激しかったり穏やかだったり変幻自在に姿形を変える川の水みたいなもんだ、俺に取っては」
亮は、そんな弱音を吐いた。まるで行動を逐一監視させるストーカー女を持った彼氏の様だな、という考えが過ぎったが、流石にそれを口には出さなかった。
「これ以上、犠牲を出さない方法を取ることにする」
「は? 一体それは……」
「これ以上は言えない。ただ、この方法が成功すれば、新しい箱庭病患者は出なくなる。その代わり、もう誰も目覚めない……でも目覚めさせる手段が分からない。あの石を壊してしまうのと、それは変わらない。ならばこの方法を……って感じ」
最後だけ、亮は無理して戯けて言ってみせた。播磨は、それを新たにからかう心の余裕は無かった。
亮と別れ、一人暮らしの学生アパートに帰ってから考える。
亮はものの例えで、彗星という言葉を使った。そこに、例え話以上の意味は無いのだろう。だが播磨には、どうにもその言葉が引っ掛かった。それが、自分が考えているキッカの起源、生まれたその源流に関する、今日話し込む予定でいた話題に対する引っ掛かりであることに、夜気付く。
数億年も姿を変えない石なんて無い。それは確かに、亮の言う通りだ。だがそうすると、何故キッカを包み込んでいた石は姿を変えず、土の中に埋もれていたのか。
恐らく、前提が全て間違っていた。
キッカの住むあの石は、あれで既に大きく形を変えていたのだ。
(あの石になる前の、もっと違う姿があったはずだ)
十二年前のあの日、播磨達はノミを使って丁寧に石の表面を削り、中の鉱石を文字通り白日の下に晒した。あまりにもすぐ鉱石に到達したので、石が鉱石の表面をコーティングしていた程度のものだと、当然の様に錯覚していたのだ。
本当は、あの直径二十センチ程度の鉱石を守る為の石が、もっともっと厚く多い、存在していた。どんな衝撃にも鉱石が耐え、破壊されない程の。そして数千万年、或いは数億年の長い長い年月を経て、ようやく現代になって通常の石のサイズにまで風化し、削れ、変化していたのではないか。
そうして、地震で崖が崩れ、深い地面の下から浅いところまで石が動き、感受性の強い子供の脳になら共鳴出来る声という振動を、テレパシーとして発することが出来るようになったのだとしたら。
翌日、大学が休みであることを利用し、急ぎ播磨はレンタカーを借り、高速道路を飛ばした。行く先は、亮がキッカの石を見付けたキャンプ場のある市の、郷土資料館だ。二時間半掛けて到着したその資料館の主に、自分が電話で連絡をした者であることを告げ、資料を見せてもらうことが出来た。
「全部、コピーにはなりますが」
「大丈夫です、ありがとうございます」
記録保管庫には、資料館が設けられた六十二年前からの記録があった。それ以前からの記録については学術研究書や認証された論文の一部が電子化され、パソコンに保存されている。紙媒体の資料から播磨は、めぼしい記録に目を付け、一通り引き出して机に置く。
それは、地域の御神体にまつわる資料だった。
長ければ数億年に渡ってその外表を削られ続けていた石だ。半世紀前であれば、今より少しは大きく、目立っていただろう。それ以前であれば、もっと大きいはず。そしてその石にはあのキッカが入っていた。それであれば、何か神懸かり的な現象が起きていたとしてもおかしくはない。言葉や知性を持たず、情報だけをただ写真の様に焼き付けて記憶してきたキッカが、自分のその超常的能力を、今の様にコントロール出来ていたとは考えにくい。
探した。探して探して、そうして昼から数時間も休まず記録を読み漁った頃。
ようやく、地元民が大切に奉っていた神聖な場所が、大地震によって崩れ去った、という記述を見つけた。その御神体を祀っていた史跡が、亮の家族が訪れたキャンプ場の上流五キロ程の場所にある。
(時代は……元禄十六年? 江戸時代か)
調べてみると、元禄大地震というもののあった時期らしい。加えて長雨の影響で、土石流や鉄砲水も発生していたことから、御神体が流されたことにより山の神が怒った、と当時の村人は恐れたとのことだ。御神体についての記述は無い。だが恐らく、像や何かがあったわけではなく、『何か神聖な場所だから』ということで奉られていた場所であり、信奉対象は、巨木や巨石に注連縄か何かを巻き付けたものではないか、と播磨は推測した。
(それであれば考えられるのは、地震で崩れ落ちて壊れた岩は小さくなり、水に流された。キャンプ場付近に流れ着いたキッカの石はそのまま人の手が入らない場所に埋もれて眠り続け、三百年を過ごした、というのだろうか)
あくまで全て、推測の域を出ない。だが、それなら色々なことに納得が行く。
キッカの声を聞き取り、共鳴出来るのは子供だけだった。だがまだ神への信仰が強い当時の子供が山の中であの声ならぬ声を聞いたら、不気味がって近付くことはしないだろう。大人が入り、キャンプ場の整備やインフラ整備の為に入る頃になれば、子供など近付かない。そんな土木作業の最中に、きっとキッカの石は、声の届かない地面の下に埋められてしまったのだ。
だがそうすると、と播磨は流れる汗を手の甲で拭う。
キッカを守る石は、御神体となる以前には、もっともっと大きかったはずだ。数千万年、一億年前ともなれば、余計に。
当時、どうすれば地球に存在した生命がそのまま、巨大な石の中にある鉱石に、素粒子の集合体として生成されるのか?
今更ながらに、有り得ない現象ばかりが頭の中を駆け巡っていることを実感した。
(信じたくはないが、もうこれは、雫が言った様に……宇宙からの……)
百歩譲ってその推測が正しかったとしよう。一億年前の地球に、キッカの鉱石を守る様に外表を固い石で覆われた隕石が、地球に落下したとしよう。
ならば何故、キッカは地球に存在するシーラカンスの姿を取っているのだろう?
その疑問だけは、どれだけ考えても答えが出なかった。
そうして、資料館がそろそろ閉館を迎えようか、というそんな時、ポケットの中の電話が鳴る。真理亜からだ。
「もしもし?」
出ると、真理亜は錯乱した様子で泣いている。慌ててスマホを耳に押し当て、上手く彼女の声を聞き取ろうとした。「待って、真理亜。一体何が……え、亮?」
『……亮が、眠った……』
*
播磨と大学で別れた、その日の夜。
亮は電気も点けず、暗い部屋の中でベッドに腰掛け、力無く前屈みになりながら、キッカを見ていた。開け放たれた窓の向こうに広がる秋の夜の空から、十五夜の月光が差していた。
『さっきから、何を考えているんだい』
随分と馴れ親しくなった口調。昔とは違うキッカの声。亮は、眩しさすらも感じる月明かりの差し込む闇の中で、時折ちらり、と光る様に錯覚するその緑色の目を、じっと見据える。
母の伽耶は、父と二人、居間で映画を観ている。亮とキッカの間を遮る暗い影に邪魔を入れるものは、何も無かった。
「キッカ」
心の中ではなく、声帯と空気を震わせる、現実の声を出して言った。「箱庭病の人達を皆、開放してくれ」
対し、無機質な声は答える。
『亮、理解して欲しい。キッカは、目的の為にこれをしている。もう違えることは出来ないのだ』
「目的ってのは、何だ。……そう訊いてももう、お前は答えないんだろうな」
『時が来たら、きっと教える。けれど今は、その時ではない。キッカの時間は今、亮と共にある。遅過ぎることはない』
無機質な声。だがその声は僅かに、焦燥感を孕んでいることを、亮は嗅ぎ取っている。だから、「何をそんなに焦るんだ」と率直に訊いた。ややあって、キッカは答える。
『今、キッカは亮が何を考えているのか、分からない。今までは、分かりやすかった。亮はいつでも、キッカのことを知ろうとしてくれた。キッカの傍に居てくれた。その時、心に生まれたざわめきの感覚を、キッカは知らない。けれど心地の良いものだった。それが欲しくて、もっと欲しくて、亮にキッカといつまでも過ごしていて欲しくて、他の邪魔する全てに、孤独の夢を見せている』
初めて、ようやく吐露したキッカの目的。だが、それが真の目的の一端に過ぎないことが分かっていた亮は、続く言葉を待つ。
キッカが言葉を切り、何度か石の中をグルグルとゆっくり、回遊する。そうして、言葉を続けた。
『けれど今は、分からない。亮の気持ちが分からない。亮の心が分からない。心がざわついている。しかしこれは心地よくない。不快、不快だ。キッカには、この感覚が分からない。亮、教えて欲しい。この感覚は何だ。キッカに何が起きている』
「そいつはな、キッカ。恐怖っていう感情だ」
断言した。「分からないってことはな、怖いんだ。自分が理解出来ない、理解の範疇を越えた得体の知れない何かが、自分のすぐ隣に存在している。それは、恐怖って呼ばれるんだよ。だから人は数万年の時間を掛けて、恐怖の一つ一つに名前を付けて、理屈と理由を与え、心が恐怖に飲まれて潰れないように生きてきた。……でもキッカ、お前はそれが出来ない。感情を知らないままに、感情を持った。俺達と接する内に」
生物が持つ元初の感情が恐怖であるとは、誰の言葉だったろうか。忘れてしまったが、恐らくそうに違いないと考えた。恐怖が無ければ、生物は危険を察知することも、それから逃げることも出来ない。それを恐怖という感情だと知っていたが故に。
けれど、キッカは違う。感情という概念も、言葉という概念も無い世界で生きてきた。キッカは感情というものを理解しない内に、その概念に身を潰されようとしている。
けれど。
きっとすぐに、キッカは学習してしまうだろう。そうして、感情というカテゴリについての知識と理解を深め、全てをすぐに自分の感情の支配下に収めてしまう。
だから、今動揺し、焦っているこの状態の中、早期にケリをつけることが肝要だった。
「俺達は、今お前が抱いている感情をずっと、ずっと肌で感じながら生きてきた。でももう、それも終わりだ」
亮は立ち上がり、デスクに近く。そうして、ペン立てに突っ込んであった、もう何年も使っていないカッターナイフの刃を出す。ギチギチ、と耳障りで不快な音を立てるカッターを見て、キッカが明らかに動揺した声を出す。
『待て、亮。何をするのだ。待って』
構わず亮は、カッターの刃をそのまま自らの首筋にあてがう。立ったまま月明かりの下、彼は眼下の石を見下ろした。キッカは石の中から真っ直ぐに亮の方を向いていた。
亮はその姿勢のまま、毅然として最後通牒を叩きつける。
「俺は、死ぬ。お前は俺を独り占めしたいんだろ。お前のものになってなんて、やるもんか。どうせお前が誰も夢から解放するつもりが無いなら、もうこれ以上犠牲が出る前に、お前の目的を消してやる。それが嫌なら、今すぐ箱庭病から人類を解放しろ……!」
啖呵を切ってみせるが、言いながらも亮は、自分の声が震えているのに気付く。思い切り飛び出させたカッターの刃の根本が、自分の首筋に当たっている感触が、これ以上無い程に研ぎ澄まされて、その致死性を如実に伝えていた。力を込めた手も震え、ともすればうっかり勢いよく、今にも刃を滑らせてしまいそうだったのを、必死で押さえつける。
キッカは、答えた。亮が驚く程に静かで、冷たい声で。
『亮。キッカが君の望みを聞き入れても、その後で君は、キッカを殺すのだろう』
亮は答えない。今まで、キッカがそうしてきた様に。
『亮。君は、キッカのこの石を壊すのだろう。死ぬつもりなんて無いのだろう。だって君はあんな姿になったのに、まだ真理亜を好きなままだ』
亮は、答えない。
『亮が好きになった真理亜と、亮が好きでないキッカ。真理亜にあって、キッカに無いもの。十二年と一ヶ月と七日を共にしても、キッカにはそれが分からない。それさえあればきっと、キッカは亮に愛してもらえると思ったのに、謎はいつまでも謎のままだ。この世の英知を集めた科学者の知識や素晴らしい数式も、偉大なる哲学者の言葉も、何百年と語り継がれる文豪の物語も、その答えとなる言葉と知恵と知識を教えてはくれなかった。だから、真っ先に真理亜を眠らせたいという思いを殺し続けて、キッカはあの子を観察し続けているというのに、キッカには何も分からない』
亮は、すぐ傍にある死の恐怖に耐えながら、キッカとの日々を思い出す。与えた知識、教えられた知識、沢山の言葉、音楽、絵画、科学、哲学。
知識だけを詰め込み続けた不器用な魚は、今となっては哀れだった。
どれだけ知識を集めても、心や感情を理解するには、それだけではあまりにも足りないことを、きっと目の前の魚はまだ、知らないままなのだ。
そして、知らないままでいて欲しいと、亮は願う。
「キッカ。お前は人の心を知識として持つことは出来るかも知れない。でも人には、なれない。お前には決定的な何かが、欠けてる」
それを教えることは、亮には出来ない。それは口で説明するだけで、知識として吸収するだけで理解出来るほど、単純に出来てはいないのだ。
だから亮は震える声で、宣告する。
「俺はお前を、好きになんてならない」
『これでも、駄目?』
声がした。びくりと体を震わせる。衝撃でカッターの刃を引かなかったのは奇跡だった。
声は、キッカが発するテレパシーと同種の声だ。しかしそれは明らかに、女の声をしていたのだ。
じっと、目の前の石を見下ろす。キッカの影が、闇に溶けて徐々に薄く、消えていく。
それに反比例する様に、亮のすぐ目の前に、女が現れ始める。
まるで濃霧の中からゆっくりと現れる幽霊の様に、何も無い空間から月の光をその身に浴びて、一糸纏わぬ女が現れた。亮よりも僅かに背の低い彼女の顔は憂いを湛え、黒い髪を、水中に居るかの様に無重力的空間にふわふわと揺らしていて。
その顔は、真理亜にそっくりで。
驚愕に体を硬らせていた亮は、その姿の意味に気付き……怒りを覚え、それを爆発させる。いともたやすく、死の恐怖に対して瞬間的に打ち勝てる様になるまでに。
「馬鹿にすんなキッカあああああ!」
腕に力を込める。容易く、腕は動く。刃が、自分の頸動脈を掻き切った。
……はずだった。
気が付けば両手からカッターは消え、腕を振り抜いた反動で寝ていた体を起こしていた。覚えの無い寝室、覚えの無いベッド、覚えの無い間取り。
悪夢を見ていたと気付き、大きく嘆息する。裸になった自分の体が少し冷えて、もう一度ベッドに潜り込む。
と、床に自分の服と下着の他、ブラジャーが落ちているのを見てとって、ああ、と思い出して自分の隣で眠る彼女の横顔を見た。
少し乱れた髪、白い肌、化粧を落とし切っていない顔。そんな彼女が、体を起こした亮の気配で目を覚まし、寝ぼけ眼を擦る。
「おはよう」
夜遅くまで起きていたその血色の悪い顔を見て、亮は苦笑いをした後、彼は彼女の額にキスをした。
悪夢はもう、朝日に霞んでいく霧の様にその記憶を朧げにし、すぐに霧散した。
*
以前キッカは、あなたも誰かの『目』なのか、と問うた時、否定も肯定もしなかった。それがどういう意味なのか。
雫は、街から離れた山の中に作り上げた妄想の別荘にあるバスルームで、湯船に浸かりながら考える。もとより雫以外の人間という概念が一切存在しない世界ではあったが、魚になって空を飛ぶ習慣が体に染み付いてしまった今となっては、人の姿をしている時は他人の生活臭のしない空間に身を置きたいと、そう考える様になっていた。その為の準備は簡単で、人の立ち入らない山、鬱蒼と茂る森、そしてその中にポツリと佇む寂しげな木製のロッジを思い浮かべれば、全てはその通りに生まれる。しかし間取りや内装も自分の持ち前の想像力で補わなければならず、自分が落ち着ける空間を作り上げるまでは少し苦労した。そうは言っても、現実で家を一つ建てることに比べれば、余程楽だ。その代わり、想像の至らない家の細部はどうにもあやふやで、そこだけ霞んだ景色になっているのだが。
底の深い、脚付きの古風なバスタブ。お湯の上に浮かぶ泡を時々手で掬い、ふうっ、と一吹きすると、泡は飛び立ち、次々弾けて小さな魚となり、広い浴室を静かに泳ぎ始める。そんな光景を見ながら、雫はあのシーラカンスを想像した。
キッカは誰かの『目』であるかどうか。その質問に答えなかった理由は、可能性として二つある。一つは、それが図星であり、それ以上の情報の開示を好ましく思っていなかった場合だ。だがこれは、少し考えにくい。何故ならその結論に至るまでの判断材料を提示したのはキッカ本人であり、いずれ雫なら辿り着くだろうから、という推量によるキッカの判断が下したものだ。それを、これ以上は都合が悪いから、と口を閉ざすのは不自然に思えた。
もう一つの可能性は、キッカ自身は全ての真実を答えることが出来る。しかしその権限を持っていないという場合。
……昔から、キッカはそうだった。テレパシーのことも、イカの『目』のことも、昏睡症状のことも、全てに対して沈黙を守っていればよかった。雫達を騙し、キッカはキッカであり、他の何ものでもなく、他のあらゆる世界の事象と自分は関係が無いと、初めから主張していればいい。そうすれば、自分達四人はまだキッカのことを不思議な友達だとでも考えていたことだろう。
けれどキッカは、それをしなかった。事あるごとに、自分のこと、世界のこと、自分の目的と使命について話したり、ヒントを与えたりした。しかし、明確に全ての真実を伝えることはせず、全ては断片的だ。けれど明らかに、そんな断片的なものでも雫達に提示して、自分のことを遠回しに伝えようとする。
自分のことを知って欲しいが、何かに圧力を掛けられ、自分から真実を語ることが許されない。そんな立場に居るように見えるのだ。
現場の中間管理職みたいだな、と曇った窓ガラスをぼんやり見ながらそんなことを考える。だが、そうだとすると一つ分からないことがあった。真実に最も近く居た、という雫を、何故箱庭の夢の中へ閉じ込めたのだろう。答えを知って欲しいなら、答えに近付いた自分をそのままにしておいた方がいいだろうに。
それとも自分は、キッカの望まない、違う真実に対して手を伸ばそうとしていたのだろうか。
キッカの言う、『そのままならいずれ雫が辿り着いた真実』とは、キッカが第三者にとっての観測者であり、この地上世界の人類を観測する『目』であるということだ。だとすれば、地球人類を観測する、いわば上位者という存在は、人間に存在を知られてはならない未知の存在のままでいなければならないはずだ。それを知ろうとした雫をキッカが夢に閉じ込めなくてはならなくなった、ということであれば、理屈は通じる。きっと、キッカの箱庭病を発病させる能力というものは、そうした危険人物を無力化させる為に存在しているのだ。
けれどそこでまた、雫の中で疑問が生まれる。
何故キッカは、そうでない人間達まで眠らせるのか?
これにもまた、キッカが答えた。曰く、世界から亮と自分を孤立させ、二人だけの世界を生きるのだと。
しかしこれは、先に推理した上位者の観測ブイ兼門番、という認識から外れている。キッカの存在意義は、個人への執着ではない。しかしこの矛盾は、現に発生している。これが、何を意味するか?
つまりは、公私混同。俗に言ってしまえば、恐らくそうなる。キッカがこの星に居るにあたって任命された使命と、キッカ本人の意思が混濁を始め、彼はその間で混乱しているのだ。
……そうでなければ、冷徹に人を眠らせている現実世界のキッカと、雫の夢の中で彼女が望む殆ど全てを提供してくれるキッカとが、雫の中で結びつかなかった。
(二律背反のルールの中で生きる。それも、人生という中で見れば一つの歩き方には違い無いだろうけれど)
雫は、すっかり伸びた髪を湯船に浸し、後頭部を湯船の縁に乗せて休める。安っぽい天井で、ゆっくりと扇風機の羽が回っている。泡で出来た魚は、それに当たって次々と消えていった。
消えていくキッカを思う。雫が今の自分を形成しているのは、多くはキッカという希有希少な存在故だ。彼が居なければ、雫は知識を求めなかったし、学ぶ為に歩くことをしなかっただろう。無機質で透明で、感情の無かった一匹の魚が、途中からその姿を認識できなくなったとは言え、独立する意思を持ち始めるその過程を亮達から聞くのは、楽しかった。
それは、ロボットの様な魂を持たない存在が、まるで人間の姿を真似ていく内に魂を内包し始める過程を見る、そんな様子に似ていた。
キッカは、本人が望むと望まざるとに関わらず、人に近付いている。人になろうとしている。雫は、その結果に行き着くその先を、見たかった。生きて外の世界にそれを伝えることは不可能だろうけれど。
(……あれ?)
ふと、違和感に思い至る。
伝える。誰かから誰かへ伝える。伝達。電気信号。脊髄反射。夢。自分から他人へ、他人から自分へ。情報の正確な伝達や送信をする為には、精神の加速が出来ないことをキッカから聞いた。
だが、キッカが雫を眠らせ、夢を見せている今、雫の精神は加速したままだ。他の昏睡病患者の時間感覚は加速していないにも関わらず、雫だけが加速した世界に居る。キッカが見せる、キッカの能力として発せられる、同種の夢の中に居るにも関わらず。
ガバリ、と雫はバスタブから裸のまま飛び出し、広い風呂場の中に黒板を出現させた。ドカン、と大きな音を立てて台車付きのそれが空中から突然現れて落ちてきて、驚いた泡の魚は一斉に姿を消す。雫は気にせず、続けて自分の手の中に、リビングテーブルに置いてあった手帳を呼び出す。雫は昏睡に陥った翌日から、毎日細かなことまで記録を付けていた。変わり映えのしない世界で、自分を見失わない為に。そこには、イカの姿かシーラカンスの姿かに関わらず、キッカと出会った日の記録も付けていた。
濡れた体と髪を拭くことも忘れ、雫は黒板に日付を書き連ねる。そうして、日数の間隔を数え始めた。夢の中で雫が、キッカと出会った日付の間隔を。
そうして二十分も手を動かし、気付く。キッカは雫に、どれだけ長くとも五日以内には会いに来ていた。最短では中一日だ。一日置きから五日置きまで間隔にバラつきがあるのは何故だろう。考え、更にメモしていた別の要素を次々とチョークで書き連ねていく。
やがて、一つの決定的な事項が判明した。
(私が体力を使った時間に反比例して、キッカが会いに来る感覚は短くなっている)
最短で一日しか開いていない時は、雫がその日、一日中魚や鯨になって空を泳ぎ、遊んでいた時だ。キッカが去ってから、恐らく通算で十時間も泳いだ頃になって、キッカは再び会いに来ていた。最長の五日間の間がある時、雫はその百二十時間を、殆ど図書館で過ごしている。だから、雫は気付いた。
この夢は、車だ。素粒子を基礎としたエネルギーで発病者に自由な夢を見させ、エネルギーが無くなれば、キッカはそれを補充しにくる。恐らく、時間を加速させていない雫以外の発病者は、彼女よりずっと長い間、キッカによる燃料の補充無しで夢を見られるのだろう。だが少なくとも、体感時間を加速させている雫の場合、どれだけ燃料を節約していたとしても、五日でその燃料は切れるのだ。だからキッカは、頃合いを見て補充する為に、雫の夢の中に現れる。そしてその時、その僅かな間だけ、雫の時間は従来の三倍速から、現実と同じ時間の流れに乗っているはずだ。そうでなければキッカと自分とのコミュニケーションは成立しないし、円滑なエネルギーの充填も出来ない。キッカ自身が教えた通り。
……車がガソリンを入れる際に問題無く事を運べるのは、それが給油に理想的な環境にあり、トラブルが発生しにくいからだ。逆を言えば、一つでもイレギュラーや失敗があれば、給油作業は途端に危険なものとなる。例えば、エンジンを掛けたままガソリンタンクに燃料を入れる様な。火の点いた煙草が放置されている様な。
つまり。
キッカが自分の夢の中に現れている時に、何か大きなトラブルが発生すれば、車は支配者であるはずのキッカの支配を離れるかも知れない。……自分の意識は、現実に戻るかも知れない。
そこまで考え、駄目だ、と落胆する。目を覚ましたところでキッカはすぐ異常に気付く。その瞬間、キッカは再び自分に幻術を掛けるだろう。そうしてまたこの夢の牢獄に閉じ込められ、今度は決して抜け出せないまま、全てが終わる。
……それでも。
それでももし、ほんの数秒だけでも、抗う時間が残されているのであれば。
外の世界で自分は、何を伝えればいいだろう。
すっかり冷えた体を持て余しながら、雫はじっと黒板を睨み付けていた。
けれど答えを見付けるまでに、そう時間は必要無かった。
*
「突飛過ぎる」
キッカが四億年前からの記憶を持っているという説を亮に説いて聞かせてみたが、案の定、彼はそれを一蹴した。かく言う播磨も、改めて他人に対して真面目ったらしくその自説を口にしてみると、確かに随分荒唐無稽な話に聞こえてきた。それを他人に言って、信じろという方が難しいだろう。
帰国した播磨は、都内の自校キャンパスにわざわざ亮を呼び出し、テラスでキッカや箱庭病についての情報交換をしていた。二人が別の大学に入り、それぞれが進んだ学問の中で知識を身に付けた頃から様々な仮説や話し合いをすることは、二人の恒例行事になっている。それも、既に最近ではおざなりになり始めていた。
本来昼休みのカフェテラスはまあまあ混んでいるはずだが、箱庭病に罹患する学生も増えつつある今では空席が目立つ。それでも多い人影とざわめきに紛れ、異質とも言える二人の会話は誰にも気にされていない。だから亮も、気兼ねなくキッカの話を口に出来た。
「第一、地球に陸地が生まれてから今まで、ずっと無事に存在し続ける石なんてあるものか。化石になるのだって条件が要るんだぞ」
「でも、現に数億年前の地層から見付かった化石は存在する。何かの条件が整えば、石だって……」
「少なくとも俺があの日、キッカの石を拾ったあの地層はそんなものじゃなかった。単なる土砂崩れだ」
「小学生の目で何が分かるんだよ。しかも、十二年前の記憶なんて」
反論してみると、亮は少し考え、苦虫を噛み潰した様な顔をして黙る。他にも何か言いたそうではあったが、言葉は続かない。
「……まあ、いいや。数億年前から存在していた石だとして、それでも何故、他の石と変わらない姿形で残っていたんだ。化石じゃなく」
今度は播磨が黙る番だった。亮の疑問に、彼を納得させられそうな答えを思い付けない。そうしてちょっと考え込んでいると、亮が嘆息して椅子の背もたれに体を預け、天を仰いだ。そうして、ぽつりと呟く。
「なあ、もう止めねえか」
播磨は驚き、そしてややあって怒りを膨らませながら、静かに詰問する。
「何でだよ。まだ、雫は起きてねえだろうが」
「うん、起きない。寝ても覚めても、俺達は箱庭病とその患者のことばかり考えている。医者でもないのに。医者でさえ解決出来ない問題が、これ以上俺達に扱えるのかって」
「医者はキッカのことも、超常的能力のことも知らない。英語のテストやってるのに、その文章に書かれた数学の問題を解いてるようなもんだ。正解なんて、連中には絶対見付けられねえ。俺達が雫を……」
「もう、関わりたくないんだ」
その言葉に、播磨の熱くなっていた頭が破裂した。座ったまま円テーブルの斜向かいに座っていた亮の胸倉を思い切り掴み、引き寄せる。何人かの学生が二人を見て、剣呑な雰囲気を怖気ながら遠巻きに見る。気にせず、播磨は低い声で威圧した。
「お前、十年以上も付き合ってきた友達に、どうして……」
胸倉を掴まれても尚動揺しない亮は、静かに播磨を見つめ返し、何も言わないままだった。彼の様子がおかしいと気付いたのは、その時だ。静かに遠くを見る様な目はここでない何処かを見ている、遠くに自分の感情を落としてきてしまったかの如く、気力の落ちた目をしていたのだ。数日前に真理亜と会った時も、彼女は彼と同じ目をしていた。
「……キッカが、分からなくなった」
「今に始まったことじゃない」
「そうじゃない。今まで俺はあいつを、不気味に思いながらもはっきり定義していたつもりだった。正体は不明だが、人類の衰退と崩壊を引き起こすことを目的にしてる奴だ、って。それでも、何処か隣人とか、気の置けない友達とか……そんな印象を少しでも持って、そういう意味で信頼関係があったと……思ってた」
亮の目は、播磨を見ない。僅かに声が震えていた。播磨はそんな彼の様子を見て、徐々に服を握る手から力を抜く。「でも、違った。あいつは何か……別の目的を持ってる。箱庭病は、その為の手段に過ぎないんじゃないかって。考えると急に、今まで理解出来ていたと思ってたはずのあいつのことが、分からなくなって……不気味で……」
「……何があった?」
尋ねる。しばらく亮は黙っていたが、やがて答えた。約一週間前、キッカが亮の目の前で女子学生を一人、突然眠らせたと。その時テレパシーで彼に語り掛けてきたキッカの言葉が非常に気持ち悪く、不気味で、ずっと亮が確信を持っていたはずの、キッカに対する信頼が崩れてしまったと言う。今更になって、キッカのことを一から理解するというのは難しかったそうだ。
「何を感じ取ったんだ」
「……女」
予想していなかった言葉に、播磨の脳が混乱した。亮の表情はしかし、至って真面目だった。
「キッカは、老若男女を特定出来ない、何と言うか……個性的だけど無個性な声だろ。だから自然と俺はあいつを、男と考えて接してきたんだ。それが……あれに、女性らしさを感じた」
「どういうことだ」
「多分……考えられることは……嫉妬」
まさか。女友達と話していたというだけで? 播磨は背筋が凍るのを覚える。
考えすぎじゃないのか、と諭してみたが、亮はその考えからもう抜け出せなくなっているらしく、何を言っても、キッカの影に怯えている様子だった。
それでもキッカに対するネガティブな言葉をそれ以上口に出そうとしていなかったのは恐らく、キッカが自分達の目と耳を盗み、見聞きしている可能性を考慮してのことだろう。既に秘密を知られるところとなった、亮のキッカに対する不信と恐怖。知られてでも、現状を播磨に話そうと今日はここに来たのだ。
だから亮は、雫のことも、他の人達を救うことも諦めようと言ったのだ。自分の所為でキッカによる被害者が増えてしまうことを恐れて。
「女心は、俺には分からん。一瞬で流れて消えてしまう彗星とか、激しかったり穏やかだったり変幻自在に姿形を変える川の水みたいなもんだ、俺に取っては」
亮は、そんな弱音を吐いた。まるで行動を逐一監視させるストーカー女を持った彼氏の様だな、という考えが過ぎったが、流石にそれを口には出さなかった。
「これ以上、犠牲を出さない方法を取ることにする」
「は? 一体それは……」
「これ以上は言えない。ただ、この方法が成功すれば、新しい箱庭病患者は出なくなる。その代わり、もう誰も目覚めない……でも目覚めさせる手段が分からない。あの石を壊してしまうのと、それは変わらない。ならばこの方法を……って感じ」
最後だけ、亮は無理して戯けて言ってみせた。播磨は、それを新たにからかう心の余裕は無かった。
亮と別れ、一人暮らしの学生アパートに帰ってから考える。
亮はものの例えで、彗星という言葉を使った。そこに、例え話以上の意味は無いのだろう。だが播磨には、どうにもその言葉が引っ掛かった。それが、自分が考えているキッカの起源、生まれたその源流に関する、今日話し込む予定でいた話題に対する引っ掛かりであることに、夜気付く。
数億年も姿を変えない石なんて無い。それは確かに、亮の言う通りだ。だがそうすると、何故キッカを包み込んでいた石は姿を変えず、土の中に埋もれていたのか。
恐らく、前提が全て間違っていた。
キッカの住むあの石は、あれで既に大きく形を変えていたのだ。
(あの石になる前の、もっと違う姿があったはずだ)
十二年前のあの日、播磨達はノミを使って丁寧に石の表面を削り、中の鉱石を文字通り白日の下に晒した。あまりにもすぐ鉱石に到達したので、石が鉱石の表面をコーティングしていた程度のものだと、当然の様に錯覚していたのだ。
本当は、あの直径二十センチ程度の鉱石を守る為の石が、もっともっと厚く多い、存在していた。どんな衝撃にも鉱石が耐え、破壊されない程の。そして数千万年、或いは数億年の長い長い年月を経て、ようやく現代になって通常の石のサイズにまで風化し、削れ、変化していたのではないか。
そうして、地震で崖が崩れ、深い地面の下から浅いところまで石が動き、感受性の強い子供の脳になら共鳴出来る声という振動を、テレパシーとして発することが出来るようになったのだとしたら。
翌日、大学が休みであることを利用し、急ぎ播磨はレンタカーを借り、高速道路を飛ばした。行く先は、亮がキッカの石を見付けたキャンプ場のある市の、郷土資料館だ。二時間半掛けて到着したその資料館の主に、自分が電話で連絡をした者であることを告げ、資料を見せてもらうことが出来た。
「全部、コピーにはなりますが」
「大丈夫です、ありがとうございます」
記録保管庫には、資料館が設けられた六十二年前からの記録があった。それ以前からの記録については学術研究書や認証された論文の一部が電子化され、パソコンに保存されている。紙媒体の資料から播磨は、めぼしい記録に目を付け、一通り引き出して机に置く。
それは、地域の御神体にまつわる資料だった。
長ければ数億年に渡ってその外表を削られ続けていた石だ。半世紀前であれば、今より少しは大きく、目立っていただろう。それ以前であれば、もっと大きいはず。そしてその石にはあのキッカが入っていた。それであれば、何か神懸かり的な現象が起きていたとしてもおかしくはない。言葉や知性を持たず、情報だけをただ写真の様に焼き付けて記憶してきたキッカが、自分のその超常的能力を、今の様にコントロール出来ていたとは考えにくい。
探した。探して探して、そうして昼から数時間も休まず記録を読み漁った頃。
ようやく、地元民が大切に奉っていた神聖な場所が、大地震によって崩れ去った、という記述を見つけた。その御神体を祀っていた史跡が、亮の家族が訪れたキャンプ場の上流五キロ程の場所にある。
(時代は……元禄十六年? 江戸時代か)
調べてみると、元禄大地震というもののあった時期らしい。加えて長雨の影響で、土石流や鉄砲水も発生していたことから、御神体が流されたことにより山の神が怒った、と当時の村人は恐れたとのことだ。御神体についての記述は無い。だが恐らく、像や何かがあったわけではなく、『何か神聖な場所だから』ということで奉られていた場所であり、信奉対象は、巨木や巨石に注連縄か何かを巻き付けたものではないか、と播磨は推測した。
(それであれば考えられるのは、地震で崩れ落ちて壊れた岩は小さくなり、水に流された。キャンプ場付近に流れ着いたキッカの石はそのまま人の手が入らない場所に埋もれて眠り続け、三百年を過ごした、というのだろうか)
あくまで全て、推測の域を出ない。だが、それなら色々なことに納得が行く。
キッカの声を聞き取り、共鳴出来るのは子供だけだった。だがまだ神への信仰が強い当時の子供が山の中であの声ならぬ声を聞いたら、不気味がって近付くことはしないだろう。大人が入り、キャンプ場の整備やインフラ整備の為に入る頃になれば、子供など近付かない。そんな土木作業の最中に、きっとキッカの石は、声の届かない地面の下に埋められてしまったのだ。
だがそうすると、と播磨は流れる汗を手の甲で拭う。
キッカを守る石は、御神体となる以前には、もっともっと大きかったはずだ。数千万年、一億年前ともなれば、余計に。
当時、どうすれば地球に存在した生命がそのまま、巨大な石の中にある鉱石に、素粒子の集合体として生成されるのか?
今更ながらに、有り得ない現象ばかりが頭の中を駆け巡っていることを実感した。
(信じたくはないが、もうこれは、雫が言った様に……宇宙からの……)
百歩譲ってその推測が正しかったとしよう。一億年前の地球に、キッカの鉱石を守る様に外表を固い石で覆われた隕石が、地球に落下したとしよう。
ならば何故、キッカは地球に存在するシーラカンスの姿を取っているのだろう?
その疑問だけは、どれだけ考えても答えが出なかった。
そうして、資料館がそろそろ閉館を迎えようか、というそんな時、ポケットの中の電話が鳴る。真理亜からだ。
「もしもし?」
出ると、真理亜は錯乱した様子で泣いている。慌ててスマホを耳に押し当て、上手く彼女の声を聞き取ろうとした。「待って、真理亜。一体何が……え、亮?」
『……亮が、眠った……』
*
播磨と大学で別れた、その日の夜。
亮は電気も点けず、暗い部屋の中でベッドに腰掛け、力無く前屈みになりながら、キッカを見ていた。開け放たれた窓の向こうに広がる秋の夜の空から、十五夜の月光が差していた。
『さっきから、何を考えているんだい』
随分と馴れ親しくなった口調。昔とは違うキッカの声。亮は、眩しさすらも感じる月明かりの差し込む闇の中で、時折ちらり、と光る様に錯覚するその緑色の目を、じっと見据える。
母の伽耶は、父と二人、居間で映画を観ている。亮とキッカの間を遮る暗い影に邪魔を入れるものは、何も無かった。
「キッカ」
心の中ではなく、声帯と空気を震わせる、現実の声を出して言った。「箱庭病の人達を皆、開放してくれ」
対し、無機質な声は答える。
『亮、理解して欲しい。キッカは、目的の為にこれをしている。もう違えることは出来ないのだ』
「目的ってのは、何だ。……そう訊いてももう、お前は答えないんだろうな」
『時が来たら、きっと教える。けれど今は、その時ではない。キッカの時間は今、亮と共にある。遅過ぎることはない』
無機質な声。だがその声は僅かに、焦燥感を孕んでいることを、亮は嗅ぎ取っている。だから、「何をそんなに焦るんだ」と率直に訊いた。ややあって、キッカは答える。
『今、キッカは亮が何を考えているのか、分からない。今までは、分かりやすかった。亮はいつでも、キッカのことを知ろうとしてくれた。キッカの傍に居てくれた。その時、心に生まれたざわめきの感覚を、キッカは知らない。けれど心地の良いものだった。それが欲しくて、もっと欲しくて、亮にキッカといつまでも過ごしていて欲しくて、他の邪魔する全てに、孤独の夢を見せている』
初めて、ようやく吐露したキッカの目的。だが、それが真の目的の一端に過ぎないことが分かっていた亮は、続く言葉を待つ。
キッカが言葉を切り、何度か石の中をグルグルとゆっくり、回遊する。そうして、言葉を続けた。
『けれど今は、分からない。亮の気持ちが分からない。亮の心が分からない。心がざわついている。しかしこれは心地よくない。不快、不快だ。キッカには、この感覚が分からない。亮、教えて欲しい。この感覚は何だ。キッカに何が起きている』
「そいつはな、キッカ。恐怖っていう感情だ」
断言した。「分からないってことはな、怖いんだ。自分が理解出来ない、理解の範疇を越えた得体の知れない何かが、自分のすぐ隣に存在している。それは、恐怖って呼ばれるんだよ。だから人は数万年の時間を掛けて、恐怖の一つ一つに名前を付けて、理屈と理由を与え、心が恐怖に飲まれて潰れないように生きてきた。……でもキッカ、お前はそれが出来ない。感情を知らないままに、感情を持った。俺達と接する内に」
生物が持つ元初の感情が恐怖であるとは、誰の言葉だったろうか。忘れてしまったが、恐らくそうに違いないと考えた。恐怖が無ければ、生物は危険を察知することも、それから逃げることも出来ない。それを恐怖という感情だと知っていたが故に。
けれど、キッカは違う。感情という概念も、言葉という概念も無い世界で生きてきた。キッカは感情というものを理解しない内に、その概念に身を潰されようとしている。
けれど。
きっとすぐに、キッカは学習してしまうだろう。そうして、感情というカテゴリについての知識と理解を深め、全てをすぐに自分の感情の支配下に収めてしまう。
だから、今動揺し、焦っているこの状態の中、早期にケリをつけることが肝要だった。
「俺達は、今お前が抱いている感情をずっと、ずっと肌で感じながら生きてきた。でももう、それも終わりだ」
亮は立ち上がり、デスクに近く。そうして、ペン立てに突っ込んであった、もう何年も使っていないカッターナイフの刃を出す。ギチギチ、と耳障りで不快な音を立てるカッターを見て、キッカが明らかに動揺した声を出す。
『待て、亮。何をするのだ。待って』
構わず亮は、カッターの刃をそのまま自らの首筋にあてがう。立ったまま月明かりの下、彼は眼下の石を見下ろした。キッカは石の中から真っ直ぐに亮の方を向いていた。
亮はその姿勢のまま、毅然として最後通牒を叩きつける。
「俺は、死ぬ。お前は俺を独り占めしたいんだろ。お前のものになってなんて、やるもんか。どうせお前が誰も夢から解放するつもりが無いなら、もうこれ以上犠牲が出る前に、お前の目的を消してやる。それが嫌なら、今すぐ箱庭病から人類を解放しろ……!」
啖呵を切ってみせるが、言いながらも亮は、自分の声が震えているのに気付く。思い切り飛び出させたカッターの刃の根本が、自分の首筋に当たっている感触が、これ以上無い程に研ぎ澄まされて、その致死性を如実に伝えていた。力を込めた手も震え、ともすればうっかり勢いよく、今にも刃を滑らせてしまいそうだったのを、必死で押さえつける。
キッカは、答えた。亮が驚く程に静かで、冷たい声で。
『亮。キッカが君の望みを聞き入れても、その後で君は、キッカを殺すのだろう』
亮は答えない。今まで、キッカがそうしてきた様に。
『亮。君は、キッカのこの石を壊すのだろう。死ぬつもりなんて無いのだろう。だって君はあんな姿になったのに、まだ真理亜を好きなままだ』
亮は、答えない。
『亮が好きになった真理亜と、亮が好きでないキッカ。真理亜にあって、キッカに無いもの。十二年と一ヶ月と七日を共にしても、キッカにはそれが分からない。それさえあればきっと、キッカは亮に愛してもらえると思ったのに、謎はいつまでも謎のままだ。この世の英知を集めた科学者の知識や素晴らしい数式も、偉大なる哲学者の言葉も、何百年と語り継がれる文豪の物語も、その答えとなる言葉と知恵と知識を教えてはくれなかった。だから、真っ先に真理亜を眠らせたいという思いを殺し続けて、キッカはあの子を観察し続けているというのに、キッカには何も分からない』
亮は、すぐ傍にある死の恐怖に耐えながら、キッカとの日々を思い出す。与えた知識、教えられた知識、沢山の言葉、音楽、絵画、科学、哲学。
知識だけを詰め込み続けた不器用な魚は、今となっては哀れだった。
どれだけ知識を集めても、心や感情を理解するには、それだけではあまりにも足りないことを、きっと目の前の魚はまだ、知らないままなのだ。
そして、知らないままでいて欲しいと、亮は願う。
「キッカ。お前は人の心を知識として持つことは出来るかも知れない。でも人には、なれない。お前には決定的な何かが、欠けてる」
それを教えることは、亮には出来ない。それは口で説明するだけで、知識として吸収するだけで理解出来るほど、単純に出来てはいないのだ。
だから亮は震える声で、宣告する。
「俺はお前を、好きになんてならない」
『これでも、駄目?』
声がした。びくりと体を震わせる。衝撃でカッターの刃を引かなかったのは奇跡だった。
声は、キッカが発するテレパシーと同種の声だ。しかしそれは明らかに、女の声をしていたのだ。
じっと、目の前の石を見下ろす。キッカの影が、闇に溶けて徐々に薄く、消えていく。
それに反比例する様に、亮のすぐ目の前に、女が現れ始める。
まるで濃霧の中からゆっくりと現れる幽霊の様に、何も無い空間から月の光をその身に浴びて、一糸纏わぬ女が現れた。亮よりも僅かに背の低い彼女の顔は憂いを湛え、黒い髪を、水中に居るかの様に無重力的空間にふわふわと揺らしていて。
その顔は、真理亜にそっくりで。
驚愕に体を硬らせていた亮は、その姿の意味に気付き……怒りを覚え、それを爆発させる。いともたやすく、死の恐怖に対して瞬間的に打ち勝てる様になるまでに。
「馬鹿にすんなキッカあああああ!」
腕に力を込める。容易く、腕は動く。刃が、自分の頸動脈を掻き切った。
……はずだった。
気が付けば両手からカッターは消え、腕を振り抜いた反動で寝ていた体を起こしていた。覚えの無い寝室、覚えの無いベッド、覚えの無い間取り。
悪夢を見ていたと気付き、大きく嘆息する。裸になった自分の体が少し冷えて、もう一度ベッドに潜り込む。
と、床に自分の服と下着の他、ブラジャーが落ちているのを見てとって、ああ、と思い出して自分の隣で眠る彼女の横顔を見た。
少し乱れた髪、白い肌、化粧を落とし切っていない顔。そんな彼女が、体を起こした亮の気配で目を覚まし、寝ぼけ眼を擦る。
「おはよう」
夜遅くまで起きていたその血色の悪い顔を見て、亮は苦笑いをした後、彼は彼女の額にキスをした。
悪夢はもう、朝日に霞んでいく霧の様にその記憶を朧げにし、すぐに霧散した。
*
