変わらないものはない。このときまでそんな小学生でもわかるような事実に気づかない振りをしていた。例え世界が終わるなんてことを知っていたとしても。
 今日、あのカフェで永遠なんて存在しないという当たり前の事実に向き合ってしまった。そんなものについてまともに考えていたら生きていくことはできないし、知らなくても普通に生きていける。全く薬にならない毒を好んで飲むようなやつなんていない。そんな毒を一口舐めて終わりにすればいいのに、今日は夜眠るときになってもベッドの上で反吐を吐きそうになりながら毒を味わうように舐め続けてしまっている。
 自分が死んでしまうとわかっているからこんなことに取り憑かれているのだろうか。そう考えてしまって急に「死」を感じ、電気を付けて起き上がった。冷や汗がひどい。今日も眠れそうにない。
 結局はこうやって自分が消えてなくなってしまうのが怖くてたまらないから、自分とは違う場所に永遠なんてものを求めてしようとしまうのだろうか。この夜は永遠じゃないとわかっている。だから今日も起き続けよう。

 日が昇りだしたころに丁度良く頭もボーっとしてきて眠くなることができた。こんな夜は今まで何度もあったけど、結局は「死」の恐怖との戦いは持久戦だということはわかった。自己啓発本とかでよく聞く思考法なんて言葉のようなものでさっさと終わらせる電撃作戦のようなものは存在しない。ただただ肉体の疲れに身を任せて何も考えないようにさせることが一番だ。しかし、うつつから夢へと落ちる一瞬にわかってしまう。これが「死」なんだと。起きたときにはそんなような感覚があったような気がするだけで全てを忘れてしまうのだけれども。

 いつもより高い日差しで目が覚めたのは十二時ぐらいだ。中途半端にしか寝れずにものすごく寝不足で目覚めが悪い。それでも何だか二度寝するような気分にもなれずに重い身体を起こしてリビングに向かった。リビングではスーツに身を包んだ秋穂が会社にでも向かうのだろうか、出発の準備をしていた。

「おはよう。今日は遅いね」
「ああ、うん」
「大丈夫?」

 ろくに寝れてないからひどい顔をしているのだろう。心配そうに秋穂はそう尋ねた。けれども、そう言う秋穂本人も頬はやつれて以前と比べてさらに肌がボロボロになっているのがわかった。

「秋穂こそ大丈夫かよ」
「何で私が?」

 秋穂は不思議そうな顔をして聞き返した。いつもだったらここで「何でもない」と言って適当に話を切り上げるところだった。けれども、今日はもう少し食い下がろうと思った。

「最近、秋穂忙しすぎるしな。今も大分疲れた顔をしているよ」
「今が大事な時期だからね。ここで頑張らないといけないから。私は大丈夫だよ」

 そう言って秋穂は笑ってみせるが、その笑顔は大分ぎこちなかった。

「なあ、言っちゃ悪いけど秋穂の内定先さ、とんでもないブラックだよ」

 秋穂から笑顔が消え、リビングは静寂に包まれた。完全に地雷を踏みぬいたとわかったが、弁解せずにそのまま黙って秋穂を見つめた。

「それでも私は今は頑張ることしかできないの…」

 小さな声で秋穂は弱々しく呟いた。そんな小さな声でもどこか俺にはどんな大きな叫び声よりも聞こえた気がした。

「そんなに頑張って何かなるのか?」
「そんなのわからない。けど、私が必要とされているから頑張ろうと思っているんだよ!」

 先ほどとは打って変わって秋穂は声を荒げた。いつのまにか秋穂は涙を流していた。

「どうせ死ぬのに」

 自分でも全く意識せずに呟いてしまった。その言葉を聞いた秋穂はさっきまでの昂りが一瞬、無となり「こいつ何を言っているんだ」といったように唖然としていた。
 それでも秋穂の内には激情が溢れているのは俺でも感じ取れていた。だから、今さら何でもないって誤魔化して引き下がることはできなかった。

「人間なんてどうせ死ぬのに他人のために頑張る必要なんてないって思ったんだ」

 自分で言っておいて、口に出した瞬間にもっとマシな言い方があっただろと思ってしまった。自分の口下手さをここまで恨むのは初めてだ。

「何それ?意味わかんない」

 秋穂は泣きながら吐き捨てるようにそう言うと、カバンを持ってリビングから飛び出して行ってしまった。
 当然の反応だよな。一人取り残されてから俺はさらに後悔した。何でもっと上手く伝えられないんだろう。椅子にだらりと崩れるように座っていることしかできなかった。


 リビングの椅子の上で突っ伏したり、頭を抱えたりしている内に窓から差し込む陽の光が橙となり、もう夕暮れだと気づかされた。長い間、うだうだしていた。
 この間に何度もスマホを取り出して秋穂に何か連絡しようと思ったけど、電話でもメッセージでも何て言葉を掛けてよいのかがわからなかった。さすがにこんな時間まで椅子に座りっぱなしで腰が痛い。少し外の空気でも吸って頭を冷やそうと思い、椅子から立ち上がりリビングから出ようとしたときだった。玄関の扉が開き、買い物袋をぶら下げたスーツ姿の秋穂と目が合った。お互いに気まずくなり一瞬お互いに黙っていたが、秋穂は俺の顔を真っ直ぐに見つめて口を開いた。

「ただいま」
「おかえり」

 秋穂の「ただいま」に自然と俺は返すことができていた。秋穂は怒っているかと思っていたが、なぜか少し笑っていた。そのまま何事もなかったかのようにリビングに秋穂は向かって行った。あんなことを言われたのに、もう怒っていないのだろうか。それともあのブラック企業にまた変なことを吹き込まれて笑っているのか。
 そんな疑念を抱きながらもあんな気まずいことがあったから秋穂に聞くことができなった。先ほどまでのあんなに切り込むことのできた胆力はもうどこかへ去ってしまっていた。

 モヤモヤとしながら夕食の時間になった。夕食となると否応でも秋穂と向かい合うことにある。いつになく重い自室のドアを開いて外に出た。わざわざ自分から地雷に飛び込んでおいてこんな思いをするぐらいなら。先ほどから百回以上している自分への問いかけを飽きもせずに繰り返しながらテーブルに着いた。
 秋穂は鍋をかき回していた。匂いからしてカレーだ。しばらくしていると秋穂は二人分のカレーを盛った皿を運んできた。そしていつも通りに「いただきます」と言ってカレーを一口食べた。甘っ!こないだ食べたカレーより遥かに甘い。クソまずい。

「すごくまずそうな顔だね」

 秋穂はニヤニヤと笑いながらそう聞いた。

「かなり甘くてまずい…」
「そうか。そうかー」

 秋穂は苦しむ俺を見てニヤニヤと頷いていた。あまりのまずさに麦茶をがぶ飲みしているときだった。

「今日、私サボっちゃったの」

 突然、秋穂はそう切り出した。

「サボったって会社を?」
「うん」

 意外な告白に飲んでいる麦茶が気管に入ってしまい咳き込んだ。聞き間違いかと思ったが、秋穂は話し出していた。

「駅のホームで電車を待っているときにね。私が乗るのとは反対側の電車が来るアナウンスが鳴ったんだ。いつもならそんなこと気にしないのに、今日は何だか知らないけどすごく引っかかっちゃって気づいたら反対側の電車に乗ってた」
「何でそんなことを…?」
「わからない。けど、扉が閉まったときはね、やっちゃったって思ったけどしばらく乗っていると、窓から知らない街並み、一面の田んぼが広がっているのが見えたの。何だろうね。そんなのいつもと反対の路線だから当たり前なんだけど、知らない風景だなあって思ったら何か全てがどうでもよくなっちゃたんだよね」

 秋穂は少し恥ずかしそうに顔を赤らめてそう喋っているがどことなく晴れやか表情を浮かべているようにも見えた。

「何言っているかわからないよね?」
「少しはわかるよ。きっと」

 そう言うと、秋穂は少し驚いた顔をした。

「へー。飛鳥なら何言っているんだって呆れると思ったよ」
「確かに全てが理解できるわけじゃないけど、何となくわかったような気がしたような。だから否定できなかったんだ」

 秋穂はそれを聞くと大きな笑い声をあげた。食事中なのに無邪気な子どものように腹を抱えていた。

「飛鳥がそんなこと言うなんて。本当にどうしたの。普段ならもっととげとげしいのにね。急に優しくなっちゃって」
「俺のことを何だと思っているんだよ」

 出発前にあんなことがあって、ずっともうどうしようかと心配でしょうがなかったのに今になってこうやって秋穂にからかわれてしまうなんて。おかしいな。どうしようもなくバカバカしくて、言葉にするのも呆れるようなことなのに俺も笑ってしまう。

「私が周りのことが見えなくなっている間に飛鳥は自分の優しさに素直になっててびっくりだよ」
「ああ、そうですか」

 聞いているとこそばゆいようなことをこの姉は恥ずかし気もなく言いやがる。

「きっと飛鳥にとって素敵な出会いがあったんだろうね」
「どうだろうね」

 そう言うと、秋穂は今日一番の笑顔を見せて興奮したような声を上げた。

「おお!もしかして彼女?写真ある?」
「ちげーって!んなわけねえだろ!」

 何で美咲が彼女なんだよ。そんなことありえねえって。俺が強く否定すると秋穂はからかうように指を差して笑っていた。てか、素敵な出会いって美咲のことなのか。いや、まあ、あいつと過ごしたことは悪くはなかったけど、それで何で真っ先にあいつのことを思い浮かべるんだよ。ああ、クソっ。そんなことを勝手に考えて悶えていると秋穂は改まったような今度は表情を浮かべて「あのさ」と話し始めた。

「飛鳥ありがとうね。私、もっと自分らしくがんばってみようと思えたよ」
「そうか」

 俺が何かした自覚はないけど、否定するのも野暮だからそう応えて冷めてしまったカレーライスを口に運んだ。ありえないほど甘くてまずかった。それでも秋穂はそんな激甘カレーを幸せそうに食べていた。全てがわかったわけじゃないけど、きっと上手くいく。そんな予感だけは確かに感じることができていた。